司馬遼太郎著書
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          司馬遼太郎が描いた「新撰組」の風景

■新撰組の組織について

<本文から>
  いったい、こういう組織はどこから学んだのであろう。どうも新選組の組織は土方歳三がつくったようにおもわれるが、かれには洋式軍隊の素養はない。が、当時すでに幕府は洋式歩兵というものをもっていたから、又聞きながらもそういうものから機能的組織というものをあるいは学んだのかもしれない。
 そのような想像をしつつ、七、八年前、東京都下南多摩郡日野の石田という村にある土方歳三の生家をたずねた。歳三の生家は農業だが、石田の代表的な素封家で、村では当時もいまも「お大尽」というあだながついている。農業のほかに、打ち身の薬も製造販売していた。売薬の名前を「石田散薬」という。
 「原料はそこの浅川という川の河原でとれる草です」
と、土方家のひとが話してくれた。朝顔に似た草で、葉にトゲがある。この草を土用の丑の日に刈りとってすこし乾し、あとは黒焼にし、薬研ですりおろして散薬にする。その作業を歳三の当時、一日でやったそうで、そのためには村中の男女を動員せねばならない。刈る者、運ぶ者、干す者、黒焼のための作業をする者、薬研ですりおろす者、など作業別に人間を区分し、組織をつくりあげ、効率よくうごかしてゆく。その総指揮を歳三は十三、月のころからやらされていたという。それをきいたとき、これが新選組という機能体の原型ではあるまいかとおもった。すくなくとも、こういう体験が、歳三の組織感覚をそだてたであろうし、そういう点で他の武家育ちの者とはちがったなにかをもっていたにちがいないとおもった。
 ところで、副長助勤の「助勤」という奇妙なことばである。
 むろん、辞書にもない。
 これは新選組のこういう連中の造語かともおもったりしたが、のち他のことをしらべているとき、偶然、幕府の官学である昌平こうの寄宿舎の組織のなかにそういう役職名があることを知った。昌平こうの寄宿舎はいわば自治組織で、人望のある先輩格の者が舎長になる。それを補佐していくつかの部屋の責任者になる者が、舎長助勤というのである。
 (なるほど、そこからとったのか)
とおもったが、近藤も土方も多摩の百姓剣客のあがりで、昌平こうなどそういう最高学府とはなんの縁もない。ただ、新選組の草創期に山南敬助という仙台のひとがいて、この人がどうやら昌平こうと多少の縁があったらしいということに思い至って、ひょっとするとこれは山南の知恵ではあるまいかともおもった。
 新選組というのは官設の非常警察隊だが、そのやったことどもやその功罪はともかく、これほどまでの機能的組織をつくりあげたということのほうが、日本人というものを考えてゆくうえでより重要なように思われる。 

■近藤はよく遊んだ

<本文から>
 歳三の敵娼は、東雲大夫になった。
 島原は、江戸の吉原とならんで、なんといっても天下の遊里である。ことに、大夫の位ともなれば諸芸学問を身につけきせられているだけに非常な見識があり、客の機嫌はとらない。
 むしろ客のほうが大夫の機嫌をとり、その機嫌のとり方がうまいというのが、この町でほ通人ときれる。
 近藤ほ、なかなかの遊び上手だった。この島原の木津屋でも金大夫となじみを重ねているほか、一方でほ三本木の暴妓駒野に子を生ませたり、おなじ三本木で、植野という芸妓とも馴染み、これを天神の御前丞にかこっていた。
 それだけでほない。
 近藤は大阪へたびたび出張するうちに、新町のお振舞茶屋でもさかんに並び、織屋の泡えで深雪大夫という者が気に入り、大坂八軒家の新撰組定宿主人京屋忠兵衛が奔走して落籍せ、これを近藤が興正寺門跡から借りている醒ケ井木津屋橋南の屋敷に住まわせた。ところがほどむく病死し、その深雪大夫の姉に似ているというので、それを後釜にすえた。

■沖田総司の恋

<本文から>
 土方は、そっぽをむいている。(たれだ)と、かるはずみに囁くのは武士としての節度がゆるさない。
 娘が入ってくると、よしず張りの薄暗い茶屋のむかは、急に花やかにむつた。
と養女に頚いた。
 老女は、そのように注文した。
 実をいうと、土方ほ、先刻からむにも注文していない。腹と相談して餅ほどのものほ食いたくなし、かといってあまリ酒好きでないこの男は、求めて酒を注文する気にもならなかった。
 おれも、あもをくれ。
 と、小女に命じた。
 小女が、ぷっと吹きだしかけたが、土方にはわからむい。娘も、養女と顔を見あわせて唇を懸命に閉じていた。
 やがて、土方のそばに、あもがはこばれてきた。
 「なんだ、餅ではむいか」
 不服そうにむつた。あもとほ、京の女兄の幼児ことばであるとは、上方は知らむい。
 「へえ、お併どすゥ」
 小女がいうのを、土方ほ横っ面で聞いて仕方なくかあもを食いはじめた。
 娘は、その間、しきりと沖田に話かけて容態のことむどきき、
 「沖田様。このようむところまでお歩いになつていいのでしょうか。父は、お寝みになっているように、と申していたはずでごぎいますのに」
 (妙だな)
 餅を食いむがら土方ほおもった。沖田は、近藤や自分の知らないところで、別む生活をもっているようむのである。
 「ええ」
 顔をまたあからめた。
 「たまに、気晴らしだと思いまして」
 「いつもほ、お寝みでごぎいましょう」
 「寝んでおります」
 (なにを言っ7やがる)
 土方はおもった。昨日も、自分と巡察に出て、祇園車道で櫛屋太兵衛方に押し入って攘夷軍用金をゆすっていた浮浪の士三人を斬ったばかりでほないか。
 「それならよろしゆうございました。すると、ときどき、この音羽の滝まで、ご気分晴らしにいらっしゃいますの」
 「ええ、ときどき」
 沖田はしばらくだまっていたが、やがて勇を鼓したような勢いで、
 「八の日のこの刻ぐらいにきます」
  「 − 」
 お悠は、だまった。この敏感む娘ほ、すべてがわかったのである。

■五稜郭はおもちゃのようなものだった

<本文から>
 それにロシアのセバストポー山要塞にまねたというが、もしまねたとすれば(実際はまねにもなっていないが)プラモデルほどの規模でしかない。壁の高さはわずか二丈(六・〇六メートル)、堀は七間(一二・七二メートル)にすぎず、もし攻城軍が堀ぎわまで大砲をすすめれば堀も城壁もかるがると飛びこえて郭内に砲弾の雨を落下させることができる。おもちゃのようなものである。
 当時の箱館奉行竹内保徳が監督し、武田斐三郎というあやしげな西洋兵術通という者が設計したもので、実際は西洋式でも日本式でもなく一種のハッタリ設計で、戦闘の実理をかいもく知らない者が役所仕事でつくったものにすぎない。諸事そのように実体の威力のない形式主義が徳川時代悪というものだが、この五稜郭こそそのよ
い見本であろう。
 ここに榎本武揚以下の旧幕府脱走軍がこもって官軍と対戦したのだが、明治二年五月十二日、函館湾に進入した官軍甲鉄艦の艦砲の砲弾が三キロの射程をとんでことごとく城内に落ち、城兵の闘志をうばった。五稜郭はうそのようなあっけなさでおちた。
 われわれは五稜郭を見学するとき、当時の攻防を回顧して感傷にふけるよりも、むしろこのインチキくさい自称要塞というものを通して、当時の幕府や幕府役人というものがどういうものであったかを思うべきであろう。
 またこの程度の要塞をたのみとしていた榎本武揚というひとが、この一事をみるだけでも軍事能力のない人物であったことを知らねばならず、このような人物を信頼してその指揮にあまんじていた旧幕要人というもののあわれさも事のついでに知らねばならない。

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