司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          西郷隆盛を語る

■西郷の戦争の癖、収拾には寛大に

<本文から>
海音寺 歴史学着たちは、直接証拠となるような古文書がなければ信用しないのですね。ある人物の性格、性癖、仕事のやり方などから推測して、こうだったろうというようなことで直接証拠のない歴史の空隙を埋めて行くことはしないのです。
 たとえば、西郷の戦争のし方には一の癖があります。第一次長州征伐の時には、これは長州藩が蛤御門の戦いをおこして、禁門に銃砲を撃ちかけるようなことをした罪を鳴らして行われたのです。西郷はこの不臣は大いに誅罰しなければならないと首唱して、幕府の尻を引っぱたくようにして、おこさせました。そして、そのはじめにおいては、毛利氏は東国の方へ移して、五万石くらいに減知すべきだと主張しましたね。ところが現実に処理するにあたっては、これは西郷が征長総督の尾張老公慶勝の参謀長格となって処理したのですが、移封だの減知だのなどは毒せず、要するに大将として出陣した三家老を責任者として腹を切らせて首をさし出せばよろしい、というようなことで弓をおさめようとしました。征長総督の尾張藩や征長軍に属した他藩から、それでは軽すぎるという異議が出て、参謀の連中にも腹を切らせ、山口城を破却するということも出て来た訳ですが、西郷の意見は、単に三家老に腹を切らせればいいというのだったのです。
 また江戸城征伐の時も、そのはじめは将軍慶事に腹を切らせて、江戸は火の海にするというようなきついことを声言していましたが、実際には慶事は助命し、徳川家は存続させる、江戸城は無血開城ということでおさめています。これが西郷の事をおさめる場合の手口なんです。
網淵 そうですね。行動のパターソがはっきりしている。
海音寺 はじめ厳しいことを言うのは、それによって故に精神的打撃をあたえ、また味方の士気を鼓舞するための計略なのですが、収拾にあたっては至って寛大にすることをはじめから考えています。江戸征伐の時なぞ、書いたものも残っています。近頃、私が『江戸開城』という本を書きましたが、それにその古文書も入れておきました。
 朝鮮問題の場合も、歴史学者達がこの西郷の手口を考慮に入れるなら、考え方は違って来るはずですが、あの人達には直接証拠となる古文書がなければならないのです。そのくせ、放慈な主観で放慈な思いつきを堂々と展開しますがね。ともあれ、彼は朝鮮問題の時も征韓ということは少しも言ってないんです。

■征韓論と西郷との係わり

<本文から>
海音寺 征韓論があの当時の是におこったのは、ずいぶん早いのです。明治三年にはもうおこっています。朝鮮が、わが国が和親交際を申しこんだのに対して、至って無礼な応対しかしないといって、使節になって行った人々が唱えはじめたのです。
 木戸孝允などもその熱心な論者でした。この頃のそれはもっぱら武力的なもので、たしかに征韓論です。
 しかし、この頃は西郷は国許にいて、全然これには関係ありません。彼が朝鮮のことを問題にしはじめたのは明治六年になってからです。しかし、征韓ということは決して言わない。朝鮮派遣使節としか言わないのです。彼は自分が使節として行くことを熱心に主張している訳ですが、それを征韓論の主張と当時も後世も言っているのは、彼のタッチする以前の朝鮮問題に対する論議が全部征韓論だったので、一緒くたにしているのでしょう。それから、もう一つは、彼を遣韓大使として朝鮮にやることに反対である岩倉や大久保らが、彼が行けは必ず戦争になるといったので、それを後世の歴史学者も信じて、征韓論の論争というのでしょう。
 西郷は戦争する気はないのですよ。自分が行けば見事に、平和裡に成功し得るという自店があったでしょう。彼は第一次長州征伐の時、兵を用いずして事を治めるために、単身岩国に乗りこんで吉川経幹を説いて、見事に無血降伏させています。

■西郷は政府改革に乗り出すつもりでいた

<本文から>
 もっとも、西郷は朝鮮問題の決裂で国許に帰って来る際、これは私の考えですが、そのまま国許に引っこみっきりにするつもりはなく、いつの日か、政府改革のために乗り出さねばならんと覚悟していたでしょう。それはいつかといえば、現政府の政治は色々な意味で行き詰まるであろうから、世間はおれの出て来るのを待望するであろう、その時におれが出て政府を改革し、真の意味の維新政府を組織し、真に国民を幸福にする政治を行おう、と思っていたと思うのです。
 だから、佐賀の乱にも立たず、神風達の乱や、秋月の乱や萩の乱や相接しておこった西国九州の乱にも立たなかったのだと思います。まだまだ民の怒りと不平とは爆発点に達していないと見ていたのでしょう。たまたま、明治十年のあの時点に兵を起さなければならなかったのは、西郷としてはまだ時機は熟し切っていないけれども、こうなってしまえば仕方がないというので、おいどんのからだをおはん達にあげようということばとなって踏切ったのだと思っています。ともかくも、彼はやがては政府相手に戦争をしなければならないと思って、国に帰って来たと、私はみてるんですけどね。
 西郷には全然そういう考えはなかったのだが、すでに火薬庫襲撃事件などを起して政府の罪人になっている若者らを見棄てるに忍びずああなったのだというのは、西郷を叛逆者にしたくない、西郷びいきの人考たとえば勝海舟、たとえば副島種臣らの言い出したことがもとになっています。真の原因には、それもいくらかはありますが、全部ではありません。
 西郷という人は世間なみの大義名分論では律することの出来ない人です。彼の天皇観は、彼が沖永良部島時代に土持政照にあたえた『役人の心掛』に明瞭に出ていますが、天皇は仁愛の主体たる天の代行者であるべきだというのです。彼はそういう天皇にしたいと思って天皇教育をしたのです。ですから、当時の政府の言いなりになっている天皇は天皇たる道を失っていると思っていたでしょう。口に出して言いはしないまでも、彼の「敬天愛」の哲学をおしつめて行けばそうなります。ですから、彼は征討総督宮として有栖川官が向われたと開いて、宮様はこんどの場合、そんなことをなさるべきではありません、それは天皇様のおん徳を汚しなさることですと諌言を送り、お聞き入れにならないなら打ちすえて通りますぞとまで言っているのです。書いたものが残っていますから、私の作り話ではありません。

■西郷には気のきいた永久革命の方式がなかった

<本文から>
海音寺 現実政治家というものは、本当は民衆の人気はないですよ。一面からみると実に低くて、いやらしいですからね。彼らには理想はない。功業の徒にすぎないのです。だから民衆に人気はないのです。毛沢東などは、稀有にして現実的手腕を持っていますね。例の文化革命という手段、あれは永久革命の新しい有効な方法ですが、彼はそれを発明したのです。彼はそれを中国の歴史の中から発見し、彼の創造としてつくり出したのです。御承知の通り、中国は政治が悪くて民衆が苦しんでいる時に飢饉などが続くと、民衆は流浪の民となって故郷を離れます。この連中が放浪を続けている問に、いつの間にか集団になって、指導者が出来、軍団化してきます。その指導者が政治的意識を持つと、軍団は革命戦団になります。祥譲時代と伝えられる堯・舜・爵の王朝交代や殷・周のことは歴史記述が簡明にすぎて具体性を欠いているから、よくわかりませんが、秦が亡んだ時からは、歴史記述が豊富詳密になってますから、よくわかります。上述の形が連綿として続いている革命の方式です。毛沢東はこの方式から紅衛兵方式を案出したのだと私は思います。
 日本にはそのような歴史がないのです。日本の革命は、源頼朝が武家政治を始めましたね、あれは明らかに革命ですが、源平の抗争は、せんじつめて言えば、親のかたき討ちという名目で行なわれています。明治維新だって、尊皇壊夷という錦の御旗をかかげてやっているんです。民衆を塗炭の苦から救うために旧政権をたおし、新しく理想的政権を立てるという最も高い旗をかかげてはやらんのです。親のかたき討ちだの、尊皇演奏だの、はるかに低次元の旗しかかかげないのです。それでなければ人が納得してついて来ないのは、民衆の権利意識、あるいは政治意識が低いからです。こういう国柄だから、西郷には気のきいた永久革命の方式がなかった。国許から兵をひきいて出るという最も原始的な方式しか。これは西南戦争に対する福沢諭吉の批判へのある程度の答えにもなっていましょう。

■西郷は自分自身を抽象的な世界にもっていった

<本文から>
尾崎 だから、その段階では現実政治家としての貯めた限は虚像の裏に必ずあったと思うんです。ところが明治になってからの西郷は、その現実政治家としての部分が虚像を上回ってしまって、自分自身でもどうしようもない自純白縛みたいなもののなかへ入っていたんじゃないか。
 まあ言ってみれば西郷にとってはたいへん寂しいことかもしれない、自分自身が虚像に縛られるということはやりきれないことでしょうが、しかし、そのやりきれなさを知ってたのは、やはり西郷一人だったんではないでしょうか。
司馬 それはきわめて正鵠を射た西郷観だと思いますね。
尾崎 司馬さんのあの作品を読んでいてもその感じがするんです。
司馬 まあ『翔ぶが如く』の場合は、なるべく西郷に肉迫しょうと思って、近似値まではとてもいけないけれども近似値に近い数値までのとこに自分が迫っていきたいと思ったんですけどね、やはり書き終えて、ぼくは西郷のそばを通過してないという感じがある。これは神秘的というふうに受けとられたらこまるんですけど、西郷という人は、血が流れていて欲望があって、怒ったり笑ったり泣いたりする存在であることから、ずいぶん昇華してしまっていますね。
 自分自身を一個の抽象的な世界にもっていったという例は、まあ中国なんかなら割合あるかもしれない。われわれは日本の西郷についての印象が鮮烈すぎるから、どうしても西郷論はほかの似た外国人をもってくるわけにはいかない。数値でいえば、マイナス一もプラス一もあり得るわけですけどゼ長けはあり得ない。ゼロだけは数値というよりもひとつの世界ですよね。西郷は自分をそのゼロヘもっていくということをやった唯一の人じゃないかと思いますね。

■西郷は無私を悟っていた

<本文から>
 ところが薩摩では、特に先輩を尊敬するという気風があるでしょう。その先輩は尊敬されるに値する先輩でなきゃだめですよね。そこで西郷は手拭をくれるだけの存在なんですけど、ところが西郷さんからもらうということがうれしいのです。これが重要なことなんですね。あんな奴からもらった、っていうんじゃなくて、つまらない筆一本、手拭一本だけども、西郷さんからもらったのは非常にわくわくしてうれしいという雰囲気があったような感じがします。
 そうすると西郷というのは、俺は力もなければ知恵もなくて郷中頭になっているけど、世間にはいっぱい俺よりも上のやつがいてこういうことをしているはずだと考えたかもわからない。そして西郷は生きている以上何事かをしたいと思ったでしょう。何事かをしたいというのは政治的人間ですから、革命をやりたいとか、まあ最初のころはきっとお家の改革をやりたいと思ったでしょう。それがある時期から国家の改革をやりたいと思うようになる。それには多士済々を頼めばいい、そのためには自分が無私になればいい、無私になれば人がついてきてくれるだろうと感じたんではないか。どうも無私になるということは大変な、それこそ脂汗の流れるような修養だと思いますけど、西郷という人は、自分が無私になりさえすれば、それはひとつの大きなカだと、それだけじゃないかと悟ったときがあるんじゃないかと思うんですけどね。
尾崎 しかし、それは非常に大きなことですよね。
司馬 大きなことなんです。この無私ということをついにわれわれは悟れずにいくんですけど、西郷はすでに十代の終りぐらいに悟ったようなところがある。まあ、無私というのは、自分のからだの中に二、三パーセントの真空部分をつくることだろうと思うのですね。空気をず−つと圧縮して、真空部分をつくるということだと思うのですが、人間は欲望で生体が成り立っているわけですから、欲望があって生命なのですから、それを抑えるということ、つまり無私っていうのはもうありえないことですよね。ありえないことを、西郷は自分のなかでやってみた。
尾崎 それはもう大変なことで。
司馬 そう、大変なことですよね。で、二、三バーセソトの真空部分をつくってみると、さっきのゼロじゃないけど、何百人、何万人がそこに吸い込まれるように入っちゃうということを、どうも知ったんじゃないでしょうかね、西郷は。無論これは想像なんですけど、こう考えないと、あとの時代の西郷がわからなくなる。

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