司馬遼太郎著書
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          戦雲の夢

■盛親の柔弱なところが土佐二十二万石に影響した

<本文から>
 ある夜、盛親耕は田鶴の手足を動けないようにして、まず小袖を剥ぎ、下に襲ねたものを一枚ずつ剥いだ。田鶴は、最後の布がその下半身から除かれるまでは必死で抗ったのだが、ついに力をうしなった。盛親は灯あかりのなかで、田鶴の体を濁として見た。盛観の手が田鶴の女に触れた。それらは、盛観がいままで接したどの女よりも、みごとに成熟していた。田鶴のあどけなさを思うとき、むしろ盛観は裏切られたような気にきえなったほどである。
 しかし、盛観は田鶴の顔をみた。田鶴は泣いていた。大粒の涙をこばし、唇をまげ、まるで童女のような泣き方だった。やがて声を出し、ついには手のつけようのない泣き方で泣きはじめた。
(これほどりっぱな大人の体をもっているくせに)
 盛観はおかしくなった。この利口な娘は、明るくて子供っぽい自分の性格を、人一倍つよい羞恥心をかくす武器としてたくみに使っているようだった。
「泣きやめい。もうせぬわ」
 そこが、盛親の柔弱なところかもしれない。つい、田鶴の羞恥心をまもることに盛親は協力してしまった。男なら、田鶴の感情などはしんしゃくせず、カをもって田鶴の体を切りさくべきであったろう。女に対しても、また、土佐二十二万石の大領を率いて立つ場合にも、盛観のこの性格は微妙に働いた。しかし田鶴にすれば、そういうやきしさこそ、悔いなく好きだったのである。
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■先代元親がえらすぎたので家臣らは政治がわからなかった

<本文から>
 山伏はむろん変装である。実の名を高島備中守といい、近江甲賀郷の郷土であり、のちの世にいう甲賀忍者のことだ。いわゆる伊賀者のように身の軽い者ではなく、国に帰れば代々の所領と郎党をもつ蒙族だから、大名間の密使などに用いられる。同国佐和山の城主石田冶部少輔がさしむけたのであろう。
 (むろん、八歳の秀頼公のお智恵ではない)
 盛親は、重臣をあつめて評定をひらいた。
 「よいか。石和につくか、内府にお味方申しあげるか、それぞれの存念を申せ」
 一同の顔をみた。筆頭家老久武内蔵助、十市縫殿助、立石助兵衛、桑名弥次兵衛、香曾我部左近、宿毛甚右衛門、近藤長兵衛、斎藤与惣右衛門、蜷川杢左衛門、斎藤摂津守といった顔ぶれが、ならんでいた。どれもこれも土佐者らしいいっこくな顔つきだが、槍をとっての戦場の働きならともかく、こういう問題になると苦手のようであった。
 先代元親がえらすぎたのである。元親在世中はすべて長曾我部家のことは元親自身の考えから出るのみで、重臣たちは相談にあずかることがすくなく、そのために中央政治への関心がうすかった。たれもかれもが、だまっていた。盛観は、事のおこりから説明し、家臣の議論が出るところまで誘導しなければならなかった。
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■水口ノ関を無事に通った山内家との運の違い

<本文から>
 「おなじ水打ノ関でも、山内対馬守の家来市川岩見(山城)という使者は、みごとに通りぬけたというのが京大坂のうわさであるぞ」
 雲兵衛が報じてくるうわさに、そういう挿話まではいっていた。遠州榔棚で六万八千石を領す山内対馬守一豊(のちに長曾我部家の所領土佐に封ぜられた人物)は、家康に従って上杉征伐のために関東に従軍していたが、途中石田の挙兵をきき、家康への加担を決意するとともに、大坂屋敷にある妻子の身を気づかって、家臣市川石見を使者につかわした。
 石見は、水口ノ関で人止めをしているとき、熱田の神主の姿に身を変え、烏帽子をかぶり幣をもって、関所にはいった。番士は不審を覚えた。
 市川石見といえば山内家でも聞こえた蒙勇の士で、その顔は他家の者にまで見知られている。関所役人は色めきたった。
 「やあこれは神主にあらず、もとは若狭の市川と申し、対馬守の家人にて隠れなき精兵じゃぞ。からめとってあますな」
 石見、すこしもさわがず、というのが雲兵衛の文章である。「これは思いもまらぬことを承り候ものかな。市川某に似たるとは、熱田八剣のご神罰を蒙り候べし。熱田の禰宜に相違なし」と弁じた。番士の一人が進みでて、
 「問答までもなし。幸い、関所に石見を見知ったる男あり、その者を召せ」
 石見がその男と対面したところ、むかし故郷の若狭で武勇をみがきあった旧友だったという。男は石見をひと日みて、はたと膝をうった。
 「さても世にはよく似たる者もあるものかな。疑いもなく石見じゃ。ただし、石見には水月のもたりに太刀傷のあとがある。これが石見のしるしじゃ」
 調べてみると、傷あとはなかった。むろん、旧友が石見の急を救おうと思って打った芝居なのである・が、なおも番士の疑いが晴れず、「神主ならば祝詞をよめ」と要求したところ、石見は市川家に伝わった鳴弦の文をろうろうと読みあげた。鳴弦の文とは山伏作法のひとつだが、番士にそこまでの知識はなかったから、石見は無事通過することができたという。
 −運というものは奇妙なものだ、とのちに京の相国寺門前に隠棲した盛観は、このことをふしぎに思うことがあった。水口ノ関を無事に通った山内家は掛川六万石の小大名から一躍土佐十二万石をつぎ、関を通れなかった長曾我部家はその所領をうしなっている。
 盛親は、十市、町をねぎらい、その無能を責めなかった。
 (これが運というものだ)
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■盛親は関ヶ原で一瞬の決断を見送った

<本文から>
 九月十四日は、夜にはいって細雨がふりはじめた。雲兵衝からの注進によると、大垣城に滞陣していた三成麾下の西軍は、日没とともに西へ移動しはじめた。主決戦場を関ケ原にえらんだのである。大垣城を隠密に進発した大軍は、石田勢を先鋒とし、島津、小西、宇喜多の順で、無灯火のまま、馬に枚をふくませ、武者ひとりひとりが具足の草摺に荒縄をまき、闇夜を手さぐりで野口村から牧田への道をはうように進んでいるという。雨は、夜ふけとともにはげしくなっている。夜気にこごえながら、西軍数万の主力は、運命の時間にむかってぬかるみの道をのぼりつつあった。
 「−で、敵は動いたか」
 東軍は、大垣からほどもない中山道赤ノ宿に滞陣している。雲兵衛はくびをふり、
 「まだ」
 「動かぬのか」
 「手の者数人を伏せてござりますゆえ、いずれ左右があきらかになりましょう」
 雲兵衛は、具足もつけず、寸鉄もおびていない。髪はよもぎのように乱れたのをわらしべでくくり、よごれた野良着をまといつけていた。
 「さがって、火にあたるがよい」
 「いや、いま一度、赤坂の敵陣をさぐって参りましょう」
 雲兵衛はいきいきとした足どりで出て行った。よほど諜者が好きにできているのだ。合戦がはじまるまでの山野を、寸刻を惜しんで、この男は魔性のように駈けまわるのである。
 物見は、敵方だけでなく、おなじ南宮山の味方のほうへも出してあった。間断なく物見がもどってきては、報告してゆく。が、どの報告も、判でおしたように同じであった。山頂の毛利、吉川は動かない。山腹の各所に布陣している安国寺恵瓊、長束正家の凍も、雨に垂れたまま、動きそうもなかった。
 盛親は、焦燥を覚えはじめた。毛利の動きにならうといっても、文官あがりの安国寺や長束ほど泰然とはできないものが、血のなかにあった。何度、兵をまとめて西軍の主力に合しようと思ったか知れなかった。このとき、盛親がみずからの行動に決断をくだしておれば、関ケ原の戦いの帰趨は、どうなったかわからない。関ケ原の勝敗は、紙一重の差で石田方がやぶれた。しかし、長曾我部勢六千六首騎が阿修羅のはたらきをすれば、勝運ははたして、なお家康のほうにかがやきえたか。−と、盛観は、後年、この機会をなすことなく踏みはずしてしまった自分の不運を悔いることが多かった。五十年の人生に、人は、たった一瞬だけ、身を裂くほどの思いを
もって決断すべき日がある。盛親の場合、その一瞬を見送った。
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■盛親は自然の流れに任せてきた

<本文から>
 (おろかろなことだ)
 と盛親はおもった。そのような安住よりも身を焼くような苦悩のほうをおれはえらぶ、とおもった。
 (が、身を焼く苦悩とはどういうものだろうか。考えてみれば、それきえ自分にはないではないか)
 それは、妙な実感だった。
 盛親は、崖の松さえつかんでいない自分にはじめて気がついたのである。自分を救うために足掻いたことはなかった。かつて一度もなかった。ただ自然の流れに任せて長曾我部家の世子になり、土佐の太守になり、きらにその位置から消えた。一度といえども太守になるために努力をしたことはなく、太守の位置から落ちまいとあがいたこともなかった。林豪は人はたれでも断崖の松をにぎっているといったが、うまれつきそういうものをにぎったことのない自分に、盛親はいま愕然と気づいたのだ。
 (なんということだ)
 長曾我部盛観といえば、かつては諸侯の世子のなかで、出色の者であるといわれた。その武勇と才質において卓抜した天稟をもってうまれた。それがただ、なすところもなく三十余年を生きてきたにすぎないのではないか。
 (おどろいた男だ。おれは)
 自分をふりかえれば、見たこともない動物がそこにいるように思われた。
 (おれはいったい何者だ。おれの人生はどう作りあげねばならないのか)
 が、すでに遅かった。いまになって気づいても、すべてが失われている自分になにをするすべがあるのだろう。
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■盛親ら牢人は大坂の陣で侍としての命の捨てどころを見つける

<本文から>
 「それは、わしにもげせぬことだな」
 盛観は、ひとごとのように笑った。事実、盛観はふしぎでならない。目日のある者なら、もはや東西の勝敗のめどはつくはずなのである。いったんはこの城に運命を賭けて入城した諸国の牢人も、先が見えた以上、休戦をさいわい、さっさと追城すればよさそうなものなのに、ほとんどの者は身動きもしなかった。ばかりか、冬ノ陣このかた、なおも新規に入城してくる牢人が絶えないのである。
 「城衆には死神がついておるのじゃよ」
 林豪がいった。
 「かもしれぬ。−関ケ原このかた」
 と盛観が、おのれにつぶやくように語りはじめた。
 関ケ原ノ役で西軍が敗け、牢人が町や野にみちた。かれらはその後、身の浮かぶことをねがい、ひたすらに合戦のある日を待ちこがれてきた。が、不幸にも、その後十数年も平和がつづいた。待ちくたびれて老い朽ち、病死する者もあり、百姓商人になるものも出た。こんにち城内にある牢人衆は、生活にひしがれつつも、かろうじて生きのびてきた者ばかりなのである。この籠城は、かれらの不運な生涯における最後の機会だとたれしもが考えていた。たとえ大坂が敗けるとわかっているにせよ、城を出る気にはなれなかった。出たところで、かれらにはろくな生活が待っていないのである。
 「この牢人どもには」
 と盛親はいった。
 「仕官にありつきえている世の武士どもの幸運への憎しみがあるのだ。この気持、武士でなければわかるまい。関ケ原の敗戦以来、どの牢人にも自分の運のなきは身にしみてわかっている。こんどの大坂の籠城は、運のよい者へ、運わるき者たちが、ねた刃を研いできた遺恨の籠城といえるだろう。これしか生きる通がないのだ。かれらが望んでいるのは勝って禄にありつきたいというよりも、・むしろ、ともかく侍として世を終えたいということなのだ」
 「妙な人間のあつまりじゃな」
 「それが、侍というものらしい。わしは、そういう牢人どもに推きれて棟梁になっている。入城したころは、十に一つでもこの合戦に勝って長曾我部家を再興したいと考えていた。しかし、いまはあの牢人どもに、侍としての命の捨てどころを得きせたいとのみ思うようになっている」
 「いわば、死神の棟梁じゃな」
 「うむ」
 「やめたわ」
 と林豪は、いった。
 「わしはおぬしを説教して城をぬけ出きせようと思うてやってきたが、死神どものおもりをしている以上、棟梁みずからがぬけ出すわけにはゆくまい。やめた。ひとは、おのおの自分の気に入った生き方で世を送るのが仕合せのいちばんじゃ。事がここまできたからには、他人がとやかくいうこともない」
「和上、酒でものむか」
 「いや、大野修理亮どのに用がある。今夜は大野どのの屋敷でとまるゆえ、お里だけをのこしてゆこう。明朝、むかえにくる」
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