司馬遼太郎著書
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          草原の記

■農民のほうが草原への侵略者だったのではないか

<本文から>
 さきに、古代の長城についてふれた。
 長城の内側が−中国のことである−農耕文明であったために、文字と文章が発達した。
  その内側である漢民族帝国では、外側である北方について数多く書かれてきた。当然ながらその立場(農耕という立場)に拠って書かれ、北方はつねに醜悪であり、侵略者として印象づけられてきた。いわば、書き放題だった。
 以下の想像は、歴世の中国人に申しわけないが、むしろしばしば農民のほうが草原への侵略者だったのではないか。かれらは人口増加のあげく、つねに処女地をもとめ、旬奴の地である草原に蹌踉い出て、鍬をうちこむ。
 遊牧民は、草原の土を掘ることを極度にいやがった。
 草原は、動物のように生きた皮でおおわれている。その皮は薄く、しかも舗装されたように硬く、それによって、表土の下の土壌が風に吹き飛ぶことから守られてきた。
 さらには草が、根を網のように張ることによって表土をひきしめてきたのである。
 農民にはそういう頓着はなく、鍬で一撃してその表土を働砕してしまう。そのあと烈日が粉のようになった土を煎り、冬の風がそれを吹きとばして、ついには岩骨まで出るにいたる。ひとたび表土が吹きとばされれば、二度と草原はもどらないのである。
 農民が土を山研やすことは、天の、よろこぶところとされる。
 遊牧民の天は、それを悪としてきた。
 「掘るな」
 ということを旬奴や、その後のモンゴル人たちはおそらく言いつ.づけたはずであった。
 が、農業帝国の記録のなかでかれらの言い分が書かれたことはない。
 遊牧は、移動する。その移動はほしいままなものではなく、部族によって草原がきめられており、その場所は夏と冬の別がある。他部族によって自分の草原が侵されれば争闘がおこる。
 まして、一部族が、冬の草原として決めていたものを、秋が過ぎ、はるかに移動してきて、そこがすでに漢民族によって桝やされていたりすると、武力で駆逐せざるをえない。ついでに収穫物を没収した。旬奴と農民は、天を異にしているのである。
 さきに、大同という地名にふれた。
 このあたりはもとは遊牧民族の草原だったのである。
 いつのほどか農耕地となった。さらには趨の武霊王のころは旬奴をふせぐ最前線の基地になった。伺奴は、それを憎んでいた。 
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■農耕文明はまちを必要とした

<本文から>
 農耕文明は、まちを必要とした。
 なにしろ農耕文明は、物を貯えるという特徴がある。食物、布、金属、什器、さらにいえば過去や現在の収穫や分配のための記録、あるいは農耕のひまなときに読む書籍。
 古代中国をふくめてユーラシア大陸では城壁でかこまれた都市が発達した。そのあたりの田園を統べる政庁は城内の官魔に租税としての穀物を積みあげ、また商人は布などの商品をたくわえた。
 遊牧民は、古来、物を貯えない。
 不必要に多量な什器や衣類を持てば、移動ができなくなってしまうのである。このような累世の慣習のために、たいていのモンゴル人は物をほしがる心が削ぎおとされていて、むしろ日常かるがると移動することを愛してきた。
 とはいえ、歴史的モンゴル人は、金目のものとして宝石や金銀の装身具を持つことはあった。そういうものなら、移動の場合に荷重にならない。
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■貨幣経済で自給自足が建前の遊牧経済が崩れた

<本文から>
 モンゴル人の食生活は極度に肉食にかたよっているため、保健成分としてのビタミンCを欠いており、スキタイヤ旬奴以来、馬乳酒を大量にのむことによってその欠乏をかろうじてふせいできた。
 ところが買売城交易によって茶が手に入りやすくなると、生命の保持上、飲用が欠かせなくなった。このため、自給自足が建前の遊牧経済が、大きくくずれた。
 べつの言い方をすれば、買売城の清国商人は、茶をモンゴル人に売ることによって、遊牧という金銭無用のくらしのなかに貨幣経済を注入したといっていい。
 元来、モンゴル人は、一般的にいって貨幣をもたなかった。以後、かれらは茶を得るために、清国人の高利貸から、羊などを担保にして金を借りることになる。たちまち質草が流れ、つぎつぎに羊を手放すはめになった。
 人類における他の社会−たとえばヨーロッパや中国、あるいは日本−では、貨幣経済(流通経済)は人智の発達をうながした。それら他の社会では徐々に発達したために社会自体に免疫ができ、害よりも益が大きかった。
 一方、自給自足経済でやってきた社会ににわかに流通経済が入ると、劇薬が入ったようにひとびとのほとんどが落塊してしまう。十九世紀のモンゴル遊牧社会はまさにそうで、貧困が草原をおおい、買葡城の清国商人だけが肥えふとり、多くのモンゴル人は、牧畜という、唯一のよるべをうしなって流浪した。
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■共産革命でモンゴルは中国化して小さくなった

<本文から>
 その後、かれは中国共産党に身をよせ、日華事変中は毛沢東とともに廷安にいた。中国から日本勢力が去ると、ウランフーは中国共産党の後援下でモンゴル人を糾合した。
 ただし、内蒙古に独立国家をつくるというかれの夢は消え、自治という小さな現実に甘んぜざるをえなくなった。
 かれが王爺廟(ウランホト)の小さな草原にひとびとを集めたのも、中国共産党による人民共和国内部での自治政府をつくるためで、少年の日の大志はいわば中国化して小さくなった。あるいはマルクス・レーニズムという″普遍思想″のもとで、狭量な民族主義を克服したのかもしれない。
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