司馬遼太郎著書
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          坂の上の雲1

■秋山好古は数少ない官費で師範学校をでる

<本文から>
「秋山好古の生涯の意味は満州の野で世界最強の騎兵集団をやぶるというただ一点に尽きている」
 と、戦後、千葉の陸軍騎兵学校を参観にきたあるフランス軍人がいった。
 が、この数えて十八歳の当時この若者には軍人になろうという意識はまったくなく、もしあったところで薩長藩閥以外の青年がそういう世界にゆけるなどは、世間の常識として一応も二応もむりであったであろう。
 この当時の好古にすれば、
 「あしは、食うことを考えている」
 それだけであった。士族が没落したこんにち、伊予松山の旧藩士族の三男坊としては、どのようにして世を渡ればひとなみに食えるかということだけが関心であった。この点、好古はおなじ境遇の士族の子弟とかわらない。
 ともかくも、官費で師範学校は出た。師範学校出といえば明治九年の当節、日本中でかぞえるほどしかおらず、ほとんどが、卒業後すぐ校長になってそれぞれの小学校に赴任した。
 好古は、とりあえずかつて勤務した野田小学校の紅鳥先生を訪ね、礼をのべた。
 「おまえがまさか」
 この学校の校長になってくるのではあるまいな−と、この校長はまず声をあげて恐怖を示した。紅鳥などはいわば小学校草分けのころのどさくさでその職についたにすぎず、政府としてはこの種の無資格者をおいおい平教師におとし、師範学校出の者に校長職をとらせる方針であった。
 「いいえ、あしは齢が足りません」
 「十八だな」
  紅鳥は、ほっとした顔をした。
 「で、任地はどこになった」
 「愛知県立名古屋師範学校に付属小学校ができましたので、そこに参ります」
 「倖禄は」
 月三十円である。
 これには、紅鳥先生は仰天せざるをえなかった。紅鳥ですら、十七円である。 
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■日露戦争の奇跡の代表者を秋山兄弟に選んだ

<本文から>
 といえば、明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年の読書階級であった旧士族しかなかったこの小さな、世界の片田舎のような国が、はじめてヨーロッパ文明と血みどろの対決をしたのが、日露戦争である。
 その対決に、辛うじて勝った。その勝った収穫を後世の日本人は食いちらしたことになるが、とにかくこの当時の日本人たちは精一杯の智恵と勇気と、そして幸運をすかさずつかんで操作する外交能力のかぎりをつくしてそこまで漕ぎつけた。いまからおもえば、ひやりとするほどの奇蹟といっていい。
 その奇蹟の演出者たちは、数え方によっては数百万もおり、しぼれば数万人もいるであろう。しかし小説である以上、その代表者をえらばねばならない。
 その代表者を、顕官のなかからはえらばなかった。
 一組の兄弟にえらんだ。
 すでに登場しつつあるように、伊予松山のひと、秋山好古と秋山真之である。この兄弟は、奇蹟を演じたひとびとのなかではもっとも演者たるにふさわしい。
 たとえば、こうである。ロシアと戦うにあたって、どうにも日本が敵しがたいものがロシア側に二つあった。一つはロシア陸軍において世界最強の騎兵といわれるコサック騎兵集団である。
 いまひとつはロシア海軍における主力艦隊であった。
 運命が、この兄弟にその責任を負わせた。兄の好古は、世界一脾弱な日本椅兵を率いざるをえなかった。騎兵はかれによって養成された。かれは心魂をかたむけてコサックの研究をし、ついにそれを破る工夫を完成し、少将として出征し、満州の野において凄惨きわまりない騎兵戦を連闘しつつかろうじて敵をやぶった。
 弟の真之は海軍に入った。
 「智謀湧くがごとし」といわれたこの人物は、少佐で日露戦争をむかえた。
 それ以前からかれはロシアの主力艦隊をやぶる工夫をかさね、その成案を得たとき、日本海軍はかれの能力を信頼し、東郷平八郎がひきいる連合艦隊の参謀にし、三笠に乗り組ませた。東郷の作戦はことごとくかれが樹てた。作戦だけでなく日本海海戦の序幕の名口上ともいうべき、
「敵艦見ユトノ警報二接シ、聯合艦隊ハ直二出動、之ヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」
 という電文の起草者でもあった。
 この兄弟がいなければ日本はどうなっていたかわからないが、そのくせこの兄弟が、どちらも本来が軍人志額でなく、いかにも明治初年の日本的諸事情から世に出てゆあたりに、いまのところ筆者はかぎりない関心をもっている。
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■騎兵は無用という日本の歴史

<本文から>
 義経が一ノ谷を小部隊の軒兵で襲撃して成功した。平家がまもるフ谷城(いまの神戸市)については、源範頼の源氏本軍が平面から改めていたが、義経は京都で騎兵団を編成し、ひそかに丹波篠山へ迂回し、山路をとおって三草高原を越え、やがて鵯越へ出て一ノ谷にむかって逆落しの奇襲をかけた。また屋島襲撃も小部隊の騎兵をもってした。
 その後、この戦術はほろんだ。戦国のころ織田信長が桶狭間合戦においてこれをもちいたのが唯一の例であり、以後、豊臣、徳川時代を通じてこの戦法はわすれられた。
 「天才のみがやれる戦法だ」
 と、好古はいった。
 真之は、素直に感心した。
 (この兄は天才かもしれない)
 と、ひそかにおもった。
 騎兵は、偵察にも任ずる。しかし戦場におけるその本務は、集団をもって敵を乗馬襲撃するにあり、西洋ではこれをもっともはなやかな兵科としていた。
 が、このいかにも西洋くさい兵科のおこりは、西洋ではなく、モンゴルのジンギス汗であった。モンゴル人たちはヨーロッパを侵略したとき、斯兵集団の自刃突撃の戦法をくりかえしおこない、つねに成功した。
 近世においてこの古法を採用し近代化したのがプロシヤのフレデリック大王であろう。フレデリック大王はつねに騎兵を決戦兵種としてもちい、首戦首勝した。かれは騎兵の特徴である速力を最大限に評価し、もっとも短時間に故に肉薄襲撃をさせるために馬上の射撃をすら禁じた。馬上射撃をする者は死刑に処するという軍法をすら出した。
 ついで、この用法の天才はナポレオンであった。かれも自刃をふるっての襲撃を騎兵の本則とさせた。このほかナポレオンが創始した騎兵のあたらしい役割は、捜索であった。その軽快な行動力を利用して敵陣ふかくこれを放ち、敵情を偵察させた。このためナポレオンは重騎兵と軽椅兵の二種類をつくった。重兵には胸甲を着せ、槍をふるって敵中に突入せしめる。軽兵は装備をかるくし、捜索のみに任じさせた。ほかに重と軽の中間の騎兵として「竜騎兵」というものもつくった。竜騎兵は銃を背にかつでときに徒歩戦にも任じた。
 明治初年の是陸軍はすべてフランス式をまねたが、騎兵だけはまねることが困難であった。
 まず、馬がない。
 鞍その他の装備にも金がかかりすぎる。
 などがその理由であったが、なによりも椅兵など必要度がうすい、という観念がこの兵種の拡充せ怠慢にしたといえるであろう。
 「この日本に、騎兵をつかうような戦場があるか」
 と、陸軍の首脳たちはいった。日本は地形が複雑で、平地も水田が多く、騎馬隊の急速な移動が困難であった。
 「敵が改めてきても、歩兵と砲兵で足りる」
 というのである。
 明治維新政府というのは幕末の尊王撲夷運動から成立したものであり、外国の侵略をふせぐということに主眼を置き、他国に戦場もとめるというような思想はなかった。むろん、維新成立の三十余年後に、満州の境野で世界最大の陸軍国と決戦するというような予想をもった者はたれひとりなく、
 「騎兵は無用の長物だ」
 ということが、その発足早々からつねにささやかれつづけてきた。
 好古は後年、
 −騎兵の父
 といわれたが、この人物は二十四、五の下級尉官のころから日本椅兵の育成と成長についてほとんどひとりで苦慮し、その方策を練りつづけてきた。
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■陸軍の智謀神・メッケルの門下生が戦い勝った

<本文から>
 真之が英国式教育をつけているこの時期、慢軍大学校在籍中の好盲は、ドイツ人を師としていた。
 以前に触れたプロシャ(ドイツ)陸軍の参謀将校メッケル少佐である。その着任は明治十八年三月十八日で、それ以前から、
 −智謀神ノゴトシ。
 といううわさが、すでにきこえていた。
 余談ながら、のちに日露戦争を勝利にみちびいた日本軍の高級参謀将校のほとんどがメッケルの門下生であり、メッケルの在任は明治二十年前後のわずか数年の期間ながら、その門下生たちはよくその教えをまもった。のち、この間のことが極言されて、
 「日露戦争の作戦上の勝利は、メッケル戦術学の勝利である」
 とさえいわれたほどであった。
 さらに余談ながら、日露戦争の緒戦、黒木大将の第一軍が鴨緑江の渡河戦でロシアの大軍を撃破するや、参謀長藤井茂太はなによりもまずベルリン郊外で隠棲中の少将メッケルに感謝の手紙を戦場から送った。
 −貴官の教えのとおりに戦い、われわれは勝利を得た。
 という意味の誠意を藤井は文面に籠めた。藤井茂太は当時陸軍少将であり、秋山好古とともにわずか十人の陸軍大学校第一期生の卒業である。
 メッケルはこれに対し、
「予は最初から日本軍の勝利を信じた。この勝利は日本軍の古来培養せる精神のいたすところである」
 と、返信した。
 また満州派遣軍の総参謀長であった児玉源太郎も、戦前、ドイツに旅行し、メッケルを訪ねて鄭重に謝意をのべ、さらに戦いが終了するや、感謝の電報を打っている。
 それでもなお日本陸軍の首脳部にとってはその師メッケルヘの感謝が尽きず、明治三十九年メッケルの死をきくや、八月寧日、その追悼会が参謀本部でおこなわれた。
 メッケルは日本陸軍にとって文字どおり神のように仰がれたが、その本国のドイツにあっては不遇であった。近代用兵の樹立者であるモルトケの愛弟子として当然ながら参謀総長にすすむべきところ、皇帝ウィルヘルム二世に好まれず、参謀次長を最後に現役をしりぞいた。
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