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<本文から> 陣地移動を完了した攻城砲は早暁から砲撃を開始した。
同時に、二〇三高地の砲塁が砲哮し、そのうしろ(東方)にある椅子山の砲台からも、巨弾が二〇三高地の頂上越えに降ってきた。それらが日本軍歩兵壕につぎつぎに落下し、土砂や銃器、人間ときには古い死体を天へ噴きあげた。新陣地についた日本軍の攻城砲の巨弾も、それに対して今日からは沈黙していなかった。報復のために椅子山のベトンにむかって殺到した。
遠くの敵塁からの砲弾は、轟っと遠雷のような音をひきながら飛んでくる。落下するまで数秒をかぞえることができた。これに対し、日本軍の重砲は、射撃距離がみじかくなったため、
「くわっ」
と、みじかく砲哮したかとおもうと、すぐ敵陣地での爆発音がおこった。発射音と爆発音とが、ほとんど同時であった。このことが、山腹で突撃姿勢をとっている歩兵の士気をいちじるしく高めた。
このとき、児玉は二〇三高地のちかくの丘にのぼりつつあった。椅子山から送られてくる砲弾が、その前後に落下した。児玉は、歩兵の一等卒のごとく山頂にむかって駈けた。そのうしろから、ぞろぞろと参謀懸章の群れがついてくる。軍司令部参謀もいれば、師団参謀もいた。第一と第七の師団長もいた。それらの副官もいる。これだけ多数の乃木軍の作戦頭脳が、一時に弾雨をくぐったのは、はじめてであった。
児玉のそばに、随行の田中国重少佐が、灰褐色の山土を踏みながら、児玉をかばうようにして行く。そのあとに、砲弾の破片が無数にちらばっていた。小男の児玉を抱くようにして進んでいるのは、少将福島安正であった。このシベリア単碕横断を遂げた男は、おれは空気のようなものだ、という言葉を、いつか吐いた。意味はよくわからないが、自分自身が空気のようになってしまえばシベリアでも横断できるし、弾のなかでも平気で歩くことができる。そういうことかもしれない。
山頂に達した児玉はそこで伏せ、稜線に双眼鏡を出して二〇三高地の頂上をちかぢかと展望した。死んでいる者、生きて動いている者がよくみえた。山頂の一角をなおも死守している百人足らずの兵の姿が、児玉には感動的であった。かれらは高等司令部から捨てられたようなかたちで、しかもそれを恨まずに死闘をくりかえしている。
「あれを見て、心を動かさぬやつは人間ではない」
と、児玉は横の福島に言った。参謀なら、心を動かして同時に頭を動かすべきであろう。処置についてのプランが沸くはずであった。頭の良否ではない。心の良否だ、と児玉はおもった。
そう思ったために、かれの有名な怒声の場面が、そのつぎに炸裂するのである。
なぜなら、ぞろぞろあがってきた師団長や参謀たちは、なにか義務的にこの上まで登らされたように、ぼんやりしている。
(たれも責任を感じてはいない!)
と、児玉はおもった。責任を感じているならこの場でもすぐ処置があるべきであった。ところがみな見学者のように無責任な顔をしている。
「田中ア、なにをぼやぼやしとる」
と、児玉は田中国重少佐をふりかえるなり怒声を発した。その頭上を、砲挙が飛び去った。
「馬鹿か」
田中は、児玉の怒りの目標が自分のほうに転換されたことにおどろいた。
「おぬしは将来、師団長にもなり、軍司令官にもなるはずの男だ。このように友軍が苦戦しちょるときに、適切な指揮に任ずるのが当然ではないか。しかるになにをぼやぼやと観戦しちょる。おぬしは外国の観戦武官か」
田中は、土から胸をおこして、
「はいっ」
と、返事をしてみたが、といってかれは師団長でも軍司令官でもないため、指揮権はなく、指揮すべきではない。当惑した。が、すぐ田中は、児玉が自分を叱ることによって、観戦中の軍司令官乃木と二人の師団長を暗に諷したのであろうと気づいた。
田中はふりかえって乃木の顔をみたが、しかし気の毒ですぐ視線をそらした。二人の師団長も、乃木のそばで、ぼう然としている。
(むりだ)
と、田中はおもった。指揮せよ、というが、双眼鏡内の光景をみて、なにをどう指揮するのであろう。まさか、陸軍大将や中将が、歩兵の小隊長や分隊長になって突撃することもできないではないか。
が、一瞬ののち、児玉はそのことを忘れたらしく、
「豊島ア」
と、攻城砲兵司令官をよんだ。
「二十八サンチ榴弾砲の準備はぜんぶ完了したか」
「あと二十分ほどで完了すると思います」
と、少将豊島陽蔵はこたえた。
「その二十八サンチ榴弾砲をもって、二〇三高地の山越えに旅順港内の軍艦を射て」
と、児玉がいったから、豊島はその言葉の無謀さに、あきれるよりも憤りをおぼえた。砲兵の立場からいえば、そういう無茶なことができるはずがなかった。
豊島は、沈黙した。
児玉も、そのことはわすれたように二〇三高地の頂上付近に双眼鏡の焦点をあわせている。 |
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