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<本文から> 海音寺 歴史学着たちは、直接証拠となるような古文書がなければ信用しないのですね。ある人物の性格、性癖、仕事のやり方などから推測して、こうだったろうというようなことで直接証拠のない歴史の空隙を埋めて行くことはしないのです。
たとえば、西郷の戦争のし方には一の癖があります。第一次長州征伐の時には、これは長州藩が蛤御門の戦いをおこして、禁門に銃砲を撃ちかけるようなことをした罪を鳴らして行われたのです。西郷はこの不臣は大いに誅罰しなければならないと首唱して、幕府の尻を引っぱたくようにして、おこさせました。そして、そのはじめにおいては、毛利氏は東国の方へ移して、五万石くらいに減知すべきだと主張しましたね。ところが現実に処理するにあたっては、これは西郷が征長総督の尾張老公慶勝の参謀長格となって処理したのですが、移封だの減知だのなどは毒せず、要するに大将として出陣した三家老を責任者として腹を切らせて首をさし出せばよろしい、というようなことで弓をおさめようとしました。征長総督の尾張藩や征長軍に属した他藩から、それでは軽すぎるという異議が出て、参謀の連中にも腹を切らせ、山口城を破却するということも出て来た訳ですが、西郷の意見は、単に三家老に腹を切らせればいいというのだったのです。
また江戸城征伐の時も、そのはじめは将軍慶事に腹を切らせて、江戸は火の海にするというようなきついことを声言していましたが、実際には慶事は助命し、徳川家は存続させる、江戸城は無血開城ということでおさめています。これが西郷の事をおさめる場合の手口なんです。
網淵 そうですね。行動のパターソがはっきりしている。
海音寺 はじめ厳しいことを言うのは、それによって故に精神的打撃をあたえ、また味方の士気を鼓舞するための計略なのですが、収拾にあたっては至って寛大にすることをはじめから考えています。江戸征伐の時なぞ、書いたものも残っています。近頃、私が『江戸開城』という本を書きましたが、それにその古文書も入れておきました。
朝鮮問題の場合も、歴史学者達がこの西郷の手口を考慮に入れるなら、考え方は違って来るはずですが、あの人達には直接証拠となる古文書がなければならないのです。そのくせ、放慈な主観で放慈な思いつきを堂々と展開しますがね。ともあれ、彼は朝鮮問題の時も征韓ということは少しも言ってないんです。 |
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