司馬遼太郎著書
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          関ケ原・中

■城の粗末さが徳川軍団の素剛さや蓄積ぶりをあらわす

<本文から>
  朝倉内膳もそう思ったらしく、左近をかえりみていった。
「家康はまさかこの城で戦おうとは思っていまい」
 事実、家康の日本制覇への構想のなかには江戸籠域の一項などはないであろう。
「この城をみても、家康の料簡がわかる」
 と、左近がいった。
「家康にとっていま必要なことは城普請で金銀米塩をつかうよりも、それをひたすらに貯めおいていざというときの軍資金にすることだ。城など、いかに粗末でもいずれ天下をとれば諸侯に手伝わせて一挙に壮麗なものにすることができるのだ。あの老人の利口さが、あの土塁やあの粗壁にもあらわれている」
 かといって、江戸城は他大名の城郭とくらべれば巨大である。家康は、自分の家来だけでも万石以上の大名級の者を多く抱えているのである。それらの江戸屋敷が、域の内外にびっしりならんでいる。
 左近たちは、その屋敷群をも観察した。
(感心なことに、どの屋敷も、田舎の地侍の館より造作が粗末だ)
と、左近はおもうのである。それは徳川軍団の貧弱さをあらわすものではなく、むしろ逆にその素剛さ、その資金の蓄積ぶりをあらわすものであろう。
(手ごわい)
と、左近は思いつつ下町のほうにゆくと、海浜がどんどん埋めたてられて街衝が出来てゆきつつある。
 非常な活気であった。都市の規模としてはまだまだ京大坂にくらぶべくもないが、町で活勤している商人、職人などの顔つきは上方の両郁よりもはるかに活力にあふれているようにおもわれる。
「庶人の数が、ふえる一方だそうだ」
 内膳はいった。諸国からこの新興都市をめざして馳せあつまってくる庶人の数は、あるいは増加率は京大坂をはるかに凌ぐであろう。
(庶人には勘がある。江戸へくれば職がある、物が売れる、という目さきの利益だけでなく、江戸がやがては天下の中心になることをかれらは皮膚で感じとっているのではあるまいか)
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■上杉景勝は自ら躾けて、外形、挙措動作、勇気、気概の点で謙信以上になった

<本文から>
 それほど無口なのである。多弁は結局、おのれの手のうちやはらわたを他人に見せてしまう、無口ならばそれがわからない。
−殿様はいったい何をお考えなのか。
家中の者さえわからなかった。景勝のそば近くに仕えている近習の者さえわからない。このため上杉家の家中の者の景勝を怖れるさまが尋常ではなく、みな汲々として自分の義務を遂行し、さだめられた統制に服従し、戦場では勝手に退く者はなく、みな生死をわすれて突撃した。
 ふしぎな大名というほかない。
察するに、謙信の遺臣というよりも弟子をもって任じている直江山城守が五つ年上の景勝をそのように訓練づけたものであろう。
「わが君は先代謙信公のお血をひかれているとは申せ、その神才までは継がれておりませぬ。されば謙信公の形のみひたすらにお真似あそばしませ。頭脳のほうはそれがしが引きうけまする。主従二人あわせれば、かろうじて謙信公に相成りましょう」
とは露骨に言わなかったであろうが、自然と景勝が悟るように仕むけて行ったにちがいない。景勝も人並以上の男である。直江の意を汲み、自分を自分でそう躾けて行き、ついには外形、挙措動作、勇気、気概、という四点では謙信以上の謙信になりおおせてしまったのであろう。
 その景勝を、正副二人の使者は、顔をあげてじっと見つめている。
(この男、何を考えているのか)
 景勝の表情のなかからそれを懸命に読みとろうとしていた。
 景勝は、渡された書状を黙読している。この書状は身分がら、家康が差しだした、という形をとっていない。景勝と親しい相国寺の僧承先の忠告書、という形式をとっている。が、内実は家康の詰問書であることにはかわりない。
 景勝は読みおわり、顔をあげた。眼光に凄味がさしたほかく結ばれたままである。
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■家康と捨て城の城将・鳥居彦右衝門との最期のシーン

<本文から>
「上方で石田三成が旗をあげるであろう。このことはまちがいない」
 家康は、一語々々、噛んでふくめるようにゆっくりといった。
 「石田は大坂で西国大名を掻きあつめ、まずこの伏見城に攻めてくるであろう。人数は十万、あるいはそれ以上かと思われる」
 伏見城は、陥ちるであろう。
 家康にとって、捨て城といっていい。その捨て城の城将として、この鳥居彦右衝門を任命しようと家康はしている。
 (律義者の彦右衝門以外の者には、この死城の城将はつとまらぬ)
 と、家康はみていた。奮戦のうえ玉砕すべき城である。もし利口者を域将にすれば巧妙に立ちまわって敵と妥協するか、降伏するかもしれない。
 (そうすれば徳川家の威信は地に落ち、後日の政略にまで影響する)
 彦右衛門ならば、負けるとわかりきった防戦を愚直に敢行し、死力をつくして戦い、三河武士の勇猛ぶりをぞんぶんに発揮して天下を戦慄せしめてくれるであろう。この任は、彦右衝門しかない。
「残ってくれるか」
 家康はさらに、彦右衛門の副将として、内藤家長、松平家忠、松平近正の三人を添える旨をいった。総勢およそ千八百人である。
「承知つかまつりました」
 と、彦右衛門は、顔色も変えずにうなずき、しかしながら、といった。
「どうせ陥ちる城」
 と彦右衛門は、大広間を見渡し、
「いま申きれた三人の助勢は無用でござりまする。かれらは会津陣にお連れなされませ。この城の寵域は彦右衝門ひとりで十分でござる」
 例の頑固さではげしく言い張ったが、家康にも考えがある。どうせ死戦とはいえ、彦右衝門の手が一手では五百にも足らず、城はあっけなく陥ちてしまい、これまた天下に徳川家の武威をうたがわれることになる。せめて何日かでも城をもたせるべきであろう。それには右の三人の助勢が必要なのである。
 その旨を説くと、
「なるほど左様なお吐か」
 と、彦右衛門はかるがるとうなずき、家康の説に賛同した。
〈ひとつ難がある)
 この城は故秀吉の別荘ともいうべき道楽城で、鉛弾の貯蔵があまりない。
「彦右衡門」
 家康は、思いきったことをいった。
「当城は太閤御存生のころから、天守閣にずいぶんと金銀を貯えられている。もし戦端がひらかれ、鉛弾が欠乏したとき、あの金銀を鋳つぶして弾として撃て」
「さてこそは」
 と、彦右衛門は膝をうった。
「それがし御幼少のころからお側ちかくに仕え苦労をかさねてきた甲斐がござる。それほどの御大度ならば、上様は天下をおとりあそばすでござりましょう。伏見城の金銀など、弾として撃ちつくしても、後目天下をお取りあそばせばいかほどでも取り戻せまする」
 夜に入って、家康はふたたび彦右衛門を奥座敷によび、酒をあたえ、さまざまの物語をした。彦右衛門はこころよく酔い、駿河流寓時代の話などをし、
「おもえば、ながい主従の御縁でござりましたが、これが今生で拝謁できる最後になりましょう」
 と、彦右衛門はさりげなくいって座をさがった。やがて廊下を退がってゆく彦右衛門の足音が聞こえてきた。この老人は三方ケ原の合戦でびっこになったため、足音が異様に高い。その足音が遠ざかってやがて消えたとき、家康は急に顔を蔽って泣いた。
 ちなみに筆者いう。
 彦右衛門のような型の三河者のいるのが、家康の軍団の特色といっていい。
 信長の軍団にも秀吉のそれにも、こういう気質の将士はいなかった。風土のちがいといっていい。
 信長は、尾張衆を率いていた。尾張は交通が四方に発達し信長のころから商業がきかんなため、自然、土地の気風として投機的性格がつよい。才覚はすぐれていても、律義、愚直、朴強といった気風にとぼしい。
 隣国ながら、三河は逆である。純粋の農業地帯で、流通経済のうまみをまったく知らない
 地帯といっていい。自然、信長の軍団の投機的華やかさにくらべ、家康の軍団には百姓のにおいがある。この気質からくる主従のつながりの古めかしいばかりの強勒さが、いま天下の諸侯をして家康の軍団を怖れしめている最大のものであろう。
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■家康暗殺より大合戦で儀を通そうとする三成の学問好き

<本文から>
 この日の、前々日のことである。
 湖岸の佐和山城の奥ノ間で、三成の家老島左近が、三成にしきりと弁じた。
「ご決意あそばせ」
 ということである。家康が東下の旅行を開始している。東海道を用いているため、途中、この近江の南部地方を当然、通過する。
「幸い、水口城は、長束大蔵少輔殿の御城でございます。この水口城を利用し、途中、一挙に家康を刺し殺し、天下の乱のモトをお摘みとりなされませ」
「大蔵少輔は、気の小さな男だ。はたして加担するかどうかわからぬ。たとえ加担しても小心な者はとかく事をしくじるものだ」
「なんの、手前がうまくつかまつる」
「さて、のう」
 三成は、煮えきらなかった。
「殿はなお、大合戦をお考えでござりまするか、天下真二つに割る、という」
「それしか考えておらぬ」
 三成は、派手好みな男だ。おなじ家康を討つなら、古今にない大合戦の絵巻をくりひろげつつ天下の耳目を聳動させ、堂々と戦場で家康を討ちとりたい。
「仕掛を大きくすればするほど、世道人心のためになるのだ。義はかならず勝ち、不義はかならず亡びる、という見せしめを、おれはこの無道の世に打ち樹てたい」
「ご無用なことを。戦さは世道人心のためにするものではござりませぬぞ」
(いつまで結ってもこの鞍は嘴が黄色い)
 左近は、にがい額で思った。三成はむかしから学問が好きで、ちかごろいよいよその傾向がつよくなってきている。物の考え方が観念的にするどくなり優っているかわり、それのぶんだけ、現実へそそぐ目がにぶくなっているようだ。
左近は、徹底した現実主義者である。
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■三成には電光石火のすばやさで事務を片づけてゆく能力がある

<本文から>
 三成には類のない能力がある。
 いぎ挙兵ときまると、電光石火のすばやさでその「事務」を片づけてゆくことだ。
 稀代の能吏といっていい。
 それに、計画規模がつねに全国的であるということだった。かれの脳裏には、日本列島の極彩色の地図がつねに存在している点、他の武将には類がない。
 かれと仲のわるい「野戦派武将」の頭目である加藤清正が、たとえ三成の立場になっても、その挙兵は地方的にとどまったろう。清正できえそうである。三成以外、家康をのぞくほかは、日本的規模において計画し、号令し、諸侯をうごかす能力をもった者はたれもいなかった。
その点、若いころから秀吉の秘書官として天下の行政、財務、人事を見つづけていたかれには、ものを六十余州の規模でみるという頭脳の訓練ができていたに相違ない。
 三成はその夜、大谷吉継、安国寺恵竣のふたりと挙兵の決定をしたあと、寝かせ、自分は寝なかった。
 すでに探夜である。
表書院に煌々とあかりをつけさせ、士格以上のすべてを召集した。
「好戦家康を討つ」
と 三成は、言明した。
頬が、血を噴くように紅潮しているのが、
「討って、豊臣家の御安泰をはかる。この一戦、成否は天にあり」
 と、三成の声はふるえはじめていた。
「予の一命の安否もいまは問題ではない。そのほうども、一命を予にあずけよ」
 これは、訓辞といっていい。三成は簡潔にそれだけ言い、十一人の家老をのこして一同をひきとらせた。
燭台がこの一群のまわりに片寄せられ、灯明りがいよいよ光輝を増した。
「そのほうどもに対しては、いままで議をつくしてきた。もはや論ずべきなにごとも残っていない。あとは予が命ずることを、そのほうどもは神速に実行してゆくのみである。されば」
 と、三成はこの挙兵に関する最初の命令を舞兵庫にくだした。
 「越後に一揆をおこさしめよ」
 それだけで舞兵庫には内容がありありとわかった。すでにここ数カ月、討議に討議をかさねてきたところである。
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■小早川秀秋への三成と家康の対応の違い

<本文から>
翌三年、秀秋は小早川家に入った。隆景は安堵し、毛利家の養子については自分の末弟にあたる穂田元清の子の宮松丸を入れて事をおさめた。
 秀吉の小早川秀秋に対する愛はなおもつづき、第二次朝鮮出兵では、この秀秋を自分の名代として総大将にしている。
 秀秋は朝鮮出陣中、おろかしい所業が多く小早川家の家臣たちを悩ました。軍法でも小早川家の慣習をまもらなかった。十六万三千という大軍の絶大将としての将器がないばかりか、ときに気負いだって士卒のように敵陣に駈けこむようなことがあり、在陣の諸将を当惑させた。
 その報告が、在陣中の七人の軍監から当時伏見城にいた三成の御用部屋に届いた。三成はそれを整理し、秀吉に報告した。
 秀吉は、激怒した。
「小僧をすぐ呼びもどせ」
 と命じた。このころの秀吉には栄華に呆けたところが多かったが、軍陣での不都合をゆるさぬという点では、少壮のころとかわらなかった。盲愛している秀秋に対してもこの点だけはかわらない。
 すぐ呼びもどし、叱責の上、筑前・筑後五十余万石の巨領をとりあげて、越前北ノ庄へ移し、わずか十数万石に減知してしまった。
 秀秋の旧領はそのまま豊臣家の直轄領ときれ、豊臣家の執政官である三成はこのときその事後始末に九州へ下向している。
 この間、秀吉が、「金吾の旧領はそのほうに呉れてやろう」といったが、三成は「遠国ではお城勤めが不自由でございます」とことわっている。ひとつには、
「三成めが謹言した」
 と世間に言いふらしている秀秋の愚にもつかぬ観測をこれで裏付けることになる。三成は
それを怖れ、
「佐和山の所領で十分でございます」
 と秀吉に返答した。
三成讒言説というものが世上にひろまったのには、無理からぬこともある。秀秋の在陣中の暴状を報告した七人の軍監のうち、福原直桑、垣見一直、熊谷直感は、三成がひきたててきたかれの与党の者であった。世間は当然、三成が秀吉に悪口雑言したとうけとるであろう。
「でなければ、あれほど盲愛なされていた金吾中納言を、上様があのように手痛い目にあわきれるはずがない」
 と世間はみた。三成の世間の評判は、これによっていよいよ悪くなった。
 損な立場、としか言いようがない。この男はむしろ小早川家に同情していた。減封によって小早川家では多数の牢人が出たが、三成はそれらを諸家に世話をし、自分の家には最も多数ひきとった。が、こういういわば美談は、世上に伝わらなかった。官僚としての三成の人徳のなさというものであろう。
 その点、家康は、なにが人の心を得るかということを知っていた。
 秀吉の死後、家康は豊臣家大老という職権によって、去年の二月、小早川秀秋の領地をもとの筑前・筑後五十二万二千五百石にもどしてしまったのである。
 理由は、
「太閤投下の御遺言により」
 ということであった。秀吉はそういう遺言はひとことも遺してはいなかった。
 秀秋は暗愚ながらもこの家康の思わぬ好意によろこび、
「内府のためならば」
 という気持を強くした。それまでこの男は家康とはなんの親交もなかった。家康のにわかな、それも過大すぎるほどの好意がなにを意味するものであるかは、むろんこの若者には洞察する能力がない。
 秀秋は、海路大坂に入るとすぐ登城して本丸で秀頼に拝謁してご機嫌を奉伺し、そのあと奉行衆にも会った。
(治部少づれが)
 と思っているこの若者は、三成のほうには視線もむけなかった。すべて三成の同僚の増田長盛や長束正家と会話をかわした。が、三成は厳にいった。
「よろしゅうございますな。このたびは秀頼様のご命令にて、内府を打ち懲らしまする。中納言様は御一門でありまするゆえ、公儀(豊臣家)のおん為に諸侯にさきがけてお働きあそばしますように」
 こういう一種の険をふくんだ言葉調子は、三成のくせであった。とくに秀秋に対してはそうであった。理屈っぽい番頭が、主家の放蕩息子をさとすような口調に、ついなってしまうのである。
 秀秋は、にがい表情でうなずいた。が、三成のほうは見ず、言葉もあたえず、石のように黙りこくっている。
 その様子をみて、三成はさほどの神経はつかわなかった。この豊臣家子飼いの官僚からみれば、豊臣家の権成で天下の諸大名は動くと信じていたし、まして秀秋は豊臣家の縁者であった。あほうは阿呆なりに、懸命に働くだろうと見ていた。
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■山内一豊の城を家康に差し出した功名の一言

<本文から>
そのあと、・こまごまとしたことがきめられたが、その席上、
「あいや」
 といってすすみ出た人物がある。忠氏の父の旧友山内一豊であった。
「申しのべたきことがござりまする。拙者の城はご存じのごとく海道筋の掛川にあり」
 と喋り出した内容は、今朝、忠氏が得意のあまりつい洩らした忠氏自身の秘計ではないか。
忠氏は、唖然とした。
「内府に、わが城と領地をさしあげる」
 というあのすさまじい発案である。
 家康も、この発議にはおどろいた。古来、こんなことを申し出て味方になった男もないであろう。
「対州殿、かたじけない」
 と、家康はなかば腰を浮かせて叫んだほどであった。これは家康が狂喜するに値いした。なぜならば、一豊の発議にたまりかねて、一豊と同列の海道筋の城主がことごとく城をさしだしたからである。
 忠氏も、そのうちのひとりであった。
 が、もはや遅かった。
 関ケ原ノ役後、山内一豊は戦場ではなんの武功もなかったが、このときのこの一言で掛川六万石から一躍土佐一国二十四万石の国主の身分になった。
 この論功行賞のとき、さすがの本多正信も家康の気前よきにあきれ、
「対州はなんの戦功もござらぬのに」
 というと、家康は、
「戦場での働きなどはたれでもできる。小山での山内対馬守の一言こそ、関ケ原の勝利を決めたようなものだ」
 といった。
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