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<本文から>
さきに、古代の長城についてふれた。
長城の内側が−中国のことである−農耕文明であったために、文字と文章が発達した。
その内側である漢民族帝国では、外側である北方について数多く書かれてきた。当然ながらその立場(農耕という立場)に拠って書かれ、北方はつねに醜悪であり、侵略者として印象づけられてきた。いわば、書き放題だった。
以下の想像は、歴世の中国人に申しわけないが、むしろしばしば農民のほうが草原への侵略者だったのではないか。かれらは人口増加のあげく、つねに処女地をもとめ、旬奴の地である草原に蹌踉い出て、鍬をうちこむ。
遊牧民は、草原の土を掘ることを極度にいやがった。
草原は、動物のように生きた皮でおおわれている。その皮は薄く、しかも舗装されたように硬く、それによって、表土の下の土壌が風に吹き飛ぶことから守られてきた。
さらには草が、根を網のように張ることによって表土をひきしめてきたのである。
農民にはそういう頓着はなく、鍬で一撃してその表土を働砕してしまう。そのあと烈日が粉のようになった土を煎り、冬の風がそれを吹きとばして、ついには岩骨まで出るにいたる。ひとたび表土が吹きとばされれば、二度と草原はもどらないのである。
農民が土を山研やすことは、天の、よろこぶところとされる。
遊牧民の天は、それを悪としてきた。
「掘るな」
ということを旬奴や、その後のモンゴル人たちはおそらく言いつ.づけたはずであった。
が、農業帝国の記録のなかでかれらの言い分が書かれたことはない。
遊牧は、移動する。その移動はほしいままなものではなく、部族によって草原がきめられており、その場所は夏と冬の別がある。他部族によって自分の草原が侵されれば争闘がおこる。
まして、一部族が、冬の草原として決めていたものを、秋が過ぎ、はるかに移動してきて、そこがすでに漢民族によって桝やされていたりすると、武力で駆逐せざるをえない。ついでに収穫物を没収した。旬奴と農民は、天を異にしているのである。
さきに、大同という地名にふれた。
このあたりはもとは遊牧民族の草原だったのである。
いつのほどか農耕地となった。さらには趨の武霊王のころは旬奴をふせぐ最前線の基地になった。伺奴は、それを憎んでいた。 |
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