司馬遼太郎著書
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          世界の中の日本

■鎖国の是非

<本文から>
 たとえば、こういうことがありました。オランダ人の船乗りが長い航海をして日本の長崎へやって来る。その際にいろいろの道具を持ってきますね。天体望遠鏡の話をされましたが、それは日本になかった。オランダ人も持ってきてくれなかったんですが、普通の船乗りが持っている倍率二倍の望遠鏡はありました。ところが、オランダ人の持っているものは、非常に精巧にできた真銀製で、重くて上等でした。それを日本人が見て、一閑張の望遠鏡にしました。一閑張というのは、紙を重ねて最後に漆を塗って模様をかくわけです。それは同じように伸び縮みができますし、水がかかっても大丈夫で、真鈴と少しも変わらない上に、非常に軽く、多少美しくもある。
 これは、いかにも鎖国とそうでない状態との差が表われています。もし日本が鎖国をしていなければ、まず真鈴をどうしてつくるかという冶金から学び、それをつくっただろうと想像できますが、鎖国だから自分のあり合わせの一閑張でやろう、そして、やる以上はちょっときれいにしよう−これが鎖国の文化だと思います。
 そうしてかろうじてオランダ人とつき合っている。オランダ人からずいぶん影響をもらっていますが、一番肝心の産業革命については、オランダ人も教えようにも教え られない。これは日本がヨーロッパのなかにあってはじめて体でわかるものであって、こんな遠いところへ来て産業革命の教科書を渡してもわからない。そして、もし産業革命を起こしたら、幕府ほその場でつぶれます。薩摩藩も津軽藩も産業革命をしますと、もう幕府は政権として長持ちしませんから、幕府のためにはたしかに鎖国は必要でした。そして二七〇年続きました。むろん幕府のためではなくて、結果として戦争がなかったことが一番よかったわけです。
 「地球を守りましょう」というローマ会議のときに、日本の江戸時代ほすばらしかったというスピーチがあったそうです。しかし、そう言われても、国を閉ざしていたんですから、それは今後の国々の参考になりませんね。イランの参考にもならないし、レバノンの参考にもならないでしょう。「イランは国を閉ざして戦争をするな。イラン文化を守れ」と言ったところで、イラン人は承知しないでしょう。だから、いまの地球のそれぞれの国の人には、「江戸時代は鎖国だから、よかったんだよ」と言っても、教訓にはならないんですね。日本人のためにだけ、「一閃張の美しい望遠鏡ができたじゃないか」とは言えますがね。 
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■江戸時代のいい面

<本文から>
 江戸時代にもいい面があったとだんだん思うようになって、たとえば文学者のなかでも、フランスが好きだとかいう外国趣味をもつ人たちは、江戸にも同じようなものがあったと考えました。たとえば、明治末期の、木下杢太郎、北原白秋たち「パンの会」の人たちは、幕末の腐敗したような雰囲気とヨーロッパの世紀末的な雰囲気を合わせて考えるような人たちでした。そういう意味では、永井荷風は幕末の漢詩が非常に好きだったし、文化・文政時代(一八〇四〜三〇年)はどんなにいい時代であったかとか、昔のことを懐しく思うような人がでてきました。そういう傾向は、文学者の間でずっと続いたでしょう。
 しかし、一番、劇的な変化があったのは、第二次世界大戦後でしょう。変化は二回ありました。まず、終戦直後あるいは一九四五年から五五年ごろまで、近世は日本の歴史で一番悪い時代だと思われました。和辻膏郎の『鎖国−日本の悲劇』がその代表例ですし、近世のことを書く人たちは、江戸時代の権力に対して一般庶民はどのように反感をもっていたか、ということをいつも強調していました。私がはじめて日本に来た一九五三(昭和二十八)年ごろは、嫌いなものについてはどんなものでも「封建的だ」と言っていました。その「封建的な」ということは、もちろん近世と密接な関係がありましたから、近世の日本の悪い過去の象徴みたいなものでした。
 しかし、一九六二、三年ごろからちがう意見が現われてきたのです。まず、鎖国は悪いことではなかったという考え方が出てきました。鎖国時代のヨーロッパ人、たとえば出島にいたケソペルは鎖国をほめたし、たいていの外国人は、「鎖国は非常にいい制度だ」と思っていた。だから、日本人が考えていたように鎖国時代はけっして悪い時代ではなかったというのです。その次の段階は、江戸には何でもあった、べつに外国と接触をしなくてもよかった、日本文化は非常に高い水準に達していたから、外国から新しいものを輸入しなくてもよかったし、適当に物を輸入していても、それ以上する必要もなかった上いう考え方でした。
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■浮世絵の悪しき影響

<本文から>
 司馬 そうですね。浮世絵について教科書的なことを申し上げるようですが、印象派の画家たちが浮世絵に非常に感動したのは、自分たちは、物を見る場合に光と影で写したり、色面で物を描き出していくものだと思っていたのが、浮世絵を見ると、線を一つ描くだけで着物になり、輪郭を線で絵取るだけで顔になっている。こんなやり方があるのかということでしょうね。
 マチスの絵は浮世絵の悪しき影響を受けていますね。まったく平面的です。浮世絵に関心をもった人でも、関心をもちつつヨーロッパの伝統の立体感は失わなかった人たちも多くいて、ゴッホでも初めはそうなんですが、晩年になると浮世絵病になっていく。浮世絵病になっていくのは、浮世絵がそんなにすばらしいからか、それとも何かもっと精神病理学的な理由なのか。しまいには日本に行きたいと言い出す。それは、日本という国を自分の精神のなかで記号化していただけかもしれませんが。
 ご存じのように浮世絵では、いま写真家がよくつかう技法ですが、広重などが大きな松の木をどんと近景に持ってきたり、製作中の大きな樽や底から富士山が見えるようにする。これは思いきった構成なものですから、ゴッホもそういうものには打たれたでしょう。けれども、ほんとうはあの時代のフランスの画家たちがもっている行き詰まりの状態、私たちから見れば印象派は輝ける時代ですが、個人個人の画家から見ればそれぞれ行き詰まっていてぶち破りたいというときに、たまたま浮世絵がやってきたのではないか。
 浮世絵については、私も、先ほどキーソさんがおっしゃったとおりで不満はありませんが、ただ、浮世絵をふくめて日本の近世美術に不満なのは、たとえばベルサイユ宮殿に置くようなものがないということです。浮世絵を飾るわけにもいかないし、千利休が大事にしていたお茶碗の枯淡なものをベルサイユ宮殿に飾っても生きません。それよりも、派手でにぎやかな中国の陶器をどんと置くほうがいいし、あるいはイタリア人の画家に天井を描かせたほうがいい。どうも近世の江戸文化は、四畳半の部屋のなかで楽しんでいる。これは欠点でなくて特徴でしょうけれども……。
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■本にも東アジアにも「絶対」がない

<本文から>
 むろん、十三世紀の親鸞が「絶対不二の道」などと言ったり、西田幾多郎が「絶対矛盾的自己同一」ということを言ったりしましたが、こういう場合の絶対は、わかります。この場合の絶対は、世界創造もしなければ人間を検断することもしない。
 かんたんにいえば、キリスト教の神のことです。超越者であり、絶対老であり、しかも創造者である、ということがわかりにくい。宗教の問題ではなく、思考の問題でユダヤ教・キリスト教世界では、神という「絶対」なものほあるということについて、古代以来、思考の営みをつづけてきたわけです。
 しかし、日本にも東アジアにもそんな経験がない。儒教の「天」というのは、ちょっとした観念というだけですから、「絶対」ということにはならない。この「絶対」ということがわからないと、どうもうまくいかないというか…。
 私は、日本の文化や文学を否定的に見るわけではありませんが、たとえばカミュとか、それより前のドストエフスキーの小説を読んでいますと、これは私たちには書けないということがあります。神の時代は終わりましたがトドストエフスキーの場合はまだ終わっていませんが、カミュの時代には終わっています−しかしカミュには「絶対」ということの文明上の余熱は残っていて、それが彼に思考させる。
 日本のような汎神論世界にいる人間からいうと、お稲荷さんにお賽銭をあげることがあっても、「絶対」というものはウソだとかんたんに思ってしまう。
 神はあります、ありますと、糸巻に糸を巻くように思想の営みをつづけてきた一〇〇〇年以上の神学の歴史が西洋世界にはあって、そのなかから哲学も出てきた。あるいは哲学も援用された。そういう営みが終わった後、作家ならカミユが出てきて、新しいフィクショソという営みを継続する。
 このフィクションというのは、神が大文字でGodと表わされるように、大文字のFictionだろうと仮にします。つまり、作家が、かつての神学老のように、「絶対」のものとしてフィクションを考え、フィクションを芯に置くことによって文学的問題を展開していくわけですが、それは日本ではまれにしか存在しない。
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