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<本文から> 「不服でござる。それがしの勝ちという証拠に、憲法殿の鉢巻きをごろうじあれ」
憲法の白い鉢巻きに血がにじんでいた。
「いや、相打ちであった。わしの眼にくるいはない。武蔵、そちの鉢巻きをみせてみよ」
伊賀守がいった。
たれの眠からみても武蔵の柿色の鉢巻きには血がにじんでいるように思えたが、鉢巻きが同色のためにそれとはよくわからなかった。
「おことわり申す」
武蔵は、ついに鉢巻きをとらなかった。
晩年になって武蔵は、若いころの剣歴を語るごとに、かならず、
「吉岡に勝った」
といった。あるいは真剣で戦えば武蔵の勝ちだったかもしれない。この仕合は「稽古仕合」だったために、たがいに木刀を相手の頭上の紙一重のところでとめている。自然、勝敗は検分役め判定にたよるわけだが、かんじんの伊賀守勝重は、元来が僧侶であり、家康にその教養と吏才をみとめられて立身した人物である。武芸の心得がなかった。京の名家の吉岡家の立場を考えて、相打ちにし、かつ武蔵の異議をとりあげなかったのは、京の市政官として当然の処置だったかもしれない。
武蔵と吉岡一門との仕合は、このとき一回きりでおわった。
ところが、武蔵の死後、かれの養子宮本伊織のかいた碑文などでは、武蔵は三度、吉岡家と戦ったことになっている。
まずはじめに、洛外蓮台野で吉岡家の惣領「清十郎」という者とたたかって清十郎即死。
つぎに「吉岡伝七郎」とたたかい、伝七郎即死。
三度目は、「吉岡又七郎」が門弟多数をひきいて合戦支度をし、洛北一乗寺下り松において武蔵を討とうとして果たさなかった、といわれてきた。
しかし吉岡家側から書かれたものには、右の三人の名前の者はおらず、しかも当主の憲法も又市郎も、天寿を全うしている。どちらが正しいのかは、いまでは知りようもないし、詮索するほどの重大事でもあるまい。 |
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