司馬遼太郎著書
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          新撰組烈士伝

■松原事件

<本文から>
 (わかった。野田は、土方の腹心やったな)
 それで答えが出た。土方は、なにかの都合で松原をひそかに葬り去らねばならぬ必要があり、その暗殺を柳剛流の野田治助に命じたのではないか。
 (野田なら、やりそうや
 前例がある。副長助勤武田観柳斎が薩藩に通じているという疑いで、竹田街道銭取橋の袂で斬られたのも、密命を下したのは土方歳三であり、下手人は、隊の剣道師範斎藤一と野田治助だったといわれている。七番隊組頭谷三十郎が、理由不明で粛清され、祇園石段下で屍を横たえていたという件の執行者も、野田だったという噂があった。
 (野田が、松原を斃そうと思って、いきなり背後から斬りつけた……)
 与六は、安西格右衛門の最初の血痕があったという大橋東端の欄干のそばに立ちながら、考えた。
 (ところが、松原忠司は泥酔していた。斬りつけられたとき、すぐ前へ飛んで身をかわしたが、そこは酔眼や。目の前の武士が、刺客にみえた。安西である。見境もなくその男を敵だと思って斬り下げた。最初は浅手だった。というのは、仰天した安西が、土手へ逃げ、河原へ逃ザる力をまだ残していたから。−松原は追うた。野田も、そっとあとに続いた。松原は河原で安西を斬った。事の意外におどろいた野田は、他日を期して、とりあえず身を潜めてその場から消えた)
 死骸を安西の家へ担ぎこんで遺族であるお茂代の顔をみたとき、人情で、自分が殺したとはいえなかったのだろう。
 ましてお茂代に好意を抱きはじめてからは、いよいよ自分が亡夫の仇であるとはいえなくなり、その自責の念から、必要以上にお茂代に親切にした。むろん、土州者が斬ったというのはそういう嘘をかくすための出まかせにすぎない。
 あのとき松原は赤あざの野田治助の存在に気付かなかった。気付かなかった一事でも、現場の松原はしたたかに酔っていた。
 (罪は、松原に斬りかけた赤きにある。松原はたしかに下手人やが、酒で胡乱が来ただけのことや)
 とほいえ、べつに証拠の薄い話だから、与六はこのままを土方に伝えるわけにはいかなかった。
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