司馬遼太郎著書
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          春灯雑記

■仏教では自分の体のどの部分も所有物ではない

<本文から>
  仏教ではいっさいの″我″は固体的実体ではない、というのです。人間の迷いは、″我″が固体的実体だと思いこむことから生ずる、″我″もまた仮のものだ、という。
 またそのように思え、というのです。さらには″我″を無くすべし、「無我」こそ、宇宙の原理(仏)に一体化してゆくための実践の道である、というのです。
 私は、このような仏教思想が大好きで、二十歳前後からめ自分の支えでもありました。
 この仏教における「無我」の論は、臓器移植的な分野の中で申しますと、
 「自分の体のどの部分も、わが所有物ではない」
 ということになります。たれの所有物か。宇宙の原理が、仮の姿として自分の体や胃や骨髄や肝臓や皮膚や角膜といった形をとってあらわれているだけのものだということになります。たとえば、田中太郎という日本人五十二歳の所有物ではない、もし−ここが大切なところですが−自分の臓器を自分の所有物だと思った瞬間、かれは仏の世界から離れ、餓鬼道に堕ちるというものです。
 まことに、仏教はすっきりとした思想であります。
 しかし、上げたり下げたりしますが、かといって、仏教は田中太郎氏に対し、どうせよ、という倫理的課題をいっさい出して来ないのです。
 むろん仏教には、その体系としては第一義的ではない心の働きとして、利他とか慈悲とかの働きはありますが、しかし「わが所有ではないから、病める人達のために臓器を役立てたい」という積極的な倫理的強制性は、ただちに仏教からは出てきません。だから、仏教はどことなくだらしないのです.
 そのような、つまり人類の助け合いということは、多分にキリスト教の世界であって、仏教の原理に根ざしたものではないのです。
 日本には何十万人というお坊さんがいらっしゃいますが、その多くの憎が、「私が死んだら、私の臓器を、不特定のひとびとに役立ててください」という生前遺言をしておられるという話はきいたことがありません。
 そんなことをしても解脱(自力門)もしくは往生(他力門)のかんじん要にかかわやこいうことはないのですから。このようにみますと、仏教は思想として改造されないかぎり、手前勝手−つまりミーイズム−な宗教だということになります。 
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■日本の古くからの宗教的風土についてゆけなくなっている

<本文から>
 戦後に亡くなった人で、イギリスの数学者にして哲学者であったアルフレッド・N・ホワイトヘッド(一八六一〜一九四七)という人がいます。英国国教会の聖職者の子としてうまれた人です。神の存在を究極の非合理性(だから信仰がうまれるのですが)として積極的にとらえ(″絶対″を進んで肯定したのです)、人間の有限な言語をもってしては、神がなぜ世界をつくり、人間をつくったかについてはとらえようもない、としました。だから、そういう存在を信仰するというのは、「魂の冒険」(『観念の冒険』)だというのです。
 それこそ信仰というものである、というのです。むろん肯定的意味であり、この冒険によってのみ世界の有機的調和が保たれてきたし、これからもそうだ、というのです。
 こういう考え方が二十世紀になっても出るということが、キリスト教の歴史の偉大さというものでしょう。むろん、私個人は″魂の冒険″をしようとはおもいませんが。
 でありつつも、私は、死にあたって仏教の僧侶に立ち会ってもらおうとは思いません。死後、お経をよんでもらおうとも思いませんが、それでもなお、仏教が好きです。
 そうでありながら、たいへん論理から外れたようにうけとられるかもしれませんが、古神道も大好きです。諸霊主義から出発して、日本における神道ほど美しい項域をつくりあげたもの(宗教というより多分に慣習です)は、他に見られないのではないでしょうか。日本思想史の成功は、日本仏教より、奈良・平安朝あたりの神道こそそうではないかと思いたくなる瞬間があるほどです。むろん、これはすこし言い過ぎではあります。
 しかし、伊勢神官や宇佐八幡宮、あるいは都邸の小さな氏神の境内に入って、一種の宗教的閑寂を感じない人は、すくないのではないでしょうか。
 さきに、家の宗旨についてのべましたが、私自身が属している宗教はありません。しかし、
 「無宗教です」
というつもりはありません。宗教についてのこういう微妙な気分は、日本の多くの人々と私はおなじです。
 しかし、あたらしい文明のなかに私どもはすでに入っていて、しかも臓器移植と他者への臓器の提供という生命の課題が、日常の″事務″としておこりつつある時代心私どもはいます。
 生命は、科学が全能として扱うべきではないということも私どもは知っています.
 さらには、科学・技術という強力な文明が地球を覆いはじめたために、私どもは、否応なしに、地球人にされています.地球人の基本倫理が、隣人への愛であることも、私どもは知っています.
 この状況は、日本の古くからの宗教的風土についてゆけなくなっています。その風土に根ざした哲学的な合意が、″無宗教″的な私どもの問に、なんとかうまれて来ないものなのか、というのが、この話の結論です。
 風土的日本仏教の基本を整理しきってしまいますと、宇宙は空であるとともに光であり、生命というただ一種類の体系であるということです。生命ということにおいて、植物や微生物にいたるまで、自分や人間一般とすこしのかわりもなく、平等に生命を、そのかけらを、共有しているものであります。
 そこまでは、わかっています。しかもこれだけで十分だと思います。これ以上言えば、宗教や宗派になります。これだけの合意があれば、倫理については個々にまかせればいいのではないでしょうか。
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■東條英機という名には滑稽感がともなう

<本文から>
 東條英機(一八八四〜一九囚八)という名には、滑稽感がともなう。
 むろん、昭和史という暗澹とした時代を、いっそユーモラスにみたいという後人の衝動から出た滑稽感であって歴史の惨禍はそれどころではない。
 まして東條その人に諧誠精神があったわけではない。このひとにそんな高度な批評能力をともなう感覚などはそなわっていなかったし、たとえば明治時代の小学校教員のようにまじめで、篤実な小鼻のように働き者というだけの人だった。
 そういうひとが明治憲法による日本国をほろぼしたことは、たれでも知っている。
 しかし同時に、たれもそうは思っていない。東條が日本をつぶすほどにえらかった、などとは、むかしもいまも、たれもおもっていないのである。
 ドイツの場合、ヒトラ−一人に罪をかぶせることができるが、東條はヒトラーほどの思想ももたず、魅力ももたず、また世界を相手に戦争をしかけるにしては、べつだんの戦略能力ももっていなかった。
 その程度の人が、憲法上の−慣習もふくめた−あらゆる権能をにぎって、決断ごとに日本を滅亡にむかわせた、というのが、昭和史の悲惨さである。かれ自身、自分がやっていることが亡国につながるとは夢にもおもっていなかったのである。みじめこの上ない。
 机というものは単に木製か銅板製の物質にすぎない。ただ、日本では、官僚組織における机が、権限とそれなりの思想をもっている。厚生省某局某課の課長の机がその人の行動をきめるのであって、その机を前にしている個人の思想はさほどに機能しない。
 日本史には、英雄がいませんね。
 といったアメリカの日本学者がいて、じつに的を射ているとおもったことがある。この場合の英雄とは、始皇帝とかアレグザンダー、シーザー、ナポレオンといったもので、強烈な世界意識と自己への祭拝心、旧来のすべてを破壊してあたらしいものをおこす者、さらにはカリスマ性と戦法の一新という要素などをもつ存在のことかとおもえる。
 ともかくも、東條は前述の意味での机にすぎなかった。ただ、かれはある時期以後、首相の机と陸軍大臣の机と参謀総長の机をかきあつめ、三つの机の複合者としての独裁権をえた。ヒトラーの場合、ワイマール憲法を事実上停止することによって″国民革命″を遂げ、その政権を成立させたが、東條は明治憲法下の一軍事官僚という机にすぎず、その机が明治憲法下での内閣を組織し、明治憲法の手続によって対米宣戦を布告し、戦争を遂行したのである。
 すべて天皇の名においてやった。
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