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<本文から> 喰代官地屋敷の中である。忍者にめずらしく、切腹をきせるつもりだろう。与次郎はあらゆる武芸を教えられたが、わが身を斬る切腹の作法だけは知らなかった。
玄関からあがると、式台のうえに肥満した背の高い男が立っていた。名張服部党の郷土服部藤右衛門であることがわかる。男の大きな顔が笑った。
「与次郎。われはきょうから、名張服部家の養子と心得ろ」
「どうとでもして貰おう」
「来い」
孫右衛門は、与次郎の前に立った。広い肩幅が、与次郎の眼の前で山のようにゆれた。隙がない。与次郎は、この男にはかなわないと思った。
孫右衛門は、奥の襖の前でとまった。与次郎をまねき寄せると、
「入れ」
どんと、背をつきとばした。与次郎は、アッとロをおさえた。床柱の横で綿帽子をかぶって坐っている大きな女は、木津姫に相違なかった。綿帽子のなかから声がした。
「来たか。与次郎」
「あははは」
孫右衛門がわらって、
「与次郎、ずいぶんとしぶとい男じゃ。おなじことなら、死ぬより宮地の姫と連れそうほうがましじゃろ。これからの未永きをおもえば、これも一種の刑罰かもしれん」
その孫右衛門を、横あいから小左衛門のちいきな顔がにらんでいた。万事は、木津姫に泣きつかれて孫右衛門が仕立てたお膳立なのだろうが、小左衛門はこの処置に不満なのにちがいない。与次郎は与次郎で、しょせんは何をしてもた撃がなかだと思った。 |
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