司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          歳月・下

■大久保は江藤を権詐機巧の才とよんだ

<本文から>
 倒幕事業いらい、二度目の大久保のたたかいがはじまろうとしている。
「しかし」
と、大久保はいう。
「意外なことは他の参議のことです。かれらは西郷の尻馬に乗りながら西郷とともに辞表を出していない。これはどういうことか。そこまでかれらは意気地がないのか」
「とくに江藤」
と、大久保はいった。
 大久保はこのときからだじゅうの血液が酎になるような思いで、江藤の顔を思いうかべた。ついでながら、大久保は強靭な感情の抑制力をもっているがためにひとには気づかれないが、しかし内面これほどの感情家もまれであった。さらについでながら、かれは江藤以外の政敵についてはすこしも憎悪を感じていなかった。たとえば板垣は大久保の目からみれば単純な血性男子で、板垣のどこをどう押せば怒り、あるいはよろこぶかというつぼを大久保は知っていた。要するに板垣の思考法や行動にはかれなりの原理があり、それはたれの目にも明瞭である。明瞭であるがために無害であつた。後藤象二郎は粗大でこれは意とするに足りない。副鳥種臣は好学の士である。その学問と人柄の気韻については定評があり、大久保自身もはやくから敬慕し、蒼海先生とよんでよく意見をきいてきた。副島のほうも大久保に、政見の相違はべつとして好意をもち、大久保の政治的力量を価値相当に評価し、その点ではたがいに知己であった。大久保にとってえたいの知れぬのは、江藤新平ひとりである。これはどういう男か。
 (江藤だけは、私怨と権謀だけでうごいている)
 と、大久保は憎悪をひそめつつ観察していた。江藤の「私怨」とは江藤がことあるごとに寺煙のように吐きちらしている薩長閥への憎しみのことであった。さらに江藤の「権謀」とは薩長の結束カを分解せしめようとくわだて、それがために征韓論をカ説した。大久保から見れば江藤はおのれの権謀のためには国家の運命をぎせいにしてもかまわぬという徒であり、いわば国家というサイコロに細工をするいかさま賭博師であった。こういう種類の才人を、大久保は「権詐機巧の才」とよんでいる。このあたりが、人間の関係の微妙さであった。なぜならば「権詐機巧」ということにかけては大久保は同質同類の才質をもち、しかもその点において江藤よりはるかに巨大なタレントであった。
 −おれも同類の男かもしれない。
 と、大久保はひそかにおもったであろう。同類どころか権詐機巧にかけては精密機械のように大久保の才能は複雑で正確で目的にむかってはひえびえと作動した。「しかし」と、大久保はおもったであろう。
 (おれは江藤ではない)
 と。この点で、大久保はあふれるほどの自信をもっていた。自分には満腔の赤誠がある、ということである。赤誠をつらぬこうがための権詐機巧であり、国家をサイコロにするようないかさま師ではない、ということであった。大久保は江藤と自分とは天地の差があるとみていた。同時にこのあたまのよすぎる男は、
 (江藤も、自分をそうみているのではないか)
 とも、観察し、その点をおそれた。このおそれを消すには江藤そのものを消滅させるよりほかない。要するに同質の大久保からみれば同類だけに江藤の楽屋があけすけにみえ、楽屋がみえるだけに江藤の別な面をみようとはせず、諸事小面憎さがさきだってしまうのにちがいなかった。
 (なににせよ、なぜ江藤は辞表を出さぬか。西郷とあれだけ行動をともにしながらいざとなれば西郷を見すててしまう。それも江藤一流の権詐か)
 と、このあさ、大久保は岩倉からの急報に接してまずそれをおもわざるをえない。この政敵に憎悪をもって買いかぶられてしまっている江藤こそいいつらのかわであった。なぜならば江藤はなにも知らない。かれは西郷に同調しょうにも西郷から辞表提出についてなにもきかされておらず、このあさ、西郷が岩倉邸に行ってそういう行動に出たことも知らなかった。江藤は要するになんの情報ももっていなかつた。情報といえば江藤は元来、自分のまわりの政情のうごきに関する情報感覚についてはあほうのように鈍感であった。こういう男が、大久保がそう思っているほどの権詐機巧の士になれるはずがない。 

■人間の才能はつくる才能と処理する才能のふたつにわけられる

<本文から>
 人間の才能は、大別すればつくる才能と処理する才能のふたつにわけられるにちがいない。西郷は処理的才能の巨大なものであり、その処理の原理に哲学と人格を用いた。大隈もやはりその系列に属するが、その原理に哲学や人格を用いるということはなく、事務的才能をもってそれに替えた。大木喬任も処理家であった。大木は処理の原理には常識をもってした。副島のばあいはやや人格的格調は高いがやはり処理家であり、創造家でありがたい。板垣は処理家でも創造家でもありにくく、まったく別系列の、たとえばもしかれが適職を得ようとすれば野戦司令官のほかにはあまりしごとはない。
 要するに、かれら処理家はことごとく日本の国家体制をどのようにするかという点ではほとんど実際上の抱負をもたず、たとえそれについて大言壮語することがあってもその創り出しのために身を挺するほどの関心も情熱ももたなかった。
 大久保と江藤だけが、その才能とそれへの関心と情熱をもっている。このふたりだけが体制を設計するということを自分の専門としてひそかに自負し、さらにまた自然のいきおいでそういう職にもついていた。
 ただかれらの不幸は、国家設計というおなじ言…に関心をもちつつも、双方動機思想を異にしていたことであった。大久保は徳川家康を政治上の理想としているほどの漸進主義者であり、一方、江藤はあたらしさを好み、施策の直截をこのみ、つねにその選択はすばやく、大胆であった。たとえば江藤は戊辰のとき江戸にあり、彰義隊さわぎのただなかにありながらすでにどこから知識を得ていたのか、「これからの日本は勝者も敗者も藩を廃止し、憲法をもうけ、議会をひらかねばならない」と言い、多くの倒幕の志士たちの耳をおどろかせた。
 かれは明治初年の政治的混乱と蒙昧さのなかにあって信じられぬほどに先覚的であった。自由民権運動ということばすらなかったころから立憲政治のおこなわれることをとなえ、三権分立を主張し、上下議院の設置を考え、その議会制度は中央だけでなく府県自治まで構想し、それらを機会あるごとに太政大臣三条実美や右大臣岩倉具視に献言した。
「民権」
 という日本語は江藤が採択した。はじめ箕作麟祥がフランス語からそれをそのように翻訳したとき、審議委員のなかには、
 −民権。人民に権利があってたまるか。
 と叫んだ者があり、このため議事がもつれてまとまらなかったが、やがて江藤が席につくや、
 「それでよかろう」
 と、ひとことで断をくだした。江藤にはそういうところがあった。
 大久保は、ちがっている。かれもまた根本律法(憲法のこと。江藤は憲法ということばをつかったが、大久保は江藤の司法省がつくったあたらしい日本語に抵抗をおぼえたか、それとも知らなかったのか、自分の造語をつかってまにあわせていた)については関心がふかく、ヨーロッパ諸国をまわっていたときもとくにその点に注意をはらい、ベルリンの宿では随員にプロシヤ憲法を翻訳させて逐条よみふけり、帰国後、これについての意見書をかいたほどであり、無関心であったわけではなかった。が、時期がはやすぎるとみた。大久保にすれば、ヨーロッパにあっては文明が古く教育が普及し人智がひらけている、さればこそ人民が選挙を通じて執政者をえらぶということも可能であろうが、日本にあっては百姓町人にそういう素養がなく、まして不平士族にそういう権利をあたえれば国家は千々に破壊されてしまうにちがいない。すべてはるかな将来のことであり、それにいたるまでは官の専制独裁によらねばならない、としている。
 ちなみに旧幕臣の勝海舟はその海外知識の豊富さと政治の古強者ということで維新後も明治政権に対する助言者でありつづけたが、このことにつき大久保から相談をうけたことがあったのであろう。そのとき勝ですら、
 「明治も三十年を越えてからのことだよ」
 と言い、大久保も承知したらしい。

■江藤の議論は刃物のようにするどい

<本文から>
 慶長の問題を論ずるについても、たいていの者はその跋扈をなげくだけでおわるか、それともそれにとり入ってその勢力を利用しようとするが、江藤の議論はいきなりどう退治するかになってしまう。しかも談じていくにつれてその議論は刃物のようにするどくなってゆくのである。
 「佐賀がひとたびたちあがれば、薩摩の久光党も西郷党もたちあがるだろう。土佐はむろん板垣の号令のもとにたちあがる。その連合をもって孤立した長州を討つ。長州をほろぼしてのち、残る薩を土佐と連合して討ち、薩がほろんでのち、土佐閥・佐賀閥はみずから解散し、政治を天下公のものとする」
 薩長の者がきけば戦慄するような謀策である。しかし実際はどうであろう。実際は薩摩の内情や西郷の性格、意中などは、江藤にはよくわからないし、また土佐が無邪気にたちあがるかどうかについても、江藤にはその現実が把捉されていない。現実把握という知意については江藤の頭脳はまるで欠落していた。そういう知恵がないというよりも、江藤の思考法を傾がせている癖が、現実把握の知恵や心のゆとりといった機能を圧迫して閉鎖させていたといったほうがいいであろう。自然、江藤の思考法から出る策は、きわめて図式的であった。その策はつねに色彩があざやかで描線がくつきりしており、要するに論理こそ明快すぎるほどに明快であったが、しかし現実から致命的に遊離していた。逆にいえばその遊離しているところが論理的明快さになり、その明快さが論者である江藤の信念を固めさせ、ひいては他を酔わせた。さらには敵に対し、策士の印象をあたえた。

■佐賀征伐に福岡県士族が予想以上に集まる時勢

<本文から>
 志願兵募集という手は軍事上の必要がないにしても、政治上の必要からぜひやっておかねばならないとおもった。
 「いや、ご妙案と思います。連中はよろこぶかもしれませぬ」
 さっそく山根権参事は県庁から多数の伝令者をくりだし、士族町を走らせ、
「官におかせられては佐賀の賊を懲滅すベく九州に大軍をくりだされておるが、とくに福岡県士族をもってその先鋒をうけたまわらせようとのおぼしめしである。有志の者は明朝九時、大手門の前にあつまれ」
 と、ふれさせてまわった。
 朝になった。立案者の大久保が予想していたよりもはるかに大きい人数が、あつまった。かれらはすでに夜明けのころから大手門前の広場にあつまり、時とともにふえ、定刻九時には三千六百人になった。そのことごとくが、佐賀征伐の従軍を志願した。
 「そういうものだ」
 というふうには大久保は言わなかったが、そうおもっている表情だった。大久保のみるところかれら士族どもにはべつに思想などはない。しかし思想よりもなまで、なまなだけに始末のわるい不平と鬱屈が一人一人ののどもとまで詰まっており、それに目標があたえられることを足摺りするようにして待っている。この事情は、敵であるべき佐賀士族についてもかわらない。征韓論や、島義勇のいう封建復活論などは単にスローガンであるにすぎなかった。スローガンはおだやかなものであってはならない。人をして武器をとらせ、敵と戦わしめるだけの熱気を帯びたものでなければならなかった。征韓論は、佐賀士族にとってはそれであった。
 福岡士族にとっては、
  −朝敵懲滅。
 という、これまた熱狂的なスローガンがあたえられている。もし地をかえて福岡県で征韓論さわぎがおこっているとすれば、佐賀士族は「朝敵懲滅」の旗のもとに弾雨をくぐって筑前平野に攻め入ることであろう。
 維新という大変動があってまだ六年しか経っていない。大変動のあおりをくった士族たちの熱気は、かれらの身を焦がすばかりに高まっている。時代が、くるっている。それを鎮静させるには互いに刃物をとって互いの血管に突きたて、互いの血をはきださせる以外になかった。

■江藤はわずか五日で敗北宣言し薩摩へゆく

<本文から>
 「香月君、いさめてくれるのはありがたいが、事実は事実なのだ」
 「なんの事実でしょう」
 「敗北という事実である」
 「しかし、まだ敗北しておらぬではありませぬか。十八日に佐賀城をうばってたちあがって以来、まだわずかに五日にしかなりませぬ。−五日」
 香月は、その日数のみじかさに、われながらおどろきつつ、
「その際、なるほど朝日山を退き、寒水の陣地を退きましたが、ただそれだけのことです。激戦のわりには死傷すくなく、まだまだ戦えるでしょう。というより、戦いはこれからだとおもいますが」
 「香月君、きみにはわからないのか。敗北の兆候がすでにあきらかなのだ」
 (兆候。−)
 傍観者のことばである。当事者ならたとえ兆候を察し得ても、泥まみれにならざるをえないであろう。
 香月は江藤のもろさに内心あきれつつも、ただ一つのことだけは進言しなければならなかった。
「撤退しましょう」
「なに。君は、退却しようというのか」
 江藤は、香月のいうことが矛盾しているとおもった。が、香月のいうのは本営の所在地のことである。味方が後方の田手川の線にさがったというのに、江藤の前線本営はなお神埼にある。この位置は敵へ突出しており、今夜でも夜襲をうければひとたまりもない。
「もっともなことだ」
 江藤は、それに気づかなかった自分に苦笑をした。
 撤退には、夜間がいい。準備は、簡単だった。江藤は下僕に行李をかつがせた。日が沈んで街道が暗くなると、江藤らは森の多い神埼村を出、佐賀をめざしてひきさがった。
 夜八時ごろ、佐賀についた。すぐ封建党の本営に出かけると、島義勇はあいかわらず、烏帽子、直垂という姿で、軍配をもっている。
「だんにょ (島義勇のこと)、これ以上はむりです」
 と、江藤はのっけから言い、おどろく島に、東部方面での状況をのべ、ほとんど大宣言をくだすような語気で、
 「征韓党は、解散します」
 と、いった。島もおどろいたが、江藤につき従っている幕僚たちも一驚した。下相談すらなかったのである。第一、副将の島義勇に対しても江藤は相談というかたちを用いず、自覚としての結論だけいった。江藤には江藤なりの言い分があり、それは、こういう頽勢のなかでいたずらに評定形式をもちだしてはかえって甲論乙駁が白熱し、そのうえ悲壮感に駆られた者が席上なにをしでかすかわからない。要するに、敗北である。敗北なら、明確に敗北せぬ前に全軍解散ということにすれば政府軍の勢いをそらすばかりか、無用の死傷者を出さずにすむ。
 が、島には、そのぎょうぎょうしい戦袍姿の手前と、もって生まれた気象というものがある。
 「私は、反対だな」
 と、ひげのなかの唇を噛み、黄味がかった眼球を剥き、いまにも飛び出そうになるほどに江藤をにらみすえながら、私は御城を枕に討死するつもりだ、といった。
 「それも、一つの道だ」
 と、江藤はさからわない。江藤がおもうに、島団右衛門義勇のような男には、このあと生きたところで天下の役に立つというようなことは、まず考えられない。むしろ、討死こそ、封建武士の賛美者である島義勇の最期にふさわしい。が、自分はちがう、と、江藤はこの点が明快であった。江藤新平はこれから天下においてなすべきことが山ほどである。
 生きるべきであった。
 江藤は、封建党の陣屋に十五分もいなかったであろう。長居は、無用の論議を誘うたねになるとおもい、呼びとめようとする島の表情に黙礼し、そとへ出た。
 軒の上は、満天の星である。その星あかりに、道路がわずかに白い。佐賀城下の夜は暗いのが特徴であった。九州の諸城下のなかでも、佐賀城下はとびぬけて夜が暗いとされてきた。佐賀者の通ったあとは草もはえぬと悪口をいわれるほどに鍋島家の倹約政治が徹底してきたため、夜は士も商も農も燈火を惜しみ、闇をおそれるようにして早寝してしまう。このところとくに暗いのは、城下のひとびとが戦火をおそれて遠くへ疎開してしまっているからでもあった。
 「このまま、鹿児島へゆこう」
 と、軒を離れるなり、江藤はいった。鹿児島で西郷に会い、その決起をうながしていま一度政府をゆさぶるつもりであった。

■大久保は法律をなく政略で江藤を刑殺せねばならなかった

<本文から>
 大久保の思案は、江藤の想像外のところにある。
 かれにとって、必要なのは法律ではなく政略であり、是が非でも江藤を刑殺せねばならず、江藤を断固として殺すことによって天下に充満している不平の徒に対し東京政府の威権をさとらしめ、さらには薩摩にいる西郷とその徒党に対して反逆の無駄であることをさとらしめねばならない。それには江藤前司法卿に対する処刑はできるだけ惨刑であることがのぞましく、そういう判決をくだす法律がないとすれば、法を無視するほかない。
 大久保は、最初から無視してかかっていた。その点の法律操作をどうするかという必要があればこそ、この「忍人」は東京から多数の司法省役人をつれてきているのである。
「斧をふりあげて、虐殺者のようなことをする法官はないか」
 と、大久保の要求は、ことばにすればこういうことであろう。
 大久保はこれについて、岩村通俊に、
 「ひきうける者に対しては、千円の報償金を出す」
 とすら洩らしていた。千円といえば、このころ江戸の山手あたりの旧大名の江戸屋敷が千円たらずで売りに出ていたし、ふつうこれだけの金があれば庶民ならば十年は無職で食えるほどの価値があった。これがのち世間に洩れ、「千両の首斬り料」という評判がたった。ともあれ、裁判長次第であり、この裁判長は後世からうける批判までもろともにひきうけねばならない、それをたれがひきうけるかである。報酬は千円であった。法正義を金で売るという離れわざが政治の世界にあるということを、江藤のような思考癖の者にとっては想像ができなかったであろう。ところが岩村通俊には心あたりがあった。「河野敏鎌に話してみましょう」と、岩村は自分と同郷の土佐人の名を出した。

■江藤は法律にはない梟首を宣告

<本文から>
 江藤は、聴いている。つぎは死の宣告であろうことはこの法廷の進行状況からみて察することができた。裁判が東京裁判所へうつされるという期待は消えた。江藤はこれだけの政治事変をおこしながらそれについてのなんの論述の自由もあたえられずに死ぬことのやりきれなさをおもった。
 判決文を朗読している河野敏鎌は、急にことばを切った。すぐ大声で、
「除族の上、梟首、申しつける」
 といった。江藤は、愕然とした。
 梟首という屈辱にみちた惨刑だけは、江藤がどう想像力をめぐらしても出てこなかったものであった。第一「新典」にはない。「旧典」にあるにしても旧典ですら士族は旧幕からひきついできた礼遇の慣習によって梟首の刑をうけることはいっさいない。それが大久保の臨時法廷が創りだした方法は、「除族の上」という刑を一つ加えたこ上にある。士族を廃めさせたうえ梟首という強引さは、法も司法もあったものではなかった。
 この意外さと災厄と屈辱に、江藤はどう行動すべきかもわからず、なにはともあれ鬱懐を吐きつけねばならぬとおもい、とっさに立ちあがろうとした。その縄尻を背後の獄吏がひいた。江藤の不幸は、この期におよんで尻餅をついたことであった。このため「腰をぬかした」と、のちにいわれた。
 江藤はこのとっさの激情から、たったひとことだけ叫んだ。
 「裁判長、私は」
 ということばであった。が、獄卒の一人がそういう江藤の腕をつかみ、他の一人が背後からくびを締め、そのままかれの自由をうばいつつ、力ずくで退延させてしまった。江藤新平という日本史上稀代の雄弁家にとってその半ちぎれの片ことが、この世間の公式の場所における最後の発言になった。
 「江藤、醜躾、笑止なり」
 と、大久保はこの四月十三日づけの日記に書いた。江藤は死をおそれ、判決をきいて醜態を露呈した、という意味のことを大久保は書いているのである。しかも具体的にどうしたとも書かず、それが後世の読み手にどのような卑劣さにも想像できるよう、ごく抽象的に書いている。このあたりが、忍人というのであろう。

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