司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          最後の伊賀者

■伊賀を裏切った与次郎の最期は

<本文から>
 喰代官地屋敷の中である。忍者にめずらしく、切腹をきせるつもりだろう。与次郎はあらゆる武芸を教えられたが、わが身を斬る切腹の作法だけは知らなかった。
 玄関からあがると、式台のうえに肥満した背の高い男が立っていた。名張服部党の郷土服部藤右衛門であることがわかる。男の大きな顔が笑った。
 「与次郎。われはきょうから、名張服部家の養子と心得ろ」
 「どうとでもして貰おう」
 「来い」
 孫右衛門は、与次郎の前に立った。広い肩幅が、与次郎の眼の前で山のようにゆれた。隙がない。与次郎は、この男にはかなわないと思った。
 孫右衛門は、奥の襖の前でとまった。与次郎をまねき寄せると、
 「入れ」
 どんと、背をつきとばした。与次郎は、アッとロをおさえた。床柱の横で綿帽子をかぶって坐っている大きな女は、木津姫に相違なかった。綿帽子のなかから声がした。
 「来たか。与次郎」
 「あははは」
 孫右衛門がわらって、
 「与次郎、ずいぶんとしぶとい男じゃ。おなじことなら、死ぬより宮地の姫と連れそうほうがましじゃろ。これからの未永きをおもえば、これも一種の刑罰かもしれん」
 その孫右衛門を、横あいから小左衛門のちいきな顔がにらんでいた。万事は、木津姫に泣きつかれて孫右衛門が仕立てたお膳立なのだろうが、小左衛門はこの処置に不満なのにちがいない。与次郎は与次郎で、しょせんは何をしてもた撃がなかだと思った。
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■順慶に化けた転害門

<本文から>
 ところがこの験者、次第に化けの皮がはげてきて、験者などではなく、伊賀では転害門の異名で知られた忍者とわかった。
 殺すにも、一筋縄ではいかない。
 そこで箸尾縫殿が、三人の老臣と相談し、転害門の上忍杉ノ坊を訪ねて、順慶に化けおおせた妖怪を殺すように依頼した。
 その数日後、杉ノ坊は、殺された。
 むろん下手人は、転害門である。夜、筒井城を扱けだして伊賀の山中へ走り、杉ノ坊を殺したあと、折りから帰国してきた梅ノ源蔵を薬師堂でからかいつつ、十数里を風のように走って城内に舞いもどった。転害門ほどの術者でなければ、できぬ芸である。
 その経緯を梅ノ源蔵がおばろげながら見ぬいた、とみたから、箸尾縫殿は、これを京に隔離して、一種の囚人にした。
 「それで?」
 と宗心は、きいた。
 「来年は、そちとの約束の三年目になる。転害門は、あれはあれで御当家のお役には立ったが、御養嗣もようやく長じられた。来年、転害門は死なねばならぬ。そのこと、そちにまかせる」
 「殺すのでござるな」
 「めだたぬように。病死を粧えるように。相手が常人ならわれわれの手で寺を盛ればよいのじゃが、この者、容易なこと、油断がない。やはり、柁の道は蛇という。そちは、あの者が順慶様に化りおおせたあと伊賀からよびよせて手足のように使うていた同類三人を殺してくれた。わしはそこを見込んだ。このこと、抜かりはあるまいな」
 「ございませぬ」
 宗心は、いんぎんに炉の前で頭をさげた。
 この数日後の天正十年六月二日、折りから本能寺を旅宿にして京に駐営していた織田信長がにわかに叛臣明智光秀に殺され、播州姫路でその報をきいた信長の中国派遣司令官羽柴秀吉が兵を旋して山城の山崎に進出し、光秀と遭遇戦を演じた。
 このとき、大和にあった筒井順慶が、秀吉と光秀の双方に微笑を送って所謂「洞ケ峠」をきめこんだが、この順慶は、伊賀伝説では、転害門であったことになる。
 幸い、「順慶」は、戦後、秀吉によって本領を安堵きれたが、その翌々年に病死した。
 単に、病死である。
 なぜならば、秀吉から筒井家が本領安堵の沙汰をうけた数日後、順慶が輿福寺の僧某を茶室にまねいて茶事をしたとき、炉の灰がにわかに噴きあがって天井に達した。
 順慶、脇差をぬくやおどりあがって天井を刺し、天井裏にはりついていた宗心の心ノ臓を背に抜けとおるまで刺しつらぬいたからである。つまり、源蔵は、順慶の死よりも以前に死んだ。源蔵不覚。−おそらくこの男は、すでに化性をうしなって宗心になりすぎていたのであろう。
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■最期の伊賀者

<本文から>
 一揆がおわってから、急に伊賀同心たちはおこりが落ちたようになった。容儀、物の言いよう、顔つきまで、ただの幕府の徒士とかわらなくなった。ひと目みて、その前身がすぐそれと想像しうるほどの者はすくなくなってきた。理由はいろいろあった。江戸の町住まいに馴れてきたせいもあったし、分散支配をうけて勢力がそがれたということもあったろう。しかし、伊賀者が忍者として自在に活躍していた時代が過ぎ、江戸の町で鉢植え同然の身になったとき、ひろい野への郷愁が、かれらの血を欝血きせた。たまたまその爆発の対象に服部石見守がえらばれたのだが、そのほかのものでもよかった。過ぎてみれば、なんでもないことだった。なぜあんなに騒いだのだろうと自分でもいぶかしんでいる者さえあった。むろん、和田伝蔵もそのうちのひとりだった。
(妙なやつだった)
 ヒダリのことを考えた。なぜあの男が、服部石見守を夢中で憎んだのかは、わからなかった。憎むために憎んだようなものだった。いまになって、遠い伊賀時代のことをおもいだしてみると、そういう伊賀者は、あの野にはたくさん棲んでいた。人を摘み、疑い、憎むようにしか育てられなかった伊賀者のなかで、かれは最後の者で。あったかもしれなかった。江戸の町で、ただの人とまじわって生きてゆくことができなかった、ただそれだけのことだったのだろうと、伝蔵はなんとなく、放心したように考えてみる日があった。
 服部石見守には、その後不幸なことがあった。
 役を免ぜられてから、激しくヒダリをにくみ、家士に命じて、ヒダリの逃亡ききをきがさせていた。偶然、他行しての帰路、屋敷のそばでヒダリを見た。武士の装束をしていた。すぐ供に下知し、押しかこんで斬り、免れてからも、槍を逆さにして十敷皮突いた。死骸はなますのようになって、容貌さえわからなくなったが、後日それが誤認とわかった。ヒダリではなく、自分の処分をきめた老中本多上野介正純の家臣で月沢某という者であった。
 このため、石見守は公儀に遺恨を蔵しているととられた。きらに、ここ数年来江戸で頻発している辻斬りは、うわきのとおり石見守の所行であろうということになって、改易のうえ、身柄を、舅の松平定勝にあずけられた。
 その後、ほどもなく大坂の役がおこった。
 戦場で勲功きえたてれば家名を回復できるとおもったのだろう。元和元年夏、半蔵正就は定勝の陣を借りて出陣し、天王寺ロの合戦で、どうしたことか行方不明になった。定勝は兵を手配って数日捜索させたが、みつからなかった。死体もなかった。結局、臆した上の逃亡とみられた。
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■外法仏

<本文から>
 思亮は、すくと立った。
 「わしは、死んだのか」
 壇をおりて歩きはじめた。あるきながら、どこにそれほどの生命力がのこっていたかと思われるほどのカで、衣をべりべりと引き裂き、制止しようと駆けよった侍憎を、はげしい膂カではねとばした。
 やがて壇にもどると、そのまま座にはすわらず、炎のむこうの大威徳明王の絵像をにらみすえながら立ちはだかり、
 「…………」
 と叫んだが、声は口蓋を走るのみで言葉にはならなかった。恵亮が脳乱したという騒ぎをきいて、石上ノ黒緒は堂衆を押しのけて堂内に入った。外の明るさに馴れた眼に、堂内の時きは身動きを阻んだ。黒緒は堂のはるか下をのぞいた。そこに一団の火炎があり、独鈷をにぎって上半身をほとんど裸形にした男が立ちはだかっていた。
「上」
 ころがるように階段をおりたとき、黒緒の暗い視野の申にある恵亮は、独鈷をゆっくりと左手から右手にもちか、
 「………」
 と叫んだ。取りまく人々の耳には、それは怪鳥の叫び声のようにしか聴えなかったろうが、黒緒の耳にはまぎまぎと言葉をなしてきこえた。
 「青女」
 たしかに、そう聴えた。しかし、それが恵亮の最後の声だった。次の瞬間、恵亮の独鈷は、火あかりにきらめいて自らの頭董を打ちやぶり、即批aとりだして香にまぶし、三度それを火中に投じて、ついに絶命した。
 恵亮の脳環が火中で燃え、その炎の前でかれが昏倒したとき、絵像の太白牛がまず吠え、大威徳明王が剣をあげ、杵をまわしてまざまざと感応したという。
 恵亮は脳乱したのではない、といわれた。捨身の修法を験じて、ついにその念力によって藤原方の斃馬はたちあがり、琵琶股もたくましく残る六日を駈け通して、紀氏の栗毛をはるかに引きはなし、惟仁親王に太子の座をかちとらしめた。のちの清和天皇が、このときの親王である。
 この間、小さな異変があった。祈祷の勝利者である僧都恵亮の遺骸が、新野を待つまでのあいだに、何者かの手によって首が切りはなされていたことだった。
 「なるほど、僧都のお顔は、めずらしく外法頭だった」
 山門で、物知り顔に云う者があった。外法頭とは、頭の鉢がひらき、眠が両耳よりも下につき、あごが不均衡にすぼんでいる相をいう。この相の者と生前約束をして、死後すぐそれを切りとり、六十日間人の往き来のはげしい路傍に埋めておくと呪カを発するというのである。
 「外法の巫女が垂涎して盗みとったものに相違ない。探したところで捕まるものではない」
 事件はなんとなくそんな茶呑み話に終って、不問のうちに忘れられた。
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■天明の絵師・呉春

<本文から>
「いま勅命があって、御所の杉戸、襖、天井などに絵をかけ、といわれれば、蕪村の絵ではつとまらんよ」
 これも、応挙の画論である。蕪村の絵は所詮はせ捨てびとの手なぐきみにすぎず、権門勢家の大建築に描くような張りのあるものではない。そういうものこそ絵画だ、という理論を、学問のない応挙は、
 「勅命があれば」
 という卑俗でいかにも事大主義なたとえで論じたわけである。
 県春は、なるほどとおもった。さらに応挙は言葉をかきね、
 「貴下の画オは、本来、写実にむいている。人間、そのオに似つかわしい土に植えて花をひらかせるべきものだ。とても蕪村の土にはあわない」
 器用さがあって精神がない、と秋成が罵倒した欠点を、応挙はむしろ、それこそわが画法では利点だ、といわんばかりにすすめてくれたのである。
 (要するにわがオは、応挙のような大衆芸術にむいている)
 と呉春は、このとき翻然と悟った。ぜひ、と手をついて頼んだ。
 「ご門下の末席に」
 といったが、応挙は笑い、貴下ほどの才華のある人を門下にはできない、客分として来ていただくならば、といってくれた。
 その破格な待遇に、呉春は狂喜した。蕪村門下で窒息しきっていた自分が、所を変えれば、ここまで価値が逆転するものかと、ほとんどぼう然とするおもいだった。
 それからの呉春は、美術史にくわしい。
 蕪村の画風を一擲し、応挙をまね、ほとんど一年で応挙そっくりの絵をかくようになり、数年で応挙以上といわれ、注文が殺到し、四条通りに大邸宅をつくった。天明の大火のとき応挙がたまたま、
 「勅命」
 というたとえをつかったが、そのこときえ実現した。応拳の死後御所の御用をつとめ、その権威も手つだって画料はいよいよ高騰し、門人は数百人をかぞえるにいたり、呉春が四条通りに住んだところから門人たちはその付近に居を移し、このため呉春の派は、
 「四条派」
 といわれて繁栄し、その流儀の系列は、明治、大正、昭和の日本画の画壇にまで及んでいる。
 呉春が、もし蕪村の流れに生涯貞潔であったとすれば、単に無名の月渓でおわったろうし、また天明の大火がなかったなら、呉春は貧窮のうちに死んでいたかもしれない。
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■蘆雪を殺す

<本文から>
 お里は腹も立たなかった。蘆雪は自分でつくりあげた長次郎にきりきり舞いし、そのため大坂三界を転々し、ついに毒を盛られた、と勝手におもいこんでその衝撃で死んだのではないか。
 (もともと、脈のつよいひとではない)
 島原口から駈けもどったあの夜のことをおもいだした。あの夜も蘆雪はほとんど死に絶えんばかりだった。
 「惜しい男やった」
 眼の前で、源埼がなにかいっているらしい。
 「蘆雪をあと十年生かせれば」
 と源埼はいった。おそらく絵画史を一変させるほどの画業をなしとげたろう、という意味のことを源埼はくどくど言っているようだが、お里の耳には入らなかった。
 お里の網膜の裏には、島原ロから逃げかえったとき、土間で空をつかんで倒れた蘆雪の奇妙な姿だけあり、その姿がゆらゆらと動いて、なにやら古い武者絵の人物でも見ているようにふしぎに実感がなく、涙一つこばれなかった。
「あれは天才やったな」
 源埼は、独りうなずいていた。それはそうであろう、源埼はやがて消えるが、蘆雪の存在は絵画史上に光已をはなっている。が、このときのぶ里には、蘆雪の絵がどうであれ、なんのかかわりもないことだった。
 (まったく、おかしな人だった)
 と、まとまらぬ実感をあつかいかねて、源埼の顔ばかりをぼんやりと見ていた。
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■けろりの道頓

<本文から>
 「安井道頓は、これから大坂城に入城する」
 と、存外凛とした声で道頓はいうのだ。道卜は肝をつぶした。あまりの意外さにロもきけなかった。百姓の分際で、しかもこの高齢で、いったい何を呆けたことを言いだすのだ、と思い、
「正気でござりますか」
 といった。
 「ああ、正気や」
 「どういうおつもりでござります」
 「豊公には恩義がある」
 何を言うのだ、と思った。むかし、天満川畔の青物市で肩をたたかれただけのことではないか。そうなじると、
「ああ、それでも緑は緑や。その息子と後家が負けかけているのに、だまって道頓が見ているわけにもいくまい」
 といった。
「お藻のこともある。お藻が死んだお城ならわるい死場所ではない」
 うずうずと笑った。お藻のことを、この高齢になるまで忘れずにいたのであろうか。けろりどころではなかった。おそるべき執念だった。
「早速、この足で入城するゆえ、すまぬがそのあたりの辻で古具足なと買うてきてくれんか」
「わたくしも、お供つかまつります」
「阿呆かい」
 道頓は笑った。
「一人で、そえ。百姓のじじい二人がそろうて戦き場に行くのは薄汚うていかん」
 道卜は、平野藤次をよんで、二人がかりで説得したが、道頓はきかなかった。
「ほなら、行く」
 工事場に一声残したまま、安井道頓は古具足を着て、悠然と城のほうへ去った。
 ほどなく大坂冬の陣がおこり、ついで元和元年四月、夏の陣があった。道頓は高齢のゆえに野戦には加わらず、落城とともに火に巻かれて生涯を終えた。年八十ともいい、七十ともいう。いかにも、その異名らしいあっけない最期だった。
 乱後、徳川治下の初代大坂城主になった松平忠明は、大坂再興の第一着手として、道頓の掘り散らした堀を完成させることを考え、道卜と平野藤次をよんで請け負わせた。
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