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<本文から>
「正どん、ポリスの大将にならんな?」
と、西郷は、この船中ではじめていったのである。西郷が「ポリス」というフランス語を知ったのは、かつて弟の従道からきいたのが最初らしい。のちに邏卒と訳され、さらに巡査とよばれるこの治安官の呼称は、銀行が単にバンクといわれていたように、輸入語そのままでよばれていた。
明治初年の一年間は、古今、この国が経てきたいかなる時間よりも変化が激しく、洪水と大火と地震が一時に舞ってきたような観さえある。
さらに回顧をつづけるが、しかし回顧といっても昔ばなしでなく、この時期からほんの二年ばかり前の明治四年のことなのである。ところが、わずか二年で桐野も川路も、まるで夢のように身分が一変した。
それにしても、
「薩摩」
という国のふしぎさはどうであろう。江戸期のいつどろであったか、この薩摩国をたずねようとした流行家(というにはあまりにも奇怪な情念のもちぬしだったが)高山彦九郎が、この藩の藩境からにべもなく追いかえされ、腹だちまぎれながら彼の一代においてもっともすぐれた歌を吐きすてるような気持で詠んだ。
薩摩びと いかにやいかに
苅萱の 関も鎖きぬ
御代と知らずや
徳川期は日本国自体が国際的に鎖国であったが、国内的には薩摩藩が厳重な鎖国をつづけ「薩摩飛脚」という隠語でよばれる幕府の隠密さえ見つけ次第に斬った。えたいの知れぬ諸国遍歴家の高山彦九郎などを、関所役人が入国させるはずがなかった。
その薩摩人がひとたび幕府をくつがえすや、洪水のように藩境からほとばしり出て、日本の権力をにぎった。
「平家にあらずんば人にあらず」
というのはこんにちの薩人のことではないかとまで当時蔭ロをたたかれたが、しかし当の薩人たちにすれば革命の当然な分け前という意識もあったであろう。さらにその指導者たちにいわせれば、新国家を創造するのは無私無欲をもって土風の伝統とする薩摩士族以外にない、
という気負いこみがあった。
たとえば西郷が、
「軍隊と警察は薩摩藩がにぎる」
とあからさまに表明したことはない。ないにせよ、事実上かれはそれをやってのけたのである。
桐野利秋がいきなり陸軍少将になって近衛軍をにぎった。近衛軍が薩摩藩の城下士(上士)で構成されたのに対し、川路が掌握した警察は薩摩藩の郷土で構成されたのである。
さきに薩摩藩の城下土により成る常備四個大隊が東京に移駐して近衛軍の主力になったとのべたが、薩摩に残った郷土により成る諸大隊のうち、二千人が川路によって東京へよばれたのである。
「二千人」
というのは、この当時として大規模な兵力であり、薩摩青年の民族移動とさえいえそうである。それらがことどとく警察官になった。
ほかに千人を他藩の士族から選抜した。この三千人が、川路の外遊前の東京における治安兵力であり、さらにほ後の世にまでいたる日本の警察の原形をなす。
そのすべてが、西郷の設計によるものであった」 |
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