司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          坂の上の雲7

■ロシアは官僚たちの保身のために兵たちは死なねばならず

<本文から>
 どころが、いぎ行なおうというときになって、気持がゆらいだ。
 −ノギがどこから出てくるかわからない。
 といういまにはじまったことでもない条件が懸念になりはじめた。さらには自軍のはるか後方まで秋山騎兵旅団の一部が跳梁し、交通破壊その他後方破壊をやりはじめていることが、ひどく気になった。
 常識的にいえば、敵の椅兵がその程度のしごとをするのは、火事になれば消防士がはたらくのとおなじで、戦いのつねの婆なのだが、しかしクロバトキンの神経にあってはそうは思えなかった。かれはにわかにこの黒溝台(沈旦堡)コースの進襲計画をすてようとし、軍司令官をあつめてあれこれ言ってみたが、出席したすべてのひとびとが、かれが暗示する作戦中止に反対であった。かれはやむなく、
 「既定方針どおりにやろう」
 ということで、会議を散会させた。
 「ロシア陸軍きっての秀才」
 といわれたかれは、陸軍士官学校のときも陸軍大学校のときも、じつにうつくしい筆蹟で答案を書いた。この戦場にあっても、かれはつねに故によって答案を書こうとせず、かれ自身を相手に答案を書こうとした。おそらく完璧な答案というのはそういうものであるであろう。
 かれはその軍司令官会議(二月十九日)がおわってから奉天にもどったあと、みずからの完璧志向と格闘し、夜に入ってもねむれず、ついに未明に起きて出て、各軍司令官に手紙をかきはじめたのである。
 −やはりあの作戦はやめだ。
 という趣旨のものであった。むろん、
 「中止する」
 とは書かれていない。作戦家らしく、さまざまの作戦的論理がみごとに装飾されており、その点はいかにも軍事学の秀才らしかった。要旨は、つぎのようである。
「どうも考えてみたが、日本軍はノギ軍に二つの道のどちらかをとらせるように思える。一つはわが左翼をつかせるか、それともはるか後方の寧古塔・吉林方面に使うか、どちらかである。そうなれば日本軍総予備隊(実際は皆無といっていい実状だが、クロバトキンは当然自分の戦術常識として日本軍が何個師団かを控置させているとみていた)は、中央の撫順方向へ前進してくるにちがいない。そうなればわが軍の中央があぶなくなり、この作戦計画は現実性をうしなう。だからこの作戦計画は中止せざるをえない」
 こうなれば、老婆のくりごとにすぎない。先刻わかりきった条件をくどくどとくりかえずのみで、あらたな局面をひらくということに恐怖のみをもち、その恐怖表現として軍事用語をつかっているようである。
 しかし、
 「作戦中止」
 とまでは、クロバトキンは言いきれない。多少の尾ヒレをつけておく必要があった。それはロシア帝国のためではなく、かれ自身の官僚的立場をまもるためであり、もし後日、ロシアの宮廷からかれの弱腰を衝かれた場合、それを言いのがれるための配慮だけはしておかねばならなかった。
 要するに、かれはその配慮による作戦だけを用意する。それによって兵を死なしめるのだが、専制者(皇帝)が支配する国家の兵というのは、つねにそういうものであった。独裁者の機嫌を損じまいとする官僚たちの保身のために兵たちは死なねばならず、死んでもむろん、そういう国家の兵士である以上、その死は当然な死であり、さらには皇帝と表裏一つになっているギリシャ正教の宗教的権威がかれらを天国へ送りとどけてくれることだけはたっぷり保証されていた。
 「配慮的作戦」
 として、クロバトキンは、各軍司令官への手紙でこのように書いた。
 「中止としても真に中止するわけではなく、決戦を三月まで延期しようということである。三月になれば欧露からのわが増援兵力(大山・児玉がもっともこれをおそれていた)が、戦場に到着する。それを待って積極作戦をやろうというのである。それを待つのだが、待つだけでは士気が弛緩するであろう。士気を振起するための攻撃だけはやる。これがために沈旦堡を攻める。攻めて黒溝台をとれば、それでもって攻撃を停止し、三月の増援兵力の来着を待つ」
 というものであった。
 当然、この手紙によって第一線の各軍司令部は混乱した。
 かれらはみな反対した。 
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■奉天会戦では三十余万のロシア軍に対し兵力の弱小の日本

<本文から>
 奉天会戦というのは、日露両軍にとってこれほどつらい戦いはなかった。
 児玉は毎朝、未明に総司令部の舎屋のそとへ出て、太陽を待った。太陽が昇りはじめると、懸命におがんだ。
 「なんとか勝機をつかませていただきたい」
 というのが児玉の願いであったが、戦いの現実は勝機をつかむどころではなかった。
 連日、激烈な砲戦が見わたすかぎりの曠野でくりかえされ、三十余万のロシア軍に対し、歩兵、工兵による陣地攻撃戦が何昼夜もつづき、さらに騎兵団による突撃が反復されたが、戦況は好転せず、むしろロシア軍の押しかえしのために日本軍の一部がくずれるという現象が頻発した。
 (勝機、勝機)
 と、児玉はこの錯綜した状況と混乱のみがつづく事態のなかにあって敵が見せるかもしれない破綻をうかがいつづけ、それを勝機にしようとしたが、しかし容易にみつからなかった。とはいえ児玉は巨大な勝利などをねがっているのではなかった。
(なんとかこの一戦で優勢の位置を占めたい)
 というのが懸命な願望であり、戦局を優位でむすぶことによって講和気運を成立させようとし、かつ講和交渉をできるだけ有利に展開させうる基礎をつくろうとしていた。
(この一戦で日本の戦力は冬きる)
 ということを知りぬいている児玉は、講和のことについてはたえず東京の山県有朋と連絡をしていた。
 が、計画を練りぬいたかれの奉天作戦をもってしても、兵力の弱小という致命的な欠陥は覆うべくもなく、ロシア軍はその大兵力をもって悠々と応対しているかの観があった。
▲UP

■負けるはずのないロシア軍の敗因はクロバトキン一人による

<本文から>
 「これが日本兵か」
 と、かたわらの師団参謀長をかえりみてつぶやいたくらいであった。日本兵の質はすでにここまで低下していた。師団長みずから飛びだしてこの潰走兵のひとりをつかまえて実情をきくと、
 「仕方がねえんです」
 と、真っ蒼になって繰りかえし、どこかへ逃げ去ってしまった。かれらのいうところを総合すると、ぼう大な兵力をもつ敵が劉家棚方面から襲来してきたため、これに対して防戦したところ幹部はことごとく戦死して兵のみになり、命令する者もおらず、めいめいが必死で逃げたのだという。
 大島自身の手もとにはわずかに護衛騎兵がいるだけであり、この師団最強の部隊である一戸少将の旅団はまだ到着しておらず手の打ちようもなかった。
 乃木希典はこの急報に接して大いにおどろき、永田砲兵旅団と歩兵旅団を大石橋へ急行させた。
 大石橋の惨戦を救ったのも、火力であった。永田砲兵旅印は現場につくや、師団砲兵の右につらなって百五十門の野砲、山砲の放列を敷き、わずか二千メートルの距離で迅速射撃をおこない、敵をようやく撃退した。
 以後、連日このような状況が乃木軍を見舞いはじめた。
 奉天会戦は、どうみてもロシア軍が負けるべき戦いではなかった。
 兵力、火力ともに日本軍よりも格段の羞で優位に立ち、さらには兵員の質も欧露から補充された若々しい士卒が多数を占め、日本軍のような後備の老兵をもって軍隊の質をふやけさせているといった事情はなかった。
 が、作戦で敗れた。それも徹頭徹尾、作戦で惨敗した。ロシア軍の恥辱はその師団長以下の責任にあるのではなく、むしろ師団長以下の勇戦敢闘ぶりは日本軍のそれにくらべて遜色がすくなかった。かれらは命令に従順であり、守れといわれれば死守し、進めといわれれば弾雨をおかしてすすんだ。秩序のゆるんだ軍隊にありがちな抗命現象はほとんどなく、勝手な状況判断で退却するような部隊もなかった。退却もまた命令によって退却した。その進退整然たる実態からみても、世界一の陸軍国といわれるにふさわしかった。
 ロシア軍の敗因は、ただ一人の人間に起因している。クロバトキンの個性と能力である。
 こういう現象は、古今にまれといっていい。
 国家であれ、大軍団であれ、また他の集団であれ、それらが大躓きに躓くときは、その遠因近因ともに複雑で、一人や二人の高級責任者の能力や失策に帰納されてしまうような単純なものではなく、無数の原因の足し算なり掛け算からその結果がうまれている。
 が、奉天会戦にかぎってはただひとりのクロバトキンに理由がもとめられる。その意味ではこの満州の境野で戦われた世界戦史上最大の規模の会戦は、古今の珍例といってよかった。
 乃木軍司令部の大尉参謀である津野田是重は、
「総司令部の作戦は巧緻すぎて感心しない」
 などと批判したが、しかしながら大山の堅牢無比な統帥カによってささえられた児玉・松川の作戦−ほとんど芸術的といってもいいような−計画は、遂行途中でおこった無数の不慮の事態にも屈することなく、いっさい当初の計画を動揺させることなく、それを実施し、いざそれが実施されるや、ほとんど一方的な将棋を指しすすんでクロバトキンを翻弄しっづけた。
 クロバトキンはその作戦を立案する段階では威勢がよかったが、実際の戦場にのぞむと、日本側が一手指してくるごとに、一手ずつ日本側の思う壷にはまった。この作戦期間中、ひとつとしてクロバトキンがみずからの主導的プランで作戦を決定したことはなく、会戦の全期間、日本軍の思うままになって右往左往した。
 日本側が鴨緑江軍を陽動のために東部へ突出させるとクロバトキンは大あわてで大軍を東部へ走らせ、さらに乃木軍がこれも包囲と陽動をかねて西部から出てくると、クロバトキンは火事場の火の手を消すようなさわぎでいったん東部にやった兵力を西部まで走らすなどしたためロシア軍はいたずらに奔命につかれ、さらには軍団のなかの小単位をあちこちをひきぬいては予備隊にしたり、救援軍にしたりしたために建制秩序がくずれ、団隊長みずから自分はたれの命令をあおぐべきかどうかということがわからないほどに、指揮系統が寸断されたり混乱したりして、組織が大いに弱体化した。
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■全滅を逃れたのはクロバトキンの神経と思考力の混乱にあった

<本文から>
 何度歩兵攻撃を仕掛けてもそのつど撃退された。ついに第二十旅団長の少羽今橋知腰もたおれ、三月五日未明に一いたっては逆にロシア軍から大逆襲をうけ、ある中隊のごときは軍曹一人と兵卒十五人が残るだけといったふうな大損害をうけた。この五日一日だけの第十師団の損害は二三六二人というぼう大さであり、師団としての力は減退し、生きている士卒も数日間の不眠と疲労で立ちあがることさえ困難なほどであった。もしロシア軍が、もう一度大逆襲を試みれば第十師団は全滅したであろう。
 ところがこの方面もまた、クロバトキンによって救われた。七日夜になってロシア軍はみずから天瞼と堡塁をすてて退却してしまったのである。
 奇妙というほかなかつた?
 万宝山堡塁線のロシア軍は、「近世ノ学理ヲ応用シクル半永久築城」によって保護されていたためその損害は日本軍の半分もなかった。かれらは十分な活力をもちながら退却した。
 この原因は、クロバトキンの神経と思考力の混乱にあるであろう。それを混乱させたのは無理押しながらも迂回北進しつつあった乃木軍であった。その乃木軍をそのように運動せしめた大山・児玉の作戦計画と遂行力の勝利であり、いずれにせよクロバトキンは一瞬といえどもかれの積極的創意を働かせるゆとりがなく、大山・児玉の設けた陽動擬装、陥穿にことごとくひっかかり、ふりまわされ、陥ちこんだ。戦術戦略というものが大山・児玉におけるほどその効果をよく発揮した例もまれで、一方それ以上まれであったのは、これほど敵の戦術というものにふりまわされた将軍も、クロバトキンをのぞいて例は多くはない。
 すぐれた机上戦術家であったクロバトキンは、つねに戦術の要諦である攻勢を考えていた。かれは奉天会戦においても紙の上の攻撃計画は何度もたてた。かれの兵力が強大であったためにもしこれを実施すれば日本側にとっておそるべき結果になったであろうが、かれが実際家でなかったことが日本側に幸いした。かれのその攻撃計画は実施段階になるとつねに守勢計画に一変した。日本軍の先制や陽動に即物的にふりまわされすぎたからであった。
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■乃木軍の大潰乱と大敗走は公表を禁じられてきた

<本文から>
 さらに三月八日、乃木軍の第一師団正面は、逆襲してくるロシア軍でさかまきだつようであった。ロシア軍は乃木軍の中央兵団である第一師団と左翼の第九師団に攻撃の重点を指向した。
 乃木軍の大潰乱と大敗走がおこなわれたのはこの第一師団においてである。これほどの大潰乱は日露戦争以来、日本陸軍においてはじめて発生したもので、その後ながく世間では公表を禁じられてきた。参謀本部編の「日露戦史」もこの戦略局面での大潰乱については筋だてのみを書き、描写はむろんおこなっていない。
 乃木軍参謀津野田是重が実際に見た情景をかれの文章によって写すと、
 「敗兵のほとんど全部は銃を捨て、剣もなく、ある者は背嚢も帽子ももっていない。甚だしいのになると脚絆も靴もなく、まったくはだしの者もあった。……予は狂奔し、大声疾呼して退却部隊に停止を命じたが、一人としてこれに応ずるものはない。はからずも歩兵第三連隊の一特務曹長が予のそばをいそいで退却してゆくのを見た。早速呼びとめて退却の制止と隊伍の樺昭に助力を要求したけれども、彼は頭部の負傷を口実にして応じない。試みに頭部の包帯をといてみると、軽微な擦過傷であった。予は憤然として右手にもっていた軍刀の背部でかれの肩肝骨に一撃をあたえて、いやしくも幹部たるものがこのありさまは何だ、と一喝すると、やっと正気に返ったもののごとく、彼は重々その罪を謝して敗兵の収容に冬カした」
 という状況である。
 この潰乱敗走は、一個師団という大きな兵力単位托準這われたという点、未曾有のことであった。日本陸軍にあっては西南戦争の大阪鎮台が弱兵で、その後の兵制による大阪の第四師団がもっとも弱いとされ、東京の第一師団がこれに次ぐとされたが、日露戦争にあっては第四師団に問題はなく、第一師団がそれをやってしまった。
 この原因は無数にあるにせよ、クロバトキンが歩兵七十二個大隊に砲百二十門という大兵力をもって乃木軍を突破しようとしたところにあった。この攻勢のために乃木軍後方の野戦病院までロシア軍の砲火で焼かれ、軍司令部参謀まで火の中にとびこんで傷病兵を救いだすというさわぎがあり、さらには敗走する兵を師団参謀がかけまわってそれを食いとめようとしたりした。
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■ロシア軍の整然な退却

<本文から>
  退却は、整然とおこなわれた。
 たとえばロシアの第一軍はこの日、日本軍の妨害をすこしも受けることなく退却し、夕刻から夜にかけて予定の線である渾河右岸に移った。日本軍がこれを妨害できなかったのは、退却を援護するロシア軍前面の砲火が猛烈だったからであり、さらには追尾してロシア軍を崩壊せしめるほどの戦力をもっていなかったからである。
 ロシアの第三軍も、この日の朝のうちに退却を終了したが、この方面でも日本軍の急追をうけることがまったくなかった。
 ここまでは、クロバトキンの戦術は成功したといえるであろう。かれが揚言したように戦線を緊縮して余剰兵力を乃木軍にむけるならば、すでに攻勢カが伸びきった段階にある乃木軍を全滅させてしまうことも可能であった。
 しかしながらクロバトキンは、智力によって戦術を考えるよりも性格によって戦術を考える人物であった。かれは後方に危機を感じすぎていた。
 「鉄道に危機が訪れている。わが鉄道は、満州軍唯一の後方連絡線であり、この危機を軽視することは、戦争そのものを不可能にすることである」
 と、かれはおもった?かれは、退路や自軍の補給路をみずから断って乾坤一擲の大勝負をするという将軍ではなかった。
 かれのいう「後方連絡線である鉄道」に脅威をあたえつづけているのは、乃木軍に臨時に編入されている秋山好奇の支隊であった。その支隊の実勢力をかれがもし知れば、これほど大がかりな作戦の模様替えはしなかったに相違ない。
 かれはこの鉄道防御のために、第一軍と第三軍から大きな兵力を間引きし、第八軍団長ムイロフ中将にこの指揮をとらせた。このため前線の兵力はいちじるしく減少した。
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■「タイムズ」報道の影響、外交界で懸命な活動をした最初で最後

<本文から>
 もともと英国というのは情報によって浮上している島帝国であるといえるであろう。伝統的外交方針として、ヨーロッパを操作するにあたって「勢力均衡」を原則とした。ヨーロッパにおける一国のみが強大になることをおそれ、その可能性がうまれた場合は、すばやく手をうち、その強国から被害を蒙るべき弱国を陰に陽に支援してきた。アジアについてもそうであった。ロシアがアジアの覇者になることを怖れ、極東の弱小国にすぎない日本を支援し、これと日英同盟をむすぶという、外交史上の放れわざをやってのけたのは、英国の伝統的思考法から出たものといってよく、その英国の伝統的外交政策を可能にするのは、情報であった。
 「タイムズ」の紙面の前には、他のいかなる国家も秘密を存在させないくらいにその活動は活溌であった。
 たとえば、去年の五月十五日、東郷艦隊の虎ノ子である戦艦六隻のうち二隻(初瀬と八島)が、旅順口の封鎖作業中、触雷によって爆沈し、東郷艦隊はその主力艦の三三パーセントを一挙にうしなってしまった。この悲劇以上の悲劇については日本海軍は国内にも国外にも極秘にした。
 しかし「タイムズ」の目だけはごまかすことができず、それが報道された。「タイムズ」に掲載されたということは、世界中がそれを知ったということであった。
 さらにはこのたび児玉が極秘裏に帰京して奉天段階のあとの戦争はきわめて困難であるということを国民にしらせることなく、ほんの数人の要人を説得してまわったが、「タイムズ」はこれについては奉天大会戦がはじまる直前に予想記事を書き、児玉がいった内容を、世界に報らせてしまっているのである。「タイムズ」はきたるべき会戦の
様相を分析したうえで、
 「日本は、現有兵力は敵を粉砕しきるには不十分である。奉天においては集中できるだけの兵力を集中し、ロシア軍に大打撃をあたえるであろうが、しかし奉天以後においてさらに大軍を北進させうるかどうかについては疑問がのこっている」
 この報道はロシアを勇気づけ、英国市民を失望させた。右は日露戦争が世界の環視下でおこなわれていたという証拠であり、そういう大状況からみれば山県と児玉のひそひそ話は多少の滑稽をともなう。
 しかしながら、日本は外交上の打つべき手をできるかぎり打ちつつあった。極東の孤島の上に国家をもったこの国が、そのながい歴史の上で、世界の外交界というものを相手に、舞台上であれ舞台裏であれ、懸命な活動をした最初のことであり、しかもその後これだけの努力を払った例は日本の外交史に出現していない。
 日本は、外相小村寿太郎を指揮者としてうごいている正規の外交機関のほかに、元老の伊藤博文の手もとから派遣した陰の舞台演出家ももっていた。
 米国へは金子堅太郎がゆき、英国へは末松謙澄が行っていた。
 金子はこの戦争中、ほとんどワシントンに居っきりであった。当初かれは伊藤によばれてその使命を言いわたされたとき、ロシアを相手に戦うなどとても無理です、そういう役目は御免こうむりたい、といったん断わったが、伊藤がそのとおりである、しかし自分はそれを育も承知でこのように頼んでいる、万二の場合自分も銃をとって一兵として戦うつもりだが、君もその気になってくれぬか、とまでいったため、金子はそれ以上異を立てることができなくなり、この重大使命の遂行者になった。かれはルーズヴエルト大統領とはハーバード大学でのクラスメイトで、その後も親交が深かった。伊藤は金子を同大統領に接触させることによって、米国に講和への口火を切る役をつとめてもらおうとしたのである。
 この金子堅太郎の派遣と活動は成功した。
 ただし、英国へ行った末松謙澄の場合は、成功といえるような結果はえられなかったといっていい。
 末松は、幕末における長州藩の革命史である「防長回天史」の著者として知られている。
 明治型のはばのひろい教養人で、文学博士と法学博士のふたつの学位をもっている。かれは「源氏物語」を英訳してはじめて日本の古典文学を海外に紹介したことでも知られ、さらには新聞記者時代に多くの名文章を書き、つづいて官界に転じ、伊藤博文に見こまれてその娘むこになり、つづいて衆議院に出、のち逓信大臣や内務大臣にも任じたといういわば一筋縄ではとらえがたい生涯をもっているが、外交をやる上での最大の欠点はその容姿が貧相すぎることであった。
 さらにはこの小男が説くところが誇大すぎるという印象を英国の指導層や大衆にあたえた。末松は、
 「昇る旭日」
 といったふうの日本宣伝をぶってまわった。不幸なことに英国人は日本が「昇る旭日」のごとく成長することを好まなかった。末松はその講演速記を本にして刊行した。無邪気で楽天的な明治男子の文章であり、元来、日本国家が末松が説くほど栄光にみちた過去をもち、またいかに将来への希望にみちた国であろうとも、英国人には関係のないことであった。英国人はかれの無邪気さを冷笑し、ほとんど黙殺した。
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■日本がロシアに賠償金をとろうとしたとき西洋は反対した

<本文から>
 日本はこの戦争を通じ、前代未聞なほどに戦時国際法の忠実な遵奉者として終始し、戦場として借りている中国側への配慮を十分にし、中国人の土地財産をおかすことなく、さらにはロシアの捕虜に対しては国家をあげて優遇した。その理由の最大のものは幕末、井伊直弱がむすんだ安政条約という不平等条約を改正してもらいたいというところにあり、ついで精神的な理由として考えられることは、江戸文明以来の倫理性がなお明治期の日本国家で残っていたせいであったろうとおもわれる。
 要するに日本はよき国際慣習を守ろうとし、その姿勢の延長として賠償のことを考えた欧州にあっては戦勝国が戦敗国から戦費をまきあげることは当然なこととされており、まして欧州各国が十九世紀以来、中国その他アジア諸国に対しておこなったことは、たとえば英国が香港をまきあげ、フランスがベトナムを領土化し、ロシアが遼東の地をとり、ドイツが膠州湾をかっぱらったのは、すべて小さなトラブルを言いがかりにしてときには戦争に訴え、ときには武力でおどしあげてそれらのことをやってのけた。幕末の日本にあっても、長州藩が四方国艦隊と戦い、薩摩藩が英国艦隊と戦ったときも、幕府はその賠償金を支払わされ、幕府瓦解後は明治国家がその残金を支払った。
 ところが日本がロシアに対して戦勝してその賠償金をとろうとしたとき、
 「日本は人類の血を商売道具にし、土地と金を得る目的のために世界の人道を破壊しようとしている」
 と米紙は極論して攻撃したのである。米紙のいう「人類の血」とは、白人であるロシア人の血のことをさすのであろう。中国などに加えたアジア人の血に対しては欧米の感覚ではどうやら「人類の血」としてはみとめがたいもののようであった。
 日本の陸戦に観戦武官として従軍した英国の陸軍中将イアン・ハミルトンでさえ、日本軍にあれほど好意をもちながら、日本兵の戦死者をみて傷むといった文章はなく、むしろロシアの若い兵士の戦死体をみてその容貌の美しさをたたえ、おなじアーリア人種としての心の傷みをまるでその親戚の看であるかのような感情で表現しているほどである。
 そういうなかにあって、ルーズヴエルト大統領の態度はきわめて公平であったかれが日本海海戦の直前の五月十三日付で、サー・ジョージ・オット・トレヴエルセンにあてた手紙に、
「自分はロシア人を愛するが、しかしロシアの国体を好まない。一方、日本人については自分は将来、文明の重要な分子として尊重してゆきたい」
 と、書いている。文明という白人のみの国際的な特別クラブにアジア人の一派である日本人を加入せしめたいということを文章でのべた列強の首脳は、おそらくルーズヴェルトをもって最初の人とすべきであろう。
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■八重山決死隊のエピソード

<本文から>
「かれらが往路海上十五時間を漕いで八重山群島の石垣島の東側にある伊原間に着いたのは深夜だった。岸へ着けようとすると、舟が浅瀬に乗りあげた。
 どうにもならぬ、陸路を駈けるばかりだ、と垣花善は決断し、垣花と与那覇蒲だけが上陸し、深夜の山道を駈けることにした。
 石垣島は、シャモジのようなかたちをしている。シャモジの柄が北方で、かれらはその柄のあたりに上陸したことになる。目的地の石垣(いまの石垣市)はシャモジの頭のほうにあり、道路距離は約三十キロであった。
 夜どおし陸路を走りつづけた二人が、島の首邑の石垣にある八重山郵便局にとびこみ、宿直の局員をたたきおこしたのが朝四時だったという。かれらは宮古島の島司からわたされた御用箱を所員に手渡したときは、立っておられず、しやがみこんだ。
 すぐさまこの八重山海底電信所から、
 「敵艦見ゆ」
 という電信が、那覇の県庁と東京の大本営にむかって送られた。
 この発信の時間に諸説があり、なにぶん垣花らは時計をもっていなかったし、それに自分の行為がのちに記録されるに足るものだと思わなかったため、あいまいになってしまった。昭和九年になってから世間がさわぎだしたとき、八重山郵便局でも打電の記録をさがしたが、見当たらなかった。東郷艦隊の哨戒艦信濃丸が「敵艦隊見ゆ」を打電したよりやや遅れたことだけはたしかである。
 この宮古島の五人のことについては、かれらのやった悽愴としかいいようのない往路十五時間の力漕もさることながら、それ以上にこの時代の日本の田園社会の人間がどういうものであったかを示す極端な例をそこにみることができる。
 かれらがその後、沈黙してしまったということである。なおかれらはその妻にも語らなかったということは、すでに触れた。出発について目的や行先をその妻に告げなかったということは、かれらが島司から「国家機密だから」ということで電文原稿を入れた御用箱というおもおもしいものをあずかったという緊張がそうさせたのかもしれない。が、その緊張も機密性も無用になってしまったはずの戦後もなおかれらが口外しなかったというのは、この時代の田園社会に住むひとびとがほぼそうした精神であったとおもわれる。謙虚ということもあるであろう。謙虚であること以前に、ひとびとの行為といぅものは国家から表彰されることによって価値を生ずると思いこんでいる庶民が多かった時代であり、半面、表彰もされないのに自分で自分の行為に価値を見出して顕示するという庶民も田園ではまれであった。
 要するにこの五人の事歴は、宮古島の久松あたりの漁村でうずもれてしまっていた。当時、電報をうけとった大本営も、沖縄の八重山郵便局からも電報がきていた、という程度の認識しかなく、その電報が打たれるにいたるまでのいきさつなどは知らなかった。当時、大本営の海軍参謀だった小笠原長生少佐も、晩年、退役中将として余生を送っている時期にこのことが話題になったが、ひとに質問されて、
「さあ、いまとなってはその電報が何時に入ったのか、どうも思い出せない。なにしろ信濃丸の第一報をはじめとして、ほうぼうからぞくぞくと電報が入っておりました。八重山からのはそのなかの一つだったのでしょう」
 と、語っている。
 この五人の話は大正期に入って、島袋源一郎というひとが簡単にまとめて記録したが、世間の目にふれなかった。
 大正六年、稲垣国三郎という人が、広島高等師範学校付属小学校から沖縄県の首里にあった沖縄師範学校主事に転任して、着任早々、土地のひとからこの話をきき、学校の休暇を利用して宮古島へゆき、生き残りのひとびとから農をきいて、「決死五勇士秘話」というみじかい文章を教育関係の刊行物に書いた。
 その文章が、昭和二年になって五十嵐力絹の中等国語教科書にも転載された。それでもなお世間に知られることが薄かったが、この国語教科書を採用した女子学習院教授伴しげ子というひとが教科内容の研究に熱心で、教科書に書かれた以外の事実を調べたいとおもい、宮古島の平良町の仲宗根勝米町長と何度も手紙を往復するうち、沖縄県知事もこのことをすてておけなくなり、昭和五年、すでに孫もちの年齢になっていた五人の連中に金一封を贈った。かれらが宮古島から石垣島まで決死の航海をしてから二十五年の歳月が経っている。
 この事実が日本中に知られるにいたるのは、昭和九年五月十八日付の「大阪毎日新聞」が大きく報道してからである。
 「日本海海戦秘史」
 というカットが入り、「四青年決死の冒険・遅かりし一時間」という見出しになっている。遅かりし一時間とは信濃丸の第一報発信からかぞえて一時問おそかったという意味である。五人が四人になっているのは、すでに一人病没して四人が存命中の時期であったため、当時の人数も四人だったとおもわれたのかもしれない。かつて大正のはじめこの話を最初に取材した沖縄師範学校主事稲垣国三郎教諭が、この時期には大阪市立愛日小学校長になっていた。記者はおそらく稲垣氏から取材したのであろう。
 この記事が出て海軍省がおどろき、すぐ表彰の手続きをとったため、宮古島で健在だった四人がはじめて当時のことを語りはじめたが、しかし四人の記憶でも時間関係があいまいになっていた。
 垣花善はすでに六十になろうとしていた。かれは元来が陽気なたちだったので、島のあちこちから当時の話をしてくれとたのまれると出かけてゆき、酒のご馳走になってはくりかえし語った。
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