司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          坂の上の雲8

■東郷艦長の丁字戦法の判断

<本文から>
 艦長伊地知大佐は、一段下の艦橋にいた。かれの常識にとってこの号令は信じられないことであった。取舵の号令は「トオオオ」と長くひっぱって、「リカァジ」とむすぶ。左まわしのことである。取舵とは面舵(右舵)に対することばで、日本古来の水軍用語である。
 「一杯」というのは極度にまで舵をとって艦首を左のほうへ急転せしめることをいう。
 伊地知がおどろいたのは、すでに敵の射程内に入っているのに、故に大きな横腹をみせてゆうゆう左転するという法があるだろうかということであった。
 伊地知はおもわず反問し、
 「えっ、取舵になるのですか」
 と、頭上の艦橋ヘどなりあげると、加藤は、左様取舵だ、と繰りかえした。
 たちまち三笠は大きく揺れ、艦体がきしむほどの勢いをもって艦首を左へ急転しはじめた。艦首左舷に白波が騰がり、風がしぶきを艦橋まで吹きあげた。有名な敵前回頭がはじまったのである。
 要するに東郷は敵前でUターンをした。Uというよりもα運動というほうが正確にちかいかもしれない。ロシア側の戦史では、
 「このとき東郷は彼がしばしば用いるアルファ運動をおこなった」
 という表現つかっている。
 繰りかえすと、東郷は午後二時二分南下を開始し、さらに一四五度ぐらい左(東北東)へまがったのである。後続する各艦は、三笠が左折した同一地点にくると、よく訓練されたダンサーたちのような正確さで左へまがってゆく。
 それに対してロジエストウエンスキーの艦隊は、二本もしくは二本以上の矢の束になって北上している。その矢の束に対し、東郷は横一文字に速断し、敵の頭をおさえようとしたのである。日本の海軍用語でいうところの、
「丁字戦法」
 を東郷はとった。
 丁字戦法の考案は、秋山真之にかかっている。真之がかつて入院中、友人の小笠原長生の家蔵本である水軍書を借りて読み、そのうちの能島流水軍書からヒントを得たものだということは以前にふれた。ただこの戦法は実際の用兵においてはきわめて困難で、場合によっては味方の破滅をまねくおそれもあった。
 げんに、敵とあまりにも接近しすぎているこの状況下にあっては、真之もこれを用いることに躊躇した。
 三笠以下の各艦がつぎつぎに回頭しているあいだ、味方にとっては射撃が不可能にちかく、敵にとっては極端にいえば静止目標を射つほどにたやすい。たとえ全艦が十五ノットの速力で運動していても、全艦隊がこの運動を完了するのは十五分はかかるのである。この十五分間で敵は無数の砲弾を東郷の艦隊へ送りこむことができるはずであった。
 観艦アリョールの艦上からこの東郷艦隊の奇妙な運動をみていたノビコフ・ブリボイも、
「ロジェストウェンスキー提督にとって、一度だけ運命が微笑したのである」
 と、書いている。
 戦艦朝日に乗っていた英国の観戦武官W・ペケナム大佐は東郷を尊敬することのあつかった人物だが、この人物でさえ、このときばかりは東郷の敗滅を予感し、
 「よくない。じつによくない」
 と、舌を鳴らしたほどであった。
 稀代の名参謀といわれた真之でも、もしかれが司令長官であったならばこれをやったかどうかは疑わしい。かれはおそらくこの大冒険を避けて、かれが用意している「ウラジオまでの七段備え」という方法で時間をかけて敵の勢力を漸減させてゆく方法をとったかもしれない。
 が、東郷はそれをやった。
 かれは風むきが敢の射撃に不利であること、敵は元来遠距離射撃に長じていないこと、波が高いためたださえ遠距離射撃に長じていない敵にとって高い命中率を得ることは困難であること、などをとっさに判断したに相違なかった。
 「海戦に勝つ方法は」
 と、のちに東郷は語っている。
 「適切な時機をつかんで猛撃を加えることである。その。時機を判断する能力は経験によって得られるもので、書物からは学ぶことができない」
 用兵者としての東郷はたしかにこのとき時機を感じた。そのかんは、かれの豊富な経験から弼き出された。 
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■東郷艦長の誤認を見つけた上村第二戦隊の冒険が成功

<本文から>
 艦隊を右折せしめるというのは、各艦各個に左妄回頭淫てる第一戦隊との間隔をそれだけ遠くするということになり、第一、第二戦隊がだんごになることだけはまぬがれるが、しかしこの装甲巡洋艦戦隊は東郷の戦艦戦隊より前面に出ることになり、海戦は戦艦が主役をなすという常識をやぶるカタチになる。右折すれば敵がどんどん近づくというカタチになるから、危険このうえなかった。
 こちらは、装甲巡洋艦の戦隊にすぎない。
 敵は戦艦の戦隊が前面に出て押し出してきている。巡洋艦がその薄い装甲と弱い攻撃力をもって戦艦に立ちむかうというのは、陸戦でいえば厚い胸聴にかこまれた要塞に対し、攻撃側が、裸の人員で軽砲をひっぱって近づいてゆくようなものであった。
 無謀というほかなかった。
 上村艦隊がせり出してこの無謀の陣形をとったのは、上村と佐藤の決断と勇敢さということもあったが、もとはといえば三笠の首脳部の錯覚による。戦後、上村も佐藤もついにこの「錯覚」について揚言しなかったのは、東郷が世界戦史に類の完全勝利を得たため、東郷は無謬の名将になったからである。事実、東郷は無謬にちかかったが、それをさらに完全な無謬的存在にすることは、上村や佐藤などの礼節であったらしい。
 佐藤はのち中将になってから「大日本海戦史談」という海戦の歴史を書き、この局面についてふれている。この書物にも、東郷の「誤認」ということには触れなかった。ただ、第二戦隊が第一戦隊のとおりに「左八点の一斉回頭」をやっておれば、
「敵艦隊をして弾着距離外は脱する機会をあたえることになったであろう」
 と、遠慮気味に書いている。極端にいえばロシア側の大部分は戦場を脱し、ウラジオストックにむかって遁げきることができたかもしれない、ということであった。
 ついでながら、昭和十年代に、当時新潮社の社員だった八幡良一氏が、隠棲中の佐藤鉄太郎に会ったとき、たまたまこの「誤認」の話が出た。八幡氏がおどろいて、そのことをなにかに書いてもよろしゅうございますか、ときくと、佐藤ははげしく手をふって、
 「それはいけない。どうしても書きたければ僕が死んでからにしてくれ」
 と、いったという。このくだりは、筆者が八幡氏から聴いた。
 ついでながら佐藤鉄太郎は昭和十七年三月四日に病没した。もし、この五月二十七日午後二時五十分すぎの段階で上村と佐藤が出裏の艦橋にいなければ、この海戦はもっとちがった結果になっていたにちがいない。
 上村の第二戦隊のこの冒険は成功した。
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■日本海軍の天才・真之は戦争地獄の衝撃のため出家を決意していた

<本文から>
 参謀長の加藤友三郎は、
(妙なやつだ)
 と、真之の挙動をみて、にがにがしく思わざるをえなかった。
 真之のやることは、どうみても軍人らしくなかった。第一、戦闘終了後に加藤とひとことも口をきいていない。机にむかって何か書きつづけているのはいいとしても、従兵が食事をはこんでくると、食器類を書類のわきにひきよせ、物を食いながら筆を動かした。
 やがて仕事を終えると、加藤にあいさつ一つせず、ぷいと自分の部屋へひっこんだ。
 真之は仰臥した。相変らず靴をはいたままであった。疲れきっていたが、神経が変にたかぶって、ねむれそうになかった。かれはすでにこのとき、作戦家でも軍人でもなくなって小液化いえるかもしれない。
 (このいくさが終われば)
 と、そのことを考え、それを考えることで自分の神経のたかぶりを鎮めようとしていた。この状態ではとうていあす再び艦橋に立つというような自信はなかった。かれがこのとき懸命に自分に言いきかせていたのは、この戦争がおわれば軍人をやめるということだった。
 じつは真之は艦橋から降りたあと、艦内を一巡してしまったのである。
 いたるところに弾痕があり、あの軽やかな濃灰色で装われた艦体は砲火と壌煙にさらされたためにひどく薄ぎたない姿になっていた。
 負傷者が充満している上甲板は、真之が子供のころに母親からきかされておびえた地獄の光景そのままだった。どの負傷者も大きな砲弾の弾片でやられているために負傷というよりこわれもので、ある者は両脚をもぎとられ、ある者は腕がつけねから無く、ある者は背を大きく割られていた。どの人間も、母親のお貞がかれをおびえさせた地獄の亡者の形容よりすさまじかった。
 かれは、昼間、艦橋上からみた敢のオスラービアが、艦体をことごとく炎にしてのたうちまわっていた姿の凄さを同時におもいだした。真之はあの光景をみたとき、このことばかりはたれにも言えないことであったが、体中の骨が慄えだしたような衝撃を覚えた。
 (どうせ、やめる。坊主になる)
 と、みずから懸命に言いきかせ、これを呪文のように唱えつづけることによって、その異常な感情をかろうじてなだめようとした。真之は自分が軍人にむかない男だということを、この夜、ベッドの上で泣きたいような思いでおもった。兄の好古はいま満州の奉天付近にいるはずであった。その好古へのうらみが、鉄の壁にさえぎられた暗く狭い空間のなかで灯ったり消えたりした。
 秋山真之という、日本海軍がそののちまで天才という賞讃を送りつづけた男には、いわばそういう脾弱さがあった。かれは戦後、実際に僧になるつもりで行働を開始した。しかし小笠原長生らかれの友人が懸命に押し止どめたためようやく思いとどまりはしたものの、結局、戦後に出生した長男の大を僧にすべくしつうこく教育し、真之が大正七年に病没するときこの長男にかたくそのことを遺言した。大は成人後、無宗派の僧としてすごした。この海戦による被害者は敵味方の死傷者だけでなく、真之自身もそうであったし、まだ未生のその長男の生活もこの日から出発したといえる。
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■バルチック艦隊が全滅した奇跡的勝利

<本文から>
「わが方の損害は水雷艇三隻」
 という、信じがたいほどの軽微さで、無傷というにちかかった。
 世界の海軍がその世界での唯一最大の模範としてきたトラファルガーの海戦でさえ戦勝軍である英国海軍はその乗員の一割をうしない、司令長官のネルソンは旗艦ヴィクトリーの艦上で戦死し、さらには敵の仏西連合艦隊三十三隻のうち十一隻をとりにがすという不完全戦勝であった。ところがこの日本海海戦にあってはまだ詳報をえないとはいえ、ロシア艦隊の主力艦のことごとくは撃沈、自沈、捕獲されるという、当事者たちでさえ信じがたい奇蹟が成立したのである。
 いったいこれを勝利というような規定のあいまいな言葉で表現できるだろうか。
 相手が、消滅してしまったのである。極東の海上権を制覇すべくロシア帝国の国力をあげて押しよせてきた大艦隊が、二十七日の日本海の煙霧とともに蒸発したように消えた。
 −とうてい信じられない。
 という態度を、同盟国である英国の新聞でさえとった。バルチック艦隊は全滅し、東郷艦隊は水雷艇三隻沈没という報が達したとき、これを冷静に記事にしたのはただ一紙だけで、他の新聞は誤報ではないか、という態度をとった。
 「日本海軍は自己の損害を隠蔽している」      、
 と書いた新聞さえあった。
 −装甲艦が単なる砲戦によってそうたやすく沈むはずがない。
 という疑問を提示した新聞もあった。むしろそれが専門家の常識であり、もし日本側の発表が真実であるならかれらは潜航艇をつかったにちがいないとも一部で論じられた。
 もっとも装甲艦が演ずる近代戦の戦術についての著書のあるH・W・ウィ一ルソンという英国の海軍研究家は、日露双方の発表によって事情が明快になったとき、
 「なんと俸大な勝利であろう。自分は陸戦においても海戦においても歴史上このような完全な勝利というものをみたことがない」
 と書き、さらに、
 「この海戦は、白人優勢の時代がすでにおわったことについて歴史上の一新紀元を劃したというべきである。欧亜という相異なった人種のあいだに不平等が存在した時代は去った。将来は白色人種も黄色人種も同一の基盤に立たざるをえなくなるだろう」
 とし、この海戦が世界史を変えたことを指摘している。
 たしかにこの海戦がアジア人に自信をあたえたことは事実であったが、しかしアジア人たちは即座には反応しなかった。中国人も朝鮮人も、また白人の支配下にあるフィリピン人もその他の東南アジアの民族たちも、この海戦の速報については鈍感であり、これによってアジア人であることの自信を即座にもち、ただちに反応を示したというほどまでには民族的自覚が成長していなかった。
 ただヨーロッパにおける一種のアジア的白人国(マジャール人などを先祖とするハンガリー、フィンランドなど)は敏感に反応し、自国の勝利のようにこの勝利を誇った。さらにはロシア帝国のくびきのもとにあがいているポーランド人やトルコ人をよろこばせた。また元来日本びいきである南米のチリーやアルゼンチンのひとびとをよろこばせ、この海戦から半世紀経たこんにちなお、アルゼンチンなどは同国の大使が東京に赴任するごとに横須賀の記念艦三笠を訪問することがなかば恒例のようになっているほどである。
 撃沈されたロシア軍艦は戦艦が六隻、巡洋艦が四隻、海防艦が一隻、駆逐艦が四隻、仮装巡洋艦が一隻、特務艦が三隻で、捕獲されたものは戦艦二、海防艦二、駆逐艦一、抑留されたもの病院船二。脱走中に沈んだものが巡洋艦一、駆逐艦一で、他の六隻(巡洋艦三、駆逐艦一、特務艦二)はマニラ湾や上海などの中立国の港に。逃げこみ、武装解除された。わずかに遁走に成功しえたのはヨットを改造した小巡渾艦と駆逐艦二、それに運送船一のみにすぎなかった。
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■真之の文章は日本語規範の役目を果たした

<本文から>
 余談ながら明治期に入っての文章日本語は、日本そのものの国家と社会が一変しただけでなく、外来思想の導入にともなってはなはだしく混乱した。
 その混乱が明治三十年代に入っていくらかの型に整備されてゆくについては規範となるべき天才的な文章を必要とした。漱石も子規もその規範になったひとびとだが、かれらは表現力のある文章語を創るためにほとんど独創的な(江戸期に類例をもとめにくいという意味で)作業をした。
 真之の文章も、この時期でのそういう規範の役目をしたというべきであったろう。かれは報告文においてさかんに造語した。せざるをえなかったのは文章日本語が共通のものとして確立されていなかったことにもよる。その言いまわしもかれ自身が工夫せざるをえなかった。そういう意味で、かれの文章がもっとも光彩を放ったのは「連合艦隊解散ノ辞」である。
 戦時編制である「連合艦隊」が解散をしたのは十二月二十日で、その解散式は翌日旗艦においておこなわれた。旗艦はこの時期、敷島から朝日になっていた。朝日のまわりには汽艇が密集し、各司令長官、司令官、艦長、司令などがつぎつぎに来艦してきた。やがて解散式がはじまり、東郷は、
 「告別の辞」
 と、ひくい声で言い、有名な「連合艦隊解散ノ辞」を読み始めたのである。
 長文であるため引用をひかえるが、この文章のなかでのちのちまで日本の軍人思想に影響したものをあげると、
 「……百発百中の一砲、能く首発一中の敵砲百門に対抗しうるを覚らば、我等軍人は主として武力を形而上に求めざるべからず。…惟ふに武人の一生は連綿不断の戦争にして、時の平戦に由り其の責務に軽重あるの理なし、事有れば武力を発揮し、事無ければこれを修養し、終始一貫その本分を冬さんのみ。過去の一年有半、かの風涛と戦ひ、寒暑に抗し、屡頑敵と対して生死の間に出入せしこと、もとより容易の業ならざりしも、観ずればこれまた長期の一大演習にして、これに参加し幾多啓発するを得たる武人の幸福、比するにものなし」
 以下、東西の戦史の例をひき、最後は以下の一句でむすんでいる。
 「神明はただ平素の鍛錬に力め戦はずしてすでに勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に、一勝に満足して治平に安ずる者よりただちにこれをうばふ。古人日く、勝つて兜の緒を締めよ、と」
 この文章はさまざまの形式で各国語に翻訳されたが、とくに米国大統領のセオドル・ルーズヴエルトはこれに感動し、全文を翻訳させて自国の陸海軍に配布した。真之の文章は以上の例でもわかるように漢文脈の格調を藉りつつ欧文脈の論理をできるだけとり入れているため翻訳に困難がともなうということはなかった。
▲UP

■日本に捕虜の教育がないため捕虜になると敵に情報を与えた

<本文から>
 満州における陸軍の状況は、海軍のばあいのように勝敗の色彩が明確ではなかった。
 すでに連合艦隊が佐世保港に憩い、一方ポーツマスにあっては講和会議が進行中というのに満州の前線では彼我の騎兵斥候の衝突がたえまなく、数騎同士の戦闘では馬格の劣勢な日本騎兵にぶがすくなかった。好古が放った小規模の斥候で帰ってこない例が多かった。全滅した例もあれば、逃げきれず捕虜になる例もすくなくない。捕虜の例は戦いが終末に近づくにつれて多くなった。
「どうも故にわが方の配置が知られているらしい」
 と、好古はしばしばこぼした。好古は自分ひとりで作戦計画をたて、部隊を指揮した。参謀がいなかった。戦い一の末期になってはじめて総司令部が二人の参謀をつけてくれたが、それでも好古は毎夜夜遅くまで蛾燭で地図を照らしてみずから戦いの設計を考えた。そういうとき、かれが右のようなことをひとりごちた。それを当番兵が耳にしたりした。
 騎兵が捕虜になるとこまるのである。その兵科の性質上、兵卒でも味方の配置や状況に通じていることが多く、それを敵に喋ってしまうらしい。
 維新後、日本の国軍にあっては捕虜というものは不名誉なものとされており、自然、捕虜になった場合の教育が施されていなかった。西洋の場合はよく戦って力尽きて捕虜になるというのはあながち不名誉でなく、そのために捕虜としての倫理も礁立していた。敵に味方の状況をしゃべるなどということがよくないということをたれでも知っていた
 が、「日本軍に捕虜はありえない」ということをたてまえとしている日本軍にあっては、いったん捕虜になった場合、敵の訊問にすらすら答えてしまう者が多い。好古はそのことに大いに迷惑し、
 「やむをえず捕虜になっても、敵の訊問に答える義務などはないのだ。それをよく教えよ」
 と、部下の各隊長に訓示を出している。その訓示の日付が九月二日であり、日本海海戦がおわって三ケ月も経ったころである。
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