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<本文から> 秀吉は成政などよりも天下を平定しようとしていた。成政ですら殺さなかったという評判は大いに天下をかけめぐり、それを伝えきいた諸国の対抗者たちはわが城をひらき、弓を地になげすててつぎつぎに服従してくるであろう。そのことの効果を、秀吉は期待した。この効果を大きからしめるために、成政に越中の一郡をあたえた。これだけでも世間は驚倒した。さらにひきつづき九州征服後、日本でもっとも膏沃な国とされている肥後五十余万石を秀吉は成政にあたえた。
−なぜ、これほどまでの厚遇をうけるのか。
と成政は思案し、この男なりにやっとなっとくしたのは寧々の存在であった。秀吉に降伏したあと、成政はしばらくお伽衆として秀吉の側ちかく勤任していた。そのころ寧々にも拝謁し、またおくりものをも贈った。
(この婦人を、おろそかにできぬ)
という配慮は、成政にある。いったんは敗残した男だけにその種の感覚はむしろひとよりも鋭くなっているともいえる。豊臣家の人事にもっとも大きな発言権をもっている人物といえば、謀臣の黒田如水や創業以来の先鋒大将の蜂須賀正勝などではなく、この北ノ政所であることを、成政も知っていた。
加藤清正や福島正則を長浜の児小姓のころから手塩にかけ、その人物を子柄のうちから見ぬき、はやくから秀吉に推挽していたのは彼女であるという噂もあり、他のその種のはなしを成政は多くきいている。秀吉も、彼女の人物眼には信用を置いていたし、つねづねそれを尊重し、その意見をおろそかにしなかった。藤吉郎のむかしにさかのぼれば、豊臣家は秀吉と彼女の合作であるとさえいえるであろう。
寧々は陽気な性格で、しかも容体ぶらず、いささかも権柄ぶったところのない婦人であったが、しかしただひとつの癖は北ノ政所になってからも草創時代と同様、家中の人物について評価することを好み、人事に口出しすることであった。しかもその評価に私心が薄く、的確であるという点で、秀吉もそれを重んじ、ときには相談したりした。自然、彼女の威福ややさしさを慕う武将団が形成された。前記加藤清正や福島正則、それに彼女の養家の浅野長政、幸長父子などはそのサロンのもっとも古い構成員といえるであろう。
佐々成政が、自分の数奇なほどの栄達が、あるいは北ノ政所の口ぞえによるものであろうという想像をしたのも、この豊臣家にあっては不自然ではない。
(なぜあの婦人が自分のような者を好くか)
という理由も、おぼろげながらわかる。寧々の男に対する好みにはあざやかなくせがあり、殿中での社交上手な人物よりも戦場での武辺者に対して評価があまい。男のあらあらしさと剛直さを愛し、たとえかれらが租豪なために失敗を演じたとしても、彼女はむしろその失敗を美徳であるとする風があった。 |
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