司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          坂の上の雲4

■ロシア艦隊の混乱

<本文から>
 ところが、旗艦ツエザレウィッチの運動が奇妙であった。左へ左へ国頭し、狂奔するがようにして自分の艦隊の列のなかに突っこんできた。四番檻はベレスウエートであった。ベレスウエートはあやうく横腹にぶちあたられるところであり、艦長ホイスマン大佐はすぐさま右へ舵をとった。このためにそのぶんだけ日本艦隊に接近した。すぐ左へなおした。この艦に、ウフトムスキー少将が座乗している。
 「旗艦に異変がおこっている」
 と、少将は判断した。やがて死の旗艦のマストにたれがあげたのか(あとでわかったところではカミガンという一大尉であった)、
 「提督ウィトゲフトは、指揮権を他にゆずれり」
 という信号があがった。
 ウフトムスキー少将はこれをみて、序列により全軍の指揮は自分がとらねばならないとおもった。ところがかれはこの戦闘惨烈のなかで、故司令長官の方針を一変することを決意したのである。ウラジオストックヘゆかずに旅順港へひっかえすことであった。
 かれは信号兵をよび、
 「われに続兢せよ」
 との信号をあげようとしたが、信号旗をあげるべきマストが二本とも無かった。結局かれは将旗を司令塔の横に出し、各艦がそれを確認したものとして、西方へ変針した。混乱はこれによっていよいよ大きくなった。
 ロシア側の最大の不幸は、この決戦の時機に、各艦がどこへ行っていいのかわからなくなったことであった。
 その混乱というのは、名状しがたい。旗艦ツエザレウィッチは司令塔に死人をのせたまま、狂ったような円運動をつづけている。二番艦レトウィザンがはじめ左転し、ついで右転した。後続する三番艦ポベーダは自然そのまねをし、左転し、右転した。あらたに旗艦になった四番艦のベレスウエートは、狂い艦のツエザレウィッチをかわそうとして最初は右転、ついで左転、そのあと三転して西方へ航路をとった。が、先行する各艦は、この艦があたらしい旗艦であることを、容易に気づかない。後続する五番艦セヴアストーポリだけが了解してつづいた。六番艦のポルターワは、新旗艦から離れすぎていた。
 「なにごとがおこったのだ」
 と、艦長のウスペンスキー大佐が、かたわらの航海長にあわただしくいった。
 「よくわかりません」
 航海長は、前方を凝視しながら声をふるわせた。
 「しかし旗艦ツエザレウィッチが落伍したことだけはわかります」
 わかるのは、当然だった。ポルターワは、狂走をやめた元旗艦ツエザレウィッチの横を通っているので為る。この元旗艦は、右舷にかたむいているが、沈没をまぬがれている。カミガン大尉があらためて指揮をとろうとしたが、どこへゆくべきかに迷った。海軍は航行しながら交戦するため、敵味方の戦場ははるかに遠くなってしまっている。
(膠州湾へゆこう)
 と、カミガン大尉はおもった。ウラジオストックとは正反対の方角だが、距離もちかくであり、安全でもあった。膠州湾はロシアと同盟国であるドイツの租借地である。
 結局この元旗艦は南航して膠州湾をめざし、さいわい途中日本艦隊に発見されることなく翌日の夜九時、膠州湾ににげこんだ。もはや戦闘はおろか、これ以上の航海にも堪えられないほどに破壊されていた。
 ドイツ官憲としては、同盟国としてたとえ国際法を犯してでもこれをいたわるべきであった。
 しかし、ドイツ人の国民性なのか、勝者を畏敬するが敗者に冷淡であった。総督ツルッペルは国際法をたてにとって、
 「出て行ってもらいたい」
 と、露骨に要求した。つい先日まで、ドイツは旅順のロシア陸海軍に協力的で、旅順とロシア本国の軍事電報のやりとりをこの膠州湾で中継していたのである。
 とても出てゆけない、とロシア側が返答すると、ドイツは中立国がこの場合とるべき当然の行動をした。艦の大砲をはずし、その他いっさいの武装を解除して戦争がおわるまでこの艦を抑留してしまうことであった。
 この元旗艦とともに駆逐艦三隻がこの湾に逃げこんだが、同様の運命になった。
 戦場では、夜がちかづいている。
 東郷は、混乱した敵艦隊を包囲しさらに激しい砲撃をれえたが、敵も必死で逃げた。そのころには日がまったく暮れたため、東郷にすれば惜しいところで砲撃の中止命令を出さざるをえなかった。午後八時二十五分であった。敵の各檻を大破させているものの一定も沈めていないのである。
 (まずい。こんなまずいことがあるか)
 真之は、濃くなってゆく闇のなかでぼう然とした。
 東郷はべつにいらだちもせず、この戦場のあと始末を、駆逐艦、水雷艇の群れに命じた。かれらは夜間攻撃に馴れており、至近距離まで近づいて魚雷で敵を始末するのである。敵を沈めるには、上からの砲弾よりも、下からの魚雷のほうがはるかに効果があった。いわば落ち武者退治であった。
 あとを小艦艇にまかせると、東郷は塵下の各艦をまとめ、根拠地である裏長山列島にむけてゆるゆると帰陣しはじめた。 
▲UP

■マスコミ対応にまずさが公債応募の激減につながった

<本文から>
 もともと明治人は新聞記者や世論に対する認識が貧困で、日本人記者なども軍犬のようなあつかいをうけた。げんに日本人記者の服装は軍犬まがいの者が多く、ときにはシマの着物を着、尻っ瑞しょりしてモモヒキをはき、洋傘を杖がわりについて戦地にやってきている者もあった。
 参謀たちは、この内外の記者団と接触することをうるさがり、ともすればハエのように追っぱらったりした。このことが外人記者団の憤慨を買い、怒って本国にひきあげる者が続出し、自然、ロシア例の従軍記者の記事が世界じゅうにながされることになった。この点、クロバトキンは巧妙であった。かれは遼陽決戦の終了早々、どさくさのなかで記者会見をおこない、
「われわれは予定の退却をおこなっているのみである。その証拠に砲はわずか二門を遺棄したにすぎない」
 と、くわしく公表した。
 日本軍の総司令部もおなじく記者会見をしたが、数行の文章をよみあげただけであった。
 自然、世界じゅうをかけまわったニュースは日本軍非勝利説であり、このためロンドンにおける日本公債の応募は激減し、日本の戦時財政に手いたい衝撃をあたえることになった。
 外国人記者の応対についてたれが疎略であったのかはよくわからない。
 もともと大本営そのものが、はじめから国際的な世論操作の感覚や能力に欠けていた。
 開戦とともに、英米仏の新聞・通信の記者たちが東京にあつまってきたが、大本営はかれらに対し、なんの手もうっていない。
 かれらは当然ながら第一線に従軍取材するつもりであった。
「早く従軍させよ」
 と、それぞれの公使館を通じ、日本の外務省に申し入れた。外務省の課長級の役人が大本営へその旨を申し入れにゆくと、たださえ気が立っている大本営の課長級が、
「いまそれどころではない。第一、かれらをつれてゆけば作戦上の秘密がみな敵へ知られてしまうではないか」
 と、あたまから拒絶した。このことが、日本の戦費調達に大きくひびくという結果を、かれらは想像もできなかった。
 かれらは東京でむなしく滞在した。このため最初から日本人に対するいきどおりがかれらにあった。
 この連中についてもっともよく理解していたのは、児玉源太郎であった。
「そりや、戦地へつれて行ったほうがいい」
 と、その便宜をはかった。かれらは児玉のはからいで、各軍に配属された。
 ところが、軍によって応対のしかたがちがった。作戦に自信のある黒木軍の参謀長藤井茂太少将などは、つねに天幕内での出入りを自由にし、かれらの質問にはかくすことなく答え、いまからやろうとする作戦計画まで教えてひどく好感をもたれた。
 が、奥軍の幕僚たちは、秘密主義をとった。前線にかれらが出ることも禁じたし、戦況についてのかれらの質問に対しても、ろくに答えたことがない。記者たちだけでなく、外国観戦武官に対してもそうであった。
 −われわれは豚のようにあつかわれた。
 と、ふんがいした観戦武官もいたらしい。
 しかも、奥軍の正面の敵は強大で、奥軍は遼陽攻撃の末期にはおおいがたい敗色を示しつつあったため、なんの説明もうけないかれらにとっては、
 −日本軍は負けている。
 としかおもえない。
 かれらはこの奥軍の敗勢をもって日本軍の全戦線を想像し、遼陽会戦が終了するとともにかれらの多くは日本軍の作戦地域から脱出し、営口や芝罘へ走り、そこから本国へ
記事を送った。
 「日本軍は遼陽において勝ったのではない。ロシア軍の作戦に乗っかってしまっただけだ。ロシア軍は堂々と撤退した」
 という内容の記事が、電信のキーから世界じゅうにばらまかれたのである。
 ひとつには人種的偏見も濃厚にあった。黄色人種が、白色人種に対して多少でも砲火町なかで優越して心まったという現象を、かれは素直にうけ入れようとはしなかった。日本は遼陽会戦においてはじめて世界のスクリーンの上にその像を投影しはじめたのである。
 遼陽会戦での時点で、世界に映じた日本像は、右のような事情のために、決して勝利者の像としてはうつらなかった。
 ロシア熊が、最後の致命傷をあたえるべくわずかにひきさがっている。小さな日本人は満身創痍で、かろうじて遼陽にたどりつきはしたものの、それは勝利というものではなく、ロシア熊がひきさがったために単に突ンのめったというにすぎない。
 −そう報ぜられている。
 ということを知った大本営は、多少あわてた。国際社会というもののスクリーンに映った自分自身の像に、日本がはじめておどろいたのは、このときだったかもしれない。
 それが、ロンドンにおける公債応募の激減につながったとき、日本帝国の元老たちははじめて飛びあがるほどにおどろいた。
▲UP

■明石がロシアの国内攪乱を見事に行う

<本文から>
 参謀本部は、最初からこの工作に百万円をつかおうとした・それをつかわせる男として単に開戦直前までロシアで公使館付武官をしていた明石がえらばれたにすぎない。明石を人選した参謀本部次長長岡外史自身が、
 「あの男に百万円の大金をつかわせてよいだろうか」
 と、疑問におもった。
 長岡の印象にある明石とは、多少りくつっぽくてずぼらで、風采があがらず、しかもこまったことに語学が上手ではなかった。
 「かれがみごとにロシアの国内攪乱をやってのけてから、はじめてその腕を知った」
 と、長岡外史も語っている。
 要するに、資金が窮屈であったなら明石といえどもさほどのはたらきはできなかったであろう。明石のカは、金の力であるといえた。ロシアの革命運動家たちが明石のもとにあつまってきたのも、明石の魅力以前に明石が際限もなく(とかれらはおもった)つかう金のカによるところが大きい。
 明石は一見粗放な性格でありながら、金をつかうことが上手で、その収支についても明快であった。かれは百万円をつかいきれず、二十数万円をのこして帰国したが、使った金については受取書や使途の書きつけなどはきちんととってあった。
 ともかく、かれが金を投じたぶんだけ、ロシア国内で暴動がおこった。それもひんぱんにおこった。帝政ロシアの要人たちにとって、外征よりもむしろこれら内政面の秩序崩壊の危機感のほうががつよく印象きれた。かれらは外征どころではなく、
 −適当な時期に戦争を終結させねば。
 とおもう気持が、国内の騒乱と満州での敗報がつたわるつど、つよくなった。これが日本政府の思うつぼであった。日本政府は、日露戦争を遂行するにあたって短期決戦方針をとった。きわめてみじかい期間内で連戦連勝してしまってさっさと講和へもちこまねばかならず敗戦することを、その政府・陸海軍の要人たちはあげて知っていた。その講和を、ロシアが承知するような情勢にもってゆかなければならない。そのためには、ロシア帝政に危機をもたらすことであり、つまり革命をおこさせることであった。このためにどれほどの金をつかっても、日本としてば惜しくはなく、十分に戦争計画そのものの帳尻があうわけであった。明石は、そういう仕事をした。
 かれが親交をむすんだひとびとを列挙するときりがないが、そのままロシア革命の革命紳士録になりうるものであった。
 レーニンをはじめ、ガボン党の総帥ガボン僧正、思想家クロポトキン公爵、フィンランドの独立運動のシリヤクス、民権社会党の首領株のプレハノフ、作家のマキシム・ゴーリキー、自由党左傾派のスルーベーなどいちいちかぞえきれない。かれらに共通している一点は、日露戦争において日本が勝つことを望んでいることであり、この一点については、高橋是漕が接触したユダヤ人ヤコブ・シフの立場とかわらない。
 ともあれ、このきわめて政・戦略性に富んだ日露戦争は遼陽の段階をすぎた。
▲UP

■旅順攻撃の大錯誤で膨大な死傷者

<本文から>
 乃木希典は東京を発つとき、
「死傷一万人でおちるだろう」
 とみた。その程度でしか旅順をみていなかった。それを基準として攻撃法をきめた。むろん、参謀長の伊地知事介の頭脳からでたものである。
 ところが第一回の総攻撃だけで日本軍の死傷は一万六千にのぼるというすさまじい敗北におわり、しかも旅順をおとすどころか、その大要塞の鉄壁にはかすり傷ひとつ負わせることができなかった。要塞例の圧倒的な勝利であった。しかもその乃木軍はその攻撃法を変えず、第二回目の総攻撃をやった。おなじ結果が出た。死傷四千九百人で、要塞は微動だにしない。
「すでに鉄壁下に二万余人をうずめてみればなんどか攻撃法を考えそうなものである」
 と、東京にいる参謀本部次長長岡外史は、その日記で乃木と伊地知のコンビヘのいきどおりをふくめて書いている。
 第一回の総攻撃で、一個師団に匹敵する大兵力が消えてしまったということについては、東京は寛大であった。寛大であるというよりも、
「旅順はそれほどの要塞か」
 ということを、この大犠牲をはらうことによって東京自身が認識したのである。この錯誤と認識は戦争にはつきものであった。しかし東京の長岡外史らが、乃木軍参謀長のあたまをうたがったのは、この錯誤をすこしも錯誤であるとはおもわず、従ってここから教訓をひきだして攻撃方法の転換を考えようとはしなかったことであった。
 要塞ならば、あたりまえのことであった。伊地知は二万数千の犠牲をはらってこの程度の、百科事典の「要塞」項目程度の知識をえた。しかもその知識は、かれら参謀が前線へ挺身して得たものではなく、「諸報告を総合」して得た。
「第三軍司令部は、敵の砲弾がとてもとどかぬほどの後方に位置している」
 というのは、すでに評判であった。
▲UP

■日露戦争全体が「桶狭間」的戦いを先例としてしまった

<本文から>
 ロシア軍は、敵よりも二倍ないし二倍半の兵力・火力を持つにいたらなければ攻勢に出ないという作戦習性をもっている。これはロシア軍が臆病であるからではない。
 敵よりも大いなる兵力を集結して敵を圧倒撃滅するというのは、古今東西を通じ常勝将軍といわれる者が確立し実行してきた鉄則であった。日本の織田信長も、わかいころの桶狭間の奇襲の場合は例外とし、その後はすべて右の方法である。信長の凄味はそういうことであろう。かれはその生涯における最初のスタートを「寡をもって衆を制する」式の奇襲戦法で切ったくせに、その後一度も自分のその成功を自己模倣しなかったことである。桶狭間奇襲は、百に一つの成功例であるということを、たれよりも実施者の信長自身が知っていたところに、信長という男の偉大さがあった。
 日本軍は、日露戦争の段階では、せっぱつまって立ちあがった桶狭間的状況の戦いであり、児玉の苦心もそこにあり、つねに寡をもって衆をやぶることに腐心した。
 が、その後の日本陸軍の歴代首脳がいかに無能であったかということは、この日露戦争という全体が「桶狭間」的宿命にあった戦いで勝利を得たことを先例としてしまったことである。陸軍の崩壊まで日本陸軍は桶狭間式で終始した。
▲UP

■秋山騎兵旅団の見事な戦法でコサック騎兵を破る

<本文から>
 十月八日からはじまった沙河戦は、十三日になっても勝敗のかたちが鮮明でない。
 この日、好古の秋山騎兵旅団は相変らず日本軍の最左翼にあり、渾河という河の東岸に沿って前進していた。
 ところが頭台子という村をすぎたころ、前方に強大なコサック騎兵の大集団があらわれた。兵力は二個旅団で、好古の兵力のほとんど倍である。
 (なるほど、みごとなものだ)
 と、好古が感心したのは、敵の乗馬戦闘ぶりである。かれらはいっせいに展開し、その前列は馬上小銃を操作した。騎射というのは、よほどの訓練がなければ有効なものではないが、かれらはそれをかるがるとやった。前列は騎射をしつつ前進し、後列は突撃部隊として長槍をかまえてすすんでくる。
 (これが騎兵だ)
 と、好古は敵のその戦闘行進ぶりに見惚れる思いであった。
 好古はすぐ必要な処置をとった。かれはどういう場合でも狼狽したことのない男であった。狼狽する必要がなかったのは、かれが手作りで作りあげたその騎兵旅団は、騎兵としてはコサックよりも劣弱ながら、それに対抗できるだけの十分な隊形、装備、戦術をもっていたからである。
 その好古の部隊のうごきをコサックからみれば、
 −日本の騎兵は妙なことをしやがる。
 とおもったであろう。
 戦闘開始とともに騎兵はいっせいに馬からおりて騎兵でなくなるのである。伏射をとり、歩兵になった。
 しかも好古は騎兵というものが宿命的に防御カがよわいため、つねに歩兵部隊を軍から借りていた。それを展開させた。
 さらにコサックをうちくだくには、これだけでは足りない。砲兵部隊も借りている。その砲兵がすぐさま運動を開始して後方で放列を布いた。砲弾をコサックの頭上で炸裂させることによって、その集団をかきみだすつもりであった。
 これら三種類の兵種が、まるで一つの機械のように作動しているのが秋山支隊であるといわれていた。これなら、いかにコサックが世界最強の騎兵であってもどうにもならぬであろう。
 しかも敵のコサックには乗馬突撃だけが一つの芸のようなところがあり、その一つ戦法でこのときも果敢に改めてきた。何度もピストン攻撃をかけてきたが、そのつど好古が考案した防御射撃主義の前にやぶれ、遺棄死体をのこして敗退した。
 戦闘は午前十時にはじまり、畳すぎにおわった。コサックは遺棄死体をのこさないというのが常例で、敗走しつつも馬上から手をのばして回収したが、回収しきれなかったものだけで五十余体あった。ほかに兵器の遺棄が多く、騎銃と長槍をあわせて五官挺ほどもあった。好古の側の損害はきわめてすくなく、死傷二十余人にすぎない。
▲UP

■日本兵はこの時代の世界に類がないほどに勇敢であったが、乃木軍司令部が世界戦史にもまれにみる無能司令部だった

<本文から>
 かれら自律隊が動きはじめたのは、午後五時である。水師営の東に小さな川がある。それに沿って前進し、やがて敵の探照燈に発見され、すさまじいばかりの砲弾の集中をうけた。生きている者はなお進み、午後八時四十分、白兵突撃をすべく全軍が着剣した。
 さしあたっての目標は、松樹山の補助砲台をうばうことであった。各隊躍進し、ようやく松樹山西方の鉄条網の線に到達したとき、敵の砲火と機関銃火はすさまじく、とくに側面からの砲火が自襷隊の生命をかなりうばった。ロシア側の防御は、日本の乃木の攻撃法のように固定的ではなく、意外な方面に新砲台ができていることが多かった。この場合、自襷隊は、死をもってその知識を得た。
 鉄条網のむこうに機関銃をそなえた敵の塹壕がある。さらにそのむこうに砲台がある。自襷隊は、探照燈で照らされつつ、鉄条網の前でただよっている。
 「旅順市街に突入せよ」
 という途方もない命令をうけた三千人の自襷隊が事実上潰滅したのは、午後八時四十分の戦闘開始から一時間ほど経ってからであった。
 むろん旅順市街への銃剣突入などは、乃木の狂気と無智がうんだ夢想であった。旅順市街をかこんで層々と魚鱗をかさねたように砲塁群がある。そのもっとも前面の、しかも補助砲塁の前で三千人の半数までが死傷したのである。
 が、日本兵は、おそらくこの時代の世界に類がないほどに勇敢であった。生き残った人数が、鉄条網を切って敵の陣内に滲透し、敵の塑壕のなかにとびこんだ。戦略的には無意味な敢闘であった。とびこんだ者は、敵の工兵用榛弾を上から投下されて爆死した。
 ロシア兵のために大量に殺されながらも、日本兵はこの塑壕突入で何人かのロシア兵を殺した。しかし何人のロシア人をこの塑壕で殺したところで、作戦の主目的である旅順市街への突入などは物理的に不可能であった。それでもなお、日本兵は自分の死が勝利への道につながったものであると信じ、勇敢に前進し、犬のように撃ち殺された。かれら死者たちのせめてもの幸福は、自分たちが生死をあずけている乃木軍司令部が、世界戦史にもまれにみる無能司令部であることを知らなかったことであろう。かれらのほとんどが、将軍たちの考えることにまちがいはないと信じていた。ただ、信じない者もあった。
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