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<本文から> この当時の日本人が、どれほどロシア帝国を憎んだかは、この当時にもどって生きねばわからないところがある。臥薪嘗胆は流行語ではなく、すでに時代のエネルギーにまでなっていた。
エネルギーは、民衆のなかからおこった。為政者はむしろそのすさまじい突きあげをおさえにかからねばならない側であり、伊藤博文などは、
「おおかたの名論卓説をきいてもしようがない。私は大砲と軍艦に相談しているのだ」
といったりした。軍事力においてくらべものにならぬ大国に対し、国内世論がいかに政府を突きあげたところで政府としてはどう仕様もないのである。
大建艦計画は、この国のこの時代のこのような国民的気分のなかでうまれ、遂行された。
明治二十九年にスタートする建艦十カ年計画が実施された。国家予算の総歳費が、いよいよふくらんだ。明治三十年度の総歳出のごときは軍事費が五五パーセントであり、同三十二年度のそれは明治二十八年度のほぼ三倍というぐあいにふくれあがった。国民生活からいえば、ほとんど飢餓予算といってよかったが、この時期の日本の奇妙さは、これについての不満がどういうかたちでもほとんど出なかったことである。
「考えられぬことだ」
といったのは、三国干渉直後、フランスの海軍筋が日本の建艦熱について語ったことばである。
「日本のような貧弱な国力をもつ国が、列強海軍に肩をならべるような艦隊をもつことはとうていできないし、また日本はそのようなことをしないであろう」
そう観測した。
実際のところ日清戦争当時の日本海軍というのは、劣弱そのものであった。
一等戦艦というのは一応の基準として一万トン以上の艦をいう。それも日本はもっていないが、ロシアは十隻ももっている。二等戦艦は七千トン以上、日本はゼロ、ロシア八隻。三等戦艦は七千トン未満、日本ゼロ、ロシア十隻。一等装甲巡洋艦は六千トン以上、日本ゼロ、ロシア十隻。日本がもっていたのは、二等巡洋艦以下の艦種ばかりである。それが、十カ年で巨大海軍をつくろうという。
世界史のうえで、ときに民族というものが後世の想像を絶する奇蹟のようなものを演ずることがあるが、日清戦争から日露戦争にかけての十年間の日本ほどの奇蹟を演じた民族は、まず類がない。
日清戦争の段階での日本海軍は、海軍とは名のみの、ぼろ汽船に大砲をつんだだけといってもいいような軍艦が多く、むろん戦艦ももっていない。一等装甲巡洋艦もない。速力のはやい二等巡洋艦以下を持って艦隊と称しているだけであったが、戦後十年の日露戦争直前には巨大海軍ともいうべきものをつくりあげ、世界の五大海軍国の末端につらなるようになった。
「日本人は、信じがたい事をなした」
と、当時、英国の海軍評論家アーキバルト・S・ハードは、いっている。日本は日露戦争直前において、いままで持ったこともない第一級の戦艦六隻と、第一級の装甲巡洋艦六隻をそろえ、いわゆる六六制による新海軍をつくった。これだけでも驚嘆すべきであるのに、その軍艦はことごとく思いきった最新の計画がもちいられており、たとえば非装甲の防護巡洋艦などはほとんどつくられていない。英国海軍がなおこの種の巡洋艦をつくりつつあったのに、である。
日本人は、大げさにいえば飲まず食わずでつくった。
その日本海軍の設計者が、この建艦計画当時やっと海軍少将になったばかりの山本権兵衛である。エネルギーは国民そのものに帰せらるべきだが、日本海軍の設計と推進者はただひとりのこの薩摩うまれの男に帰せられねばならない。
山本権兵衛について、かつて幾度かふれてきたが、かれは戌辰戦争のころは薩摩の陸兵として従軍し、北越から東北へ転戦した。
戦乱がおわったあと、東京へ出てきたが、やることがないため相撲とりになろうとし、当時の横綱陣幕久五郎のもとに入門をたのみに行った。もっとも、これはことわられた。権兵衛は鹿児島城下でくらしていた少年のころから相撲が得意で、「花車」というシコ名までもっていたのである。
そのあと、郷党の総帥である西郷隆盛に説諭され、西郷の紹介で勝海舟のもとに行って、海軍の話をきいたりして、当時築地にできたばかりの海軍兵学寮に入ったが、どちらかといえば海軍というものをあまり好きではなかったらしい。
海軍兵学寮では、この当時の薩摩の若者の風で、けんかばかりをした。学科は数学が得意で、実科はとくにマストのぼりが得意だった。
少尉補になってから、ドイツ軍艦ヴィネタ号にあずけられ、ついでおなじくドイツ軍艦ライブチッヒ号にあずけられ、乗組期間中に任官した。
戊辰戦役の生き残りだから、多少齢をくっていて、任官は明治十年、すでに二十六歳になっていた。 |
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