司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          坂の上の雲6

■好古は窮地でも馬と動かなかった

<本文から>
 好古は、水筒のそばに、装弾したピストルを置いてある。敵の駒兵がこの司令部に突っこんできたとき、そのときはもうやむなく、
  −ポンとやるつもりだった。
 と、のちに語っているが、実際のところそれ以外にない。
 「これからどうなさいますか」
 「どうもこうもないよ」
 好古は、田村の顔をみて、二ヤリとわらった。持ち駒(予備隊)も出しきっている上に、援軍にきたはずの立見尚文の弘前師団自体が途中で故に包囲されて立ち往生してしまっている以上、好古としては。自分が死骸になってしまうまでここに踏みとどまっている以外にない。
 そのあいだも司令部の前後左右に砲弾が落ちては爆発し、このままではこの司令部が吹っとんでしまうのも時間の問題のようにおもわれた。
 「おれに出来ることは、こうしてここにすわっていることだけだ」
 と、好古は立っている田村に水筒のフタをわたし、ブランデーを注いでやった。田村がためらっていると、
 「飲め。焼酎よりはうまい」
 といった。
 そのうち、沈旦堡の豊辺大佐から伝騎がやってきた。伝椅は帽子のヒサシの下が鉄色に焼けた曹長である。
 曹長は、好古の副官になにごとかをいった。
 好古は靴をはいて、床に立ち、
 「それはいかん」
 と、まずいった。言いながら好古にとって豊辺大佐がまだ生きて活動しているということじたいが、奇蹟のようにおもわれた。
 豊辺大佐が具申してきたことは、
 「馬を後方へ退げたい」
 ということであった。
 騎兵が馬に乗らず徒歩兵になって防戦している。このため馬は後方の壕の中に入れて繋いであるのだが、なにしろ砲火がひどいため、馬がどんどんやられてゆく。馬が不要である以上、後方へさげてはどうか、という豊辺大佐の申し出は当然であった。
 が、好古の考えはちがっていた。
 (それなら、ただの歩兵になるじゃないか)
 という思いが、まずある。
 好古が日本の騎兵科をつくりあげたが、日本の陸軍の幹部たちは騎兵というこの短時間に長距離をゆく能力をもった奇妙な兵種が、どうしても理解できず、つねづね、
 「騎兵など無用の長物」」
 という声を放ってきている。しかも児玉源太郎にしても松川敏胤にしても騎兵集団である秋山支隊を防御につかうということをやってのけた。いわば、歩兵になってしまった。
 げんに豊辺椅兵大佐は、いま沈旦堡にあって歩兵として敵をふせいでいるのである。馬だけは余分であった。
  −が、その余分であることを、いまわしが認めればどうなるか。
 と、好古はおもうのである。最高司令部の無理解はともかく騎兵自身が、自分が騎兵であるという意識が薄くなるのではないか。
 好古は、このため反対した。
 「騎兵はな」
 と、つけ加えた。
 「馬のねきで死ぬるのじゃ」
 ねきというのは、そばという意味の伊予ことばである。
 (こいつは、むずかしいところだ)
 と、横できいていた田村守衛騎兵中佐はおもった。田村もまた好古のいわば弟子だが、しかしこの場合、馬をいたわったほうがいいのではないか。馬の補充は十分ではないし、それに前線に繋いで馬を無用に死なせることはないであろう。
 げんに皇辺大佐の部隊の馬の死傷は百五十余頭におよんだから大きな損害であった。
 しかしながら好古はあとあとまで、
 「あれでええ」
 と、持説を撤回しなかった。かれは、最後の一兵になるまで陣地を死守せよ、という極端なことばはついに吐かなかったが、これは一つはその代わるべき表現であったかもしれない。 
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■戦国期の勝つための態勢作りが江戸時代に無くした

<本文から>
 もともと戦争というのは、
「勝つ」
 ということを目的にする以上、勝つべき態勢をととのえるのが当然のことであり、ナポレオンもつねにそれをおこない、日本の織田信長もつねにそれをおこなった。ただ敵よりも二倍以上の兵力を集中するということが英雄的事業というものの内容の九割以上を占めるものであり、それを可能にするためには外交をもって敵をだまして時間かせぎをし、あるいは第三勢力に甘い餌をあたえて同盟へひきずりこむなどの政治的苦心をしなければならない。そのあとおこなわれる戦闘というのは、単にその結果にすぎない。
 こういう思想は、日本にあっては戦国期でこそ常識であったが、その後江戸期にいたって衰弱し、勝つか負けるかというつめたい計算式よりも、むしろ壮烈さのほうを愛するという不健康な思想−将帥にとって−が発展した。
 江戸期という、世界にも類のない長期の平和時代は、徳川幕府独特の治安原理の上で成立している。体制原理によって、幕府は諸大名以下庶民にいたるまで競争の精神を奪った。このことが江戸期日本人全体から軍事についての感覚の鋭敏さをうしなわしめたということがいえるであろう。
 その屈折した結果として、江戸期の士民を感動させた軍談は、ことごとく小人数をもって大軍をふせいだか、もしくは破ったという奇術的な名将渾であり、これによって源義経が愛され、楠木正成に対しては神秘朗な畏敬をいだいた。絶望的な籠城戦をあえてやってしかも滅んだ豊臣秀頼の、大坂ノ陣は、登場人物を仮名にすることによって
て多くの芝居がつくられ、真田幸村や後藤又兵衛たちが国民的英雄になった。その行為の目的が勝敗にあるのではなく壮烈な実にあるために、江戸泰平の庶民の心を打ったのであろう。この精神は昭和期までつづく。
 が、ロシア人の戦いの思想は、勝つ態勢にまで味方の兵力がととのわないかぎり戦うことをしない。それでもなお作戦の至上要求として戦えと命ぜられれば、みずからを壮烈に感じて陶酔するよりも、むしろ士気が沈滞し、ときには降伏したりしてしまう。ヨーロッパ各国がたえまない戦争によってその文明をおこしてきただけに、日本の戦国期のひとびとのように戦争の本質というものを知っていたからである。
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■ロシアは独裁皇帝制度によって負けるべくして負けた

<本文から>
 考えてみれば、ロシア帝国は負けるべくして負けようとしている。
 その最大の理由 −原理というべきか− が、制度上の健康な批判機関をもたない独裁皇帝とその側近で構成されたおそるべき帝政にあるといっていい。
 この帝国は皇帝の気分とその気分に便乗する側近たちによって極東侵略政策をおこし、反対者であったウィッテらを追放し、ついに日本を戦争へ挑発した。このため勝つための計画などはすこしもない。
 「すこしも」
 というつよい言葉をつかったのは、日本の準備がロシアとかけはなれて計画的であったからである。立憲国家である日本は、練度は不十分ながら国会をもち、責任内閣をもつという点で、その国家運営の原理は当然理性が主要素になっている。ならざるをえない体制をもっていた。
 陸海軍も、その後のいわゆる軍閥のように「統帥権」をてこにした立憲体制の空洞化をくわだてるような気配はすこしもなく、統帥上は天皇の軍隊ということでありながら、これはあくまでも形而上的精神の世界とし、その運営はあくまでも国会から付託されているという道理がすこしもくずれていなかった。。この点、ロシアと比較してみごとに対照的であるといっていい。
 「ロシアの極東侵略は異常に急速度になっている。いずれ日本との衝突は必至であろう」
 という判断が一般的になったのは明治二十七、八年の日活戦争終了後であった。海軍の場合、明治二十九年、対露海軍力の建設(第二次拡張計画)のために十カ年計画で予算一億一千八百万円という案が国会を通過し、三笠以下の戦艦四隻、八雲以下の装甲巡洋艦六隻、笠置以下の二、三等巡洋艦六隻といった東郷艦隊の骨格が、きわめて計画的につくられるにいたるのである。
 それらの軍艦ができあがっても、ロシアのようにすぐ戦場でつかおうとするのは無理であり、使いこなせるまでの「練度」が必要であった。日本海軍の理性はこれらの新品軍艦の「練度」の期間まで計算に入れたことであり、この計算も要素になって開戦の日が決定されている。「皇帝の気分」によって侵略の火あそびと戦争が決定されるロシアとはおどろくべきちがいがあった。
 要するにバルチック艦隊は、軍艦はうごかせてもそれを使いこなせるまでの棟度においてきわめて欠けている。致命的な欠陥のひとつといえるであろう。
 その理由はくりかえしていうが、
 「皇帝がいそがせた」
 というだけである。皇帝がいそいだのは、日露海軍の比較をまじめにやつたこともない側近が、
 −極東において快勝をおさめることによって国内に充満している革命的気分を散らせる。
 という国内政治的な理由で進言したことが主たる動機になっていた。政治と作戦とはべつべつに考察されて大政略が決定されるべきものだが、独裁皇帝とその側近にはそういう計画性があるはずがなかった。日露両艦隊のトン数と砲の数をかぞえてロシアが優勢であるとし、こういう未熟艦隊を極東に派遣したのである。
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■ロシアは危害をあたえた国から憎まれていたため明石の工作が成功する

<本文から>
 「しかしながら自分にはその能力がない」
 と、明石はいかにもこまったという表情をしたため、カストレンは大いに笑い、
 「そればかりは私にもその能力がない」
 と、いった。
 「だから、動いてくれる人を得たい。たれかよき人を紹介してもらえまいか」
 と、明石はあらいざらいに手の内をうちあけた。じつはヨーロッパにおいて諜報をやらねばならぬというのにこの明石ひとりしかいないという心細さなのである、ともいった。
 「しかし軍事上のスパイをやることは、われわれにとって有害である」
 と、あとになってそれに協力したのに、このときはシリヤクスのほうが難色を示した。独立や革命運動をしているだけでも、ロシアの高等警察の探偵が、自分たちの身辺をびっしりと押しつつんで身うごきもできぬほどに警戒している。その状況下でわれわれが軍事スパイまでやればかれらの付け入るところとなり、運動に重大な支障をきたすだろう、ということであり、いかにも過激派の領袖らしい考え方であった。
 が、シリヤクスの党よりも温和な党をひきいるカストレンのほうが、この場合はげしかった。
 「それはもっともなことだ。しかしわれわれも帝政ロシアをたおすことが第一目的である以上、あらゆる手段を講じ、あらゆる機会をのがさず、あらゆる労を惜しんではならない?大佐、私はよろこんで協力しましょう」
 と、言い、その場で電話をとりあげた。
 電話は、スウエ上アン陸軍の参謀本部につながれた。明石は、おどろいた。
 フィンランド独立の老志士であるカストレンは、スウェーデン陸軍にまで顔がきくのである。考えてみれば、スウェーデン王国がロシアから受けている脅威は、まがりなりにも独立国であるだけに野のフィンランド人以上に大きく、それをじかに感じているのは、スウェーデン陸軍の参謀本部であった。
 (ロシアは、危害をあたえたあらゆる国からこれほどまでに憎まれている)
 という明石にとってすばらしい状況を、いま目の前の電話で知ることができたのである。
 カストレンが電話口によび出したのは、スウェーデン陸軍の参謀大尉アミノフという人物であり、すぐ用件に入り、すぐ決定した。
 この電話は、ほどなく実をむすんだ。アミノフ大尉はその同志であるクリンゲルスチェルナ中尉と協議をし、ベルゲン少尉という者を明石の探偵としてロシアに派遣することにしたのである。
 これだけの重大なことが、カストレンと会って一時間後に決定し、将来にむかってはげしくうごきだすことになった。
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■工作員の明石はこうと見込んだ人物に対しては

<本文から>
 明石は、妙な才能があった。
 かれは彼自身金銭にむとんじゃくな性格をもっていたくせに、金銭というものの出納能力についてすぐれていたことであった。このことはかれの活動に大いに役だった。
 かれがいかに公金について几帳面であったかといえば、工作費として東京から送られてきた百万円をつかってゆく上でいちいち使途を記録し、のち東京にもどったとき二十七万円の残金があった。かれはそれを参謀本部次長長岡外史に返済している。
「元来、仕事の性質が性質だし、返す必要のない金なのだが、明石は受取書や使途の書付などをつけて返した」
 と、長岡は明石の死後、語っている。もっとも厳密には百ルーブルだけ帳尻があわなかったが、これは帰国の途上、列車の便所のなかで札をかぞえているとき、うっかりおとし、そのまま下へ吹きとばされてしまったからである。
 ストックホルムでの明石は、
 「工作者や諜報者にあたえる金をどのようにして支出すべきか」
 を、カストレンとシリヤクスに相談した。明石はこうと見込んだ人物に対しては、少年のような無邪気さで一から十までものをきくところがあった。この美質(というべきだろう)が、明石の仕事の回転をすべりよくした。
 「ああ、それならいい人物がいる」
 と、カストレンが即座にいった。かれの同志に、リントベルクというストックホルムでも十指のなかに入る豪商がいるが、かれに金をあずけておけば為替や出納などのいっさいを代行してくれるだろうというのである。
 明石はこの両人を信ずるがゆえに、そのリントベルクという人物を信じ、そのすすめにしたがった。
 このことは、成功した。あとで明石がリントベルクに会ったとき、この貿易商は、
 「私は無償であなたのための代行者になる。そのために露偵に射殺されてもかまわない。日本のためにはかることはロシア帝国を衷弱させることであり、とりもなおさず、スウェーデンとフィンランドのための最高の愛国行為になる」
 といった。彼は明石を通じて非常な親日家になり、のち日本政府が彼に名誉領事をひきうけてもらったりしている。
 明石はかれらを知ることによって、つぎつぎに地下運動の志士を知り、さらにはロシア軍人にして革命の志を抱く者をも知り、かれらに要務をさずけては、資金を渡した。ついには営利のための職業的なスパイも使った。
 「情義的な動機で仕事をしてくれる者より、むしろ金だけを目的とした職業的スパイのほうがはるかに役に立った」
 と、明石はのちに語っている。
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■ロジエストウェンスキーは小皇帝で海軍戦術がなかった

<本文から>
 かれは、東郷ほどでないにしても、射撃訓練はたえずやっていたし、魚雷発射訓練もやった・ときどき外洋に出て艦隊運動の訓練もしたが、しかしそれをやるたびにかれの癇癪が爆発した。
 「ろくな艦長がいない」
 というのが、かれのロぐせであった。かれの艦隊にもすぐれた艦長が何人もいたのだが、しかし不幸なことにこの艦隊は艦隊としてにわかに編成したものだけに、ロジェストウェンスキ−艦隊としての個性ある運動律を艦長たちはのみこんでいなかったのである。さらに艦長側からいえば、ロジェストウェンスキー自身が、戦艦の戦隊はこういう運動をとれ、とか、二等巡洋艦の戦隊はこのような陣形を原則として足なみをそろえよといったようなことを指示したことがなかった。
 すなわち戦策や戦則が示されていなかった。もっと端的にいえばロジェストウェンスキーの頭には海軍戦術というものがなかった。
 そのことはロジェストウェンスキーの無能さをあらわすのではなく、この時期までの世界の海軍というのは艦隊同士の決戦といっても、軍艦と軍艦とがてんで人ばらばらに叩きあうというのが実情で、艦隊自身が、作戦原理をもち、各戦隊がラインダンスのように足なみをそろえてうごき、それぞれの機能と特性をもつ戦隊が、それぞれの目的をあたえられて動きつつ艦隊そのものの総合目的のなかで機能化するというようなことを考えたのは、すくなくとも実戦者としては日本海軍が世界で最初であった。
 「円戦術」
 というものを考えついたのは、いま鎮海湾で「笠置」の艦長をしている山屋他人であり、山星が後輩の秋山真之の存在を知って研究をやめ、真之を激励する側にまわり、日本海軍そのものが戦術研究のいっさいをこの天才にまかせきったときに、世界で最初に艦隊決戦の戦術というものが成立するのである。
 そういう点ではロジェストウェンスキーは世界の海軍の水準的な提督であるということはたしかで、ただそれ以上の人物でないというだけのことであった。さらにいえば、ロジェストウェンスキーがたとえ天才的な戦術を考案したとしても、かれが持たされている艦隊は、世界屈指の大艦隊であるというだけで、各艦をみればその性能があたらしい主力艦のほかはそろっておらず、多分によせあつめの傾向がつよいという点で、その戦術をほどこすことはいくぶん困難がともなったかもしれない。
 しかしながら、ロジェストウェンスキーが予定している戦術は、ひどく珍妙なところがあった。病院船や工作艦まで決戦場につれてゆくのは戦士としての思考ではないであろう。それらは上海港あたりに置きざりにすべきであったが、かれの戦術は逆であった。かれの思想は、この史上空前の大航海艦隊をひきいながら、いざ決戦というとき、その全艦隊をあげてこれらの汽船の護衛艦隊たらしめるというもので、あきらかに問題がサカダチしていた。かれはすぐれた船乗りであったが、しかしもし将領としての資質があれば、この考え方を幕僚に謀ったり、艦長会議をひらいて検討させたりしたはずだが、それをしなかった。
 かれはこの点で、ニコライ二世がかれを寵愛したようにきわめて帝政ロシア的な男であり、つまりは小さな皇帝であった。かれには独裁以外の統御法は考えられず、この艦隊のツアーリであるかれは、参謀長や幕僚でさえ従卒程度にしかみえなかった。
 小さな皇帝であるロジェストウェンスキーは、ほんものの皇帝がそうであるように私心がなかった。この場合の私心という言葉には定義が必要だが、要するに国家そのものが自分であるという意味において中国の清朝の歴代の専制皇帝たちに私心がなかったように−恣意はあっても−専制ロシアの皇帝には私心のもちようがなかったというべきかもしれない。
 皇帝が専制者である以上、その皇帝から権能を委譲された派遣軍の最高指揮官はごく自然なかたちで典型的専制者になる。その意味ではロジエストウェンスキーは模範的な小皇帝であった。かれはペテルブルグの物わかりのいいロシア高官たちがごく日常的な汚職常習者であったというようなこととくらべれば、皇帝が清簾なように清廉であった。
 ニコライ二世でさえ、観念的には終始国民のことを考えているように、ロジエストウェンスキーも、かれ自身の観念のなかでは水兵の給与とか休養とかといったいわば優しい心づかいでいっぱいであり、こういう点では申しぶんないように思われるが、それだけに逆にいえばかれにとって全水兵が敵であり、全艦隊が憎悪の対象であるという矛盾が、矛盾でなくて自然に成立しているのである。清廉でそして無能で、さらには不幸にも艦隊をよくすることのみを考えている強烈な善意の専制者には共通した性格であった。
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