司馬遼太郎著書
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          坂の上の雲2

■子規は俳句の判らぬうちから師表となった

<本文から>
 子規と新聞「日本」の関係は、すでに学生時代からであった。入社前に、
 「獺瀬祭書屋俳話」
 などを連載したことがある。三十余回にわたったもので、あとで「日本」から単行本にして刊行された。もともと小冊子にすぎず、子規の若さからくる幼稚さが多分にあるにしても、俳句という、いわば古くさい、明治の知識人からみればとるにもたらぬ日本の伝統文芸に近代文学の光があてられた最初の評論であろう。
 俳句も短歌も子規によってよみがえらされたが、それまでの、とくに俳句は町の隠居のひまつぶし程度のもので、嫁台の素人将棋とかわらない。
 子規は、大学予備門のころものずきで俳句に入った。はじめはどうにもならぬほどへたで、どうしてこれほど下手な男が俳句にうちこむようになったのだろうとおもわれるほどのものだった。
 夕立やはちす(蓮)を笠にかぶり行く
 初雪やかくれおほせぬ馬の糞
 というのは、明治十八年予備門時代の句である。
 しかし、作るにつれてしだいにうまくなった。実作をかさねて練磨したというよりも、かれは古今の俳諧をたんねんに調べることによって文芸思想として深くなり、それが実作に影響したということのほうが大きい。たとえば、
 「文学上の空想は又しても無用の事なるべし」
 とかれのいう「空想よりも実景の描写」というその芸術上の立場は俳句というものを完膚なきまでに調べたところから出発しているといっていいであろう。
 「あしは知的な面から文学に入ろうとする。これはよくないが、性分じゃからしかたがない」
 と、子規は真之にもよくいったが、とにかくかれは俳句というものを歴史的にしらべようとし、その驚嘆すべきエネルギーでそれをなしとげた。この当時、古い俳書や句集の書物はめったに見つからなかったが、子規は古本屋をたんねんにあるいてそういうくず本のたぐいを買いあつめ、仲間にもあつめさせた。かれの「俳句分類」はこのような努力からできあがった。
 「子規は俳句が判ってから師表になったのではなく、俳句の判らぬうちから師表となったのだ」
 と、子規の後継者となった七つ年下の高浜虚子は書いている。初期のころ、子規は虚子らの作品をなおしたり○をつけたりしていたが、虚子が一家をなしてからそれをみるとひどく幼稚で、要するに初期の子規は「今考えてみるとそのころの子規は発句が判っていなかった」(虚子)ということになる。子規の俳句や俳論が大きく成長したのは、「日本」に入った時期からであろう。 
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■真之には得た知識を自分で編成しなおし自分なりの原理原則をうちたてた

<本文から>
 マハンが真之に伝授した内容は、つぎのようなことどもである。
「海軍大学校に入校することをことわられたそうであるが、外国人入校の先例がないことだからこれはやむをえない。しかし海軍大学校といっても、そのかんじんな教科課程はせいぜい半年である。その程度の時間で海軍戦術を学びきることはむずかしい」
「だから、みずから研究するがいい」
「その研究方法は」
 と、マハンはいう。
「過去の戦史から実例をひきだして徹底的にしらべることである。近世や近代だけでなく古代もやるほうがいい。戦いの原理にいまもむかしもない」
「陸と海の区別すらない。陸戦をしらべることによって海戦の原理もわかり、陸戦の法則や教訓を海戦に応用することもできる」
「陸軍の兵書のすぐれたものはことごとく読むことである。陸軍の兵書ですいせんできるのはジョミニ(仏人)の『戦争の技術』Art of Warがいい」
「エドワード・ハムレー(英人)の『作戦研究』Operations of Warも陸軍書ながら役にたつ」
「その他、雑多の記録も読む必要がある」
「それらの書物や記録は、おそらく個人としてはなかなか手に入りにくいかとおもう。それらはすべてワシントンの海軍省がもっている。海軍省の三階が書庫になっている。その閲覧を自由にできるよう、私が海軍省情報部のバーカー大佐に連絡しておく」
 −それから得た知識を分解し、自分で編成しなおし、自分で自分なりの原理原則をうちたてることです。自分でたてた原理原則のみが応用のきくものであり、他人から学んだだけではつまりません。
 とも、マハンはいった。
(おれの考えとよく似ている)
 と真之はおもった。
 真之はその後、一度だけマハンをたずねたが、そのときは雑談だけでおわった。二度目は雑談だけでよかったほどに、真之はマハンの口から学ぶべきものは学びおえていた。あとほ自分でやって自得するしかない。
「マハン大佐の助言によれば」
 と、真之はこの時期、日本にいる同僚に手紙をかいている。
「戦略戦術を研究しようとすれば海軍大学校におけるわずか数カ月の課程で事足るものではない。かならず古今海陸の戦史をあさり、その勝敗のよってきたるところを見きわめ、さらには欧米諸大家の名論卓説を味読してその要領をつかみ、もって自家独特の本領を養うを要す、と」
 真之は、そのとおり実行した。ワシントンの海軍省の玄関には、ふるい艦載砲が装飾としてすえられている。真之はN街一三一〇番地の日本公使館からその艦載砲のある海軍省まで毎日かよった。
 夜は夜で、公使館の三階の私室で、寝るまで読書した。夜の読書時間は、公刊書を読むことにあてた。最近公刊されたものに、マハンの論文全集があった。ほとんどはかつて読んだものだが、あらためて読みかえした。日露戦争の海軍戦術はこのワシントンの日本公使館の三階からうまれたといっていいであろう。
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