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<本文から>
山県有朋について触れておくことは、この稿の主題にとって痛切なことなのである。なぜならばかれが歴史にとって重要であることの一つは、模倣者であったからである。
模倣者には、原型がある。原型がどういう性質のものであるかを想像するには、その模倣者から逆算する(原型が多少迷惑するにせよ)という視点もありうる。
山県は創造的才能はなく、従って構想者ではなかった。原型が創造してくれたものを、かれは黙々と実行してついに仕上げてしまうのである。
かれの最初の原型は、同藩出身の大村益次即であった。大村の理想は尊王よりもむしろ国民国家の成立というものであったらしく、これを成立させるために国民皆兵と廃藩置県を構想にもった。が、仕事が緒についた出端で暗殺され、山県が階段を数段とびあがるようなかっこうでその後継者の位置についた。山県が実現せしめたそれは、大村のもつ開明的な光彩を消したかたちでのものであった。
山県にとって、そのつぎの原型は薩摩の大久保利通であった。
大久保はプロシア風の政体をとり入れ、内務省を創設し、内務省のもつ行政警察力を中心として官の絶対的威権を確立しようとした。ただ、仕事に手をつけてから数年で暗殺されて死ぬ。
大久保の死から数年あとに山県が内務卿(のち内務木臣)になり、大久保の絶対主義を仕上げるとともに大久保も考えなかった貴族制度をつくるのである。明治十七年のことである。華族という呼称をつくった。明治維新をおこさしめた時代の精神が「一君万民」という平等思想への希求であったとすれば、それは明治十七年の華族令の発布でいちじるしく後退する。天皇は民衆のものであったことから遠ざかり、華族のものになり、華族をもって「皇室の藩屏」とされた。このとき長州の卑卒あがりの山県は伯爵になった。
「民党(自由民権党)が腕力をふるって来れば殺してもやむをえない」
とまでかれは言うようになり、明治二十年、当時内務大臣だったかれは、すべての反政府的言論や集会に対して自在にこれを禁止しうる権限をもった。
原型である大久保は徹底的な国権主義者であった。その国権主義は将来民権主義を育ててゆくという含みがもたれている形跡もあったが、模倣者の山県には気分としてはなかった。
山県は軍隊と警察を好んだが、警察の創始者であり、山県にとって原型の一人である川路利良のポリス思想を好まなかった。市民へのサーヴィスというフランス式をあらため、明治十八年ドイツから顧問をまねき、国家の威権の執行機関としてのドイツ式の警察に切りかえた。
山県についてつづける。
この僧院の陰謀家のように陰鬱で無口で、異常に権力と金銭のすきな、そして国権の徹底的確立だけが護国の道であると信じきっていた国家的規模の大迷信家の存在にふれておかねば、西郷従道が明治六年から同十年にいたるまでのその兄に背いた行動がわからないのである。
こういう挿話がある。
山県ほど天皇の権威的装飾に熱中した男はなく、日本史上における天皇のたたずまいが、明治二十年代から異様な重厚さを加えてゆくのは山県ひとりの創作に負うところが多い。山県は政治家としてはつ。つに原型を必要とする模倣者であったが、天皇に権威的装飾をした点だけは創造的であるかもしれなかった。
京都のころ千年のあいだの日本の天皇は原始神道の清浄さを主席にした簡素な御所で、宮中の神聖行事を主宰する存在であった。外出もされなかった。人目に触れないということが日本的な神聖装飾法で、「なにごとの在しますかは知らねども」というふんいきが伝統的なありかたであったであろう。
西郷の生涯がおわる明治十年までは、東京において、天皇は京都のころの延長のようなあり方ですごされた。
天皇の権威的装飾が一変するのは、明治二十九年(一八九六年)五月、侯爵山県有朋がロシア皇帝ニコライ二世の戴冠式に日本代表として参列してからである。
(なるほど、皇帝の座とは、これほど荘厳なものか)
と、山県はかつてパリ・コンミユーンでおどろいたのとは逆の衝撃を受けた。金色燦然としたギリシャ正教の宗教的荘厳美と、数万の貴族にとりかこまれてその頂点に位富し、さらには重厚な武器と金モールに飾られた近衛軍を従えたロシア皇帝というのは広大なロシアの国土を征服した征服者の子孫で、国内の百数類ばかりの人種と宗教と法律で支配し、さらには巨億の富を生む帝室の領地をもち、その領地の農民を農奴として使っている唯一人であった。政治的には専制権をもち、内閣があっても名ばかりで側近という程度にすぎない。
このロシア皇帝の神聖を荘厳しているすべての美術的あるいは演劇的構成からみれげ日本の天皇は安っぼすぎた。
山県は帰国後、天皇をロシア皇帝のごとく荘厳すべく画期的な改造を加えている。 |
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