司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          最後の将軍

■人物をみていないのに慶喜擁立の執拗さ

<本文から>
 が、慶喜擁立派の執拗さは、正弘の死をみてもなお絶望せぬことであった。かれらに私心がなく、ただ憂国慷慨の情のみで動いているだけに、反対派はそれをあからさまに難ずることができなかった。幕府内部では少壮の秀才官僚群がことごとく慶喜擁立を支持し、諸大名のほとんどが慶喜に望みをつなぎ、京の公卿、門跡でさえ、
 「一橋卿が世に立てば」
と、ぎょう望した。しかも世間のたれもが、つまり数人をのぞくほか、一橋慶喜という人物を見ていないのである。さらに年端のゆかぬ若者であるために過去に実績があろうはずがなく、むろんその能力を知るに足るほどの著作物もない。
 「英明ニシテスコブル胆略アリ」
という噂だけが世間を駐けまわり、世間を踊らせ、下級志士などは慶喜を救国の英雄と見、それを憧憬し、ほとんど狂舞せんばかりであった。これほど奇妙な英雄の作られかたは史上なかったであろう。当の慶喜は、当惑しきっていた。
 「これほどい馬鹿なはなしはない」
と、この聡明すぎる若者は、それらのすべてがわかっている。世間は、列強の侵犯を前にして日本滅亡の予感に戦慄している。その危機感や恐怖、憂憤に堪えきれず、これを一個の英雄に肩がわりさせ、すこしでも気を楽にしたいという気持がはたらき、そこで英雄の出現を幻想し、たまたま慶喜を見つけてこれこそそうだと思い、自分のつくった妄想におどりはじめたのであろう。こまる、と思った。
「たとえおれが征夷大将軍になったとしても何をすることもできない」
と、慶事は平岡円四郎に言っていた。
が、かれの擁立派は頓着せず、ついに窮したあまり、京の朝廷にまで運動した。朝廷から将軍家にむかい、慶喜を立てよ、と勅命をもって指名してもらおうとしたのである。
 むろん、幕府成立以来、そういう前例はない。

■安政の大獄で慶喜は隠居慎

<本文から>
 慶喜の罪も、登城停止からさらに重くなっている。隠居慎であった。
「なんということだ」
 慶喜はこの沙汰を受けたときひとことだけ言い、あとは沈黙した。黙さざるをえない。井伊は極端な密偵政治を布き、偵吏が江戸と京に充満しているといってよかった。壁に耳、という諺は、市中のちょぼくれにさえ謡われた。慶喜が刑を受けるにあたって不穏の言葉をひとことでも吐けば、どこをどう伝わって、
「すわこそ、御謀叛」
と、井伊が待ちかまえたように襲いかかって慶喜を死に追いやってしまうであろう。
 隠居慎
 という刑は、屋敷全体を牢にするという意味にひとしい。諸門は、閉ざしたままである。慶喜自身は居室で謹慎し、その雨戸はとぎされ、わずかに隙間を五、六センチあけて日光をさし入れる。
 月代を剃ることも不可である。
 「長髪にてごぎあそばさるべし」
という幕命のただし書きがある。自然、髪は、市中不如意の浪人体になる。
 平素ならば家来どもが、毎朝次室や廊下にきて御機嫌伺いをするのだが、それも厳禁された。むろん家来どもが外部と接触交通することも停止であり、たとえ地震がおこっても江戸城へ御見舞の使者を出すことさえ禁止事項の一つである。
 慶喜は、二六時中、雨戸の閉まった居室にいる。慎という以上、麻峠を着用していた。端座し、ひたすらに読書するしかない。
 話し相手さえなかった。気に入りの平岡円四郎までがこの大獄に連座し、御役御免差控という刑に処せられていた。

■攘夷論でなかった慶喜に春嶽は落胆

<本文から>
「世界万国が天地の公道にもとづいて互い好しみを通ずる今日、わが国家のみ鎖国の旧套をまもっていることは不可能である。なるほど掃部頭(井伊直弼)は本来捷夷家でありながら墨夷(アメリカ)の虚喝に腰がくだけ、勅許も待たずして独断調印したのがいまの条約である。不正といえば不正である。しかしこの不正はあくまでも国内の事情であり、相手の国々は関知せぬ。それをいまになって破却すべしということは不信義であり、世界に日本の恥をさらすのみである。破却には必戦の覚悟が要ろう。たとえ勝ったとしてもしょせんは名目なき戦いにて、後世ひとの笑いものになろう。まして敗ければ恥のうわ塗りになる。それをしも、春嶽はなお押すか」
 大久保はおどろき、春嶽様の本意はそこにない、といった。春嶽様は本来開国論者である。しかし京都朝廷とそれを押しあげている西国雄藩、国内世論などを考え、ひとまず攘夷論を立て、人心をなだめ、国論統一をはかった上、「そのあとゆるゆると機を見、策を立て」と大久保が説明すると、
 「小細工である」
 と、慶喜は即座にいった。京都朝廷をこそ命がけで説破し、その蒙を啓き、清国の二の舞をせぬようにせねばならぬ、といった。
 この慶喜の説を大久保忠寛からきき、松平春嶽はしばらく言葉もなく沈思した。
 (意外である。かの御人は、攘夷家ではないのか)
というおどろきもある。同時に愚物、といわれた不満もつよい。春嶽人となって以来、ひとから才を讃美され、世から賢侯といわれ、家臣から明君といわれてきた。それを嬉しくも思っていないが、愚物とはなんということであろう。
 (あの方は論客であっても、将軍の御器量ではないかもしれぬ)
 と、春嶽は自分が抱いていた慶喜像を修正せぎるをえなくなった。

■慶喜は容易に将軍にならない

<本文から>
慶喜は、容易に将軍にならない。
 すでに前将軍家茂は大坂で死んでいる。慶応二年七月二十日である。将軍の死に、幕閣はろうばいした。とりあえず家茂の死を極秘にし、つぎの将軍として慶喜を候補とした。朝廷もそれを当然とし、松平春嶽ら有志大名たちも一も二もなく慶喜を目し、懸命にかれをくどいた。が、当の慶喜は頑としてうけなかった。
 日は、むなしく経ってゆく。
 表むき、将軍はいぜんとして家茂であり、公文書もその名で出されていたが、しかし現実の家茂は、この残暑、大坂城内の奥に安置されている死骸あった。徳川幕府はその死体によって支配されていた。
 「いったい、どうするのか」
 と、時の天子孝明帝も憂憤された。帝はほとんど病的な保守主義者であり、その点でたれよりも佐幕主義者であり、現行の朝幕体制を熱烈に是認し、掌あってこその是であをと信じておられた。帝にあっては長州藩も朝敵であり、
「その朝敵が国もとで割拠して内乱をおこし、そとはそとで列強が環視して隙あらば日本を侵そうとしているときに征夷大将軍が空位であってよいものか」ということであったであろう。
 が、慶喜は、どういうわけか承知しない。
 幕閣としては、他に適当な候補をもたなかった。慣例上継承権をもつ者としては幾人かいる。しかしみな適当ではなかった。江戸の大奥が推戴しようとする田安家の亀之助は幼童であり、田安家当主の慶頼は愚人であり、尾州の徳川慶勝はすでに大名として董が立っている。慶喜のほかいない。そのことは、人事感覚に明敏すぎるほどの慶喜自身がもっともよく知っているはずであるのに、
 「しかし、私は立たない」
と、たれに対しても慶喜はいった。

■多くの敵に囲まれて将軍職に推される

<本文から>
(これは、断じてことわらねばならぬ)
と、ほとんど熱情的におもっていた。慶喜の理性にあっては、現下の情勢がみえすぎるほど見えている。いまさら将軍になってなにになるであろう。
 第一、将軍になればそれを率いて立つべき江戸の幕臣と大奥が慶喜に心服していないことは、たれよりも慶喜白身がよく知っていた。かれらは慶喜に対し逆意をさえもっているようであった。もし慶喜が将軍になれば幕府役人は公然怠業をするであろう。慶喜のあわれさは、それが幕臣だけではなかったことである。慶喜の実家の水戸家でさえ、市川派と称する反烈公主義者たちは、「もし一橋卿が将軍におなりあそばすことがあればわが身があぶない。武力をもってでも阻止せねばならぬ」と放言していた。
 さらにそれ以上のおろかしい事態が京都でおこっている。さきに阿部豊後守(陸奥白河侯)と松前伊豆守(松前侯)のふたりが老中を罷免されたが、両藩の藩士はこれを慶喜のしわぎであるとし、
 「もし一橋卿が将軍になられ、われらがその命に服従せねばならぬことになれば、武士として一日も生きているわけにはいかない。もしそうなれば、卿のお館に討ち入るつもりである」
 と、京の諸藩公用方のあつまりで公言したということを、慶喜はきいている。古来、これほど敵意をもたれて将軍職に擬せられた者があるであろうか。
「わしは、将軍の地位に執着などない」
と、謀臣原市之進だけには慶喜は語っていた。

■幕府の武力が衰え盟主でなく、千載の賊になることを恐れた

<本文から>
豊臣秀吉も徳川家康も、その直属の家来をのぞいては、外様大名の君主ではなく盟主であった。諸侯からかつぎあげられて秀吉は関白になり、家康は将軍になり、封建制の頂点にすわった。その「盟主」の勢いがさかんなときには諸侯に対し、一種君主のごとく臨むことができたが、こんにちのように勢いがおとろえ、諸侯に対する統制力が弱くなれば、地金が露われ、所詮は盟主でしかないことがあきらかになる。いま進行中の第二次長州征伐についてもそうであった。薩摩藩は幕府の動員命令に服さず、頑として出兵しようとしない。法理論ふうにいえば将軍の命令は主命ではない。薩摩藩としてはそれをきかずとも忠不忠の問題にはならないのである。これをもってしても、将軍が単に盟主にすぎぬことがわかるであろう。
 (盟主は、武力さかんでなければならない)
 それが、盟主の原理であった。武力さかんなればこそ、徳川家は三百諸侯を三百年にわたって庄伏しつづけてきた。かれら諸侯は、武力を怖れて属していた。しかしいまはその武力がむざんに衰え、進行中の長州征伐にあっても、わずか三十七万右の一外様藩に、幕軍がさんざん敗れつつある。その戦場からも敗報が到着していた。もはや盟主ではない。その時勢に将軍家を継ぐなどということは、なにごとを意味するかを慶喜は知っていた。
 「千載の賊になることだ」 
と、慶喜は原市之進にいった。

■突然の長州征伐。胆力なき慶喜

<本文から>
が、この参内からわずか六日後、慶喜は突如、長州大討込をやめると言いだし、京都政界をぼう然とさせた。
 理由は、わからない。とにかくとりやめであり、しかも何事も正式のすきな慶喜は武家伝奏を通じ、朝廷へ中止の沙汰書を賜わらんことを願い出た。出征宣言が八月五日であり、中止宣言は同月十四日であった。これには孝明帝も激怒された。
 理由は、やがて明瞭になった。進行中の対長州戦争では小倉ロの戦線のみがやや幕軍に有利であったが、それが意外にもこの八月二日、戦勢逆転し、高杉晋作指揮下の長州奇兵隊が幕府例の小倉城下に乱入し、小倉藩はこれをふせぎきれず、城主小笠原豊千代丸はみずから城に火を放って退却し、この戦線を指導していた老中の小笠原長行も幕府軍艦に逃げこみ、戦場を離脱し、長崎経由で兵庫港へ去った。小笠原が京にもどって慶喜に敗戦を報告したのは十二日である。幕軍の足なみそろわず、いまやとうてい長州軍には勝てませぬ、と小笠原は、自分の逃走を正当づけるためもあって、一言一句、悲観にみちた報告をした。慶喜は、
 「勝てぬか」
と何度も念を押した。勝てませぬ、と小笠原はなんども答えた。慶喜の頭脳は回転した。勝てぬとわかっているいくさに出陣するには慶喜はあまりにも明敏な頭脳をもちすぎていた。かつ、家祖家康のような、勝てぬいくさを勝てるようにするほどの剛胆さや実戦経験はない。
 「やめる」
といいだしたのは、小笠原長行が辞去した直後である。原市之進ら慶喜の側近はそれを諒とした。たとえ天下に変節漢の恥をさらそうとも征って敗軍の将になるよりはましであった。この小倉口敗戦のためという中止理由は、二条関白に対してもはっきりとそういった。
「結局は、腰ぬけか」
と、在京諸藩の士はおもい、宮廷の佐幕派公卿でさえこれをもって幕府の前途にひそかに見切りをつけた。在京の諸侯のうち、対長州強硬論看であつた京都守護職松平容保などは悲憤し、当初大討込に反対だった松平春嶽も、
 −世間は、この意外に接して、幕府をどう見るであろう。
と、憂慮した。春嶽のみるところ、徳川三百年のあいだ、この場合の慶喜ほどの愚行をした男もいないであろう。しかも慶喜は愚人ではなく、家康と吉宗をのぞけば、慶喜ほどの政治的頭脳をもった男もいまい。しかもその教養は、家康と吉宗をはるかにしのぐであろう。しかしながらもっとも愚昧な将軍でさえなさなかった愚行を、慶喜は連続的に演じている。
 つまるところ、あのひとには百の才智があって、ただ一つの胆力もない。胆力がなければ、智謀も才気もしょせんは猿芝居になるにすぎない」
といった。

■大政奉還を秘かに望んでいた

<本文から>
慶喜がこの大政奉還案を知ったのは、後藤らが十分に幕府要人や諸藩の工作をしとげたあとのことであり、大目付の永井尚志からきいた。永井は、勇を鼓してこの動きを申しのべた。が、勇気は無用であった。
 (まさか)
 と、永井がわが目を疑ったのは、慶喜が実に相違して怒りもせず、取りみだしもせず、むしろ目の色があかるすぎることであった。永井は、次の間で慶喜の感情をおそれ、ひたすらに平伏しつづけている。慶喜はいった。
 「そうか」
それだけである。それのみを言い、あとは沈黙した。慶喜は永井にはいわなかったが、この瞬間ほどうれしかったことはなかったであろう。慶喜は、この徳川十五代将軍という、つるぎの刃の上を踏むよりも危険な職に就いていらい、慶喜がつねに自分の逃げ場所として考えてきたのはそのことであった。事態がにっちもさっちもゆかなくなれば、政権という荷物を御所の塀のうちに投げこんで関東へ帰ってしまう。あとは朝廷にてご存分になされ」というせりふさえかれは考えていた。が、この胸奥の秘策は死んだ原市之進に語ったことがあるのみで、慶喜はたれにも洩らしたことがない。
(さすがは、容堂である)
と、慶喜は自分の胸の奥を見ぬいた容堂にひそかに感嘆した。慶喜はこの洞察が、容堂どころか容堂でさえ生涯謁見したことがないかれの藩出身の坂本によってなされたことを知らなかった。
 このあと、容堂の代理者である後藤は精力的な下工作をつづけ、ついに経藩にも半ば賛成させ、ついに正式に幕府に対し大政奉還をすすめる建白書を提出するまでにこぎつけた。この日、慶応三年十月三日である。

■大阪城から逃亡

<本文から>
適当にあしらうほか慶喜には方法がなかった。やがて奥にひっこみ、板倉と大目付の永井尚志をよび、
 −江戸へ帰る。
といった。板倉はおどろいた。いま主戦論でわきかえっている域内でそのようなことがもし洩れれば、慶喜の身はどうなるかわからない。それに、板倉自身がもはや主戦論者であり、このまま帰東することは逃亡と同様ではないか。永井も、不服であった。慶喜は、もはやその幕僚からも孤立していた。この両人をも、だまさねばならなかった。
「関東に戻って、しかるのち存念がある」
と、関東で割拠抗戦する意思があるかのごとくいった。板倉、永井はよろこんだ。となれば、どうあっても慶喜に江戸城に帰ってもらわねばならないが、当面、この城内の沸騰をどうするか。とうてい、この大坂城から脱出することすら不可能ではないか。
 「どうなされまする」
 「わからぬのか」
 慶喜は、じれったがった。天保山港(大坂港)には将軍座乗檻の開陽がいる。そこまで身一つでたどりつけば、あとほ錨をあげるだけだ。
  −将士を捨てて。
 という表情を、板倉はした。しかし慶喜はいった、あれは予の将士ではない、すでに群衆である。慶喜はさらに、
「肥後守殿(松平容保)も越中守穀(松平定敬。桑名藩主)も予とともに参られよ」
と、かれらを顧み、いった。この会津藩主と桑名藩主を残してゆくのは、危険このうえもない。城内でもっとも昂奮しているのは会津兵と桑名兵であり、かれらは慶喜が去ったあと、容保と定敬を探してこの大坂城に籠城し、京の新政府軍と戦うであろう。それをさせぬためには、両侯を半ば人質として連れ去らねばならない。
 (さて − ?)
 と、板倉は両侯をみた。主君が単身逃走したあと、会津、桑名兵はこの他郷でどうするのであろう。結局は落ちぎるを得ず、それも惨澹たる落去になるにちがいない。
 が、容保とその実弟は、すでに非常のばあいでございます、およばずながら上様のお身をお護りつかまつりたい、といった。この純良すぎる兄弟は、あくまでも慶喜の護身のためについてゆくのだとおもっていた。
「脱出は、予にまかせよ」
慶喜は、こうなれば、−大名育ちとは思えぬほどに機敏であった。すぐ奥を出、ふたたび群臣の詰めている大広間に出た。廊下にも人があふれていて、慶喜にせまり、その袴をとらえんばかりにして陣頭への出馬を切望した。慶喜はついに上段から立ちあがり、
 「承知した。出陣となれば即刻がよい。さればこれより打って立とう。みな、用意せよ」
 と叫んだ。満堂どよめき、歓声をあげ、慶喜が奥へひっこむと同時に出戦支度のためどっと室外へとびだし、持ち場持ち場にかけだした。慶喜は奥に入ると、すぐ容保、定敬、それに板倉勝静、さらには大目付や外国総奉行など八、九人を連れだした。みな平服であった。城内を駈けたが、混雑と夜陰のため、たれもそれが自分たちの主将であるとは気づかない。時刻は夜十時ごろである。城の後門からひそかに忍び出た。このとき城門の衛兵が、「たれか」と銃をかまえて誰何した。慶喜はすかさず、
 「御小姓の交代である」
いった。才能というほかない。とっさにこの智恵が出るがために慶喜はひとから権詐紆謀のひとであるといわれるのであろう。ともあれ、慶喜は自軍のすべてをあぎむいた。
 天満八軒家から川舟に乗り、川をくだって天保山沖に出たときはまったくの深夜で、洋上に闇がこめ、幕艦がどこにいるのかわからない。ただ目の前に大き鬼米国軍艦が停泊しているのがわかった。慶喜は、朝までこの軍艦で休もうと言い、交渉方を外国方の者に命じた。米国艦長は、その申し出を快諾し、このおもわぬ訪客のために酒肴を出してもてなした。夜が明けると、開陽艦の所在がわかったので米艦からポートを出してもらい、それへ移乗した。艦はすぐ蒸気をたき、朝もやのなかを出航した。大坂城内で慶喜らの失踪を知ったのはこの時刻であった。
 慶喜は、艦が紀淡海峡を南下しはじめたとき、もはや大丈夫とおもったのであろう、
 板倉らせ船室によび、はじめて自分の心境と今後の方針をあきらかにした。江戸に帰ったあとは抗戦などせぬ、ひたすらに恭順する、その一事をつらぬく、といったのである。
 (謀られた)
と、かれらはおもった。容保、定敬にしてもまわりは海であり、手もとに自分の家来は一兵もおらず、慶喜に圧力をくわえる手段はなにもなかった。
 「肥後守穀、おわかりくだされたな」
と、慶喜は念をおした。容保は白い顔を伏せ、卓子を見つめている。しかし慶喜と生死を共にすると平素覚悟している以上、これはうなずかぎるをえないであろ。

■容保らを棄て絶対恭順

<本文から>
ついで慶喜のとらねばならぬ政略は、絶対恭順であった。他の何ものを犠牲にしてもこのひとすじをつらぬかねばならぬとおもった。慶喜は、現世のなまのあの顔見知りの京都の公卿、大名、策士どもに恭順するのではなく、後世の歴史にむかってひたすらに。恭顆し、賊臭を消し、好感をかちとり、職名をのぞかれんことをねがった。それ以外にあの策士どもと太刀打ちできる手はない。ひたすらに弱者の位置に自分を置こうとした。この国の芝居好きたちは悲劇ずきでとりわけ非運の英雄を愛し、義経を愛し、そのために判官びいきということばすらあるほどであった。慶喜は、その主題に生きようとした。
その主題をつらぬきつづけるかぎり、世は澎湃として慶喜を判官であるとしつづけるであろう。さらには慶喜が判官であるかぎり薩長は赤っ面の仇役として世間に印象されてくるであろう。それが権謀家としての慶喜の手にのこされた最後の札であった。
 かれはその恭順せまもるためには、容赦なく他をも犠牲にした。かれは幕臣に論告し、「江戸には住むな。知行所のある者はそこに住み、暮らしの道を立てよ」と言い、かれらを当惑させたり、反感をもたせたりした。あわれだったのは、京都以来、慶喜のために犬馬の労をとってきた松平容保、定敬の兄弟であった。かれら会桑両藩主が、朝廷と薩長から憎悪されているところから、これに登城を禁じ、江戸から退去させた。棄てられた、といっていい。容保は会津へ帰り、定敬はその領国の伊勢桑名が官軍の威力範囲内にあるため国へも帰れず、敗残の藩兵をひきい、越後拍崎へ去った。かれらはすでに朝敵でもあり、いま徳川家からもすてられた以上、もはや山野に戦ってほろびるほかなかった。容保は慶喜の無情をうらみ、「なんすれぞ大樹(将軍)、連枝(将軍の一門)をなげうつ」との詩をつくってひそかにそのうらみを託した。
 慶喜の恭順ぶりは日とともに徹底の度をくわえた。二月十二日、ついに江戸城を出て上野寛永寺大慈院で謹慎し、罪を待つ姿勢をとった。さらに四月十一日、勝海舟をして江戸城を明けわたしめ、官軍が入城する朝、慶喜は上野の大意院を出、謹慎他の水戸へむかうべく、江戸を去った。
 翌明治二年九月、慶喜は謹慎を解かれ、同時に時勢からもわすれられた。その前後、慶喜は水戸から、徳川の新封地である静岡に移っている。
  以後、歴史のなかで慶喜は永久に姿を没した。

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