司馬遼太郎著書
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          侍はこわい

■賤ケ岳七本槍の権平は加増されなかった

<本文から>
(いや、むしろ過失がなさすぎるせいかな。思いあわせてみると、あのときの七人の仲間は過失のない律義者の順で石高が小さい)
 とおもった。なにはともあれ、武功よりもむしろ、秀吉は、権平には侍を統御する器量に欠けるため大名にしなかったのであろう。それならばなんとなく権平にはわかるし、それはそれでよい、とも思っていた。人は応分に生きるべきだと権平は思っている。
 「むかし、孫六という友人がいてな」
 と、権平はおあいにわかるように話を噛みくだいてやった。
 「おまえ派手でない、それは損じゃ、せめて唄の一つもうたうべし、と賢しらに申しおった。つまり、そういうことかな」
 「その孫六といわれる方は、いま何をしておられます」
 「加藤左馬助嘉明よ」
 えっ、とおあいは驚いた。咳きこむように、
 「加藤様ほどのお方がむかしのお友達なら、いちど、なぜあなた様だけお知行がすくないのか、たずねてごらんあそばせば?」
 「なるほど、な」
 権平はそうすることにしたが、じかに会うのも気重だし、あらかじめ、用むきを書きしたためて、使いにもってやらせた。
 加藤嘉明はそれを読み、なんとなく気にかかっていたことなので、秀吉にとくに拝謁を乞い、むかしの友人のために弁じようとした。
 秀吉も、意外な顔をした。わすれていた、という驚きである。
 「なるほど、権平はまだ五千石であったか」
 とつぶやき、なぜ自分は権平を大名にしなかったかについて理由を考えようとしているふぜいであった。しかし、ややあって、
 「理由はないなあ」
と、音をあげるようにいった。まったく理由がない。そのくせ、とくに気の毒だという気もおこらないのである。
 「つまり、権平はそういうやつだ」
 と、秀吉は笑いだした。なにか、権平に加増してやるのが惜しいような気がするのである。 
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■存在感のない権平の平野家は幕末まで続いた

<本文から>
家康は、この権平という男の経歴や性格をよく知っている。豊臣家ではおよそ不遇だったこの男に、べつに前時代への愛惜も秀吉の遺児への忠誠心もあるまい。そういう動機から出た申し出でないことは、なんとなくわかるような気がし、
 「権平、いくさなど年寄の冷水よ」
 と、笑いながらなだめ、たくみに話題をかえて賎ケ岳のころの昔ばなしをさせ、子供をすかすようにして江戸へ帰してしまった。
 権平は三代将軍家光の寛永五年まで生き、七十歳で死んだ。五千石は、長男の権平長勝にぶじ世襲された。
 この男が死ぬまでに、加藤嘉明家はその子の代になるや、幕府が待ちかねていたように口実をもうけ、領地没収、同清正、福島正則の家も、同然の目に遭ってつぶれ、もとのもくあみになった。
 が、平野家は、つづいた。相変らず五千石のすえおきのままつづき、幕末になって十何代目かの権平が、どういうわけか大和田原本で二月二包に加増され、徳川諸侯のうち、最も小禄の大名になった。
 その当時、丹波守長祥という人が、
 「家祖権平様は人のまねの出来ぬことをなされた。ご自分は半生五千石のすえおき、子孫も二百年来五千石のすえおき、しかしこのまねのできぬ芸で、平野家は安全につづいた」
 といった。
 権平はなるほど、奇妙な男らしい。
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■新選組・松田倉蔵を斬ろうとした相楽庄之助はお婦以の機転で無事に栄えた

<本文から>
 この話は、大阪の時計商某家につたわっているはなしで、話というのは、これっきりでしまいである。松田倉蔵は討たれもせず、相楽庄之助は討ちもせず、その年は暮れ、やがて四年目に明治をむかえた。
 世がかわってから、江戸屋十兵衛は唐物問屋から時計と宝石の輸入商に転じ、幕府の瓦壌で失職した娘むこの相楽庄之助をむかえて分家をたてさせ、高麗橋で同種の店をもたせた。与吉は本家からの付け番頭として庄之助店の.番頭となり、そのまま世を終えた、という。
 事件の結末は、要するに、松田倉蔵が、その当日、たしかに京屋にはとまったが、北陽新地の住吉屋には行かなかった。その翌日には、早くも大坂を発って京へもどっている。路上で待ちかまえた相楽庄之助は、ついに松田の姿を見なかったのである。
 なぜ、松田倉蔵が早々に大坂を離れたかという所に、この事件の唯一の秘密がある。
 与吉は、庄之助から云われた口止めをまもらず、そのまま、江戸屋十兵衛とお婦以に明かして、善後策を講じたのだ。
 思案のあげく、出入りの御用間をよんで百両の大金をもたせ、こっそり東屋に松田を訪ねさせたのである。
 「くれぐれもだれから、とは、云いなはるなよ」
 と、与吉は御用間に十分に釘をさしておいた。「なにもきかず、だまって大坂を発ってくれれば、この金をやる」と云わせたのである。すねに傷をもつ松田倉蔵は、さすがになにごとかを察したらしく、金をうけとると、そそくさと大坂を離れた。
 そのあと、与吉はお婦以に、
 「これで厄払いじゃ。したが、小嬢さん、この一件の種あかしは、口がさけても、庄之助旦那には云いなはるなよ。謀られたとおもえば、なにを仕出かすかわからん。侍ちゅうもんは、五体は人間の形をしていても、なんや知らん、臓腑が一つ足らんか、多すぎるか、べつの生きものや」
 庄之助は商人になってからも、ときどき機嫌のいいときは、店の者などに、
 「おれは、ご一新前に、新選組の松田倉蔵を斬ろうとしたが、むこうに逃げられた」
と自慢したりしたが、そんなときはお婦以はにこにこと微笑っているだけで相手にならなかった。
一新になってから、こどもが、三人できた。男の子二人に、末が女であった。
  お婦以は、どの子にも、
 「お父さんは、いまはあんなにやさしいお人だけど、お若いころは冷汗の出るようなことをなさった。北同心町の組屋敷に住んでいたころのことをおもいだすと、ぞっとする」
 やはり、商家の子は商家に嫁入りするのがいちばんいい、と、お婦以は老女になってからも、おりにふれて語っていたという。侍の不可解さが、身に沌みていたのだろう。
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