司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          翔ぶが如く 1

■西郷によって川路を中心に警察の原形ができた

<本文から>
  「正どん、ポリスの大将にならんな?」
 と、西郷は、この船中ではじめていったのである。西郷が「ポリス」というフランス語を知ったのは、かつて弟の従道からきいたのが最初らしい。のちに邏卒と訳され、さらに巡査とよばれるこの治安官の呼称は、銀行が単にバンクといわれていたように、輸入語そのままでよばれていた。
 明治初年の一年間は、古今、この国が経てきたいかなる時間よりも変化が激しく、洪水と大火と地震が一時に舞ってきたような観さえある。
 さらに回顧をつづけるが、しかし回顧といっても昔ばなしでなく、この時期からほんの二年ばかり前の明治四年のことなのである。ところが、わずか二年で桐野も川路も、まるで夢のように身分が一変した。
 それにしても、
 「薩摩」
 という国のふしぎさはどうであろう。江戸期のいつどろであったか、この薩摩国をたずねようとした流行家(というにはあまりにも奇怪な情念のもちぬしだったが)高山彦九郎が、この藩の藩境からにべもなく追いかえされ、腹だちまぎれながら彼の一代においてもっともすぐれた歌を吐きすてるような気持で詠んだ。
 薩摩びと いかにやいかに
  苅萱の 関も鎖きぬ
   御代と知らずや
 徳川期は日本国自体が国際的に鎖国であったが、国内的には薩摩藩が厳重な鎖国をつづけ「薩摩飛脚」という隠語でよばれる幕府の隠密さえ見つけ次第に斬った。えたいの知れぬ諸国遍歴家の高山彦九郎などを、関所役人が入国させるはずがなかった。
 その薩摩人がひとたび幕府をくつがえすや、洪水のように藩境からほとばしり出て、日本の権力をにぎった。
 「平家にあらずんば人にあらず」
 というのはこんにちの薩人のことではないかとまで当時蔭ロをたたかれたが、しかし当の薩人たちにすれば革命の当然な分け前という意識もあったであろう。さらにその指導者たちにいわせれば、新国家を創造するのは無私無欲をもって土風の伝統とする薩摩士族以外にない、
 という気負いこみがあった。
 たとえば西郷が、
「軍隊と警察は薩摩藩がにぎる」
 とあからさまに表明したことはない。ないにせよ、事実上かれはそれをやってのけたのである。
 桐野利秋がいきなり陸軍少将になって近衛軍をにぎった。近衛軍が薩摩藩の城下士(上士)で構成されたのに対し、川路が掌握した警察は薩摩藩の郷土で構成されたのである。
 さきに薩摩藩の城下土により成る常備四個大隊が東京に移駐して近衛軍の主力になったとのべたが、薩摩に残った郷土により成る諸大隊のうち、二千人が川路によって東京へよばれたのである。
 「二千人」
 というのは、この当時として大規模な兵力であり、薩摩青年の民族移動とさえいえそうである。それらがことどとく警察官になった。
 ほかに千人を他藩の士族から選抜した。この三千人が、川路の外遊前の東京における治安兵力であり、さらにほ後の世にまでいたる日本の警察の原形をなす。
 そのすべてが、西郷の設計によるものであった」 

■明治政府の出現は長州では幕末官僚が移行したが薩摩は狼狽した

<本文から>
 「このため明治の新社会の出現は、長州人を狼狽せしめなかった。「国民」は、官僚という国家の運営技術者を必要とする。長州の湯合、官僚はすでに準備されていた。幕末の藩内の動乱を通じてできあがった革命官僚用が、そのまま明治政府の官僚団に移行したのである。
 極埼な言い方をすれば長州人にとって、明治の大官、小官は、かれらみずからが選んだという気分があり、この人選による不平というものはあまりなかった。要するに長州人は戦争にくたぴれており、革命政府と新秩序の出現を妥当なものとして安堵していた見があった。
 が、薩摩の場合はちがっている。
 薩摩は、日本中のどの藩よりも中世的な制度と気分を残し、さらには戦国武者のエネルギーをひたすらに貯えていた集団であった。それが、西郷と大久保という、当時の日本の人材水準をはるかに越えた両人の英雄的活動によって革命主力となり、そのあざやかな手腕によって戦いに倦まぬまま革命を樹立させたのである。精気だけが残った。

■明治政府では武士階級が消滅し島津藩主以下の不平が西郷にのしかかった

<本文から>
「評論風にいえば、大久保は結果としてずるかった。かれは明治四年の廃藩置県のあと、全国民がぼう然となり、やがて特権を失しなった士族の不平が日本国中に鳴動しはじめたころには、さっさと外遊してしまっているのである。
 その士族の不平やら、一揆気分の官姓の不安やらを、結果としては西郷ら留守内閣にまかせた。
 推新という革命の見返りは、
 「なにもなかった。それはすべてを失ったことだ」
 と、日本中の士族が喚きあげようとしている時期である。革命というのは元来、支配・被支配階級のいかんをとわず、遠い将来は知らず、さしあたっての勘定からいえば失う利益のほうが大きい。たとえば武士階級が消滅したということだけでも士族にとっては大きく、とくに鹿児島県士族にとってはこれほどばかばかしいことはない。戊辰戦争で命を的にして、関東、北越、東北、北海道と転戦したのは鹿児島県士族である。その何割かが、東京駐屯の近衛兵になったり、警視庁に入って俸給をも らうことができたが、あとはすべて失業した。その失業武士を収容できるだけの近代産業も政府はまだ興しておらず、維新で政府のやったことといえば士族を山野に棄てただけのことである。
 殿様の島津家も、立つ瀬がなかった。幕末の政治運動費も戊辰戦争の戦費も、島津家の自費でやったのである。それほど懸命にやってやっと維新が成立したとおもうと政府が酬いたことは領地の召しあげ、四民平等という封建的島津家の否定であった。これほど踏みつけにした話はなく、それらの新政が「天皇」という名のもとに出ているため、
 「結局は西郷の奸謀だ」
 というしかない。大久保は外遊していた。残った西郷が、革命が必然的にもたらす旧勢力没落と憤慨の悲鳴や怒声を、一身に受けぎるをえなかったのである。西郷が悪謀の諜主として攻撃され、しかもその攻撃者たちが、旧主と同藩の士族という直接のつながりのある連中ばかりだったというところに、西郷の身もだえするほどのつらさがあった。
 (いっそ、死のうか)
 と、ときに極端な憂鬱症のなかに陥没してゆくこの人物は、何度そのことを願望したかわからない。
 しかしかれには、かれが擁立した明治帝という年少の天皇がいた。この天皇をすてて自殺することもできず、結局は大久保不在中の明治五年七月に、かれは天皇の鹿児島行事に供奉したのである。天皇に行ってもらうことによって、国許の久光の怒りが解ければという気持があった。
 酷暑のなかで、汗かきの西郷は巨体を燕尾服でつつみ、背もチョッキも汗みずくになっていた。西郷はどういうわけか、燕尾服に白帯を巻き、鬼丸造りの太刀を帯びて、当時の薩摩人の表現では「ノサリノサリ」と、つねに年少の帝のうしろを歩いていた。明治帝は西郷が好きで、終生西郷のことを語ったが、とくにこの鹿児島行幸のときの西郷の行状を逐一おぼえておられ、
 「いろいろ可笑しかったよ」
と、西郷が西瓜をたたき割って食っていた話などをされた。しかし当の西郷の不幸は、それでもなお旧主久光の怒りを解くことができなかったことである。

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