司馬遼太郎著書
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          関ケ原・下

■福島正則は三成への憎悪だけ家康に味方

<本文から>
 正則はさらに使いをやり、
「足下は清洲城での約束をきたなくもやぶった。いましばし城攻めを中止して拙者と勝負せよ」
と申し入れると、輝政もさすがにこの執拗さに手を焼き、辞を低くし、
 「昨暁、われら渡河のときいきなり開戦したのはわが本意ではなく、敵が鉄砲を打ちかけてきたためやむなく応戦したまでである。またこの城攻めも敵の大手門を攻めるつもりではない。大手門は足下が攻められよ。拙者は水ノ手口にむかう所存」
 と正則のもとに申し送ったため、正則の感情はいささか鎮まった。
 「三左めは、膝を屈しおったな」
 正則は天にむかって哄笑し、采配を振り、軍を旋回して大手門にむかった。奇妙な性格というべきであった。正則にとってつねに片腹痛いのは味方であり、味方への憎悪と競争心だけがこの男の行動の基準になっている。かれが東軍に加担したのも単に三成への憎悪だけであり、東軍最強の猛将として奮迅のはたらきをいま開始しようとしているのも、家康のためではなく、同列の先鋒大将池田輝政との競争心からであった。この奇妙人を眺めつつ、
 (上様は御運がよい)
 と軍中で思いつづけているのは、家康の代官井伊直政であった。直政は思うに、もし福島正則という男が東軍にいなかったら事態はよほどちがったものになっていたであろう。なにしろ東軍諸将はことごとく豊臣家恩顧の大名であるために、西軍との接触が近づくにつれて気持が当然重くなり、ついには戦意をうしなうか、あるいは一部で寝返りさえ出ようという危険を感じてきた。ところがその自然な感傷を、正則の暴風のような競争心が吹っとばし、諸将も正則の勢いにあおられて敵にむかって猪突しはじめた。東軍諸将の戦意をここまでひきあげた功績は福島正則の性格にあるといってよく、このゆえにこそ井伊直政は、
− 上様は御運がよい。
とおもったのである。
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■三成は最初の固定観念に、諸情勢・諸条件をあてはめたため破れる

<本文から>
「兵力を分散しすぎまするな」
 と、この大戦略をたてた当初、謀臣の島左近が首をひねって消極的な反村をした。が、積極的に三成の構想に反対する能力は左近にはなかった。
 左近の得意とするところは、局地戦闘の指揮にある。三万の兵を指揮して五万の敵と戦わせれば島左近ほどの勇敢で智略に満ちた指揮官はいないであろう。
 が、天下を両分してその一を持し、他の一に当たるという大戦略の構想は、なんといっても若いころから秀吉の側近にいてその戦略の樹て方、進め方をまざまざと見てきた三成の領分に属する能力であった。自然、こんどの一挙では、戦略は三成がうけもち、戦闘は左近がうけもつ、という分担になった。
 「これでいい」
 と、三成の信念はゆるがなかった。家康が出てくるまでに時間がありすぎる、と三成は観測している。それも不動の観測をくだしている。豊富すぎる待ち時間のあいだ、諸将を陣地で遊ばせておけば自然の惰気が生じ、敵に謀略をもって切り崩されぬともかぎらない。
 「なるほど」
 としか、島左近は言えなかった。左近にすれば丹後、近江、伊勢の田舎の小城を陥しているより、日本列島の中央平野における予定戦場にできるだけの兵力を結集しておくほうが急務ではないかと思うのみである。
 「なんの、家康はなかなか来れまい」
 という三成の観測が、あくまでもこの戦略の基盤になっている。
 「田舎の小城というが、それを攻めることによって烏合の衆が一つの心になってゆく」
 というのが、三成の意見だった。この寄り合い世帯の西軍の諸将をして弾丸の洗礼を受けしめることによって彼等の戦意を高め、団結をかため、亡ぶも栄えるももろとも、という共同運命感を盛りあげてゆく。百の政治論議よりも一度の合戦のほうが、かれらを固めさせる契機になるであろう。これが、石田治部少輔の戦略理論であった。
 「しかし、家康が、こちらの想像を裏切って早く来ればどうなさいます」
 「そういうことはない」
 三成は言いきっていた。敵が生き者である以上、敵の動きをそう言いきることはもっとも柔軟な思考力をもつべき戦略家としてあまりにも信念的でありすぎるのだが、この頑固さは三成の性格的なものかもしれない。ただしこの一戦に快勝すれば、三成はその不退転の信念と不動の覿測能力を理由に逆に好意的に評価され、日本史上最大の名将といわれるにいたるであろう。あとは賭偉かもしれない、と島左近はおもうのである。
 美濃の大垣城に入ってからも、島左近はなお疑問を提示した。
 「どうでありましょう」
 と左近はいうのだ。木曾川むこうの尾張清洲城に東軍諸将が集結している。家康の本草こそ来着しないが、来着せずとも、清洲結集の東軍はそれだけでも美濃の城々にいる西軍より大部隊であり、かれらが野戦軍として、二千三千の守備兵しかいない美濃の城々を攻撃すれば、すさまじい破壊力を発揮するであろう。
 「心配は要らぬ」
 というのが、相変らずの三成の覿測であった。観測というより信念であろう。信念というよりも自己の智恵に対する揺ぎなさが、三成の性格であったろう。三成が敬慕する秀吉や信長の場合、すべての情勢と条件を柔軟に計算しつくしたあげく、最後の結論にむかって信念的な行動にうつるのがやりくちであったが、三成の場合は最初に固定観念がある。その観念に、諸情勢・諸条件をあてはめてゆき、戦略をたてる。
 自然、その戦略は動きがとれない。
 (逆だ。−)
 と島左近はなんとなくそう危なっかしく思うのだが、それを駁論するだけの戦略感覚を左近は持ちあわせていなかった。左近はあくまでも名人肌な局地戦闘家なのである。
 ところが事能心は、一変した。
 木曾川むこうの尾張清洲城に屯集している東軍諸将が、家康も来着せぬのに、自儘に動きはじめたのである。
 「彼等が川を渡って岐阜城にむかった」
 ときいたときの三成の驚愕は、大げさにいえば天地が逆になったほどのものであった。
 「まことか」
 と、その報をもたらした者に、三成は何度かききなおした。ありうべからざることであった。事実とすれば、三成の固定観念はこの瞬間に雲散霧消し、戦略構想はその根本から音をたてて崩壊し去ったといっていい。
 「誤報だろう」
 と、正直なところ、三成は思った。当然、誤報であるべきだった。この自己の信奉者にとっては、そういう敵の動きは、敵こそおかしいのである。
  − 敵は間違っている。
 と三成は怒号したかった。しかし敵は三成にすれば間遠っているとはいえ、すでに木曾川を越えきってしまったのである。
 しかも、岐阜城を陥してしまった。
 この間、三成は自分のつまり石田家の兵を割いて援兵として送ったが、その程度の増援では焼け石に水であった。
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■三成はつねに受け身の反射

<本文から>
三成はそういって、秀家の旅館を出た。城にもどると、一同が騒いでいる。西方の天にしきりと火煙があがっているという。三成はいそぎ天守閣へのぼった。
 (なるほど)
 方角は西である。中山道垂井から関ケ原にかけて黒燻があり、すでに薄暮だけに火があかあかとみえる。ありようは、東軍の藤堂高虎が、そのあたりに滞陣するにあたって敵襲に備え、民家が敵の防秦に使われぬよう、せっせと焼き立てているにすぎない。
 が、三成は別の反応を示したく
 (佐和山城があぶない)
 と見たのである。なるほど美濃から近江佐和山に出る道が、垂井−関ケ原の中山道である。敵は美濃から一挙に三成の居城の佐和山を衝くのではないかと三成は考え、いそぎ階段を降り、島左近をよび、
 「おれはちょっと佐和山に帰る」
 と言いだした。
 左近はおどろき、わけをきくと、例の西方の火事である。左近もすでに望見して知っている。しかし敵に佐和山急襲の意図があろうとは思えなかった。
 (大変な、想像力だな)
 妙に感心した。その想像はいい。想像してうまれる反射が、三成の場合つねに受け身なことだった。たとえば敵の疲労を想像して夜襲を思い立つという積極的な反射ではなく、敵の放火をみて自城の防御を思い立つという消極的な反射では、戦さは主将の反射がするどければ鋭いほど受け身になり、ついには窮地に追いこまれてしまう。
 (頭のするどいお人だが、やはり素人だ)
 と左近はおもった。戦さは、頭脳と勇気と槻敏さの仕事だが、その三つがそろっていてもなにもならない。三成の場合、その三つは信長、秀吉とさほど劣らぬであろう。しかし致命的にちがうのは、三つを載せている資質だった。受け身の反応なのである。左近はそう思いつつ、素人だとおもった。
「あの火はそうとは思えませぬ。もし東軍が佐和山城を攻めるならそれこそ勿怪の幸い、宇喜多勢と手を合わせて敵に追尾し、背後から撃ち、佐和山城番の衆と呼応して敵を挟み討ちにすればよろしゅうございましょう」
「いや、気になる。戻ってみる」
「この夜中、陣を捨てて?」
 左近はあきれた。三成はこれだけの大戦さの準備で心気を労したあまり、気の病いにかかっているように思われた。
 「それほど気になさるなら、拙者が駈け行って参りましょう」
 「いや、わしがゆく。城の防ぎの手くばりを締めなおした上、死守せよ、と申してくる」
 「殿」
 左近は袴をとらえた。
 「すでに博打ははじまっております。佐和山の一つや二つ、お捨てなされませ」
 三成はふりきって支度をした。敵中を突破する以上、変装せねばならぬ。このため家臣に垢だらけの小袖、伊賀袴を借り、それを着用して供三騎をつれ、ひそかに大垣城を抜け出した。味方にもだまったままである。
 (やれやれ、気ぜわしいことよ)
 左近は首筋の凝る思いだった。いかに三成が小身者とはいえ、西軍の謀主であり、事実上の大将ではないか。
 暗夜の街道を駈けながら、三成もその点が物哀しかった。
 (これでも謀主か)
 と思うのである。家康はこんなことをしていないであろう。正式の指揮権をもたぬ、小身者のかなしさであった。
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■三成は情報収集であまい

<本文から>
 岐阜で家康は諜者を大垣方面に放ってみたところ、なお大垣の西軍陣地に変化がないことがわかった。ここにいたってもなお西軍は家康がほんの四、五里さきまで来ていることに気づかないのであろう。
 (おどろくべきうかつさだ)
 と、家康は敵の三成の力量を、この一事で知った。かつて家康の盟主であった織田信長や、小牧長久手の戦いの敵であった秀吉とくらべると、なんとあまい敵であろう。
 家康はさらに隠密をつづけるために、家康の存在を証拠だてる馬印、旗、戦鼓、伝令将校団、親衛隊などを夜陰ひそかに岐阜から発たせ、ひとあしさきに赤坂の前線へむかわせた。
 翌十四日、家康は夜明けとともに岐阜を出発し、赤坂にむかった。途中、西軍から寝返った稲葉貞通、加藤貞泰が出迎え、道案内をつとめた。
 長良川には、臨時の架橋がしてある。付近の鵜飼舟を七十艘ばかりあつめ、その上に板を敷き渡したもので、家康とその三万余の直轄軍はらくらくと渡った。
 家康は、駕簸である。途中、一人の憎がやってきて、大きな柿を献上した。
 「はや、大垣(柿)が手に入った」
 と家康はめずらしく冗談を言い、駕寵のなかからその大柿をころがし、
 「それ、大垣ぞ。奪いとれ」
 と、駕寵わきの小姓たちにたわむれた。
 途中、南宮山のそばを通ったとき、家康は駕寵の引戸をあけて山を見ようとした。
 (これが問題の山か)
 という興味がある。
 西軍に属する諸将のうち、毛利香元、安国寺恵竣、長束正家、長曾我部盛観といった諸将が、戦さの役にも立たぬこの高峻の上に陣をかまえ、謎の行動を示しつつある場所であった。彼等はおそらく勝敗をこの戦場の山で観望しつつ最後まで一発の弾も撃たぬつもりなのであろう。
 「これが、南宮山でござりまする」
 と、赤坂から出迎えた柳生宗厳が駕籠わきから説明したが、家康は先刻承知であった。
 毛利秀元軍二万が山頂にいる。それを山頂で縛りつけているのは、毛利軍の参謀ですでに家康に内応している吉川広家であった。
 (この布陣なら、動けまい)
 家康は安堵したが、なおも山上のほうを見あげようとし、駕寵を上へ傾けさせ、
 「かまわぬ。もっと傾けよ」
 とさらに命じて山頂や尾根のあたりの陣形を見きわめようとした。
 やがて家康は満足し、駕寵をもとどおりにさせ、赤坂にむかわせた。
▲UP

■三成は明敏な頭脳をもつが、つねに物の一面しかみえない

<本文から>
勝った、とおもった。じつは物見が霧のなかを駈けもどってきて、家康が桃配山に本陣を置いた、ということを告げたのである。
 家康にとって最悪の場所であった。
 三成は当初、家康がどこに本営をおくかということをあれこれと想像してみたが、どう考えても関ケ原の北方、菩提山山麓の伊吹柑のどの丘陵かをつかう以外に適当な場所はない。
 まさか、桃配山とはおもわなかった。味方が陣どる南宮山の一方の斜面ではないか。
 (あれほどの戦き上手が)
 信じられぬことではあったが、事実とあればこれほど味方にとって勿怪のさいわいはない。
 三成は大きく膝を打った。
 「勝った」
 三成の癖であった。これほど明敏な頭脳をもつ男が、つねに物の一面しかみえないのである。この場合も、なぜ家康ほどの千軍万馬の老練の将が、わざわざそんなところを本営に選んだかということを疑ってみようともしなかった。疑えば、
 −ひょっとすると南宮山の味方は寝返っているのではあるまいか。
 という疑問は当然うまれたであろう。が、三成の性格は、その思考力をつねに阻んである。自分に有利な、自分にとって光明になる計算しかできないのである。表裏あわせ読むという能力に、この男ほど欠けている人物もすくないであろう。
 「南宮山へ、狼煙をあげよ」
 三成は、明るすぎるほどの声で叫んだ。明るい、といえば、美濃にきて以来、三成はこの瞬間ほどあかるい表情をみせたことはなかった。狼煙の通信法は、すでに南宮山の諸将とうちあわせが済んでいる。狼煙があがればかれらは山をくだって家康の本官を衝くであろう。
 狼煙が、あがった。
 霧はすでに半ばはれているため、南宮山上の味方がこの黒い煙を見おとすはずがない。
▲UP

■島津豊久は三成に感情をもつれから戦わなかった

<本文から>
 戦勢は、有利であった。
 天満山の山麓では、字書多隊が余裕をもって福島隊以下をあしらっているし、この石田隊の前面の敵は何度か撃退きれている。
 (しかし、南宮山も松尾山もまだうごかぬ)
 いま山を駈けおりれば、味方の勝利はたれの目にも確実ではないか。
 三成は絶叫したくなり、それらの陣にむかって何度めかの狼煙をあげさせた。
 このころ、石田隊の広くもない前面の野は、敵の人馬で満ちはじめている。
 黒田長政、細川忠興、竹中重門、加藤嘉明、田中書政、戸川達安の諸隊だけでなく、戦場の中央部にいた佐久間安政、織田有楽斎、古田重勝、稲葉貞通、一柳直盛といった小部隊も、
 − おなじかかるならば、治部少の陣に。
 という気持もあって、ひしめきながら駈けあつまってきた。
 が、陣前の野がせまいために十分に働けず、また、柵内からの石田隊の射撃が激しいために近づくことができない。
 この戦場全般のふしぎさは、西軍はその兵力の三分の二が動かず、三分の一が死力をつくしてはたらいていることであった。その点、東軍は全力をあげて各戦闘場で馳駆している。実働実数でいえば西軍はほば四倍の敵に立ちむかっていた。しかも戦況はいよいよ西軍に有利なのである。(勝つ。−)
とは、三成はおもったが、しかしそれを決定的にするには、三成が足掻く思いでこがれているように、たった一つの条件が必要だった。不戦の味方が、その三割でもこの戦場に参加してくれることであった。
「島津隊は、なにをしている」
 三成は、悲鳴をあげるようにいった。それさえ、動いていなかった。島津隊は石田本陣の右翼、北国街道ぞいに布陣し、しかも一発の鉄砲も撃たず、族旗をしずめて戦況を傍観している。
「助左衛門、いま一度島津陣へゆき、出勢を催促せよ」
 と、三成は八十島助左衝門という物頭に命じた。すでに先刻、三成は同人を走らせて督促はしてある。
 が、島津豊久は、
 「諾」
 とうなずいたきり、依然として兵を動かしていないのである。
 八十島は、二度目の督促便として駈けだした。この男は三成の老臣八十島助左衛門入道という者の子で、平素弁口がすぐれ、他家への使いをよくする。しかし戦場の役に立つ男ではない。
 この男が、背に母衣をかけて駈けた。
 島津惟新入道、同豊久の心境は、この戦場のいかなる将の心境ともちがったものであった。むろん他の不戦諸将とはちがい、東軍へ寝返る気持はさらにない。
 戦闘は辞せぬつもりではいる。しかし複雑なことに、三成の指揮下で戦う気持をなくしきつていた。
「敵がわが島津の陣前に立ちむかってくれば撃退はする。しかし治部少のためには戦わぬ。もはやわれらは西軍の一環ではない」
 と、豊久はその配下にも言っている。惟新も豊久も、三成に対して感情をこじらせていた。理由は山ほどある。さきに大垣城外の戦線を三成が撤収したとき、前線の島津隊を置きざりにしたこと、ついで大垣城の最後の軍議のとき、島津豊久の夜襲案を一譲もなく蹴ったこと、などであり、さらにいえば、西軍のなかでもっとも武略すぐれた島津惟新を、三成はさほど優遇していない、ことなどであった。
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■小早川秀秋の裏切り

<本文から>
 「あれが、金吾様の御旗じゃ。あの御旗に狙いをつけて射ちあげよ」
 足軽たちは一列にならび、草の上に腰を据え、研敷の姿勢で銃尾を右股にあて、銃口を仰角にあおがせつつ操作した。むろん、鉄砲の射程は山頂までとどかないが、山頂の陣は家康の意思がどこにあるかを知るにちがいない。
 火縄をはさみ、火蓋をひらき、いっせいに引金をひかせた。硝煙があがり、銃声は天へ噴きあがった。
 「なにごとだ」
 と、山頂で、秀秋はかん高い声をあげた。
「指物に覚えがござる。あれは内府の鉄砲頭布施源兵衡でござりましょう」
 と、側近の者がいった。
 「なぜ、内府が」
 「督促でござろう」
 と平岡石見がいった。平岡は家康の意図を察したが、かといってここで即座に行動をおこす気にはなれない。が、秀秋のほうは顔色が変わっていた。
 「内府が、怒っている。石見、早くせぬか」
 「裏切りでござるか」
 「知れたこと」
 秀秋は、床几を掛って立った。平岡はそれをなだめていま一度腰をおろさせ、
 「されば采配つかまつりましょう」
 と言い、使番を集め、諸隊長へ伝うべき命令を記憶させた。
 「仔細あって、裏切る」
 というのである。使番たちはこの命令の意外さにおどろいた。
 「いまからいっせいに山を降りる。敵は、大谷刑部である。大谷が陣の背後、側面を衝け」
というのであった。使番に、命令の批判はゆるされない。かれらは四方に駈け散った。

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■三成は最後まで黒田長政の策に気がつかなかった

<本文から>
「なにをいう」
 三成は、背骨を立てた。頬は削げおちていたが、両眼に気塊をこめ、正則をにらみすえた。
「うぬのような智恵たらずの男に、おれの心のありかがわかってたまるか。そこをどけ。めぎわりである」と、ひくいが、しかしよく透る、底響きのする声でいった。三成は、自分の尊厳を維持することに、残された体力のすべてをつかおうとしていた。
「なぜ汝は」
 と、正則はさらにいった。死なぬ。切腹をせぬ。縄日のはずかしめを受けておる。とたたみかけたが、三成は蒼白の顔をひきつらせ、うぬに英雄の心事がわかるか、と、みずからをもって英雄とよんだ。「英雄たるものは最後の瞬間まで生を思い、横会を待つものである」
と言い、かつ、これは三成が声を大きくして叫びたいところであったが、
「人々の心の底を、この日で見て泉下の太閤殿下に報告し奉る。正則、心得ておけ」
 といった。要するに三成は戦いの渦中にあったがために、諸将の動きがさほどにはわからない。たれがどう裏切ったか、ということを見とどけた上で死ぬ。それを泉下の秀吉に報告する。かつ糾弾する。この病的なほどの、いやむしろ病的な正義漢は、そこまで見とどけた上でなければ死ぬ気にはなれなかった。三成は秀吉在世当時もその検察官的性格のために人人にきらわれたが、この期にいたっていよいよそれが露骨になり、いまや地にすわらせられながら、馬上の勝利者どもを検断する気塊だけで生きているようであった。
 「世迷いごとを言うわ」
 と、正則はついには言葉がなくなり、蹄で土を蹴って三成のそばを去った。
 つぎに来たのは、黒田長政である。この間ケ原の裏面工作の担当者は、三成の姿をみるや、馬をおり、三成の前に片膝をつき、
 「勝敗は天運とはいえ」
 と、意外な態度でなぐさめはじめた。五奉行の随一といわれた貴殿がこのお姿になったことは、かえすがえすも御無念であろう、といった。長政は三成を憎み、三成の肉を吹いたいとまでいった男である。それが三成の手をとり、その冷たさにおどろき、自分の着ていた羽織をぬいで三成に着せかけた。
 三成は、検断者としての言葉を失い、目を閉じ、顔を凝然として天にむけている。
 ついに三成ははずみをうしない、一言も発しなかった。この意外なやきしさが長政の性格でもあり、ひとつには関ケ原における長政の最後の策でもあったというべきであろう。ここで三成からよしなき罵倒をうけ、豊臣家への忘恩行為をあばきたてられて無用に男をさげるのは、長政のとるところではない。長政は、羽織一枚で三成の口を封じた。三成にすれば最後の最後まで長政の策に致きれおわったというべきであったが、三成の奇妙さは、これほど明敏な頭脳をもった男でありながら、長政に致されているとは気づかなかったことであった。
 その証拠に、長政が去ったとき、面を伏せ、
− かたじけない。
 と、つぶやくようにいったのであるいこの男の頭脳にはもともと政治感覚というものが欠けていた。
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