司馬遼太郎著書
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          桜田門外の変

■桜田門外の変

<本文から>
 治左衛門は、駕寵の戸をひきむしり、井伊の襟くびをとって引き出した。まだ息はあった。井伊、雪の上に両手をついたところを、治左衛門はあらためてふりかぶり、一刀で首を打ち落した。
 「そこで薩音で叫んだ」というが、要するに、味方一同にむかって討ちとめた旨を報告したのであろう。
 同時に、申しあわせによって鬨をあげ、思い思いに引きあげた。
 争闘は十五分ぐらいの間だったらしい。降雪のなかを不意にあらわれた敵のために彦根藩士はほとんど木偶のように斬られ、十数人がツカ袋を脱して戦ったが、いずれも、闘死、または昏倒させられた。
 その間、現場からほんの四、五丁むこうにある彦根藩邸の門は閉ざされたままであった。はげしい降雪のため気づかなかったのである。
 一党のなかでは、稲田重蔵が二刀流の川西忠左衛門に斬られて現場で死亡。井伊方の即死者は、川西忠左衛門、加田九郎太、沢村軍六、永田太郎兵衛で、ほかに、重傷者のうち三人が日ならず死亡した。
 ただ一党のなかでは、見届役、検視役といった数人のほかは、全員手傷を負った。引き揚げの途中、現場からいくばくも離れずして精根つき、自殺した者も多い。
 佐野竹之助は、現場で、
 「治左衛門、おれはこれから脇坂閣老の屋敷まで斬好状を届ける役目がある。ここで別れる」
 といって歩きだしたが、歩行に堪えない。−乱闘申すこしも気づかなかったが、足、肩、腕いたるところ手傷を負ったらしく、それがそれぞれ激しく血を噴いて、一足ごとに雪を血で染めた。刀を杖にしてやっと脇坂屋敷にたどりつき、斬好状を提出しおわるや、死んだ。
 治左衛門自身も、駕寵わきに飛びこむ前後に、二人を斬り、数人に斬られたようであった。自分では返り血だとばかり思っていたが、喉から襟にかけて痛むので指を入れてみると、ずぶりと入った。ほかに左の目の上下にわたって長さ三寸、骨に達する傷があり、ほかに右の手の甲、さらに左手の人きし指が斬り落きれている。
 が、井伊の首を運ぶ重任があった。首を剣尖につきさし、広岡子之次郎と二人で現場を退去し、米沢藩邸の門前を通って日比谷門の近く、長州藩邸の前まできたとき、雪を踏んで背後から、瀕死の重傷者が追ってきている。
 二人は気づかない。
 追跡者は、彦根藩士小河原秀之丞という者であった。かれは駕寵わきで掛って十数創を負い、昏倒した。
 すぐ眠がさめた。そのときは、主人の首を持って敵がひきあげてゆくところだった。
 小河原は、血みどろの姿であとを追った。
 主人を討たれたばかりか、首まで持ち去られては彦根藩としてこれほどの恥辱はない。
 ついに、長州藩邸の門前で追いついた。
 降雪で、幸い、相手は気づかない。杖にしていた刀をふりあげると、力いっぱい、斬りつけた。
 刃は、治左衛門の後頭部にあたった。傷の長さは四寸、が、ぱっと皮がはじけて帽が七寸ほどになり、血がざあっと、襟くびから尻まで垂れた。
 が、治左衛門は倒れず、
 「広岡君、敵じゃ」
 と、顔をしかめていった。
 広岡はふりかえりざま、小河原を斬り倒した。小河原は、再び気絶した。のち蘇生してこのときの様子を語っていた。
 治左衛門らは、なお歩いた。しかし和田倉門前から竜ノロの遠藤但馬守屋敷の辻番所まできたとき、まず治左衛門が歩けなくなった。
「広岡君、オイはここらで切腹する」
 と、いった。
 広岡も重傷で、意識がもうろうとしているから、聞こえない。ただ、歩いた。しかし、すこし離れた酒井雅楽頭屋敷の前まできて、どかっと大石に腰をおろし、
「有村君、おれはここで腹を切る」
 と、いった。治左衛門がそばにいると思ったのであろう。腹を一文字に切り、きらにのどをふた突きに突いて、つっ伏した。
 治左衛門はそのころ路上に倒れ、脇差を抜き、倒れたままやっと腹に突きたてたが、それ以上の余力が残っていなかった。
 遠藤家の人が出てきて、
 「いずれの御家中のお人か」
 と、耳もとで訊いてやると、
 「島津修理大夫元家来…」
 そうつぶやいただけであとは聞こえず、やがて息が絶えた。
この桜田門外から幕府の崩壊がはじまるのだが、その史的意義を説くのが本篇の目的ではない。ただ、暗殺という政治行為は、史上前進的な結局を生んだことは絶無といっていいが、この変だけは、例外といえる。明治維新を肯定するとすれば、それはこの桜田門外からはじまる。斬られた井伊直弼は、その最も重大な歴史的役割を、斬られたことによって果たした。三百年幕軍の最精鋭といわれた彦根藩は、十数人の浪士に斬りこまれて惨敗したことによって、倒幕の推進者を躍動させ、そのエネルギーが維新の招来を早めたといえる。この事件のどの死者にも、歴史は犬死をさせていない。 
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