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<本文から> 艦長伊地知大佐は、一段下の艦橋にいた。かれの常識にとってこの号令は信じられないことであった。取舵の号令は「トオオオ」と長くひっぱって、「リカァジ」とむすぶ。左まわしのことである。取舵とは面舵(右舵)に対することばで、日本古来の水軍用語である。
「一杯」というのは極度にまで舵をとって艦首を左のほうへ急転せしめることをいう。
伊地知がおどろいたのは、すでに敵の射程内に入っているのに、故に大きな横腹をみせてゆうゆう左転するという法があるだろうかということであった。
伊地知はおもわず反問し、
「えっ、取舵になるのですか」
と、頭上の艦橋ヘどなりあげると、加藤は、左様取舵だ、と繰りかえした。
たちまち三笠は大きく揺れ、艦体がきしむほどの勢いをもって艦首を左へ急転しはじめた。艦首左舷に白波が騰がり、風がしぶきを艦橋まで吹きあげた。有名な敵前回頭がはじまったのである。
要するに東郷は敵前でUターンをした。Uというよりもα運動というほうが正確にちかいかもしれない。ロシア側の戦史では、
「このとき東郷は彼がしばしば用いるアルファ運動をおこなった」
という表現つかっている。
繰りかえすと、東郷は午後二時二分南下を開始し、さらに一四五度ぐらい左(東北東)へまがったのである。後続する各艦は、三笠が左折した同一地点にくると、よく訓練されたダンサーたちのような正確さで左へまがってゆく。
それに対してロジエストウエンスキーの艦隊は、二本もしくは二本以上の矢の束になって北上している。その矢の束に対し、東郷は横一文字に速断し、敵の頭をおさえようとしたのである。日本の海軍用語でいうところの、
「丁字戦法」
を東郷はとった。
丁字戦法の考案は、秋山真之にかかっている。真之がかつて入院中、友人の小笠原長生の家蔵本である水軍書を借りて読み、そのうちの能島流水軍書からヒントを得たものだということは以前にふれた。ただこの戦法は実際の用兵においてはきわめて困難で、場合によっては味方の破滅をまねくおそれもあった。
げんに、敵とあまりにも接近しすぎているこの状況下にあっては、真之もこれを用いることに躊躇した。
三笠以下の各艦がつぎつぎに回頭しているあいだ、味方にとっては射撃が不可能にちかく、敵にとっては極端にいえば静止目標を射つほどにたやすい。たとえ全艦が十五ノットの速力で運動していても、全艦隊がこの運動を完了するのは十五分はかかるのである。この十五分間で敵は無数の砲弾を東郷の艦隊へ送りこむことができるはずであった。
観艦アリョールの艦上からこの東郷艦隊の奇妙な運動をみていたノビコフ・ブリボイも、
「ロジェストウェンスキー提督にとって、一度だけ運命が微笑したのである」
と、書いている。
戦艦朝日に乗っていた英国の観戦武官W・ペケナム大佐は東郷を尊敬することのあつかった人物だが、この人物でさえ、このときばかりは東郷の敗滅を予感し、
「よくない。じつによくない」
と、舌を鳴らしたほどであった。
稀代の名参謀といわれた真之でも、もしかれが司令長官であったならばこれをやったかどうかは疑わしい。かれはおそらくこの大冒険を避けて、かれが用意している「ウラジオまでの七段備え」という方法で時間をかけて敵の勢力を漸減させてゆく方法をとったかもしれない。
が、東郷はそれをやった。
かれは風むきが敢の射撃に不利であること、敵は元来遠距離射撃に長じていないこと、波が高いためたださえ遠距離射撃に長じていない敵にとって高い命中率を得ることは困難であること、などをとっさに判断したに相違なかった。
「海戦に勝つ方法は」
と、のちに東郷は語っている。
「適切な時機をつかんで猛撃を加えることである。その。時機を判断する能力は経験によって得られるもので、書物からは学ぶことができない」
用兵者としての東郷はたしかにこのとき時機を感じた。そのかんは、かれの豊富な経験から弼き出された。 |
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