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<本文から> 秀吉は、決心した。
あとは、工事であった。
城の北方と東方は、わずかな田地をへだてて山陵地帯である。これは、自然の堤になる。城は南方と西方の平野にひらいていた。この開放面を閉じればいい。
閉じるための堤の長さは、四キロを要する。気の遠くなるほどの長大さだが、秀吉の心象からみれば棒ほどの長さにしかおもえないらしい。
秀吉は、堤防の規模−幅と高さを決定した。底面の幅がなんと四十メートルであった。高さは十メートルあまり、その上は道路になる。道路(秀吉の時代の土木用語では馬蹄)は約二十メートルで−ある。
(そのような工事が急速にできるか)
と、官兵衝はおもった。それとなく秀吉に工事日数の予定をきくと、
−なあに、十日か十五日もあればできるだろう。
と、秀吉はおどろくべきことをいった。なるほどそれだけの日数でできるとすれば毛利の救援 軍も問にあうまいが、しかし神のみがそれは可能である。
が、秀吉は、天性の土木家らしい。
土は、土俵で運ぶ方式をとった。土俵ごとほうりこんでゆく。その土俵はざっとどのくらいの数量が必要か。
それを、算用達者の小西弥九郎(行長)に計算させた。弥九郎はすぐ計算した。
「七百五十九万三千七百五十俵でござりまする」
というのが、その答えであった。幕僚のたれもがその数量に気を遠くしたが、しかし秀吉だけはおどろかなかった。大量の人力を、機能的に、しかも一挙に集中させる方法を考えればそれだけでよい。その集団労力を機能化するという点では、この男にかかっては信長もおよばない。この男の最大の特技であった。信玄や謙信などは、はるかにおよばぬであろう。この男のばあい、自分のその特技世界に、合戦そのものをひきずりこんでいるかたちであった。
秀吉は二千余人の労働力をあつめた。その連中は、備前と備中の戦いで獲た捕虜であった。それを二十三組に分け、一組百人単位に奉行一人、杖突き(土木監督)四人を置いた。奉行には紙の小旗を腰にささせた。以上が、この築堤工事の主力であった。
が、二千余人ではすくない。ほかに、この地方の百姓町人ほぼ一万人をつかった。しかしこの男の流儀で強権はさほどに用いず、かれらの欲を刺激した。土俵一俵を運んでくれば、銭百文と米一升をあたえるという。条件が、夢のようであった。
−うそだ。
と、かれらは最初信じなかった。堤の長さ三メートル余で、必要土俵の数が三千五百二十八俵になるとすれば、羽柴から支払われる米銭は、銭が三百五十二貫八百文で、米が三十五石二斗八升である。さらにこの大築堤ができあがったときに支払われる代価を計算してゆけば、米だけで二十八万八千倉石という、よほど大胆な者でも胴慄いのしそうな巨額であった。それだけが、この地方に落ちる。
しかも百姓町人としては資本いらずであった。土俵を作って土を詰めればよい。土が、米と黄金に化るというのはまるでお伽話か、神話であった。
が、やがて事実とわかり、備中、備前一帯の人間は発狂した。発狂同然になった。子供や老婆まで土俵をかつぎだした。八キロむこうの備前岡山あたりからも、土俵を積んだ百姓車が陸続としてつづいた。神話が、現実のものになった。
「みろ、人がうごく」
と、秀吉は猿が燥ぐような無邪気さで、はげしく手をたたいた。人を動かすというのがこの男の才能であり、欲望であり、いちどこの味を知ればこれほどおもしろいものはない、とかれ自身ひそかにおもっていた。この時期、かれは竜王山の頂上から本営を移し、高松城へいちだんと接近した丘陵−俗称蛙ケ鼻で指揮をとっていた。官兵衛がたえずかれのそばにいる。その官兵衡へ、
「みろ、みろ」
と、やかましく催促した。官兵衝はちょっと迷惑した。
「みております」
というと、もっと驚け、もっと目をまるくしろ、と官兵衛の肩を二つ三つ、力まかせにたたいた。
「世を動かすのは、これだ」
と、秀吉はいった。これ、というのは人間の欲望を指している。秀吉は人間の欲望を刺激した。すると水が低きへ流れを変えるように、秀吉の思うがままの方向に人間どもはうごきだした。世を動かす原理は人間の欲望である、ということを、秀吉は年少のころから勘づいていたが、その証拠として、これほど壮大な規模で目の前にくりひろげてくれた光景はかれ自身もはじめてみた。昂害しきっていた。 |
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