司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          坂の上の雲5

■無責任な師団長への児玉の怒声の場面

<本文から>
 陣地移動を完了した攻城砲は早暁から砲撃を開始した。
 同時に、二〇三高地の砲塁が砲哮し、そのうしろ(東方)にある椅子山の砲台からも、巨弾が二〇三高地の頂上越えに降ってきた。それらが日本軍歩兵壕につぎつぎに落下し、土砂や銃器、人間ときには古い死体を天へ噴きあげた。新陣地についた日本軍の攻城砲の巨弾も、それに対して今日からは沈黙していなかった。報復のために椅子山のベトンにむかって殺到した。
 遠くの敵塁からの砲弾は、轟っと遠雷のような音をひきながら飛んでくる。落下するまで数秒をかぞえることができた。これに対し、日本軍の重砲は、射撃距離がみじかくなったため、
 「くわっ」
 と、みじかく砲哮したかとおもうと、すぐ敵陣地での爆発音がおこった。発射音と爆発音とが、ほとんど同時であった。このことが、山腹で突撃姿勢をとっている歩兵の士気をいちじるしく高めた。
 このとき、児玉は二〇三高地のちかくの丘にのぼりつつあった。椅子山から送られてくる砲弾が、その前後に落下した。児玉は、歩兵の一等卒のごとく山頂にむかって駈けた。そのうしろから、ぞろぞろと参謀懸章の群れがついてくる。軍司令部参謀もいれば、師団参謀もいた。第一と第七の師団長もいた。それらの副官もいる。これだけ多数の乃木軍の作戦頭脳が、一時に弾雨をくぐったのは、はじめてであった。
 児玉のそばに、随行の田中国重少佐が、灰褐色の山土を踏みながら、児玉をかばうようにして行く。そのあとに、砲弾の破片が無数にちらばっていた。小男の児玉を抱くようにして進んでいるのは、少将福島安正であった。このシベリア単碕横断を遂げた男は、おれは空気のようなものだ、という言葉を、いつか吐いた。意味はよくわからないが、自分自身が空気のようになってしまえばシベリアでも横断できるし、弾のなかでも平気で歩くことができる。そういうことかもしれない。
 山頂に達した児玉はそこで伏せ、稜線に双眼鏡を出して二〇三高地の頂上をちかぢかと展望した。死んでいる者、生きて動いている者がよくみえた。山頂の一角をなおも死守している百人足らずの兵の姿が、児玉には感動的であった。かれらは高等司令部から捨てられたようなかたちで、しかもそれを恨まずに死闘をくりかえしている。
 「あれを見て、心を動かさぬやつは人間ではない」
 と、児玉は横の福島に言った。参謀なら、心を動かして同時に頭を動かすべきであろう。処置についてのプランが沸くはずであった。頭の良否ではない。心の良否だ、と児玉はおもった。
 そう思ったために、かれの有名な怒声の場面が、そのつぎに炸裂するのである。
 なぜなら、ぞろぞろあがってきた師団長や参謀たちは、なにか義務的にこの上まで登らされたように、ぼんやりしている。
 (たれも責任を感じてはいない!)
 と、児玉はおもった。責任を感じているならこの場でもすぐ処置があるべきであった。ところがみな見学者のように無責任な顔をしている。
 「田中ア、なにをぼやぼやしとる」
 と、児玉は田中国重少佐をふりかえるなり怒声を発した。その頭上を、砲挙が飛び去った。
 「馬鹿か」
 田中は、児玉の怒りの目標が自分のほうに転換されたことにおどろいた。
 「おぬしは将来、師団長にもなり、軍司令官にもなるはずの男だ。このように友軍が苦戦しちょるときに、適切な指揮に任ずるのが当然ではないか。しかるになにをぼやぼやと観戦しちょる。おぬしは外国の観戦武官か」
 田中は、土から胸をおこして、
 「はいっ」
 と、返事をしてみたが、といってかれは師団長でも軍司令官でもないため、指揮権はなく、指揮すべきではない。当惑した。が、すぐ田中は、児玉が自分を叱ることによって、観戦中の軍司令官乃木と二人の師団長を暗に諷したのであろうと気づいた。
 田中はふりかえって乃木の顔をみたが、しかし気の毒ですぐ視線をそらした。二人の師団長も、乃木のそばで、ぼう然としている。
 (むりだ)
 と、田中はおもった。指揮せよ、というが、双眼鏡内の光景をみて、なにをどう指揮するのであろう。まさか、陸軍大将や中将が、歩兵の小隊長や分隊長になって突撃することもできないではないか。
 が、一瞬ののち、児玉はそのことを忘れたらしく、
「豊島ア」
 と、攻城砲兵司令官をよんだ。
「二十八サンチ榴弾砲の準備はぜんぶ完了したか」
「あと二十分ほどで完了すると思います」
 と、少将豊島陽蔵はこたえた。
「その二十八サンチ榴弾砲をもって、二〇三高地の山越えに旅順港内の軍艦を射て」
 と、児玉がいったから、豊島はその言葉の無謀さに、あきれるよりも憤りをおぼえた。砲兵の立場からいえば、そういう無茶なことができるはずがなかった。
 豊島は、沈黙した。
 児玉も、そのことはわすれたように二〇三高地の頂上付近に双眼鏡の焦点をあわせている。 
▲UP

■最初から二〇三高地を責めれば六万人の犠牲はなかった

<本文から>
 二〇三高地が陥ちたことが、日本軍をあれだけ苦しめた旅順要塞にとって、致命傷になった。陥落早々、日本軍の重砲弾が、この高地を越えて旅順港と旅順市街にとめどもなく落下しはじめた。
 児玉は、成功した。あと、旅順要塞には多数の砲塁があるが、要塞にとって脳髄というべき要塞背後を日本軍砲兵の自由な照準に曝してしまった以上、要塞全体が加速度的に衰弱するであろう。
 (あとは残敵掃蕩とおなじだ)
 と、児玉はみていた。それは当然乃木軍にまかせておいていいし、かれらの義務でもあった。おもえば、最初、海軍が海上から発見したこの二〇三高地という大要茎の弱点を、乃木軍司令部が素直にみとめ、東京の陸軍参謀本部が海軍案を支持したとおりに乃木軍司令部がやっておれば、旅順攻撃での日本軍死傷六万というぼう大な数字を出さずに済んだであろう。が、もしこの期間で児玉が乃木に代わるという非常措置をもって総指揮をとらなかったならば、この数字はいよいよふえたにちがいない。
「もう、おれの用はすんだ」
 と、児玉が随員の田中国重少佐にいったのは、この五日、二十八サンチ榴弾砲の第一弾が、山越えに飛んで港内の軍艦に命中したときであった。
 翌六日と七日、児玉はさらに作戦指導をつづけた。この七日、乃木は朝食後、前線の高崎山を去ったが、児玉はなおも残った。
 この十二月七日、乃木希典の陣中日記によると、
 「七日、霧アリ」
 と、ある。朝霧がふかく、あたりの山々はまったく霧のなかに没している。彼我の砲声のみが、段々ときこえた。ときに、大地が震動するのは、生き残りのロシア軍砲塁から飛んでくる巨弾が炸裂するためであった。
 乃木日記の七日の項、つづく
「朝食後、高崎山ヨリ柳樹房二還ル。大嶋中将ヨリ、カステラ、茶、沖津網到来。リンゴヲ送ル」
 乃木は、後方の柳樹房軍司令部にかえったのである。ここまでは、敵の砲弾も飛んで来なかった。乃木は連日の前線での起居で疲れきっていたが、しかし体を休めようとせず、執務用の机やむかった。
▲UP

■海戦史上で初めての真之の七段作戦

<本文から>
 まず第一段は、バルチック艦隊が日本近海にあらわれるや、すぐには主力決戦はせず、いちはやく駆逐隊や艇隊といった足の速い小艦艇をくりだし、その全力をもって敵主力を襲撃し、混乱せしめる。この点、真之が熟読した武田信玄の戦法に酷似していた。
 第二段はその翌日、わが艦隊の全力をあげて敵艦隊に正攻撃を仕掛ける。戦いのヤマ場はこのときであろう。
 第三段と第五段は、主力決戦がおわった日没後、ふたたび駆逐・水雷という小艦艇をくりだし、徹底的な魚雷戦をおこなう。これは正攻撃というより、奇襲というべきである。
 次いでその翌日、第四段と第六段の幕をあげる。わが艦隊の全力ではなくその大部分をもって敵艦隊の残存勢力を鬱陵島付近からウラジオストック港の港外まで追い詰め、しかるのちに第七段としてあらかじめウラジオストック港口に敷設しておく機雷沈設地域に追いこみ、ことごとく爆沈させるという雄大なもので、第一段から第七段まで相互に関連しつつ、しかも各段が十分に重なり合っていて、隙間がない。その精密さと周到さという点においては、古今東西のどの海戦史をみてもこのようではない。真之以前の歴史上の海戦というのは、多分にゆきあたりばったりの粗大なものが多く真之はむしろこの緻密さを、陸戦の戦史を読むことで会得したといっていい。
 この七段構えについては、真之はそればかりを考えていた。母親のお貞を背負って貰い湯にゆくときもこのことを考えていたし、天井をにらんでいるときは、むろんこのことばかりであった。
 (八月十日の黄海海戦の苦戦を二度と繰りかえしては、日本は滅亡する)
 と、真之の脳裏につねにそれがある。あのとき、偶然、わが主砲弾が敵の旗艦に命中して敵の指揮や陣形を大混乱におとし入れたからこそ、辛うじて勝利へ漕ぎつけることができた。あの偶然がなければ、
 「どう考えてもわれに勝ち目があるはずがなかった」
 と、真之が後年まで話題が黄海海戦におよぶとそう言っていたとおり、まったく偶然が転機になった。真之はきたるべきバルチック艦隊との決戦では、偶然を恃む要素を皆無にして戦おうとしており、それがこの「七段準えの戦法」であった。
▲UP

■休戦前の攻撃中止の段階で両軍が抱き合い酒を汲みかわした

<本文から>
 休戦には当然ながら、手続きが要る。というのは、二日正午から水師営でおこなわれる両軍委員の開城談判がぶじ終了したときをもって両軍がそれぞれ自軍に休戦命令を出すのだが、おどろくべきことに、前線の両軍の兵士たちは、それ以前にそれをやってのけたのである。
 段階的にいえば、乃木はステッセルからの書状をうけとった夜、諸部隊に対し、
 「攻撃中止」
 という命令を出した。なんのための中止であるかは内容を明かさなかった。
 −ステッセルが降伏状を送ってきた。
 などということを前線に報らせたりすると、士気が一時にゆるみ万一不調におわった場合、攻撃を再開するのが困難になるからである。
 「攻撃中止」
 という命令はこの夜のうちに日本側の全軍にゆきわたった。ただし第十一師団の一部にその命令が伝達されることが遅れた。それをわずかな例外として、戦場はにわかにしずかになった。
 二日は正午から開城談判というのに、この日の夜明けから、ロシア軍陣地からぞろぞろとロシア兵が出てきた。
 「狂うがごとく、この開城(厳密にはまだ開城ではない)をよろこんだ」
 と、兵粘将校だった佐藤清勝という人が書いている。事実、ロシア兵は堡塁上に全身をあらわし、たがいに抱きあって捕っているかと思うと、一部の戦線にあっては、日本兵も壕から出てたがいにさしまねき、両軍の兵士が抱きあっておどるという風景もみられた。
 なかには、日本兵が、ロシア兵の埜塁までのぼってゆき、酒を汲みかわしたりした。さらには酔ったいきおいで日露両兵が肩を抱きあいながら敵地であるはずの旅順市街まで出かけてゆき、町の酒場へ入ってまた飲むという光景さえみられた。むろん軍規違反であった。しかしこの人間としての歓喜の爆発をおさえることができるような将校は一人もいなかった。
 「負けてもいい、勝ってもいい。ともかくこの惨烈な戦争がおわったのだ」
 という解放感が、両軍の兵士に、兵士であることをわすれさせた。このまだ交戦中であるはずの段階において、両軍の兵士がこのように戯れながらしかも一件の事故もおこらなかったというのは、人間というものが、本来、国家もしくはその類似機関から義務づけられることなしに武器をとって殺し合うということに適いていないことを証拠だてるものであろう。
 「よくまあ喧嘩沙汰がなくて済んだものだ」
 と、あとになって両軍の関係者がこの「非公認休戦」の半日をかえりみて、ふしぎにおもったほどであった。きのうまで肉弾相挿つような死闘をくりかえしていた両軍兵士がである。
 −どうやら休戦開城になるらしい。
 というらしいの段階で、このような光景を現出したというのは、人間のふしぎといっていい。
 この光景がありえたというのは、まだ戦争にモラルが存在した時代であったからということもいえるし、さらにはこの旅順攻防戦が、人間がそれに耐えうるにはあまりにも長く、あまりにも悲惨であったからともいえるであろう。
▲UP

メニューへ


トップページへ