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<本文から>
仏教ではいっさいの″我″は固体的実体ではない、というのです。人間の迷いは、″我″が固体的実体だと思いこむことから生ずる、″我″もまた仮のものだ、という。
またそのように思え、というのです。さらには″我″を無くすべし、「無我」こそ、宇宙の原理(仏)に一体化してゆくための実践の道である、というのです。
私は、このような仏教思想が大好きで、二十歳前後からめ自分の支えでもありました。
この仏教における「無我」の論は、臓器移植的な分野の中で申しますと、
「自分の体のどの部分も、わが所有物ではない」
ということになります。たれの所有物か。宇宙の原理が、仮の姿として自分の体や胃や骨髄や肝臓や皮膚や角膜といった形をとってあらわれているだけのものだということになります。たとえば、田中太郎という日本人五十二歳の所有物ではない、もし−ここが大切なところですが−自分の臓器を自分の所有物だと思った瞬間、かれは仏の世界から離れ、餓鬼道に堕ちるというものです。
まことに、仏教はすっきりとした思想であります。
しかし、上げたり下げたりしますが、かといって、仏教は田中太郎氏に対し、どうせよ、という倫理的課題をいっさい出して来ないのです。
むろん仏教には、その体系としては第一義的ではない心の働きとして、利他とか慈悲とかの働きはありますが、しかし「わが所有ではないから、病める人達のために臓器を役立てたい」という積極的な倫理的強制性は、ただちに仏教からは出てきません。だから、仏教はどことなくだらしないのです.
そのような、つまり人類の助け合いということは、多分にキリスト教の世界であって、仏教の原理に根ざしたものではないのです。
日本には何十万人というお坊さんがいらっしゃいますが、その多くの憎が、「私が死んだら、私の臓器を、不特定のひとびとに役立ててください」という生前遺言をしておられるという話はきいたことがありません。
そんなことをしても解脱(自力門)もしくは往生(他力門)のかんじん要にかかわやこいうことはないのですから。このようにみますと、仏教は思想として改造されないかぎり、手前勝手−つまりミーイズム−な宗教だということになります。 |
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