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<本文から> 「島左近こそ、武士の典型だ」
とその死後、数百年の徳川時代を通じて武家社会から慕われた。徳川時代にこれほどの人気があるのはよほどのことであった。本来、島左近は、
「打倒家康」
の作戦本部長なのである。幕府にはばからねばならぬ名前ではないか。
おもしろい話がある。
秀吉が死んだ直後、ある日、石田三成は家来をつれて、大坂城の天守閣にのぼった。
いうまでもなく、日本最大の建造物である。
眼の下に大坂の町なみがひろがり、道は四通八達し、ゆききする人の姿が、蟻のように小さい。
「この町の繁昌ぶりをみるがよい」
と、三成は、いった。
「故太閤殿下の偉大さがわ。かるではないか。むかし、この日本が青年にわたって乱れていたとき、故太閤出ずるにおよんで、群雄を一手にしずめ、五畿七道を平定し、この大坂に政都をもうけ、天下の民を安んじた。町をみるがよい。町民どもは、月々の暮らしをよろこび、あすの日また皇家の保護によってかくあらんとこいねがっているかのようではないか」
遺児秀頼の世が、永世であることを町民はねがっている、と三成はいうのである。
「いかにも左様で」
と、側近たちがうなずいた。
しかし島左近はだまっている。
三成は気になり、
「左近、そうではないか」
というと、左近は三成の側近をさがらせて三成を一人きりにし、
「いま申されたこと、正気でござるか」
といった。
「正気だ」
「殿、頭のよい人というのは、自信がつよい。自信がつよければ独断が多い。独断は事をあやまる。いまいわれたこと、もし正気ならばばかげている」
「なぜだ」
と、三成は、自分が主君ながら左近という男にだけはなんとなくあたまがあがらない。
「町の繁昌が豊家のおかげだと申されるのはあとかたもないうそじゃ。古来、支配者の都府というものに、人があつまるのが当然で、なにも大坂にかぎつたことではござらぬ。利があるから人があつまる。恩を感じてあつまるわけではない」
さらに、いう。
「大坂が繁昌であると申されるが、それは都心だけのことでござる。郊外二、三里のそとにゆけば、百姓は多年の朝鮮ノ役で難渋し、雨露の漏る家にすみ、ぬかを食い、ぼろをまとい、道路に行きだおれて死ぬ者さえござる。豊家の恩、皇家の恩と穀はいわれるが、そのかけ声だけでは天下はうごきませぬぞ」
左近は、三成とはちがい、冷徹に時勢をみている。秀書は晩年にいたって外征をおこし、このため物価はたかくなり、庶人はくらしにくくなっている。きらにその外征中、建築好きの秀吉は伏見城をはじめ、無用の城、蒙邸をさかんに建て、民力をつかいすぎた。
「じつをいえば家康を討滅する秘謀の件は」
と、島左近はいう。
「まだ早うござる。いま民力を回復させ、さらには外征から帰陣した諸侯や、故太閤の普請のお手伝いをした諸侯に休息をあたえ、十分に休めおわって豊家万歳の気持をおこさせてから、家康を討つ。もっともそれが理想だが、家康のほうがそれを待ちますまい。挑発をしかけてくる。むずかしさはそこにある。ただ申したいのは、殿のように豊家の恩だけで天下がうごくとおもわれるのはあまい、ということです」
左近は、そんな男である。 |
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