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<本文から>
が、慶喜擁立派の執拗さは、正弘の死をみてもなお絶望せぬことであった。かれらに私心がなく、ただ憂国慷慨の情のみで動いているだけに、反対派はそれをあからさまに難ずることができなかった。幕府内部では少壮の秀才官僚群がことごとく慶喜擁立を支持し、諸大名のほとんどが慶喜に望みをつなぎ、京の公卿、門跡でさえ、
「一橋卿が世に立てば」
と、ぎょう望した。しかも世間のたれもが、つまり数人をのぞくほか、一橋慶喜という人物を見ていないのである。さらに年端のゆかぬ若者であるために過去に実績があろうはずがなく、むろんその能力を知るに足るほどの著作物もない。
「英明ニシテスコブル胆略アリ」
という噂だけが世間を駐けまわり、世間を踊らせ、下級志士などは慶喜を救国の英雄と見、それを憧憬し、ほとんど狂舞せんばかりであった。これほど奇妙な英雄の作られかたは史上なかったであろう。当の慶喜は、当惑しきっていた。
「これほどい馬鹿なはなしはない」
と、この聡明すぎる若者は、それらのすべてがわかっている。世間は、列強の侵犯を前にして日本滅亡の予感に戦慄している。その危機感や恐怖、憂憤に堪えきれず、これを一個の英雄に肩がわりさせ、すこしでも気を楽にしたいという気持がはたらき、そこで英雄の出現を幻想し、たまたま慶喜を見つけてこれこそそうだと思い、自分のつくった妄想におどりはじめたのであろう。こまる、と思った。
「たとえおれが征夷大将軍になったとしても何をすることもできない」
と、慶事は平岡円四郎に言っていた。
が、かれの擁立派は頓着せず、ついに窮したあまり、京の朝廷にまで運動した。朝廷から将軍家にむかい、慶喜を立てよ、と勅命をもって指名してもらおうとしたのである。
むろん、幕府成立以来、そういう前例はない。 |
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