司馬遼太郎著書
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          戦国の女たち

■寧々は的確に人事を口をだし秀吉も重んじた


<本文から>
 秀吉は成政などよりも天下を平定しようとしていた。成政ですら殺さなかったという評判は大いに天下をかけめぐり、それを伝えきいた諸国の対抗者たちはわが城をひらき、弓を地になげすててつぎつぎに服従してくるであろう。そのことの効果を、秀吉は期待した。この効果を大きからしめるために、成政に越中の一郡をあたえた。これだけでも世間は驚倒した。さらにひきつづき九州征服後、日本でもっとも膏沃な国とされている肥後五十余万石を秀吉は成政にあたえた。
−なぜ、これほどまでの厚遇をうけるのか。
 と成政は思案し、この男なりにやっとなっとくしたのは寧々の存在であった。秀吉に降伏したあと、成政はしばらくお伽衆として秀吉の側ちかく勤任していた。そのころ寧々にも拝謁し、またおくりものをも贈った。
(この婦人を、おろそかにできぬ)
 という配慮は、成政にある。いったんは敗残した男だけにその種の感覚はむしろひとよりも鋭くなっているともいえる。豊臣家の人事にもっとも大きな発言権をもっている人物といえば、謀臣の黒田如水や創業以来の先鋒大将の蜂須賀正勝などではなく、この北ノ政所であることを、成政も知っていた。
 加藤清正や福島正則を長浜の児小姓のころから手塩にかけ、その人物を子柄のうちから見ぬき、はやくから秀吉に推挽していたのは彼女であるという噂もあり、他のその種のはなしを成政は多くきいている。秀吉も、彼女の人物眼には信用を置いていたし、つねづねそれを尊重し、その意見をおろそかにしなかった。藤吉郎のむかしにさかのぼれば、豊臣家は秀吉と彼女の合作であるとさえいえるであろう。
 寧々は陽気な性格で、しかも容体ぶらず、いささかも権柄ぶったところのない婦人であったが、しかしただひとつの癖は北ノ政所になってからも草創時代と同様、家中の人物について評価することを好み、人事に口出しすることであった。しかもその評価に私心が薄く、的確であるという点で、秀吉もそれを重んじ、ときには相談したりした。自然、彼女の威福ややさしさを慕う武将団が形成された。前記加藤清正や福島正則、それに彼女の養家の浅野長政、幸長父子などはそのサロンのもっとも古い構成員といえるであろう。
 佐々成政が、自分の数奇なほどの栄達が、あるいは北ノ政所の口ぞえによるものであろうという想像をしたのも、この豊臣家にあっては不自然ではない。
 (なぜあの婦人が自分のような者を好くか)
 という理由も、おぼろげながらわかる。寧々の男に対する好みにはあざやかなくせがあり、殿中での社交上手な人物よりも戦場での武辺者に対して評価があまい。男のあらあらしさと剛直さを愛し、たとえかれらが租豪なために失敗を演じたとしても、彼女はむしろその失敗を美徳であるとする風があった。 
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■寧々は最高位の栄達に達しても人柄がくずれなかった

<本文から>
 豊臣家主婦としての寧々の地位はいかなる時代のどの婦人にもまして華麗であった。
 秀吉が内大臣になったとき彼女は同時に従三位になり、さらに進められて天正十五年には従二位になった。つづいてこの年の九月十二日、彼女は姑の大政所とともに大坂から京の聚楽第に移ったが、このとき秀吉の好みでととのえられた道中の行列、行装は、史上、婦人の道中としてあとにもさきにも類のない豪華さであった。女官の供だけで五百人以上にもなったであろう。輿が二百挺、乗物が百挺、長櫃以下の荷物の数はかぞえきれない。これに従う諸大夫と警固の武士はことごとく燃えるような赤装束で、いかにもこの国で最高の貴婦人の上洛行列を装飾するにふさわしかった。
 しかも、沿道では男の見物は禁じられた。僧といえども、人垣にまじることは禁止された。理由は、かれらが若い女官の美貌をみて劣情をおこすかもしれぬことを配慮したがためであった。ひそかに想うことすら、北ノ政所に対する不敬であるとされた。この行列は評判をよび、天下に喧伝された。北ノ政所こそ日本国第一等の貴婦人であるという印象が六十余州にゆきわたったのは、秀吉が演出したこの行列の成功に負うところが大きい。
 翌十六年四月十九日、つまり清正の肥後冊封より一月前、この「豊臣吉子」は従一位にすすめられた。すでに人臣の極位である。尾張清洲の浅野家の長屋で薄べりを敷いて粗末な婚礼をあげたむかしからおもえば、彼女自身でさえ信じられぬほどの栄達であった。
 「しかし、私が私であることにかわりはない」
 と、寧々はつねづね、侍女たちにいった。彼女の奇蹟は、その栄達よりもむしろ、そのことによっていささかもその人柄がくずれなかったことであった。彼女は従一位になってもいっさい京言葉や御所言葉をつかわず、どの場合でも早口の尾張弁で通した。日常、秀吉に対しても、同様であった。藤吉郎の嬶どのといったむかしむかしの地肌にすこしも変りがなく、気に入らぬことがあると人前でも賑やかな口喧嘩を演じたし、また侍女を相手につねに高笑いに笑い、夜ばなしのときなどむかしの貧窮時代のことをあけすけに語ってはみなを笑わせた。さらに前田利家の妻のお松などは岐阜城下の織田家の侍屋敷で隣り同士のつきあいをしていたが、その当時の「木種垣ひとえの垣根ごし」の立ちばなしをしていた寧々の態度は、お松に対してすこしも変らない。
「またとない御方である」
と、お松などはしばしばいった。
「北ノ政所さまは、太閤さま以上であるかもしれない」
 お松はかねがね、その嫡子の利長、次男利政にいった。
 このお松という、前田利家の古女房そのものが、利家の創業をたすけてきたという気概があるだけに尋常な女ではない。利家の死後は、
 「芳春院」
 というあでやかな法名でよばれ、加賀前田家では尼将軍ともいうべき権勢があった。これはのちの話になるが、利家の死後、前田家の帰趨について、いちいち寧々と相談し、いちいち寧々の意向に従った。その嫡子の利長にも、
 「すべては北ノ政所さまに従え」
 と訓戒した。となれば寧々のもつこの気さくさと聡明さこそ彼女の人気をつくり、それが豊臣大名のなかで隠然たる政治勢力をつくりあげていたということにもなるであろう。
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■たまは忠興の伝道によって切支丹への信仰が深まった

<本文から>
 忠興はすでに修道士がつとまるかもしれぬほどに聖書知識をもっていた。すべてたまにそれを口うつしするために出来あがって行った知識で、そのくせ忠興は依然として信仰をもつに至らない。かれのこの伝道の動機はたまを外出させて衆目に曝したくないというただ一つの目的のためであった。たまを邸内にとじこめ、できるだけの贅沢をさせた。たまが、世間の最先端の宗教を知りたいというがために、忠興がこのようにして − つまり親鳥が空中から小虫を獲ってきては仔鳥にあたえるようにしてそれを伝えた。が、忠興はたかをくくっていた。たまがまさか入信受洗するとはおもわず、あくまでもこれは彼女の知的娯楽のためであるとおもっていた。
 たまのおそるべき知的欲求は、天主の教えをより深く知るためにラテン語とポルトガル語を邸内で独習しはじめたことであった。これらの書物も、忠興が入手してきて彼女にあたえた。信じがたいほどのことだが、後年、彼女はこの二つの言葉の読み書きがポルトガル人同然の自由さでできるようになった。
 ところで、忠輿の滑稽さは、かれの洞察力では窺いきることのできぬ彼女の奥底ですでに切支丹への傾倒がはじまっていたことであった。もはや知的関心の段階はすぎ憧憬がはじまり、その憧憬の段階もおわり、彼女の信仰は小侍従と同水準か、それ以上に高まっていた。忠興はや知らなかった。
 忠輿のつくったいわば牢獄にいるたまは、かつて、
 −悲しむ者は幸福なり。
 というキリストの言葉を知ったとき、儒教よりも禅学よりも、この一語だけが自分を救いうるとおもった。傾倒の最初はこのことばからであった。父母とその一族をうしなってみずからも配所に移されたとき、たまはこの世で自分ほど不幸な者はないとおもったが、この言葉を吐いた人はおそらく生きている者の悲しみの底までなめつくしたひとであろうと思った。たまのキリストヘの傾斜は忠興がそうおもっているような思想的関心ではなく、キリストの肉声を最初から恋うた。キリストの生身への恋情であり、あがくようにしてキリストの肉声をより多く知ろうとした。これは忠興にはかくさねばならなかった。
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■薄田隼人正兼相と小岩

<本文から>
 小若は邸内の茶亭に適され、茶道の者の接待をうけた。やがて茶道の者がさがると、長身の兼相が入ってきた。いきなり、
 「小若」
と押し倒した。
 「な、なりませぬ。ひとが参りますほどに」
 「人ばらいをしてある。あのときは家来の者がいたゆえ、明かせなんだ。わしは、野里の住吉明神じゃ」
 「あの夜がなつかしゅうございます。もう一度、お会いいたしとう存じておりました」
 抱擁がおわると、兼相は小若を抱きおこし辛ずから櫛をとって髪をすいてやった。小若は、あれからのちのながい物語をした。
 やがて、陽が西へ傾いた。小若は兼相の胸にもたれながら、
 「このまま、小若をお屋敷に置いてくださるわけには参りませぬか」
 「わしも、そう思うた。が、いずれ戦さがはじまり、この城は天下の兵をひきうけて戦わねばならぬ。この逢瀬を最後にしたほうが、そなたの身のためじゃ」
 「あなた様とこのお城で死ぬならば、小若はいといませぬ」
 「そのことは諦めよ」
 茶事を出るとき、ふと小若が、
 「あなたさまがまことに、岩見重太郎さまでございますか」
 「ちがう」
と弱々しくいい、
 「そのようなことは、どちらでもよいではないか」
 小若をもう一度抱きすくめ、
 「わしは、住吉明神よ。そなたは」
 「一夜官女でございまする」
 「それだけでよい」
 「それだけでは厭」
 「ひとの一生というものは欲をいうてはキリがない。そなたは、姫路にかたづいてたとえ生涯前夫と連れ添うよりも、あの夜の思い出のほうが重いというた。わしもそう思うぞ」
 そのことばが、小若が記憶している薄田兼相の最後のことばになった。
 小若が紀州に帰ってほどなく大坂冬ノ陣がおこり、つづいて翌慶長二十(元和元=一六一五)年夏に、摂河泉三川の平野を戦場に、東西三十万の武者がたたかい、大坂の落城とともに豊臣家は滅亡した。
 薄田隼人正兼相が、五月六日早暁、軍兵四百をひきいて河内道明寺付近に進出した束軍の水野勝成、伊達政宗、松平忠明の諸隊とたたかい、鬼神のはたらきをしたあげく、水野勝成の馬廻りの士河村新八らに首を授けた、といううわさを小若がきいたのは、ちょうど屋敷の庭の栃の花が、前夜の嵐ではげしく地に散り敷いた朝のことであった。
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