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<本文から> 「秋山好古の生涯の意味は満州の野で世界最強の騎兵集団をやぶるというただ一点に尽きている」
と、戦後、千葉の陸軍騎兵学校を参観にきたあるフランス軍人がいった。
が、この数えて十八歳の当時この若者には軍人になろうという意識はまったくなく、もしあったところで薩長藩閥以外の青年がそういう世界にゆけるなどは、世間の常識として一応も二応もむりであったであろう。
この当時の好古にすれば、
「あしは、食うことを考えている」
それだけであった。士族が没落したこんにち、伊予松山の旧藩士族の三男坊としては、どのようにして世を渡ればひとなみに食えるかということだけが関心であった。この点、好古はおなじ境遇の士族の子弟とかわらない。
ともかくも、官費で師範学校は出た。師範学校出といえば明治九年の当節、日本中でかぞえるほどしかおらず、ほとんどが、卒業後すぐ校長になってそれぞれの小学校に赴任した。
好古は、とりあえずかつて勤務した野田小学校の紅鳥先生を訪ね、礼をのべた。
「おまえがまさか」
この学校の校長になってくるのではあるまいな−と、この校長はまず声をあげて恐怖を示した。紅鳥などはいわば小学校草分けのころのどさくさでその職についたにすぎず、政府としてはこの種の無資格者をおいおい平教師におとし、師範学校出の者に校長職をとらせる方針であった。
「いいえ、あしは齢が足りません」
「十八だな」
紅鳥は、ほっとした顔をした。
「で、任地はどこになった」
「愛知県立名古屋師範学校に付属小学校ができましたので、そこに参ります」
「倖禄は」
月三十円である。
これには、紅鳥先生は仰天せざるをえなかった。紅鳥ですら、十七円である。 |
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