司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          翔ぶが如く 10

■時勢が西郷を生んだのに、西郷が時勢と倒錯した

<本文から>
 戊辰のとき、西郷と薩軍は時勢という巨大な勢いに乗った。鳥羽伏見で薩長方が寡兵をもって京都を防守し、北上する大軍を京都南郊で破ってこれを退かせたのも、むしろ大軍の側が時勢という「勢い」におそれを感じ、みずから転んで総崩れになったといえなくはない。戌辰の薩軍は、まことに時勢の「勢い」に乗った。乗りつつもさらにその固有の軍隊的勢いに拍車をかけ、奇蹟的な戦勝を東日本各地にひろげた。
「戦争とは勢いであり、戦略などは要らない」
 という教訓が勝利者の西郷や桐野以下の骨髄に浸みこんでしまい、さらに桐野以下にすれば、時勢が西郷を生んだにもかかわらず、西郷個人が逆につねに時勢であるという錯覚をもつにいたった。ひとたび西郷が動けば「時勢」が西郷によって雲のごとく風のごとく作り出されてゆくという倒錯−あるいは宗教感情−というべきもので、かれらがこの想念にとらわれていた証拠は、たとえば桐野自身の「われわれは天によって、あるいは時によって動くのではなく、人(西郷)によって動く」という意味の言葉によってもわかるだけでなく、実際にも桐野がまったく戦略らしい戦略を持たず、持とうともしなかったことでも十分察しがつく。
 ただ、熊本からの敗退後は、さすがに桐野といえども、
 −どうすべきか。
 というようなことを考えるようになった。どうすべきかということが戦略であり、このときに桐野が樹てた戦略は「三州(薩摩・大隅・日向)嬰守」という退守策であり、げんに人吉以後、そのように軍隊を配置した。
 この一事をみても桐野がおよそ空虚な男だったことがわかるであろう。
 かれはいっぱしの革命家らしいことを誓していたが、この策には革命蒙らしい要素がすこしもなく、さらにかれは大軍の将帥としてもまったく能力がなく、また個人的には快男児であったが、三州を嬰守するというところには快男児的な気質の反映がまったく見られない。またいえば「三州」を何のために防禦し、防衛すれば何になるのかという問題については、空虚そのものというほかない。
 ただわずかに大隊彦では野村忍介が戦略意識において旺盛であった。

■薩人の致命的な欠陥は、勝利の定義のあいまいさ、戦術的勇猛さだけで戦った

<本文から>
 しかも翌日から伊東の指揮のもとに連戦連勝するということを思うと、戦士としての薩人は、まことに奇妙というほかない。
 この翌日(五月三十一日)からの豊後方面における薩軍の活動については、
 「是時に当り、連戦連捷、士気大に振ひ」
 と、薩軍の一将校であった加治木常樹も、往時を追想して書いている。
 たしかにその活動はすさまじいもので、薩軍は遠く政府軍の空虚を衝き、あるいは意表に出て、よく戦い、しばしば勝った。この期間が、一カ月以上つづいた。
 西郷は後日(七月一日)これをよろこび、野村忍介とその軍に対し、ほうびとして酒五十棒、牛十頭をあたえた。いずれも西郷札でもって商人から買いあげたもので、西郷札をもらった商人たちはこの紙幣を疑いつつも賭けざるをえず、その後、西郷の本営が宮崎県の海岸を北にむかって転々と移ってゆくあいだ、離れるほどの勇気もなく、つき従った。
 西郷や加治木常樹が認めるとおり、豊後戦線は野村忍介の戦術や伊東直二の指揮が適切だったために、勝ってはいた。
 しかし実際は、多くの戦術的部分において勝っていただけで、戦いそのものにおいて勝っていたわけではなかった。
 薩人の思考法の致命的な欠陥は、勝利の定義のあいまいさにあったであろう。敵の小部隊を急襲してこれをその守備地点から追っぱらうという戦術的勝利をもって敵に勝ったとする弊があり、このことを酷く言ってしまえば蝿を追ったにすぎないとせねばならない。
 元来、鹿児島を出るにあたって何の戦略ももたなかったということがこの弊になって現われている。戦いについての総合的な観点も配慮も準備ももたず、あたかも個人競技のように戦術的勇猛さだけで熊本城を押し潰せるとしたために、結局は駒とり将棋のように兵を駈けまわらせて政府軍の士卒を殺傷するだけが戦いという没戦略的運動から抜け出せなかった。その責任は、西郷がテロリズムだけの経験と能力をもつ人間を将帥の位置に据えたことにあるであろう。
 豊後に突出した野村雰だけが戦略感覚をもっていたことは、すでにふれた。しかし、
 「薩軍の全力をあげて豊後に」
という野村の戦略実は、桐野によって黙殺された。やむなく野村は実力をもって豊後の戦況を好転させ、現実を目に見せることによって本営の思想を転換させようとした。
 このため、かれの軍の運動は、めまぐるしいほどであった。
 三重市を襲い、三国峠、旗返峠で戦い、重岡をうかがい、陸地、不動越で難戦し、梓峠、黒土峠で戦い、さらにこの間、臼杵の旧城下を襲った。政府軍は大兵を擁し、海岸を海軍でかためつつも、複雑な豊後の地形にあっては、薩軍に翻弄されつづけたといっていい。

■西郷の解散令

<本文から>
 薩軍にとっておそるべき要素は、谷干城がひきいる熊本鎮台軍が北方から南下して、数日前まで西郷がそこにいた熊田(曹洞宗吉祥寺の所在地)を占拠したことである。びんにふたをされたようなものであった。
 要するに北川渓谷の北を鎖された。南は政府軍主力が充満している。薩軍は密室に閉じこめられたといってよく、古今東西の戦史上、こういう滑稽で愚劣な位置にみずから入りこんでしまった軍隊はない。西郷が見こんだ桐野利秋という男が、いかに戦略能力において本質的な欠陥者だったかということが、この一事でもわかるであろう。
 しかし一個の壮漢としてはみごとな男だった。敗残の思いと疲労と空腹(食糧が入手難であら麦のかゆが食えるのがやっと)という、全軍が泥のようになってしまっているときに、かれだけが拭ったように爽快な顔をし、から元気でもなさそうなほどにその言動は平素と変わらず、サムライの典型としか言いようがなかった。
 俵野の児玉熊四郎家にいる西郷をかこんで軍議がひらかれたのは、十五日の夜である。
 が、結論は出なかった。終始、村田新八は無言だったが、西郷もいっさい意見をのべなかった。
 ただ西郷は十六日の太陽が昇ると、かれ自身の判断をもって全軍を解散すべき布告を出すことにした。かれの総帥としての単独行動というにちかかったといっていい。
 この十六日、昼食後、浴衣姿のかれはみずから筆をとり、以下の布告文を書いた。
 我軍の窮迫、此処に至る。
 今日の事、唯一死を奮つて決戦するにあるのみ。
 此際、諸隊にして、降らんとするものは降り、死せんとするものは死し、士の卒となり、卒の士となる、唯、其欲するところに任せよ。
 要するに解散命令であり、そのなかに「死士のみは残れ」という意味がふくまれている。
 これまでの段階で他県の士族隊の大半は降っているが、緒戦以来薩軍と苦難をともにしてきた熊本士族がなお五、六百いた。かれらの内部で諸論はあったが、結局、この日北上して熊田の熊本鎮台軍に接触し、降伏した。竹田報国隊も降伏した。
 薩軍の人数は、和田越の戦いのときは三千余だったが、俵野に退却したときは二千に減っており、この十六日の解散命令で千人に減った。以後なお減ってゆくであろうことはたしかだった。
 西郷が、戦野に連れてきていた二頭の愛犬を放したのも、この日である。
 西郷がこの俵野において陸軍大将の軍服を焼いたことについては、目撃者が多い。

■熊本民権党協同隊の終末、文明的とする捕虜の道を選択

<本文から>
 熊本民権党の協同隊の終末というのは、特異であった。
 かれらは学校党の熊本隊とは思想を異にしていたが、ともに軍隊としてはもっとも強く、つねに活気があった。
 この隊が、その民主的意識をつらぬくために首領のことをとくに「主幹」とよぴ、参謀のことを「幹事」とよんでいたことは、すでにのべた。
 結党以来の幹部である宮崎八郎、平川推一が戦死し、病身の崎村常雄(陣中での変名は杉本良吉)が主幹になっている。
 西郷の軍令に接したとき、崎村主幹は今後どうすべきかを隊の全員に相談した。議論が沸騰し、自殺者も出たし、闘死論も出た。
 最後に崎村に一任された。
 崎村は客をあらため、静かに説き、結論をのべた。
「陣上席(戦時捕虜)になろう」
 というのが、崎村の結論だった。
 その道理は、同時代の一般的意識からみればきわだったものといっていい。崎村はこの戦いは私心より出たものではなく、公憤より出たものであり、われわれはよく戦った。しかし不幸にして、謀は機に中らず、百戦百敗、ついに糧尽き、積年の志は水泡に帰した。われわれ
は敗れた。
「敗れた以上、敵に対し、一兵一士といえどもこれを殺し、これを傷くるは、道ではない」
 と、即死論を否定した。
 さらに切腹論については、崎村は一個の文明思想からこれを杏定している。
 「もしそれ従来の慣習に泥み、屠腹闘死の醜態を極むるに至りては、独りわが日本国の恥辱たるのみならず、わが党の素志にも反する」
 明治十年において日本の風習である切腹を醜態とし、これを日本国の恥であると揚言したというのは、きわだっている。この一事でも、協同隊の気分や思想をほのかながら知ることができるが、さらに崎村はむしろ捕虜になるほうが文明的だというのである。
 「故に方今文明各国におこなはるるところの『陣上虜』たらん。さらには携ふるところの兵器はこれを官軍に納め、従容縛につき、やがては法廷に出で、各自の素懐を大いに陳述し、しかるのち国法の裁くところに従ふべし」
 この時期、十分な法治主義もおこなわれていなかったが、しかしながら崎村は先進の法治国の市民に自分たちを擬し、法によって堂々と裁かれようとし、さらにはそういう態度を天下に示すことによって協同隊の思想をつらぬこうとした。日本の初期の民権主義運動の注目すべき動態といってよく、さらにいえばかれらが理想としていた社会・国家も、これによってほぼ想像することができる。

■西郷の命乞いの一挙

<本文から>
  西郷が不世出の英傑であるという見方は政府軍の士卒でさえ持っていて、陣中、西郷の亡びを惜しみ、むしろ生かしめて国家のために役立てることはできないか、と言い合っている情景がしばしば見られたといわれている。
 政治家や革命家が一時代を代表しすぎてしまった場合、次の時代にもなお役に立つということは、まれであるといっていい。西郷は倒幕において時代を代表し過ぎ、維新の成立によって局面がかわると後退せぎるをえなくなったという当然の現象が、一世を蓋っている西郷の盛名と同時代に存在しているひとびとには、容易にわからなかった。まして西郷ひとりを生かした場合、かれ自身の内面がなお生きつづけることに堪えられるかどうかなどということに、傾倒者たちは思い至る余裕がなかったにちがいない。
 辺見は泣いて河野に頼み、政府軍の本営に使いしてくれ、といった。
 河野は承知をし、時機を見てそれをやってみようと約束し、自分の指揮所にもどった。
 一方、政府軍は柵をめぐらして重囲し、容易に攻撃に出なかったが、十九日夜ごろから特別に攻撃隊を縞成し、各方面でわずかに攻勢に出た。後日総攻撃をおこなう場合の威力偵察を兼ねていた。
 十九日夜、河野主一郎の守備線にもこの程度の攻撃をうけた。河野の守備線の最前線は私学校であったが、薩兵はもろくくずれ、退却した。河野は自軍の兵士にもはや戦う気力がなくなっていることを見、辺見との約束を実行すべく、二十日朝、村田、池上らに相談して同意を得た。
 このころすでに山県を総帥とする政府軍は、二十四日未明を期して総攻撃を開始すべく方針、方法、部署を決定し、各旅団に徹底せしめつつあった。
 西郷の命乞いをするというこの一挙は、辺見十郎太のはげしい衝動によって成立した。少年のように感激性に富んだ情念といってよく、この情念は、本来思慮ぶかいはずの村田新八にも共有されており、村田が賛同したのも、理性による判断がうすくなったためであろう。
 「西郷は、命乞いするのか」
と政府軍や世間が受けとるであろうことを、かれらは顧みるゆとりがないほどに西郷への敬愛と愛憐が大きかったにちがいない。

■西郷の最期

<本文から>
  西郷は中央あたりにいた。その後方を、山駕籠に乗った別府晋介がつづいている。
 別府は弾挙がはげしくなってきたために、西郷が単に倒れることを惧れた。西郷から介措せよと頼まれている以上、弾にあたってしまえば首を落しにくい。
 以下の西郷に対する言葉は、別府がいったとも言い、辺見がいったともいう。もうこのあたりでいいのではないか。
 モウ ユハゴワスメカ(もうよくはございますまいか)。
 これを言った場所というのは、坂の両側に樹木が密生していいて、薄暗かった。両側の樹木のために政府軍の目と弾がさえぎられていて、自害には格好の地点だったらしく、この地点を出れば再び右側の谷が大きくひろがって一行の姿が故に暴露してしまう。ところが前を駈けている西郷が、大きな頭を左右に振って、
 マダマダ。
 といった。
 西郷は、薩人の戦死の型を路もうとした。後方で死なず、戦士らしくできるだけ敵陣に肉薄しも屍を横たえたかったのであろう。
 が、この林の中を出れば、岩崎谷口に展開している古荘大尉の隊の射弾を浴びぎるをえず、さらには頭上の尾根から職射している浅田中尉の隊の狙撃をもうける。
 すでに浅田は西郷のこの一隊を発見しており、その報をうけた大隊長の少佐大沼渉が尾根までのぼっていた。狙撃の態勢は十分だったといっていい。
 西郷らが林を抜けたとき、はたして飛弾の密度が圧倒的に濃くなり、西郷の大きな体に二個の小銃挙が食いこんでしまった。
 西郷は突んのめるようにして倒れたが、すぐ体をおこし、後ろの別府晋介をかえりみて、
 晋ドン、モウココデヨカ。
 別府は「そうじ(そうで)ごわんすかい」といって駕籠をおろさせ、従僕の小杉・豊富の両人に介添されて地上に立った。かれは天地のなににもまして西郷が好きだったが、このとき気丈に抜刀し、西郷の背に立ったのは、西郷の介錯をするという栄誉と義務感にささえられていたからに相違ない。
 「御免なって賜も」
 というや、別府の刀が白く一閃して西郷の首が地上に落ちた。

■会津の怨みを薩軍へ向けさせた、日本では絶対権力者の暴走を暗殺で停止させた

<本文から>
  福沢は文明進歩の媒をした維新の破壊面での惨禍を旧幕や東北諸藩の例だけにとどめているが、当時三石万とされた士族のすべてが被害者だったといっていい。その恨みが士族の反乱という反作用になって大久保にむけられたが、西郷は士族側に立ったために怨みの対象にはならなかった。ただ太政官は、会津士族に対して俸禄で釣り、その怨みを戦力として吸いあげ、政府軍に参加させて薩軍に斬りこませたことは、残忍な人間学の表現といえるかもしれない。会津人は怨みを普遍化するゆとりのないままに、それを地域レベルでとらえ、地域の怨恨の代表として薩人という地域の人間どもの群れに斬りこみ、これを殺傷して報復の心をややなだめた。これもまた革命とその余震期の作用と反作用の一つであるかもしれない。
 結局は大久保とその太政官が勝ち、西郷がほろぶることによって世間の士族一般の怨恨や反乱への気勢は消滅したかにそえた。大久保とその権力はほとんど絶対化するかの勢いになった。日本における政治風土として、権力が個人に集中してそれが絶対化することは好まれず、それに対する反対勢力が相対的に公認されている状態が好まれる。権力が個人に集中して絶対化した例は日本の歴史でまれであったが、遠くは織田信長の末期、近くは井伊直弔の大老就任後がそうであったであろう。結局は爆走する絶対権力をとどめる方法がないままに暗殺者がそれを停止させることが、ほとんど力学現象のようにして生起する。
 西郷とその徒が敗滅させられたことについての反作用は、加賀(石川県)金沢で出発した。
 石川県士族の政治への力は、微弱とされた。
 日本最大の大藩でありながら、幕末から維新にかけて時勢を傍観したためにいわゆる「雄藩」にはならず、維新後の士族反乱の気勢もここだけは弱かった。
 それでも、士族による政治結社が結はれていて征韓論に敗れてからの西郷および薩摩士族との間に連絡はあった。

■大久保暗殺の朝、明治三十年までの構想を語っていた

<本文から>
 その朝−明治十一年五月十四日−大久保はいつものように午前五時前に起床した。
 午前六時にはもう訪客があった。福島県令山吉盛典(米沢士族)で、東京での事務打合わせを終えて帰県すべく、あいさつに寄ったのである。
 大久保はいつになく多弁だった。目下準備中の起業公債の募集の趣旨を説明し、また福島県安積郡の疎水工事が将来、各府県の土木工事の模範になるようにせよ、などといった。山吉県令が辞去しようとすると、大久保はひきとどめ、
「さきに自分は各府県の殖産興業や華士族授産のことを訓示したが、どうも意をつくし足りぬように思う。さいわい足下が来られたから、これについてくわしく述べたい」
 としてそれを述べ、そのあと息を入れ、別のことを語りだした。山吉は生涯大久保のこの早朝の述懐をふしぎなものとしてわすれなかった。
「維新後、十年を経た。なにをなしたかといえば、治績はじつにすくない。恥ずかしくはあるが、一つには内外多魂で、時勢上やむをえなかったともいえる。いまや内外の事件、全く鎮定し、国内の平和を見るに至った」
 と前置きし、国家の基嘩を固めるには三十年が必要である、と大久保はかつて勝海舟にも語ったたことがあるはずの内容を、この朝、山吉にも語った。
 かれは明治元年から十年までを第一期とし、
 「これは、創業の時期です」
 と、規定した。その時期は過ぎた。
 明治十一年から同二十年までを第二期とする、と大久保は言い、これが最も重要な時期で、なすべきことといえば、内治を整え、国内を充実せねばならぬ、とつづけ、
「不肖ながら私はその第二期十年間を、百難を排してやり遂げたいと思います」
 と、いった美久保はさらに第三期である明治二十年から同三十年までの間は「守成の時期」と規定し、
「この第三期は後進の賢者にやってもらいます」
 と、語っている大久保は天保元年うまれだから、故木戸孝允より三つ上、西郷より三つ下で、この年、四十九歳になる。自分の現役を十年間に限ったのは、万事計画主義的なこの人物らしい。が、この山吉への談話を偶然の遺言としてみれば、大久保は明治三十年までの計画の主題を言いのこしたともいえる。かつて大久保が、民権への政体の移行について勝に語ったところでは、
 「明治三十年から」
 ということであった。この点、みごとに符合しているし、裏返していえばそれまではすべて「官」の指導のもとで準備をするということであった。たとえば大久保は議会制への母体の一つとして地方官会議を考えていたようだが、この年に入ってかれの股肱のなかでもっとも進歩的な伊藤博文をこの議長に命じたのは、そのあらわれといっていい。

■大久保暗殺

<本文から>
 島田一郎らは、要撃の場所についてあらかじめ精密に検討し、決定した。
 紀尾井坂を可とした。
 この坂あたりは旧幕のころ紀州家、尾州家、井伊家といった大大名の屋敷が塀をつらねていただ、いまはそれにかわって京都からやってきた北白川宮家や壬生基修などが安く買いとって住んでいる。藩邸時代とちがい、官家や公家の力ではこの広大な屋敷地をくまなく手入れすることができず、坂に面した敷地には夏草が生いしげり、ところどころ板囲いにむかって合図をするために書生の姿が出ていた。ただ立っていれは怪しまれるために、両人は花を手にして戯れる演技をくりかえしていた。これだけの装置であり、この中に入りこんだ大久保は、不運とも不用心とも言いようがない。
 大久保の馬車は、馬丁が一丁ほどさきを駈けている。まずその馬丁がやってきたので、見張りの書生は板囲いのなかへ合図を送った。馬丁は紀尾井坂のほうへ駈けて行った。
 馬車は、赤坂門の前を過ぎ、すぐ左へ折れ、壬生邸の横にさしかかった。
 二人の書生が、花を捨てた。板囲いのなかから四人の壮漢がおどり出た。どの男も着物姿で、手に手に長い抜身をもっていた。そのうちのひとりがもっとも早く路上にとぴだし、いきなり馬の前脚を薙ぎ払った。
 大久保はこの間、ひぎの上に置いた書類を見ていたため、前方には気がつかない。馬が跳ねあがってから、気づいた。
 駁者の中村太郎は、怪漢がおどり出して馬の前脚を斬ったとき、事態が何であるかがわかった。壮漢の一人が、飛びのってドアに手をかけた。中村は主人を救うべく地面へとびおりたとき、襲撃者の一人から袈裟に斬られ、即死した。
 大久保は一説によると「待て」といって書類を風呂敷に包んだという。
 かれ自身がドアを排して路上に降りたこともたしかだった。その大久保の右腕を島田二郎がつかんだ。大久保の最後のことばは、
 「無礼者っ」
 という一喝だった。たちまち前後から刃をうけて契れ、地に伏した。そのあとも島田らは何度もとどめを刺し、絶命したとみると凶器をそのあたりに投げすて、まっすぐに宮内省にむかって駈けた。その表門に立ち、大声で、自分たちが、大久保殺しの下手人であることを名乗って出た。警備のたれもが、大久保が死んだことをまだ知らなかった。

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