司馬遼太郎著書
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          新史 太閤記・前

■自在に演技できる顔

<本文から>
 「よほどめずらしいしろものらしゅうござりまするな、この顔が」
「ふむ」
 嘉兵衛は言葉をにごし、猿がどう出るかを測りつつ、
「まあ、臨済寺の寺小姓にはなれまいな」
用心ぶかくいった。「そのかわり、ひと目みれば誰も忘れぬ」と、おだててもやった。
 が、猿はそんなことはききたくない。
「お伺いしとうござります。この顔は、醜うござりまするか、それとも怖ろしゅうござりまするか、あるいはとぼけて他人の笑いを誘いそうでござりまするか」
「休もう」
 嘉兵衛は、蒲公英の群がりのなかに腰をおろした。すでに猿の関心のありかがわかった以上、親切に相手になってやろうと思った。
「そちは利口だな」
 まずほめた。猿が、自分の顔の印象を三種類にわけた的確さに募兵衛は感心したのである。「わるいが三つともそろっている」
 と、嘉兵衛は小声でいった。
「お答え、ありがとうございます。しかし醜いということでございますが、薄気味が悪うございますか」
「時にはな」
「例えばどのような時」
「そちが、朋輩と争ったあと、なにやら心鬱するがごとく物思いにふけっているときだ。そのときの顔のむごさは、あたりを冷えびえさせるほどに暗く、目の光が蛇に似、なにやら別人のように奸悪な表情になる。人はそちを薄気味のわるい倭人としか見まい」
 「たとえば、こうでござりまするか」
 嘉兵衛がおどろいたことに、猿は腕を組み小首を垂れ、両眼だけを薄く見あげた。武家奉公させておくのは惜しいほどの演技力である。
 「もう、やめろ」
 嘉兵衝は、血がさがるほどにおびえた。いかさま、ゆだんがならぬと思った。この猿には、もともと腹の黒い、血の冷えた、倭人の素質があるのではないか。
 「ありがとうございました」
 猿は顔を崩し、急に陽が照ったように笑った。そこに、別人が誕生したように明るい目である。
 (こわい男だ)
 嘉兵衝は、腰をちょっと退きたくなるような思いでおもった。が、猿はニコニコしている。
 「こんどは、怒ればどのような顔に相成りましょう。ちょっとやらせて頂きます」
 猿は会釈をし、やがて顔をあげ、あごをちょっとひいた。
 もうそれだけで、忿怒の形相が、そこに居た。寡兵衝はふたたび驚かねばならなかった。猿の顔たるや、小振りながらも鬼神のようなすさまじさなのである。 
▲UP

■信長に仕えて人生が転換

<本文から>
 ある日、信長は小牧山まで鷹狩りにゆき、夕刻騎馬で清洲まで帰ってきた。
 すると、路傍に人がすわっている。平伏していたが、やがて信長が通りかかるときにひらりと顔をあげた。
 「−」
 と、信長は見おろし、弾けるように笑いだした。世の中でこれほど奇妙な顔をみたことがない。
 顔はひどくつつましやかな表情に作っているが、見ようによっては満面が恍けた味でふくらんでいる。
 きっ、
とその顔が笑ってみせた。その瞬間、馬が愕くぐらいの奇相になったが、それだけに物好きな信長は見惚れてしまった。なにしろ信長は男根をたたいて踊るようなおどけ者の家来が気に入ったり、晩年も南蛮憎が献上した黒人を珍重がり、
−まさか墨を塗っておりはせぬな。
とわざわざ湯に入れて試し、まぎれもなく天然の皮膚だと知るといよいよ可愛がり、ついには弥助と名づけて太刀持ちにしたほど、この種の癖のある男である。
 信長の顔はだんだん好奇心ではち切れそうになり、
 「汝は、何ぞ」
 と叫んでしまっていた。
 猿の演技は、完了した。平伏し、地に蝶の立つほどの大声で自分の亡父が織田家の足軽木下弥右街門であったこと、継父が竹阿弥であること、すでに嘆願の筋は足軽組頭浅野又右衛門であるこ。となどを朗々と述べ、
 「−なにとぞ」
 と、泣くように叫んだ。
「御小者のおはしにお加え下され、お草履を取らせて頂きとうござりまする」
 (妙なやつだ)
 信長の顔はすでに前方の天にむき、馬を打たせて行きすぎてしまった。
 が、帰城してめしを食っていると、箸の合間々々にあの妙な顔が浮んできて、だんだん惜しくなってきた。
 「あの猿をさがせ」
  近習に命じた。
 彼等はすでに路傍で猿の口上をきき、浅野又右衝門という名が出ていたことから夜中、人を走らせて足軽長屋をさがさせると、折よく猿は一若の長屋に泊っていた。
 数日して猿は信長の草履取りになった。
 猿の運よいことに、ほどなく足軽の欠員ができたため、浅野又右術門の組子になり、長屋を一つ貰った。
  その欠けた足軽が、
 「藤吉郎」
 という名であったため、その穴を埋めた猿も自然織田家の習慣によってそう呼はれることになった。もっとも名だけで、足軽には姓というものはない。
 いずれにせよ、猿は織田家の水に適っていたのであろう、遠州時代とはまるで人がわりしたように生き生きと働きだした。
 織田家の熱風が陽気なせいか、例の鬱し顔も影をひそめ、年中罪のない法螺を吹いている剽軽者として長屋の人気者になった。猿の人生は一変したといっていい。
 法螺といえばこのころ、他の組の組頭で坪内玄蕃という顔利きの者がおり、この男が猿をずいぶん目にかけてくれた。猿もあまりの親切に恐縮し、
 「御礼の申しようもござりませぬ。されば他日天下を取りましたるときは、すかさずあなた様を家来として使いましょう」
 と熱情をこめて言いつのったから玄蕃も興醒めしたという噺がある。
▲UP

■信長と共通の発想法

<本文から>
 いや、この発想法は信長の影響によるものかもしれなかった。信長自身がつねにそういうあたりに発想点をおき、脳髄のその場所からあらゆる政略戦略を生み出し、家中の統御法もそのひどく商業的な場所から発想している。家柄や門地に一文の価値もみとめず、自分に儲けさせるものを好む。信長の発想がつねに他国の大名の意表に出るのは、頭脳の明敏さよりも発想点の置き場所のちがいであろう。
 猿はそれを機敏に察した。
 他の家中の者が依然として室町的な旧随意識のなかにいるとき、猿のみが信長のそういう発想点をさがしあてたのは、猿の天才というよりもこの場合やはり猿が商人のあがりだったからにちがいない。
 墨股の域外に、敵地である西美濃の平野がひろがり、大垣の城が遠がすみにかすんでいる。
 「奪らばや」。
と、猿はおもった。
 この墨股城外の村を二つ三つとれば千貫になるであろう。猿は蜂須賀小六に命じ、間断なく作戦させ、ほどなく千貫を越す新領地を得た。
 「猿は、やる」
 信長は、猿の報告に満足した。むろん、猿が切りとってきた土地のわずかな切れっぱしをよろこんだのではなく、猿の物の考え方に満足したのである。この物の考え方を猿がつづけてゆくかぎり、信長は猿を安心して使えるであろう。
「猿は、まるであきんどのようだ」
 信長はあとで笑った。信長自身そうであることに、当人は気づいていないらしい。
 後年の話になるが、すでに筑前守になっている猿は安土城で法螺を吹き、手を大きくひろげながら、「ほどなく山陽・山陰道を切り取ってみせます。しかしご恩賞などは要りませぬ。そのかわり九州攻めをおおせつけくださりませ。やがて九州は鎮定つかまつりましょう。すべて上様の御威光でございますからご恩賞は要りませぬ。ご恩賞のかわりに九州を一年だけ支配させていただき、その米の収穫を兵糧とし、上様の公達お一人を奉じ、朝鮮大明に攻め入らせてくださりませ。大明を上様の御領地として、それがしは朝鮮を治めさせて頂きとうございます」
 といった。朝鮮がほしい、などは、火星を貰う、というほど現実感がとぼしく、そのうえ信長の懐ろは痛まない。猿は信長から禄という資本を借り、その資本によって信長に儲けさせ、そのことをのみ考えつづけた。猿が主従の経済関係をこのように考えるのは、やはり鎌倉・室町体制いらいの武門の旧家にうまれていなかったからにちがいない。猿は自分のもつ行商人的考えで信長との関係を考えてゆくしかない。この点、猿も奇妙人であるし、それを受け入れる信長もほとほと奇妙人というほかはない。
▲UP

■調略の名人だが懐っこさと信義のあつさがあった

<本文から>
 「(織田家に仕官したが、美濃に対しては裏切りたくない)
 という感情が、半兵衝にある。ところがおどろいたことに、猿にはその微妙な心情がわかるらしい。ひとこともいわず、三日にあげずやってきては、
 「瓜を召せ」
 と言い、瓜をすすめるのみで、その話題に触れない。この男はどこで買ってくるのか、いつも真桑村の瓜をたずさえてやってくる。皮の肌が黒いほどに青く、剥いて歯を入れると肉の香気が鼻腔に満ち、愛しいほどにうまい。
 「季節のものを食べるほどの法楽は世にござりませぬなあ」
 と、毎度、猿は天真爛漫な声をあげる。瓜を食っているときの猿の顔ほど、無邪気な顔はない。
 そのつど、
 (相当な人物だな)
 と、竹中半兵衛重治は思わざるをえない。猿は、半兵衝に瓜を食わせるのみで、稲葉山城攻略の工夫をひとこともきこうとしないのである。
 猿は、人懐っこく、かつ信義にあつい。人懐っこさと信義のあつさは、猿の香気であり、もっとも重要な特徴であるように、半兵衛には思えた。げんに猿自身も、かつて半兵衛にいったことがある。
 「わしは、人を裏切りませぬ。人に酷うはしませぬ。この二つだけがこの小男の取柄でございますよ」
 といった。そのくせ猿は調略(謀略・外交)の名人というべき才器のもちぬしなのである。もし猿に人懐っこさと信義のあつさがなかったなら、おそるべき詐略、詐欺、陰謀の悪漢になったであろう。猿はそういう悪漢の才能をことごとく備えていた。ところがそれらの悪才を、猿は、その天成のあかるさと信義の厚さというたった二つの持ち前の徳でもって、もののみごとに実質に転換させているのである。
 信義のあつさという点では、たとえばこの墨股城を竹中半兵術にまかせっきりにして、猿は、ほとんど城に屠ない。
 (おれにその気があれば)
 と、半兵衝はおもう。この城をらくらくと奪れるではないか。半兵衝はほんのこのあいだまでは、猿の織田家の敵国人であった。いかに転身したとはいえ、日も浅く、気心も知れまい。であるのに猿は半兵衝にこの城をまかせっきりにして、せっせと外で仕事をしている。胆気の大きさというか、人を信ずることのあつさというか、人離れがしているというべきであろう。
(これが、この藤青郎の魅力だ。とにかく毛色が変っている)
▲UP

■信長は調略の才を認めた

<本文から>
 藤吉郎の場合、前述したように竹中半兵衛、蜂須賀小六などがそうであり、堀尾茂助のような少年でさえ、信長直参になっていた。この信長流の異凰な中央集権の軍事体制が、織田家の動員のスピードを類のないはやさにしていたし、その戦場行動を軽快にし、かつ、信長の号令が雑兵のはしばしにまでとどくもとにもなっていた。
 −加増は要りませぬ。
 といった猿の言葉の背景には、そうした織田軍団の特殊事情がある。加増してもらわなくても信長のめがねにさえかなえばおおぜいの与力を貸与され、大部隊を指揮することもできるのである。
 「猿、はげめ」
 と、信長は、そのことは一つをほうびにあたえた。信長のやり方であった。信長は後年、たれかの戦功を賞したとき、
 「これをやる」
 といって焼き栗を二つ三つあたえたことさえあった。信長の急務は、天下取りのために織田軍団の人数をふやすことに意を用いており、そのために家来への報奨を薄くした。これでも家来たちが我慢をしたのは、
 (いずれ、殿様が天下をおとりあそはしたなら、われらはどれほどの大身になれるか)
 という他家にはない希望があったからであった。織田家が天下をとる、という希望を、信長は家中に意識的にあたえた。とくに稲葉山城を略取した直後、信長は、
  天下布武
 という金印をつくらせ、公文書に用いた。家中の者は、猿だけでなく、わが身の薄禄をわすれて昂奮したのもむりはない。
 稲葉山城とその城下の井ノロの町は、信長の命令で「岐阜」と改称された。この時期から猿の家中での勢力は大いにあがったが、それはかならずしも戦功のせいではない−と前述した。その理由はひとすじに、猿の別の才能が信長にみとめられたからであった。
 調略の才である。
 (猿の調略は、捨てたものではない)
 信長は、おもった。亡父信秀以来、屍山血河の力攻をしても陥ちなかった稲葉山城が、猿の敵地におけるごく日常的な調略活動のつみかさねの結果、ころりと陥ちたのである。
 (妙な男だ)
 信長は、猿を見なおした。
▲UP

■悲痛な殿部隊の志願

<本文から>
 この場が、そうであった。信長は、馬も通りにくい琵琶湖東岸の山岳地帯が幸い浅井氏の属領程度であるところからこの経路をとって退却することに決めた。
 猿はたまたまこの信長本陣にいたが、
 −死を賭けるは、いましかない。
 と覚悟した。この戦場に残留しようと決めたのである。殿部隊になり、全軍の退却をたすけ、敵の追撃をくいとめ、ついには全滅するという悲痛な役割であった。百のうち一つも生還はできまい。
 「手前が」
 と、信長に申し出たとき、猿はさすがにその醜怪な顔が真赤になり、眼球が飛び出そうになるまで緊張していた。
 「かの金ヶ崎城に寵り、殿を相つとめ、敵の荒波を斬りふせぎまする」
 猿にすれば、このような経歴で身をかざらぬかぎり、一介の巧弁の徒、調略家としてしか家中で評価されない。前田又左衛門利家が、
 −武功をたてよ。
 と忠告したのはそこであろう。猿はその機会をうかがっていた。ついに来た、とはいえ、この申し出はあまりにもすさまじすぎた。猿が言いだしたとき、満座が息をとめ、感動することさえ忘れた。それほどに懐惨な役目であった。
 信長は、沈黙した。さすがの信長も、即座に返答しかねた。信長はこの猿を、抱きしめてやりたいような愛憐を感じたのは、このときが最初であったろう。
 (猿は、こういう男だ)
 信長の藤吉郎観が、このときに確立した。こういう実体さ、可憐さ、潔さがなければ、猿は所詮、ペてん師であったろう。それを信長は思った。ここ十年手飼いにし、人がましくしてやった礼に、狼はいま繊田軍の潰滅をふせぐための人柱になろうというのである。
 「猿、ゆるす」
 「あっ」
 猿は、平伏した。これが今生の別れになるであろう。猿はそう叫び、「御無事で、おすこやかに」と、あく強く信長の多幸を祈った。
 これには信長も閉口してしまい、馬に飛びのるなり、涙を横なぐりに拭いた。この種の涙を信長が流したのは、少年のころ、自分の悪行を諌めて切腹した傅人の平手政秀老人の死を知ったとき以来であろう。あのときは信長は悲しみ、城下を狂人のようにほっつき歩いた。
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