司馬遼太郎著書
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          関ケ原・上

■大坂の繁昌は太閤のおかげでだと独断する三成

<本文から>
 「島左近こそ、武士の典型だ」
 とその死後、数百年の徳川時代を通じて武家社会から慕われた。徳川時代にこれほどの人気があるのはよほどのことであった。本来、島左近は、
 「打倒家康」
 の作戦本部長なのである。幕府にはばからねばならぬ名前ではないか。
 おもしろい話がある。
 秀吉が死んだ直後、ある日、石田三成は家来をつれて、大坂城の天守閣にのぼった。
 いうまでもなく、日本最大の建造物である。
 眼の下に大坂の町なみがひろがり、道は四通八達し、ゆききする人の姿が、蟻のように小さい。
「この町の繁昌ぶりをみるがよい」
 と、三成は、いった。
「故太閤殿下の偉大さがわ。かるではないか。むかし、この日本が青年にわたって乱れていたとき、故太閤出ずるにおよんで、群雄を一手にしずめ、五畿七道を平定し、この大坂に政都をもうけ、天下の民を安んじた。町をみるがよい。町民どもは、月々の暮らしをよろこび、あすの日また皇家の保護によってかくあらんとこいねがっているかのようではないか」
 遺児秀頼の世が、永世であることを町民はねがっている、と三成はいうのである。
 「いかにも左様で」
 と、側近たちがうなずいた。
 しかし島左近はだまっている。
 三成は気になり、
「左近、そうではないか」
 というと、左近は三成の側近をさがらせて三成を一人きりにし、
「いま申されたこと、正気でござるか」
 といった。
「正気だ」
「殿、頭のよい人というのは、自信がつよい。自信がつよければ独断が多い。独断は事をあやまる。いまいわれたこと、もし正気ならばばかげている」
「なぜだ」
 と、三成は、自分が主君ながら左近という男にだけはなんとなくあたまがあがらない。
「町の繁昌が豊家のおかげだと申されるのはあとかたもないうそじゃ。古来、支配者の都府というものに、人があつまるのが当然で、なにも大坂にかぎつたことではござらぬ。利があるから人があつまる。恩を感じてあつまるわけではない」
 さらに、いう。
「大坂が繁昌であると申されるが、それは都心だけのことでござる。郊外二、三里のそとにゆけば、百姓は多年の朝鮮ノ役で難渋し、雨露の漏る家にすみ、ぬかを食い、ぼろをまとい、道路に行きだおれて死ぬ者さえござる。豊家の恩、皇家の恩と穀はいわれるが、そのかけ声だけでは天下はうごきませぬぞ」
左近は、三成とはちがい、冷徹に時勢をみている。秀書は晩年にいたって外征をおこし、このため物価はたかくなり、庶人はくらしにくくなっている。きらにその外征中、建築好きの秀吉は伏見城をはじめ、無用の城、蒙邸をさかんに建て、民力をつかいすぎた。
「じつをいえば家康を討滅する秘謀の件は」
 と、島左近はいう。
「まだ早うござる。いま民力を回復させ、さらには外征から帰陣した諸侯や、故太閤の普請のお手伝いをした諸侯に休息をあたえ、十分に休めおわって豊家万歳の気持をおこさせてから、家康を討つ。もっともそれが理想だが、家康のほうがそれを待ちますまい。挑発をしかけてくる。むずかしさはそこにある。ただ申したいのは、殿のように豊家の恩だけで天下がうごくとおもわれるのはあまい、ということです」
左近は、そんな男である。 
▲UP

■秀吉と家康の関係はたがいに怖れ、機嫌をとりあった」

<本文から>
 豊臣の天下が安定し、秀吉がついに外征をはじめ、家康をともなって、朝鮮渡海の大本営である肥前名護屋城に滞陣していたころ、退屈のあまり、仮装園遊会をもよおした。
 瓜畑の上に仮装の町をつくり、旅寵、茶店なども建て、諸侯に仮装をさせた。こういう遊びをする点では、秀吉は天才的な企画者であった。
 会津若松九十二万石の蒲生少将氏郷が担い茶売り、旅の老憎が織田有楽斎、五奉行のひとり前田玄以が、長身肥満のいかにも憎さげな尼姿、有馬則頼が、「有馬の池ノ坊」の宿のおやじ、丹波中納言豊臣秀保が漬けもの売り、旅籠屋のおやじが、秀吉近習の蒔田権佐、その旅籠でさわがしく旅人をよびこんでいるのが、美人できこえた奥女中の藤壷。
 というかっこうだった。
 −家康はどうするか
 というのが、秀吉の関心事だったろう。家康は、鷹狩りと武芸以外は無趣味な男で、こういう企てを、どちらかといえばにがにがしく思っているはずの男だった。
 しかし、秀吉白身が、怪しげな柿色の椎子に黒い頭巾をかぶり、菅笠を背中にかけ、藁の腰簑を引きまわして、きたない瓜売りのおやじになっているのである。
(わしがこうしている以上、江戸内大臣もなにかせずばなるまい)
 とおもっているうちに、仮装の町の辻にでっぷりとふとったあじかへ土運びのザルに似たもの)売りがあらわれたのである。
 家康であった。いかにも不器用に荷をにない、荷をふりふり、
「あじか買わし、あじか買わし」
 と呼ばってきた。内心、おそらく不機嫌であったろうが、秀吉の機嫌を損じてはなるまいと思ったのであろう、必死に売り声をはりあげてくる。
 これにはどっと沸き、
  −そっくりのあじか売りじゃの。
 と目ひき袖引きする者が多かった。
 ともあれ。−
このふたりの関係は、秀吉もつとめたが、家康も哀れなほどにつとめた。たがいに怖れ、機嫌をとりあい、
(いつあの男が死ぬか)
とひそかに思いあってきたに違いない。もし家康がききに死んだとすれば、秀吉はえたりかしこしと理由を設け、その諸侯としては過大すぎるほどの関東二百十余万石の大領土を削るか、分割し去ってしまったであろう。
 しかし、すでに、秀吉のほうがさきに死ぬ。
 家康は内心、
 (勝負は、ついには寿命じゃ)
 とおもったにちがいない。
 しかも諸侯に対し、
  −秀頼様にそむくな。
 という誓紙をとる役まわりになったのである。この男は、その皮肉な役を、神妙に、世も律義な顔でつとめた。
▲UP

■三成の異常な正義心と弾劾癖

<本文から>
清正という人物は、舌戦練磨の将だけに、ひどく「功名上手」なところがある。
 第一次征韓ノ役のとき、小西行長が第一軍司令官、清正が第二軍司令官としてそれぞれ別路を北上し、「たがいに揉み進みながら、どちらが京城に一番乗りするか」ということで、はげしい競争になった。
 この競争は、清正が一日負け、かれが大軍をひきいて京城にちかづいたときには、城壁の上に小西の旗がひるがえっていた。
 −おのれ、やりおったか。
 と清正は歯噛みしたが、すぐ一計をめぐらし、その場から急使をきし立てて肥前名護屋の大本営にいる秀吉のもとに走らせ、
  − 何月何日、京城に入りました。
 と報告した。「真っさきに」とか「一番乗りにて」とかいううそをついていないが、かといって行長が何日に入城したという事実には一切触れていない。清正にとって幸いにも当の行長からの使者がも仁名護屋についていなかったため、秀吉はてっきり清正が一番乗りしたとおもい、
「虎之助め、やりおったわ」
 と、感状をあたえた。
「それは間違いでございます」
 と、三成がいちいち事実について調べ、秀吉に報告した。三成の異常な正義心と弾劾癖が、ここでもしつこくあらわれている。
 このほか軍状を調査し、
「作戦の失敗や食いちがいは、ことごとく清正の行長に対する非協力にありまする。このままでは統一作戦など絵にかいた餅で、敵側は日本軍の仲間割れをあざけり、よろこんでいます」
と、捕虜の証言までならべて、秀吉の判断材料として提供した。秘書官としては当然なことであったろう。
が、前線にいる実戦部隊の感情を害することはなはだしかった。)
▲UP

■三成は好ききらいが極端にはげしく、好きだとなるとぞっこん打ちこむ

<本文から>
余談だが、三成と島津家のつながりは、家康のばあいとくらべものにならぬほど古く、かつ深い。
 秀吉の島津征伐のとき、いまの竜伯そのころの島津義久はついに降伏に決し、頭を剃り墨染のころもを着、小童ひとりつれて山路を歩き、秀吉の本陣のある泰平寺の軍門にくだった。
秀吉はその降をゆるし、島津家が略取した九州諸地方の新領土はことごとくとりあげ、薩摩、大隅、日向のうちで五十五万九千五百三十三石だけは安堵きせることにして三成にその敗戦処分をまかせ、大坂へひきあげた。
 三成はこのころ、数えて二十八歳である。
 秀吉の退陣後、薩摩にのこり、秀吉の命令を的確に実行する一方、島津家のなり立つようにさまざまの温情をあたえた。
 おかしな男であった。
「へいくわい者」
 と世間でいわれる一方、好ききらいが極端にはげしく、好きだとなるとぞっこん打ちこむのである。かれは薩摩の人間風土と島津義久、義弘がよほど気に入ったらしく、
「事敗れて領土がせまくおなり遊ばしたが、それでも国が立つ法がござる。理財の道でござる」
 と、それまで領土拡張のみが能であった薩摩人に対して、新鮮な思想を吹きこんだ。それまで薩摩は薩摩領内だけの経済でしかなかったが、秀吉が天下をとって以来、それまで地方地方のみを天地にしてくらしてきた日本人が、天下を往来しはじめた。それにともない諸国の物資も日本的な規模のなかで動きだした。これは日本人が経験した、歴史はじまって以来の最初の体験であった。
 そういう時代なのだ、と三成は島津義久、義弘におしえた。
「お国の米も、お国だけで使わず、どんどん大坂へ回送してその市場で売りさばけばよろしい」
 と言い、その回送方法、販売方法、売りあげ代金の送金方法まで手をとるようにして教え、そのほか、あたらじい大名家め家計について三成は語り、「飯米、塩、みそ、薪炭、あぶらなどの台所用品は、小払い帳というものを作っておけば便利です」と言い、その帳の作成方法までおしえた。
▲UP

■三成は前田利家のような大将の一言がない

<本文から>
ところがその日から利家は寝こんでしまい、会議は年を越した。慶長四年正月七日、利家はようやく登城し、相役の大老である徳川家康をはじめ、中老(相談役)、五奉行の登城をもとめ、席上、この老人は無愛想なくらいの簡単な切り口上で、ずけりといった。
「上様のおおせ置かれたとおり秀頼様を奉じ大坂までお供つかまつる。以後、ご本拠は大坂ということになろう」
 と、それだけであった。奉行の浅野長政がすすみ出、日はいつでござる、ときくと、
「十日」
 といった。みなそのあわただしさにおどろいた。あと三日しかないではないか。浅野長政は、それは早すぎる、われわれは支度もできぬ、というと、
「さればきょう陣触れの太鼓が鳴っても、弾正(長政)殿は支度がととのわぬと申されて人数を出きれぬのか」
 と、利家はいった。みな沈黙した。家康はにがい顔でだまっていた。
 ところが意外な故障がおこった。かんじんの淀穀と秀頼が反対したのである。
「まだ寒い」
 というのが理由であった。せめて四月か五月、温かくなるまで伏見に居たい、と淀殿はかたくなに言い張った。しかし淀殿といえども利家という頑固者にはむだだった。
「おのおのは」
 と、利家はわざと淀投のほうは見ず、大蔵卿ノ局らその老女団にむかい、たったひとこと、底ひびきのする声でいった。
「上様ご逝去なされてまだ五カ月というのにはや御遺言にそむき奉るおつもりか」
 利家は、豊臣家の安泰をまもるみちは、秀吉の遺法、遺言を忠実にまもりぬく以外にない、と信じきっていた。語気にそれがあらわれていた。これには淀殿も沈黙せざるをえなかった。
 三成がその夜、下城してきて家老島左近を茶室へさそった。すでに夜ふけであったために、茶はたてずに炉で酒をあたためて主従水入らずで飲んだ。
 三成がきょうの穀中での利家老人の威厳のことを話すと、左近はひどく感銘し、
「さすが、加賀大納言は無駄には戦場を踏んでおられませぬな」
 といった。三成はそういう左近をおかしがって、口もとをゆるめからかうように微笑した。左近が好きそうな話だ、とおもったのである。
「お笑いあそばされるな」
 と、左近はにがい顔でいった。
「戦場で大軍を統率できるのは、ああいう仁のことでござる。ひとことで全軍が鎮まる。いまひとことで全軍が死地へ往く。加賀大納言はそういう呼吸を知りぬき、その呼吸をつかわれたまででごぎる。しかし」
 と、左近はいった。
「そのひとことを持っておるか、おらぬかで将か将でないかがわかり申す」
(わしはどうだ)
 という顔を三成はした。左近も無言で、さあ、というふうに首をかしげた。
 左近は三成の逸話をきまざまにおもいだしている。
 まだ秀吉が在世のころ、大坂付近に豪雨がふりつづき、ある夜、枚方方面で淀川の堤が決潰し、京橋口の堤防もあぶないという急報が、三成の御用部屋にもたらきれた。
 三成はただ一騎で本丸から京橋口の城門にあらわれ、近在の百姓数百人をあつめ、放胆にも城の米蔵をひらかせ、
「この米俵を土俵にして堤防を補強せよ」
 と命じた。百姓もどぎもをぬかれてたじろいだが、
「雨が去ったあとは分けて.とらせる」
 と三成がいったためにわっとむらがり、うわきをきいて近郷からも人数がかけつけ、たちまち応急補強ができあがった。そのあと三成はその人数をつかい、数日かけて本物の土俵できずきなおさせ、約束どおりさきの米俵はことごとく労役の人数にあたえた。
 左近はそのとき、あらためて三成という男の放胆と機転に舌をまいたが、しかしそれが三成の将器をあらわすものかどうか。
(すこしちがうな)
 と左近はおもった。利家老人にはそういう機智はないが、その人柄には例の一言の重みをそなえている。大将にはそれだけで十分で、その一言で数万の将士が躍動すればよいことであった。
(天下をとるまでの太閤には、きすがにそれがある。利家の一言のほかに、治部少輔さまの機敏さ機智がある)
▲UP

■三成の救いがたい観念主義

<本文から>
「暗殺」
 左近は言い、肩を落した。
 この男は、当節、信州の真田昌幸、上杉家の老臣直江山城守兼続とともに、
 「天下三兵法」
 といわれている。大軍を駈けひきさせては及ぶ者のない軍略家とされているのだが、刺客を放っての暗殺は軍略ではない。
「好むところではござらぬ。なぜと申せば、当方の非力、智恵のなきを白状するようなもので、そういう法はとりたくない。しかしこのまま、あの男の生命をとめずにいるならば、自然々々に秀頼様の天下はあの男のものになってしまいましょう」
 「いやだな」
 「暗殺が、でござるか」
「そうだ」
三成は、みじかく答えた。
「男としてなすべきことではない。まして将としてとるべき手段であるまい。左近、そなたはきほどに書物は読まぬ。わしは読む。だから知っている。書物とはおそるべきものだ。これは百世に伝わる。暗殺すれば百世の物笑いになる」
「では、どうなさるのでござるかな」
「戦野で」
 三成は、いった。
「堂々と雌雄を決するわ。鼓を鳴らし、旗をすすめ、軍略のかぎりをつくしてあの者とたたかい、而して勝つ。されば世間も、後世も、正義がかならず勝つ、ということを知るにちがいない」
 左近は沈黙している。かれは三成を愛し、この男のために死のうと思っているが、しかし三成の救いがたい観念主義だけはどうにも好きになれなかった。
(諸事、頭だけで考える)
 と、左近は三成の外貌のきわだった特徴である才槌頭を、ため息をつくような思いで見た。正義、義、などという儒者くさい聞きなれぬ漢語をつかいその漢語にふりまわされて、そこから物事を考えたがる。出てくる思案は、すべて宙にういている。
(人は利害で動いているのだ。正義で動いているわけではない)
 そこを見ねば。
 と、左近は思う。左近は無学で、仁義礼智、といったような事は知らない。しかしそういう道徳など、治世の哲学だとおもっている。秩序が整えばそういう観念論も大いに秩序維持の政道のために必要だが、
(しかし乱世では別なものが支配する)
人も世間も時勢も利害と恐怖に駆りたてられて動く、と左近はみている。
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■三成暗殺を止めた家康の度量

<本文から>
家康自身のことである。が、家康は、目に涙をうかべてそれをいった。
「治部少輔が、おのおの申されるごとく好物ならば、それがしも豊臣家の大老職に任じている者でござる。時節到来を待ち、大老の職分上、それがしが討ちます。そのときは、おのおのの御手も拝借しましょう。よろしいか」
 と、家康はそこで言葉を切り、一同の顔を見わたした。自分の言葉の効果をさぐるためである。一同、ある種の昂揚を感じさせるおももちで家康を見つめている。
 (これでよし)
 と、家康はおもった。三成を討つときはこの七人の猛将は、自分を信じ、無邪気についてくるであろう。
「しかし、いまはなりませぬぞ。なにごとも秀頼様のおためでござる。乱をおこす種をお蒔きなきれてはならぬ。もしそれでもなお治部少輔を討つ、と申されるならば、この家康がお相手になる。七人衆、国もとで兵を整え、そろって打ちかかって来られよ。いかがでござる」
「いや、それは思いもよらぬことでござりまする」
 と、むこうのはしにいた加藤嘉明が、勢いの失せた、小さな声で答えた。この、のちに徳川家から会津四十余万石というとほうもない大領をもらい、やがてはとりつぶしの目に遭う男は、このときとくに三成憎しで走りまわっていたわけではない。加藤清正や福島正則とは幼なじみで、三人ともどもに秀吉の長浜城主時代に小姓として仕え、それ以来、三人仲間として世を渡ってきた。清正や正則はこの嘉明を孫六、とよび、嘉明はかれらを、虎之助、市
松、といまでも古い通称でよんでいる。この三成事件のばあい、仲間の首領株の清正が三成にふんがいしていたため、正則や嘉明もいわば徒党意識で雷同したにすぎない。
 とにかく、清正ら七将は、家康の一喝にあっては力なく徳川屋敷を去った。
 この一件は、家康の身に、はかりしれぬ収穫をもたらした。世間は、家康に対する認識をあらたにした。かれが意外にも秀頼思いという点では天下に比類がないということ、つぎにこの老人は、自分に敵意をもつ三成をきえかばうほどの大度量であること、きらには、荒大名として知られる七将できえこの老人の一喝にあえば猫のようにおとなしくなるということ−この三つはたちまち風聞としてひろまり、世間での家康の像を、いちだんと大きくした
 三成は、敗北した。
 とは、この男は気づいていない。家康が清正らを追っぱらったと知ったとき、
「わしの予想どおりじゃ。毒竜の毒をもって睾蛇どもの毒を制したことになる」
 と内心おもい、自分の智力に満足した。
 その翌日、三成は、本多正信老の家来五十人に護衛されつつ、伏見城内の自分の屋敷にひきあげた。
 島左近にむかい、
「これがおれの智恵よ」
 と、うれしそうに笑った。こういうとき、三成の顔はひどく無邪気になる。
「結構でござった」
と、口うるさい左近も、いっしょによろこんでやるしか、手はない。
▲UP

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