司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          翔ぶが如く 2

■山県有朋は陰鬱で無口、異常に権力と金銭のすき、国家的規模の大迷信家の存在

<本文から>
  山県有朋について触れておくことは、この稿の主題にとって痛切なことなのである。なぜならばかれが歴史にとって重要であることの一つは、模倣者であったからである。
 模倣者には、原型がある。原型がどういう性質のものであるかを想像するには、その模倣者から逆算する(原型が多少迷惑するにせよ)という視点もありうる。
 山県は創造的才能はなく、従って構想者ではなかった。原型が創造してくれたものを、かれは黙々と実行してついに仕上げてしまうのである。
 かれの最初の原型は、同藩出身の大村益次即であった。大村の理想は尊王よりもむしろ国民国家の成立というものであったらしく、これを成立させるために国民皆兵と廃藩置県を構想にもった。が、仕事が緒についた出端で暗殺され、山県が階段を数段とびあがるようなかっこうでその後継者の位置についた。山県が実現せしめたそれは、大村のもつ開明的な光彩を消したかたちでのものであった。
 山県にとって、そのつぎの原型は薩摩の大久保利通であった。
 大久保はプロシア風の政体をとり入れ、内務省を創設し、内務省のもつ行政警察力を中心として官の絶対的威権を確立しようとした。ただ、仕事に手をつけてから数年で暗殺されて死ぬ。
 大久保の死から数年あとに山県が内務卿(のち内務木臣)になり、大久保の絶対主義を仕上げるとともに大久保も考えなかった貴族制度をつくるのである。明治十七年のことである。華族という呼称をつくった。明治維新をおこさしめた時代の精神が「一君万民」という平等思想への希求であったとすれば、それは明治十七年の華族令の発布でいちじるしく後退する。天皇は民衆のものであったことから遠ざかり、華族のものになり、華族をもって「皇室の藩屏」とされた。このとき長州の卑卒あがりの山県は伯爵になった。
 「民党(自由民権党)が腕力をふるって来れば殺してもやむをえない」
 とまでかれは言うようになり、明治二十年、当時内務大臣だったかれは、すべての反政府的言論や集会に対して自在にこれを禁止しうる権限をもった。
 原型である大久保は徹底的な国権主義者であった。その国権主義は将来民権主義を育ててゆくという含みがもたれている形跡もあったが、模倣者の山県には気分としてはなかった。
 山県は軍隊と警察を好んだが、警察の創始者であり、山県にとって原型の一人である川路利良のポリス思想を好まなかった。市民へのサーヴィスというフランス式をあらため、明治十八年ドイツから顧問をまねき、国家の威権の執行機関としてのドイツ式の警察に切りかえた。
 山県についてつづける。
 この僧院の陰謀家のように陰鬱で無口で、異常に権力と金銭のすきな、そして国権の徹底的確立だけが護国の道であると信じきっていた国家的規模の大迷信家の存在にふれておかねば、西郷従道が明治六年から同十年にいたるまでのその兄に背いた行動がわからないのである。
 こういう挿話がある。
 山県ほど天皇の権威的装飾に熱中した男はなく、日本史上における天皇のたたずまいが、明治二十年代から異様な重厚さを加えてゆくのは山県ひとりの創作に負うところが多い。山県は政治家としてはつ。つに原型を必要とする模倣者であったが、天皇に権威的装飾をした点だけは創造的であるかもしれなかった。
 京都のころ千年のあいだの日本の天皇は原始神道の清浄さを主席にした簡素な御所で、宮中の神聖行事を主宰する存在であった。外出もされなかった。人目に触れないということが日本的な神聖装飾法で、「なにごとの在しますかは知らねども」というふんいきが伝統的なありかたであったであろう。
 西郷の生涯がおわる明治十年までは、東京において、天皇は京都のころの延長のようなあり方ですごされた。
 天皇の権威的装飾が一変するのは、明治二十九年(一八九六年)五月、侯爵山県有朋がロシア皇帝ニコライ二世の戴冠式に日本代表として参列してからである。
 (なるほど、皇帝の座とは、これほど荘厳なものか)
 と、山県はかつてパリ・コンミユーンでおどろいたのとは逆の衝撃を受けた。金色燦然としたギリシャ正教の宗教的荘厳美と、数万の貴族にとりかこまれてその頂点に位富し、さらには重厚な武器と金モールに飾られた近衛軍を従えたロシア皇帝というのは広大なロシアの国土を征服した征服者の子孫で、国内の百数類ばかりの人種と宗教と法律で支配し、さらには巨億の富を生む帝室の領地をもち、その領地の農民を農奴として使っている唯一人であった。政治的には専制権をもち、内閣があっても名ばかりで側近という程度にすぎない。
 このロシア皇帝の神聖を荘厳しているすべての美術的あるいは演劇的構成からみれげ日本の天皇は安っぼすぎた。
 山県は帰国後、天皇をロシア皇帝のごとく荘厳すべく画期的な改造を加えている。

■西郷従道は山県の国権主義の影響を受けた

<本文から>
 というのは、長州人山県有朋と薩摩人西郷従道が、従道の兄隆盛にとってどういう人物で、西郷の運命にどう影響したかということをここで知らねばならない。西郷は従道の家に寓居していた。決して不仲ではなかったが、しかし互いに政治の話はほとんどしなかった。異様なことであった。両人は兄弟とはいえ幕末ともに志士活動にあっては同意であり、いまはともに陸軍に奉職しているのである。
 すでにふれたが、西郷は弟の従道のことを、
 「狐疑深き」
 と、書いている。従道はいかにも薩摩凰の陽気者で。「狐疑深き」という表現からおよそ遠い。
 しかし従道は渡欧以来山県と結んでしまっていた。山県の国権絶対主義からいえば西郷は共和主義者ではおよそないにせよ、人民を中心とするかれの立場からいえばそれをも許容したい気分があり、すくなくとも後年、土佐の板垣退助が自由民権主義というものがあることをきいてその唱道者になったとき、西郷が、
 「私もそれを考えていたのです」
 と、板垣に言い、明快な許容性を示した。西郷は、山県およびその後の渡欧組のなかでプロシア風の国権主義を仕入れてきた大久保利通とは異質の思想をもつ存在であった。国権主義は山県がまず種をまき、大久保がそれを苗にした。やがて西郷、大久保、木戸の死後、権力を得た山県がおもう存分にふるまってそれを黙たる大樹に仕上げてしまったのだが、この国権主義という、国民を国家という翼のたがで締めあげ、締めあげることによって近代国家を速成でつくりあげようとする思想で、結局はこれが日本国家をつくり、太平洋戦争の敗北によって敵国から打ちくだかれるまでつづく。ところが西郷の気分はそれとはよほどちがったものとして見られていた。
 「兄は、乱臣賊子になるのではないか」
という疑念が、西郷従道にあった。人間というのはひとたび国権主義の立場に立てば人格が変質し、おそるべき憂国家に化る場合がある。草木が風にゆれるのをみても国家滅亡の前兆を予感したり、あるいは民衆の惰弱な風俗が憤ろしくなり、思想家を狐疑し、それに悪を感じ、森羅万象の動きがことごとく「国家の前途に害をもたらすのではないか」というふしぎな衝動を感ずるようになる西郷征道は、山県の感化によってその種の「狐疑」をもった。

■廃藩置県は山県らが進め西郷の一言で決まった

<本文から>
「廃藩置県」
 というこの空前の大事業が、山県をはじめ鳥尾小弥太、野村靖というような幕末では小粒だった(元勲たちにくらべて)連中の奔走でおこなわれたということは興味がある。
 幕末は思想家から出発した。水戸の藤田東湖、江戸の勝海舟、京都の春日潜庵、熊本の横井小楠などがそうだが、西郷は半ばその思想家の部類にも入りうる性格をもっている。
 しかしもっとも盛大な奔走家でもあった。その奔走家としては西郷や大久保のほかに長州の木戸孝允、土佐の坂本竜馬などがいて、幕府をたおした。倒したあと、かれらのうごきがにわかに鈍くなり、代わって動きが活瀕になるのはかれらの後輩たちで、そのうち頭をあげてくるのはみな議論下手だがしかし実務の才の横盗した連中だった。とくに長州人が多い。伊藤博文と山県有朋がその双璧であろう。
 山県は政略眼のするどい男だが、ロが重く、ろくに議論もできない。
 「廃藩置県に西郷は反対するだろう」
と、鳥尾や野村は予言していた。薩摩藩は幕末ではもはや特殊といえるほどに強い主従の紐帯でむすばれている藩で、藩意識も異常につよい。しかも島津家は鎌倉以来七百年つづいた大名の家で、徳川家よりもはるかに古い家系なのである。
 (西郷に対して効果があるのは誠意である)
と、山県はかんで知っている。この種のかんが山県をしてのち死ぬまで権力社会から離れしめず、ついにはそれを支配する法王たらしめたのであろう。さらに山県は、
 (西郷が否といえば刺し違えるまでだ)
と、決意していた。山県は権謀術数のみでその「山県有朋」を成立せしめたのではなく、いざとなれば捨て身のきく男であった。
 西郷の住んでいた蠣殻町の屋敷というのは薩摩藩が町人から貫いとった町家で、ひどく荒れていた。廼屋だった、と山県は後年語っている。
 一室に通されると、武骨な若者が煙草盆をもってきた。次いで菓子が出た。菓子はカルメラであった。
 やがて西郷が出てきた。
 山県は一世一代の雄弁をふるい、廃藩置県の必要を説いた。喋りはじめると、とまらなかった。西郷はそれを最後までじっときいていた。山県はやがて、「貴意やいかに」ときいた。
 西郷は木戸さんのご意見はいかがです、とかいた。山県はじつはまだ木戸にうちあけていないというと、西郷はうなずき、
「私のほうはよろしゅうごぎいます」
 と、鄭重に答えたのには、山県ほあっけにとられる思いであった。山県はかえっておびえ、念を押すと、西郷はもう一度うなずき、おなじ返事をした。
 廃藩置県という空前の変革は西郷の一言で済んでしまった。

■岩倉具視について

<本文から>
 幕末、かれは佐幕派として公家政界で頭をもたげ、三条実実のような長州的尊攘派が台頭してから一時没落した。幕末のぎりぎりになって土佐の坂本竜馬と中岡慎太郎が岩倉を発見し、薩摩藩にひきあわせてから薩摩系の公卿になった。
「自分がこんにちあるは、坂本。中岡氏らのおかげである」
として、維新後、東京の自宅でかれら死役者の祭祀をおこない、旧知の者をまねいてむかしをしのぶ会をしたこともある。岩倉という公卿ばなれした剛懐な辣腕家がわずかに人情をみせたのはこのときぐらいだったかもしれない。
 岩倉には仁も情もなし。
と、この男をきらうむきから言われるほどにかれは一見、そういう情感に乏しそうな人物として世間からみられていた。
 この時期の明治初期放府は、長州系の三条実美を太政大臣にし、薩摩系の岩倉を右大臣にし、この二人を牡壇にまつることによって成立している。三条が筆頭であるのは、かれが公卿の家格としては第二番目の清華家に属し、岩倉の家格とはくらべものにならぬほどに高かったという理由だけで、政治家としては岩倉のほうがはるかに達者であった。
 岩倉は明治四年に特命全権大使として大久保や木戸たちとともに欧州を見てまわったのだが、この人物だけは欧州文明に摸してもなんの衝撃もうけなかった。
 木戸は欧州における市民意識の高さに感動し、自分がやった明治維新の目的をあらためて考えなおすという純真さがあった。大久保は逆に欧州における国家の人民管理能力のつよさに感心し、かれの国権主義をいよいよ強くして帰った。しかし公卿の岩倉には民衆がよくわからないらしく、その念頭に民衆の存在というものがいっさい入らずじまいで帰ってきた。

■征韓論を阻止するため伊藤一人が奔走した

<本文から>
 日本政治史上、政策でもって政治の府がふたつに割れて争われた例はこのときしかない。
 伊藤は、駈けまわった。
 かれには成算はなかった。
 客観的にいえば征韓派が圧倒的に強勢であった。参議たちのほとんどが西郷を支持している上に勅許までおりている。さらに伊藤がおそれたのは西郷の武力であった。西郷は日本の正規軍をにぎっているのである。もし西郷が近衛軍に対し太政官を占領せよ、と命ずれば一時間で政権をにぎることができるのである。
 この間、伊藤は西郷の弟の従道に会ってその懸念をひそかに洩らすと、
 「兄は忠実な性格だから、そういうことはしない」
 と、平素とらえどころのない従道がこのときばかりは即座にそう返答した。
 伊藤は、外遊以来太政官から身をはずし、帰国後も廟堂の外にあって野党然としている大久保と木戸を結束させ、岩倉ともどむ団結して、太政官に復帰させようとした。そのためにはまず外遊以来不和になっている大久保と木戸の仲をとりもつところからはじめねばならなかった。
 ともかくも伊藤が、大隈という棒組みがいたとはいえ、ほとんど一人でかけまわってすでに既成事実化しつつある事態を一挙にくつがえそうとした活動は日本の政治史上の圧巻といっていいが、しかし当の伊藤ははるかに後年になってもこのことばかりはあまり話したがらなかった。明治四十年前後、事が時効になってからわずかに語るようになった。
 もし、
 「西郷の征韓論は伊藤の蔭働きによってつぶされた」
 という真相が一般に知られるようなことがあれば伊藤はたちまち人気をうしない、その後の政治生命はなかったかもしれない。

■征韓論を阻止するため伊藤一人が奔走した 2

<本文から>
 この時期、伊藤博文は昼夜となく駈けまわっている。
 征韓と非征韓について岩倉具視に世界観を与え、事態にたちむかうための方針と方法をあたえ、さらには覚悟まで固めさせた。また廟堂に出ることを頑として厭いつづける姿勢をとる大久保利通にその姿勢をくずさせ、さらに大久保ぎらいの木戸をなだめ、大久保と手を組んでこの難にあたらせるようにした。
 この政治史上の段階でもし伊藤博文が存在しなければ、西郷の渡韓という明治日本がうちあげる大花火は当然、点火し、筒を放れ、東アジアの天空で大きく火の華をひらいたであろう。
 網野ら征韓派は、早朝、もしくは暮夜、馬車の車輪の音をがらがらと鳴らしてかけまわるこの伊藤に目をつけるべきであった。しかし薩摩人たちはたとえ伊藤のうごきに目をつけたとしても、重視しなかっ。たかもしれない。伊藤はのちに世界的な政治家としてその存在が国際的にも評価される人物だが、この時期の薩摩の軍人たちにとっては、長州の小僧という程度の印象しかなかった。
 その伊藤は、
 (なんといっても三条公を動かさねば)
 と、おもっている。
 三条実実が太政大臣という、日本国首相である以上、この人物を反西郷に踏みきらせる必要がある。
 もっとも、三条は踏みきる覚悟はついているし、それについて岩倉とのあいだに十分な意思疏通もあった。
 しかし現実の三条の脚には重い鎖がついていて、身動きがとれなかった。なんといっても三条はこれよりさきに西郷に押しきられて太政大臣として西郷を渡韓させる一件をとりまとめ、それを天皇にまで奏上し、勅許をうけてしまっているのである。ただ「最終の決定は岩倉右大臣が帰国してから」という条件をつけておいたのが辛うじての救いだが、しかしその救いは三条の政治的責任まで軽減するものにはならない。
 「条公」
と、この当時の要人たちはい。条公に決断を求めるのは比丘尼(尼)に睾丸を求めるようなもの−西郷はある席でそのようにいって人を笑わせたりしたが、根が正直一途の性格だけに、太政大臣として渡韓の一件を採用しておきながらいぎとなれば西郷を裏切って反征韓へ走るという変節が彼にはやすやすと出来そうになかった。
(条公のために。、荷を軽くしてやらねばならない)
と、伊藤は、三条に関するかぎり、その方角でもって智意をしばらねばならなかった。
 事実、この時期の三条は、
 (いっそ、死んだほうがましだ)
と、ふと思いたくなるほどに鬱屈していた。

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