司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          坂の上の雲3

■日本人は飲まず食わずでつくった艦隊をつくった

<本文から>
 この当時の日本人が、どれほどロシア帝国を憎んだかは、この当時にもどって生きねばわからないところがある。臥薪嘗胆は流行語ではなく、すでに時代のエネルギーにまでなっていた。
 エネルギーは、民衆のなかからおこった。為政者はむしろそのすさまじい突きあげをおさえにかからねばならない側であり、伊藤博文などは、
 「おおかたの名論卓説をきいてもしようがない。私は大砲と軍艦に相談しているのだ」
 といったりした。軍事力においてくらべものにならぬ大国に対し、国内世論がいかに政府を突きあげたところで政府としてはどう仕様もないのである。
 大建艦計画は、この国のこの時代のこのような国民的気分のなかでうまれ、遂行された。
 明治二十九年にスタートする建艦十カ年計画が実施された。国家予算の総歳費が、いよいよふくらんだ。明治三十年度の総歳出のごときは軍事費が五五パーセントであり、同三十二年度のそれは明治二十八年度のほぼ三倍というぐあいにふくれあがった。国民生活からいえば、ほとんど飢餓予算といってよかったが、この時期の日本の奇妙さは、これについての不満がどういうかたちでもほとんど出なかったことである。
 「考えられぬことだ」
 といったのは、三国干渉直後、フランスの海軍筋が日本の建艦熱について語ったことばである。
「日本のような貧弱な国力をもつ国が、列強海軍に肩をならべるような艦隊をもつことはとうていできないし、また日本はそのようなことをしないであろう」
 そう観測した。
 実際のところ日清戦争当時の日本海軍というのは、劣弱そのものであった。
 一等戦艦というのは一応の基準として一万トン以上の艦をいう。それも日本はもっていないが、ロシアは十隻ももっている。二等戦艦は七千トン以上、日本はゼロ、ロシア八隻。三等戦艦は七千トン未満、日本ゼロ、ロシア十隻。一等装甲巡洋艦は六千トン以上、日本ゼロ、ロシア十隻。日本がもっていたのは、二等巡洋艦以下の艦種ばかりである。それが、十カ年で巨大海軍をつくろうという。
 世界史のうえで、ときに民族というものが後世の想像を絶する奇蹟のようなものを演ずることがあるが、日清戦争から日露戦争にかけての十年間の日本ほどの奇蹟を演じた民族は、まず類がない。
 日清戦争の段階での日本海軍は、海軍とは名のみの、ぼろ汽船に大砲をつんだだけといってもいいような軍艦が多く、むろん戦艦ももっていない。一等装甲巡洋艦もない。速力のはやい二等巡洋艦以下を持って艦隊と称しているだけであったが、戦後十年の日露戦争直前には巨大海軍ともいうべきものをつくりあげ、世界の五大海軍国の末端につらなるようになった。
 「日本人は、信じがたい事をなした」
 と、当時、英国の海軍評論家アーキバルト・S・ハードは、いっている。日本は日露戦争直前において、いままで持ったこともない第一級の戦艦六隻と、第一級の装甲巡洋艦六隻をそろえ、いわゆる六六制による新海軍をつくった。これだけでも驚嘆すべきであるのに、その軍艦はことごとく思いきった最新の計画がもちいられており、たとえば非装甲の防護巡洋艦などはほとんどつくられていない。英国海軍がなおこの種の巡洋艦をつくりつつあったのに、である。
 日本人は、大げさにいえば飲まず食わずでつくった。
 その日本海軍の設計者が、この建艦計画当時やっと海軍少将になったばかりの山本権兵衛である。エネルギーは国民そのものに帰せらるべきだが、日本海軍の設計と推進者はただひとりのこの薩摩うまれの男に帰せられねばならない。
 山本権兵衛について、かつて幾度かふれてきたが、かれは戌辰戦争のころは薩摩の陸兵として従軍し、北越から東北へ転戦した。
 戦乱がおわったあと、東京へ出てきたが、やることがないため相撲とりになろうとし、当時の横綱陣幕久五郎のもとに入門をたのみに行った。もっとも、これはことわられた。権兵衛は鹿児島城下でくらしていた少年のころから相撲が得意で、「花車」というシコ名までもっていたのである。
 そのあと、郷党の総帥である西郷隆盛に説諭され、西郷の紹介で勝海舟のもとに行って、海軍の話をきいたりして、当時築地にできたばかりの海軍兵学寮に入ったが、どちらかといえば海軍というものをあまり好きではなかったらしい。
 海軍兵学寮では、この当時の薩摩の若者の風で、けんかばかりをした。学科は数学が得意で、実科はとくにマストのぼりが得意だった。
 少尉補になってから、ドイツ軍艦ヴィネタ号にあずけられ、ついでおなじくドイツ軍艦ライブチッヒ号にあずけられ、乗組期間中に任官した。
 戊辰戦役の生き残りだから、多少齢をくっていて、任官は明治十年、すでに二十六歳になっていた。 
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■大胆な好古の軍事施設視察

<本文から>
「満州とその境界のシベリアは、いま帝政ロシアにとって最大の機密地帯になっている。さかんに駐屯兵力が増強されており、要所々々の要塞化もすすんでいる。
 当然ながら日本の参謀本部はその実体を知りたがっているが、いかに間諜を入れても、ロシア例の防諜が厳重で、どうも核心をついた諜報報告をもっていない。
 この地を踏む前、好古は参謀本部で、
 「わしゃ、それを見てくる」
 と、事もなげにいって、参謀将校たちをおどろかせた。ある参謀などは、
「秋山閣下、いままでよほど有能な間諜でも第一級の報告はもたらしておらないのです。むりをなさらぬようにねがいます」
 「わしゃ騎兵じゃい」
 好古は、笑いとばした。騎兵の機能の第一は、長駆して敵中ふかく入り敵情をしらべるということにある。好古は、それをいっている。かれにすればいざ開戦のとき、日本騎兵をひきいて戦わねばならぬのは自分自身であり、あらかじめ敢の態勢を知っておくことは、かれ自身の問題でもあった。
 そこで、ロシア側の接待委員にいった。
 「いまハバロフスクの総督代理に任じておられるリネウィツチ大将とは、わしは天津在任中、さかんに往来して親しくしてもらった。ここまできてリネウィツチ大将にあいさつしてゆかぬというのは、日本の武士道がゆるしませんのじゃ」
 わざとフランスの田舎なまりをつかい、のんきそうな顔であくまで言い張ったから接待委員たちはこまってしまった。ニコリスクからハバロフスクにゆく途中のあたらしい軍事施設は、日本人には絶対にみせたくない。
 「まことに残念ですが」
 と、接待委員たちはいった。
 「この演習に招待申しあげた方々の単独旅行は認められないのです」
 「旅行じゃない。あいさつだけじゃが」
 「あいさつには旅行が付属します」
 「あたりまえではないか」
 と、好古は相手の肩をたたいた。
 相手はこまって、
「皇帝の勅許を得なくてはならないのです」
 と、いった。こういえば好古がひっこんでくれるだろうとおもったのだが、好古は大いにもっともだ、とうなずき、
「勅許を得てくれ」
 と、いった。
 やむなくニコリスクのロシア側はペテルブルグに問いあわせの電報を打った。
 意外にも一日をへて返電が入った。
「勅許がおりた」
 ということであった。この電報には、ロシア将校たちはみなふしぎにおもった。しかし、ロシア皇帝にすれば、日本人に世界最大のロシア陸軍の威容を見せておくということは、見せないよりも政治的効果が大きいと判断したのであろう。
 この電報が入ったのは、ハバロフスクヘゆく列車の発車二時間前で、夜の十二時であった。
 好古は、出発した。
 好古がやった「強行偵察」は、成功した。結局かれの足は満州における核心都にまでおよんだのだが、ロシア人たちはこの人物の人柄をよほど気に入ったらしく、どこでも大層な人気だった。
 ニコリスクからハバロフスクまでの鉄道ぞいに多くの騎兵連隊が駐屯している。
 それらの連隊の将校連中が好古の列車がつくと、停車場までやってきて、停車場の食堂へつれてゆき、シャンパンをぬいて歓迎した。列車が昼つこうが、深夜につこうが、これら沿線の騎兵将校たちは時刻などはかまわない。かならずきていた。どの男も、気持のいい男たちばかりで、好古を騎兵という同族グループの仲間とみていた。
「騎兵はええ」
 と、好古はテーブルをたたいてかれらの友情に感きわまったりした。
「とくにロシア騎兵は、ええ」
 と、いったりした。好古は天性、世辞の感覚の欠けた男だったから、これは本音だった。かれは、おもった。この人懐っこいシベリアの快漢たちといずれは戦場で相見えねばならぬということは、どういうことであろう。
 が、そのことで感傷的になるような精神の屈折は、このサムライあがりの明治の軍人はもっていなかった。むしろ男児の欣快とするところだというぐあいに、自分を訓練してきたし、これについて疑いももっていない。相手の蔚兵将校たちも、そうであった。胸中そういう緊張の悲愴の思いがあればこそ、好古とのつかのまの交歓が、いっそうふかいものになるという、心のふしぎな旋律を、心得としてもっていた。
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■ロシア例の戦略はおおよそで不幸なほどに粗雑

<本文から>
 日本側の戦略が計算しぬかれているところからみれば、ロシア例の戦略はおおよそで不幸なほどに粗雑であった。
 といって、ロシアの対日戦の作戦計画が日本よりも遅く出発したということはない。
 まだ日露間が外交交渉中であった去る三十六年十月二十四日、極東における皇帝の代行者アレクセーエフは対日作戦計画を本国に提出し、同月三十一日、皇帝の裁可をえていたし、さらに翌十一月十八日にはその詳細案ができ、年を越えて一月一日、陸軍大臣クロバトキンのもとでそれが成案になり、それを皇帝は裁可した。
 ついでながらこのロシア陸軍の対日作戦案が裁可されたという情報はこの時期、英国外務省がいちはやくつかんだ。すぐ日英同盟の義務によって日本政府につたえた。日本もまた別途にこれをつかんでいたため、この情報は確実度の高いものになり、このことが日本政府を対露戦にふみきらせる契機の一つになった。
 だから必ずしもロシアは計画を練る時間がすくなかったというわけではない。むしろ計画以前の、満州における軍事力増強という実質面からいえば、ロシアはつねに先取りをしていた。
 それにしてもその作戦計画の粗雑さはどうであろう。
 ロシアの極東における政略・戦略の策源地は、旅順に新設された極東総督府である。
 去年の十月、対日作戦案をたてるについてその陸軍部が、海軍部長に対し、重要な質問を発した。
 「われわれ(陸軍)としては、開戦後一カ月をへても日本陸軍はロシア艦隊にはばまれて営口(遼東湾の港)に上陸できないものとみている。そのように考え、そのように安心してよろしいか」
 もう一問ある。北朝鮮の防衛である。
 「日本陸軍は、朝鮮海岸に上陸してくるであろう。このときロシア艦隊はそれをはばむべく行動し、日本艦隊と何度かの交戦をせざるをえない。ところでロシア艦隊としては、日本陸軍の朝鮮上陸を、完封できぬまでもどの程度それを延ばさせることができるか」
 というものであった。
 これに対し海軍部長の回答は明快であった。
「わがロシア艦隊が全滅せざるかぎり、日本陸軍は遼東湾営口および北朝鮮沿岸に上陸することは不可能である。日露両国の艦隊を比較しても、わがロシア艦隊が黄海および朝鮮沿岸において撃破されるようなことは信じられない」
 要するに極東におけるロシア艦隊は不滅であり、日本陸軍は朝鮮にも満州にも上陸できないか、はなはだしく遅れる、というものであった。
 陸軍部はこれによって陸上作戦の計画をたてた。計画の基礎からまちがっていた。
 ロシア陸海軍の計画の粗雑さは、日本の軍事力の実勢を、数字だけで判断し、その能力についてはなんの顧慮もはらわなかったところにあるらしい。ロシアの将軍たちは最初から日本の陸海軍を物の数にも入れず、自然、まじめにその実勢と実態をしらべようとはしなかった。
 たとえばロシア皇帝が日本に対し宣戦布告をした日、ロシア陸軍における二人の重要な人物が、この戦争をどう指導するかについて会合した。前陸軍大臣であるワンノフスキーと、現陸軍大臣であるクロバトキンのふたりである。
 結果からみれば、この会合の内容ほど愚劣なものはなかった。
  一両国の戦力の比をどうみるか。
 というのが議題で、これについてクロバトキンは、
 「日本兵一人半に対しロシア兵一人を配してゆけばよい」
 というと、ワンノフスキーは、
 「それは日本兵を過大忙見すぎている。日本兵二人にロシア兵一人を配すれば十分である」
 といった。
 あとで、すでに大蔵大臣を罷免されていたサィッテはこの話をきき、
「これが、敵味方の軍事状態にもっとも精通しているはずの新旧陸相の意見なのである」
 と、大いに皮肉ったが、それでもウィッテはクロバトキンの能力や思考法に対してだけは幾分かの信頼をおいていた。
 クロバトキンは宣戦布告後、ほどなく軍政の座からおりて出征軍司令官として極東の戦場におもむくことになったとき、そのあいさつのためにウィッテの私邸を訪問した。
 このときウィッテに語ったかれの戦略・戦術は、右のような粗放なものではない。
「日本軍の作戦計画と準備は意外なもので、これに対抗するには従来の考えをあらためねばならない」
 という。従来の考えとは、鎧袖一触に蹴ちらすという景気のいい思考をさす。このためには大兵をどんどん極東に送らねばならないが、シベリア鉄道の輸送力には限界があって一時に送ることはできない。逐次おくる。時間がかかる。
 「その時間をかせぐことに勝負のかぎがかかっています」
 時間かせぎが、クロバトキン戦略の基本方針であった。
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