司馬遼太郎著書
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          手掘り日本史

■お布令一枚で廃仏毀釈をスラスラ行った日本人

<本文から>
 明治の初年に廃仏毀釈があった。奈良の興福寺は、いまで言うなら東京大学、叡山は京都大学、というほどの権威をもった存在なのに、それが一片のお布令で、何の抵抗らしい抵抗もなしに、明日からは春日神社の神主になったりするんですね。
 こういう文化大革命が上からおこなわれるときには、国家は兵隊を寺なら寺にさしむけ、とり囲み、場合によっては銃剣で圧伏し、死人が何人か出る…というのが普通でしょう。
 それがお布令一枚で廃仏毀釈という世界史上類のまれな文化大革命がスラスラ行ったというところに、日本人と日本史の本質の一部をのぞくことができます。お布令というものは、徳川時代から続いています。″お上のこわさ″に対する強度の畏怖感があるんですね。それにしても、郵便でお布令が舞いこんだくらいの軽い手続きで、興福寺ともあろう仏教上の大権威が、昨日までの仏教を捨ててしまう。捨てるだけではなく、昨日まで拝んでいた仏さんを風呂の薪にして、その湯で坊さんが温まっているんです。昨日までは仏教だったが、きょうからはもう神道だ、ということで、これがほとんど絶対的な正義なんですね。 
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■大阪人について

<本文から>
 大阪人は律義者でないということはいえませんが、ともかくも権力というものに対して伝統的になめているところがある。権力のなかでももっとも権力的な軍隊社会というものにはどうも適合しない。それが、維新から明治初年いっぱい、日本のまがり角ごとに、新徴募の幕府歩兵や新徴募の鎮台兵にさせられて登場する。哀れですな。
 ともかく大阪人というのは、日本のなかで特別に研究していい集団の一つでしょうね。
 長距離トラックを運転している連中がよく言うことですが、下関を出発して山陽道を走りつづけ、やがて神戸をへて大阪にはいってくると、気がゆるむ、という。大阪には、体臭としてそういうものがあるらしい。ルールへの遵法精神が大阪へ入るとゆるむというのです。何かここでは、ルール抜きでやっていいような感じで、そんな気分になるらしいのですが、そこでつい事故を起こしてしまう。大阪を通りすぎて京都をぬけ、滋賀県草津から東海道に入ると、自然気分がかわる。ちょっと緊張してくる。静岡をすぎるころから、これから東京に入るんだということで非常に緊張するそうです。
 つまり東京は、ひとを緊張させる何かをもっているのでしょう。ルールに対する厳しさというようなものは、封建時代から日本人が引き続きもっている緊張感に支えられていて、その匂いが、おなじ日本の都会でも、東京のほうがはるかに強いのでしょうね。
 当然かもしれません。城下町であった東京と、町人の町であった大阪とでは、フライパンにしみついた油のちがいがあって、それが東京人・大阪人それぞれの体臭になっている。これはなかなか抜けきれるものではないようですね。
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■新選組という組織を発明した不思議

<本文から>
 私は土方歳三という人を一所懸命みつめているうちに、彼のことが少しわかってきた。そこで小説に書いたわけです。それは新選組と土方との関係、と言いますか、彼が新選組をどのように考え、どのように作り、動かしていったか、ということなんです。
 新選組というのは、日本人が最初にもった機能的オルガノンなんですね。
 当時、たしかに藩というものがありましたが、これは人を養っている組織というか、機構であって、ある統一的な目的をもったシャープな組織ではない。組織の名に価いするものでは、新選組が開祖です。これはやはり、日本の文化史上、特筆大書すべきことで、その新選組が誕生するのは、文久三年の春ですね。
 なんで彼らがこんな組織を発明したのか、それが不思議でしようがなかった。使っていることばだけでも、非常に新鮮な感じがする。たとえば局長とか、副長助勤とかいうことばですね。
 これは実は、前からあったことばで、昌平黌の寄宿舎の寮長補佐のことを、舎長助勤というんです。昌平黌の寮生活は、旧制高校の寮を想像してもらえばわかる。寮の委員長を舎長と言い、委員長補佐のことを舎長助勤と言っていたんです。
 新選組の成立当時、山南敬助という、仙台藩を脱藩してきた、ちょっとしたインテリがいたんですが、彼が江戸で昌平黌と関係のある連中とよく付き合っていますから、まァ彼あたりがそんなことを思いついたのかもしれない。
新選組のシステムでは、統率者が局長の近藤勇であることは、明快ですね。だが指揮者は副長の土方歳三なんです。局長を神聖視して上に置いて、現実に手を汚す指揮は副長がおこなう。その副長に助勤がくっついている。ヨーロッパ風の軍隊でいうと、副長は中隊長、助勤は中隊長を補佐する中隊付将校です。中隊付将校はまた、それぞれの小隊を指揮する小隊長である。新選組のシステムは、この軍隊の制度そのままなので、オランダかフランスかの中隊制度から学んでいる、ということがわかります。
 これをアレンジして、彼自身が中隊長になり、局長は統率者としてさらにその上に置いておく。責任は全部副長のところにくる。彼が腹を切れば済む。局長はそうする必要がない。責任は副長のところで止まる。ここいらの組織感覚は日本的とも言えますが、シスキムはヨーロッパ風、ことばは昌平黌などからとってきている。ともかくもそうして、一つの組織をつくりあげたというのは、たいへんおもしろいことですね。
 土方の新選組における思考法は、敵を倒すことより町味方の機能を精妙に、尖鋭なものにしていく、ということに考えが集中していく。これは同時代、あるいはそれ以前のひとびとが考えたことのない、おそるべき組織感覚です。個人のにおいのつよすぎるさむらいのなかからは、これは出てこないものです。
 たとえば加賀藩などのちゃんとした藩士が脱藩して、新選組に入ったとしても、ちょっと考えつかないものでしょうね。こういう鋭い組織感覚は、日常戦闘している者でなかったら考えられない。
 百姓、町人、とくに町人です。自分の生き死にを賭けて商売していたりするときに、こういうことを思いつくことができるのでしょう。百姓にもそういう場合がありますし、漁師の場合でも、システマティツクに動かないと漁ができないことがある。が、さむらい、とくに江戸のさむらいは、そんなことは知らないし、考えられない。そこで土方の生い立ちが問題になるわけですね。
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■勝海舟の偉さ

<本文から>
 幕末には、そういう身分関係がゆるんできていますが、それでも勝海舟といえば、幕府の元軍艦奉行で、お殿様ですよ。その彼が、幕府の第一次長州征伐の始末のために、長州境の芸州広島に行く。単身で行くわけです。このお殿様が単身で行くところに、勝のえらさがあるんですが、そのえらさも、彼の身分を考えてみないと、よくわからない。
 勝は、家茂の側近が自分を嫌っていることをよく知っていますから、はたして自分に交渉についての全権が委任されたのやらどうやら、後方に疑いをもちながら行く。しかし、彼は戦争を終熄させるための、非常にうまい手を考えていた。広島に泊まって、翌日は時間の余裕があったから安芸の宮島を見物している。
 宮島の厳島明神の社頭にゆくと、神主がいる。その神主に、折角ここまできたのだから短刀を寄進したいと申し入れる。しかし神主は彼をうさんくさげに見て、受けられないと言う。
「くれてやるのに受け付けないとは何だ。おれは寄進する、あんたはうけとるだけでいいじゃないか」
「いや、御寄進はけっこうですが、それには作法があります。ざんねんだが受け付けられません」
 とラチがあかない。しかしやがて神主の口ぶりから察して金を出せば寄進ができるとわかった。それで金子を添えて、ようやく受け付けてもらった。これがいま、宮島の社宝になっているんです。
 神主は勝のことを、そんなにえらい人間だとは思っていない。勝自身、風来坊のように供もつれずにやってきているんですね。幕府の全権大使が、です。−それがそれくらいの身軽さで出かけてきている。ここに勝の人間というぬきさしならぬものが出てくる。日常性といいますか。
 その翌日に長州の代表と会見するわけですが、その会見場所は、最初からのとりきめでこの宮島の厳島明神だった。明治以前は神社仏閣は治外法権の場所ですから…。
 会見のとき、勝は座敷にすわつている。が、長州の連中は、縁側にびっしり並んだまま、座敷に上がらない。ついでに言いますと、軍事的には長州が幕府をやっつけているんです。幕府は負けている。その勝っているほうの代表たちが、負けている幕府代表がいくらあがれあがれといっても座敷に上がらない。長州藩士にすれば自分たちは陪臣の身で、相手の勝は直参のお旗本だから、というのです。
 長州代表たちは皆縁側にひしめいていて、ともかくも上がらない。革命を起こそうという連中が、そうだ。このあたりにも歴史の体臭というものがあります。
 勝は機略家ですからね、「それじゃァ、私から降りてゆくまでだ」といって煙草盆をもって、のこのこ濡れ縁のほうに出て行く。それでみんなどっと笑って、それではしようがない、上がらせて頂きます、とぞろぞろ座敷に上がっていくわけです。長州の連中、勝は話せる男だと思ったでしょう。勝も長州の荒胆をつかんだつもりです。
 こういう情景がビビッドに浮かんでこないと、時代の雰囲気とか、当時の人間の意識とか、それぞれの人間像やそのえらさ・おもしろさなどがつかめない。
 一言で言えば、歴史小説を書くときのデテールの問題ということになりましょうが、やはりその当時の人間が生きていた日常を、作者が同じように生きてみるということになりましょうか。歴史を見てゆくうえで、どうもこれは大事だとおもいます。
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■竜馬は構想が大きいから姿勢が柔軟

<本文から>
 竜馬には論理がないだけで、テーマはある。竜馬のテーマは、大統領をもつアメリカのような国をつくることなのでしょうね。多分に茫漠としたテーマなんでしょうけれども竜馬は、攘夷論者といっしょに走っているときには、自分も攘夷論者のようなことを言って、そのテーマを決じて片鱗も見せない。もし見せたら、仲間が彼を斬るでしょう。彼は尊皇の問題についても、多分に乱臣賊子の思想を抱いていたような気配があります。しかし彼は、ついにそれも口に出さない。そういう点では、実に老獪だし、柔軟です。
 西郷の人間主義の構想も大きいが、竜馬の構想のほうが、はるかに具体的で、目に見えますね。構想が大きいために、姿勢が柔軟になれるのかもしれません。
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■信長は自身の成功を見習わなかった偉さ

<本文から>
 信長も頑固なように見えて、非常に柔軟です。信長に非常に感心することがあります。
 彼は桶狭間でいちかばちかのバクチをしますね。しかし彼は、その生涯のうちに、こんなバクチは二度と打とうとしない。こんなものは百に一つぐらいしか当たるものではない。そのことを彼はよく知っていたのでしょう。
 その後の信長の戦いかたは、味方が敵の数倍になるまで待っています。それまで、外交につぐ外交で、敵を弱らせておく。あるいはダマしておく。これなら確実に勝てる、というときになってから行動をおこす。これは勝つのが当然でしょう。だが、敵に数倍する軍隊を集めるという政治力と、それまで時を待つというその持久的なエネルギーは、彼の巨大な構想から出るわけです。大きな構想に沿った戦いかたをするのです。
 それよりも、自分が桶狭間で成功したのは奇蹟だった、マグレだった、ということを知っている。これが彼が他の人とあきらかにちがう偉さではないでしょうか。普通の人間だったら、オレはやったぞ、と生涯の語り草にして、「あれを見習え、諸君!」とか何とかいうことになるでしょう。しかし、彼はついに、自分自身の成功を見習わなかった。
 信長のすごさはそこにあるようです。
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■竜馬は長崎を発想点に政情を観望

<本文から>
 坂本竜馬は西郷隆盛を抜け目なくしたような男だ、とその両人をよく知っている大久保一翁が言ったといいますが、たしかに彼には抜け目ないところがある。西郷は革命において尭舜の空想的理想国家を夢見た。竜馬はあくまで貿易という大実務が夢だった。そのちがいが抜け目なさとして出ていますし、抜け目なさがそういう夢をもたせたのでしょう。京都で新政府が成立した直後に、実務上の大官をきめるための会議があって、各藩のリーダーがそのリストを出す。土佐藩の、竜馬が提出したリストに彼の名が入っていない。そのことを座長格の西郷が不審におもい、それをただすと、私はそんなものになるつもりでここまで生死の境をくぐってきたわけではない、役人にはなりませんよ、と答えているんです。さすがの西郷もこの巨きな無欲におどろいたといいますが、しかし抜け目のないはずの男が根っからの無私無欲だけでそんなことを言うはずがない。
 このあたりをよく考えてみると、彼の野望は政府の大官になるというようなちっぼけなところにはなかったわけです。彼は長崎という特殊な地理的・経済的位置を発想点にして、そこから幕末の政情を観望し、その錯綜しきった情勢を鎮める方法をつぎつぎに考えついてゆくわけですが、そういうかれの着想は他の人から見れば、たしかに、奇想天外にもみえた。しかし、その野望と長崎という性格、位置をふくめた発想点に身をおいてゆくと、あるいは私たちでもそういうような着想は得られたかもしれない。
 薩長連合にしても、大政奉還にしても、そうした発想点から生まれた。長崎を発想点にしているから、薩摩とか長州とか土佐とかの藩に密着した考えにならない。つまり彼の考えは、何かに″属して″いないわけです。
 さきの見える人間が、その構想を打ち樹ててゆくについて、格別な場をみつけてそこに立つ、というのは大切なことですね。竜馬が天才だとしたら、あちこち歩いた上で、彼のそうした発想点である長崎に、自分自身を移動させてもっていったということにあるでしょう。その発想点においてはじめて彼は、現在と未来とのあいだを往復する。
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■義経を見る日本人の判官びいきの困った問題

<本文から>
 無名の人間が一朝にして有名になるということは、義経以前には、日本の社会にはなかった。いまで言うなら、美空ひばりでも石原裕次郎でも、スターの誰でもが味わうことを、日本歴史のなかでは義経が最初に経験するわけですが、そのときに義経の自己崩壊が始まるわけです。
 自己崩壊とまで言うと義経がかわいそうですけれども、まァ法皇や関白にもかわいがられ、都の人気者になって、ある程度いい気になる。もうひとつ義経の困るところは、政治感覚が全くないという点です。
 兄の頼朝が鎌倉にいる。頼朝の政権の基盤は鎌倉の大小の地主たち、つまり関東武士ですね。彼らはその権益を守るために頼朝を摸して、京都の律令体制にチャレンジしている。しかし義経はその律令体制の寵児となって、兄の立場を理解できない。そして、知らず識らずのうちに京都と鎌倉との抗争の渦中に巻きこまれていく。
 頼朝にとっては、弟が体制側のとりこになり、そして大きな人気を得ているために、これが鎌倉に地主政権を打ち樹てようという目的の邪魔になる。邪魔者どころか、最大の敵になっていくわけです。そういう事情を、やはり頼朝の協同者である義経は理解しなけれはいけないのです。
 大きな勢力を背景に戦争した人間が、いかに軍人とはいえ、わかっていなくてはいけないことを、義経は全く理解せず、逆に兄の無理解を悲しみながら没落していく。この、悲しみながら没落していくというところだけをとりあげて、日本人は感動してしまうんですね。
 義経の困った点は、というより日本人の判官びいきの困った問題は、われわれ日本人が、頼朝の鎌倉政権が確立したおかげで、ちょっと人間らしい生活をもつことができた、という点を見ないことです。頼朝のやったことは、日本史上最大の革命かもしれません。頼朝こそ、律令制社会の矛盾から当時の日本人を救ってくれた革命の恩人なんです。このことを見ずに、その邪魔者であった義経にだけ同情の涙をそそぐ。あれだけの武功をたてた義経が没落していく、これがどうにも悲しい…。ここに日本人のメロディーが始まるわけで、それではやはり困るんじゃないか、という気持がありました。
 こんな歴史的条件のなかに置かれた一人の青年・義経とは、どんな人物で、判官びいきとはどういうことか、ということで小説を書いたのですが、やはり読者がもっている既成のイメージというのは、なかなか抜けないんですね。
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■南北朝時代は利権抗争で創造的なものはでない

<本文から>
 そのけんかざたに、宋学の観念史観を翻訳した水戸史学が、″勤王″というバカバカしいフィルターをかけてしまった。九州の果てまで騒ぎがありましたから、九州の地方紙などでも、誰それは勤皇方である、誰それは賊軍である、といまでも書いているところがあります。
 つまりは相続の争いなんで、中央の偉い人を頼るのに、オレは足利尊氏だ、オレは宮方に頼る、ということだっただけのことなのです。
 ところが宮方つまり後醍醐天皇派には、そういう時代把握も社会把握もできない。把握しようという感覚すら稀薄である。そういう社会の矛盾から起こったさわぎだということを知らなくて、後醍醐天皇派は建武中興という、奇妙な、お公卿さんのたわごとのような古代政治を復活させようとする。そんな滑稽さが、官方にはあるんです。
 どうにもならない、バカバカしい低能政権ができたわけです。誰もが怒るのは当たり前で、昨日まで官方だった人間までが足利旦那につく。尊氏がひとたび起つや、天下は風をのぞんで彼になびいていくわけです。
 尊氏はしばしば戦いに敗れるわけですね。それでも九州へ行って、また兵を募ると、その傘下に集まる者が多い。結局、彼はよくぞこれだけ集まったと思われるほどの大軍を率いて上京し、湊川で宮方の正成を破るわけです。
 尊氏はなぜ強いのか。それは彼にしたがっていたら、本領が安堵できると、ひとびとが考えていたからです。
 当時のひとびとは、戦国時代とちがって、領地をふやすことをさほどには考えてはいない。権利保全だけです。伯父さんに横領されていた土地を自分のものに取り返す、という一家内部のいざこざのとり鎮めなんです。それが全国で何万件とあるわけで、それを尊氏によって解決してもらおう、というのです。
 尊氏は、腹の大きな、そういうことがよくわかった人なんですね。彼自身、同じ社会の人間だから、感覚的にも十分わかるんです。
 しかし、そこからはずされた人たち、権利のアウトサイドに立たされた人間は、宮方に残存しています。この人たちは吉野朝廷と連絡しながら、尊氏軍に対して抗争するのですが、しだいに微弱になって、滅びていく。
 南北朝時代の抗争とは、ただそれだけのことで、そこに動いている力やエネルギーは、すべて権利、利害にからまるものです。それに特殊な史観のフィルターをかぶせれば、何らかの光を発することもありますが、やはりそれはイリュージョンであって、現実は利権のための抗争です。
 小説を書き始めると、そうした現実がわかってくるんですね。それで空しくなって、書きづらくなる。創造的なことが出てこないために、しだいに苦しくなり、ちょうど胃液も何も出ないのにものを消化しようとするような、そういう身体の状態になって、衰弱してしまうのですね。
 もうひとつ、南北朝の時代には、時代の美意識というものがない。鎌倉時代には鎌倉武士は美意識があった。私たちがいかにも痛快だと思うような、畠山重忠とか、生田の森でえびらに梅をさして戦った梶原景季だとか、そういうものがあった。そういう美意識が鎌倉時代の末期には衰弱し、しかも新しい美意識はまだ生まれていない。ここにあるのは利権・利害だけですから、小説にはなりにくい。ある種の小説にはなりますでしょうが…。
 歴史小説というものは、前時代の美を打ち壊すか、あるいはそれに乗っかるか、その態度が最初に必要なのですが、そのための素材が何もない。現実は果てもない利権争いの泥沼というだけのものが、水戸史学のフィルターにかけられて、一見すばらしい風景にみえるんです。だから、うかつにそれに乗ってダマされてはいけない。作家たちも、ずっとダマされてきたんです。観念史観にせよ、唯物史観にせよ、史観というもののこわさがそこにあります。ときに歴史をみる人間に、麻酔剤の役目をします。
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■西郷や大久保などの体制製造家は悲劇

<本文から>
 体制製造家、あるいは体制製造論者はみな生命が危いですね。西郷は自分の考えている体制構想が大久保にうけいれられない。そのために薩摩に帰って私学校を起こし、やがて反乱の総大将となって、城山の露と消える。江藤は西郷よりも前に、佐賀の乱で殺される。大久保が江藤を殺すわけです。体制製造法のたたかいというのは、こういうものですね。
 大久保が考えている体制、西郷が考えている体制、そして江藤が考えている体制は、大きな共通項があって、本質はあまり変わりません。色合いやらにおいやらが少しずつちがうだけです。体制製造家大久保にとっては、他の体制製造家たちが敵なんですね。大久保自身は無私なんですが、日本のためにならないということで二人を倒してしまう。そしてこの大久保も、西郷が死んだ翌年ですか、紀尾井坂で死ぬ。
 体制製造家の悲劇というものがあるんですね。その生涯はまことに華麗で、しかもすさまじい。だが、これは人間のなかにはめったにない才能です。処理家のほうは、たとえば東京大学法学部が生産し得るわけですし、いくらでも出てきますけれども、新たな体制を創始する人間はなかなか出ないんですね。
 そう考えると、織田信長の偉さもわかってきます。彼はまさに体制をつくっていく。彼の生涯もまた華麗ですけれども、やはり終わりを全うせず、創業半ばで死んでいく。
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■家康、伊藤らの処理家が成功

<本文から>
 秀吉も多分に体制製造家としての一面をもっていますが、しかし彼には処理の才能が多分にあって、信長の創始したものをうけつぎ、アレンジしていく。家康はそれを処理しただけですね。製造家じゃありません。だから生きながらえる。三河の国主であったころから、あれだけの戦乱のなかを彼が生きぬいていけたのは、″水は方円に従う″で、器が変わればそれにしたがっていくからです。オリジナルなビジョンがないから、それができるんです。そのかわり彼は処理の名人です。
 徳川氏の封建制度というのは、日本のためのものでもだれのためのものでもなく、徳川家一軒のためのものです。その制度は家康の処理感覚から生まれたもので、製造感覚から生まれたものではありません。それを家康の養成した官僚たちが維持相続していく。中央集権ではなく地方分権で、これをそのまま全国的に統一するために、警察力で抑えようとする。
 こういう徳川体制のありかたに私たちは強い不満を感じますけれども、それでも徳川封建制度の残した幸福がひとつあります。
 朝鮮人の友人と話し合っていますと、朝鮮の不幸は日本のような封建時代をもたなかったことだ、というように感じることがあります。そういうものはヨーロッパにもあった。これが近代社会に参加するための手形になるわけで、中国と朝鮮はその手形をもたなかった。しかし、ああいう王家を中心とした官僚制度では、日本のような封建制度はできなかったですね。
 体制製造家が集れて、処理家が成功の果実を食うんでしょうか。
 西郷・大久保らは、ともかく維新後まで生き残りましたけれども、あるいは彼らも、幕末に死んでいるべき人たちかもしれない。もう少し前には、吉田松陰とそのグループがいて、死んでいる。竜馬もそうです。橋本左内は革命家かどうか疑問ですが、彼も死ぬ。結局、最後に果実を食うのは、伊藤博文とか山県有朋とかの処理家でしょう。
 山県の前には、大村益次郎という体制製造家がいて、死んでいます。彼は軍隊を様式化し、徴兵制度でいこうとするが、それにはかならず士族の反感、攘夷家の反感を買いますから、どうしてもその生命が危険になるわけです。
 処理家には敵がいない。処理するだけでビジョンがないから、敵対関係が生じない。もちろん人間にとって、どちらが偉いかということはないので、まアどちらが華麗であるかということなんですね。どちらのタイプが好きか、という問題でしょうね。
 ただ処理家には、どうにもならない感じがあります。家康はまず信長といっしょに歩く。さらに秀吉ともいっしょに歩いて、相手が弱ってくると、たしかに弱ったかどうか、呼吸の具合まで手でおさえて確かめてから起ち上がる。物事を創っていくには、ある大胆さと進取の気象といいますか、それに支えられた行動性が必要なのですが、処理家はやはり何かを創っていくタイブではありませんですね。しかし、処理家の一生は幸福と安全にみちています。
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■日本人は社会を組みあげていくことが正義だと思っている

<本文から>
 ところが札入をしたら、徳川のために最後で戦おうという意見が、三票しかなかっが。
 当時の日本人にとって何が正義かと言えば、徳川への忠誠心も当然ながら正義なんです。しかし、それは小さき正義である、という考え方がある。新しい時代に参加することこそが、何にもまして正義だ、という考えかたですね。
 しれが大勢を占めた。日本人を考える上で重大なことです。関ケ原の場合もそうだった。福島正則や加藤清正も、徳川方についた。彼らは秀吉の恩顧で、給仕上がりから大名にしてもらった。彼らは秀吉の遺児のために働かなければならない立場にある。それなのに、明日からは徳川体制だ、というところに正義を感じて、徳川方につく。こういうことが日本歴史のなかで、そういうことばが使えるとすれば大きな「エネルギー」になっています。
 この間題を、軽薄とか無節操とか、よくモラルという窓から見たがる。モラルで見ることももちろん必要ですが、モラルだけで見たがると、歴史がわからなくなります。
 日本人はどうも、社会を壊してしまうことはいけないことだ、と思っているようなのです。そして、社会を組みあげていくことが正義だと思っているらしい。一つの社会が壊れたら、すぐ新しい社会を組みあげていきましょう、というところがある。新しい社会ができると、立場立場で非常に不満ではあるけれども、作ることに正義を感じて妥協してしまう。福島正則も加藤清正も豊臣家への不忠の臣として語られていません。徳川体制をつくる上での有力な協力者だったという″正義″の上でかれらのモラルは浄化されています。ジ・ヲセフ・フーシエを悪人だと考えるのは多分に西洋的なのかもしれません。
 普通、社会を構成する能力のない住民というものは、無能力の場合は別ですが、シャープすぎるほどの理論家が多いんです。はげしい議論があって、ついに相手を許せずに、おたがいに議論のなかで共倒れになってしまう。そこに妥協がない。日本人はその点、不満を抱きながらも妥協してしまう。
 たとえば鳥羽伏見の戦いの段階で、全国の武士階級に、「薩長を主体とする京都政権をあなたは認めますか?」というアンケートを出したとしら、九割九分まで「認めない」というところにマルをつけると思うんです。本心はそうなんですね。さらに「京都で天皇を擁している薩長を主体とする新政権が、新しい時代をつくると思いますか?」と言えば、「思います」と答えるでしょう。分裂しているわけです。日本人の心の二重構造性を考えないと、歴史は見にくいのではないでしょうか。
 最後に第三間として、「そこで、あなたはどういう行動をとりますか?」と問えば、○も×もなく、沈黙する。しかし動かざる沈黙ではなく、無言のうちに新しい時代に参加していく。そういうところがあるのですね。そういうことが、いいわるいはべつとして、時代を進めていく大きなエネルギーになっている。
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■日本はひとつの体制ができるとマスのエネルギーがそこに殺到する

<本文から>
 日本史というものは、注意してみると、なかなかおもしろいものです。
 日活戦争に勝ったときに、各国のあいだに、日本研究とまではいきませんが、ジャーナリスティックな意味で、日本を新しく見直すということが流行した。そのなかに、アメリカの海軍軍人だったと思いますが、私たちからすれば頬が赤くなるようなほめことばで、日本の歴史を評価したものがあるんです。
 それによると、まず評者は日本歴史からほめにかかる。日本史をみるとなぜ日本が勝ったかがわかるのだという意味で。日本はヨーロッパの一流国に匹敵する歴史をもっていると評者はいう。義経の壇ノ浦の破滅戦は、トラファルガーの戦いにおけるネルソンよりも優れている。関ケ原の戦いでの家康の戦略と戦術は、ウォーターローのウェリントンよりもまさっている。しかも、大規模な戦いをしながら、その戦後処理は非常に組織的な処理のしかたで、一つの社会を作りあげていっている。こういう歴史を見ていくと、日本人はひょっとすると、英国人よりも優れているのかもしれない、という。そういう日本評価なんです。
 ただここには、たしかに妥当な、おもしろい指摘があります。国によっては、その歴史をしらべていっても、ウンザリするほどおもしろ味のないものもあります。関ケ原も、壇ノ浦の大ドラマもない。
 日本人は、歴史のなかで見ると、やはり能力があるということになるでしょうか。ここからただちに、日本人の一流性という結論をひき出されては困るのですが、ともかく日本の歴史は、眺めるに価いするものをもっています。
 ひとつには日本人の組織能力、社会を組みあげる能力が高いということですね。こういう国は割合少ない。日本人は大化の改新以来、何べんも社会を壊したり作り直したりしてざましたが、そのなかで絶対的な、大岩盤のような貴族階級を作らずにきていますでしょう。階級がつねに微妙に流動している。たとえばこの歴史のなかで、徳川三百年が最も長い政権ですが、それ以前には、この諸大名も土民だった人たちです。
 このような能力は、民族のどういう性格から生まれるのかというと、「明日からはベッタンが流行るぞうツ!」ということと関係があるようだ。廃仏毀釈で、明日からは春日神社の神主だ、というのも同様で、ひとつの体制ができると、マスのエネルギーがそこに殺到する。そこでパッと社会ができてしまうのですね。
 そういう民族の性格を、私はこれまで自己嫌悪の目でみてきた。いまでも自己嫌悪はあるのですが、それは貴重な、一種の能力でもあるのではないか、とも思えるのです。
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