司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          歳月・上

■江藤は手帳に見聞を書きとめただけのわずかな志士活動

<本文から>
 「黒豆」
 というあだながあった。白豆は三条実美であった。黒豆白豆が、いわば長州系志士の野獣のようなものであり、宮廷での勢力ももっとも強かった。が、いかに気鋭の男でもそこは世間知らずの公卿であり、この脱藩浪人の江藤新平をあたかも佐賀藩の代表者であるかのようにおもい、
 「佐賀藩は天下の雄強であるときく。であるのになぜ兵を発して上洛せぬ」
 と、対面早々するどく攻撃してきた。江藤はおどろいた。やむなく陳弁した。
 「なにぶん、長崎警備が多端にて」
 と、まるで藩主鍋島閑斐が答弁しているかのような内容をしゃべった。同行した伊儀俊輔はこの点、江藤が他の脱藩者とちがっていることに気づいた。他の脱藩者なら自分一人で天下をくつがえすようないきおいで大言壮語し、自藩の靴衡鮮郎なうごきを罵倒するだけであったが、江藤は藩が派遣した正式の特使のような態度で理路整然と弁護するのである。
 江藤は退出し、下宿へもどった。下宿へもどると、たったいま姉小路少将とかわした問答につき、それを忘れぬよう、詳細に記録した。この点でも他のおおかたの志士とはちがっていた。江藤はなによりも記録がすきであり、正確であることがすきであった。
 江藤の京都滞在は、わずかな日数でしかなかった。ざっとひと月であったであろう。これだけの日数が、のちの参議江藤新平の生涯における唯一の志士活動であった。しかもその間、江藤は実践運動にはくわわらず、手帳を持ちあるいてはその見聞を書きとめ、それだけにとどまった。この男は志士ではなく、志士の記録者であった。七月も未になったころ、早くも、
 「藩地に帰る」
 と言いだして、伊藤をおどろかせた。
 「いますこし、京にいたほうがいいのではないか」
 と伊藤はいったが、江藤はきかなかった。この点も伊藤にはふしぎであった。藩に帰れば江藤を待っているものは死であろう。すくなくとも捕吏であり、牢であろう。
 「それでも帰るのか。死を好むのか」
 と、伊藤はとめた。しかし江藤の気持はひるがえせなかった。江藤はいう。
「死は好まず、生はもとより好むところである。しかし脱藩の罪は罪であり、このように目的を果した以上、藩法によって服罪するのが士たる者の道である」
 (よほど勇気のある男だ) 

■江藤は無用の論争癖や衒学癖があり恨みを買った

<本文から>
 (佐賀人が、この新政府に割りこんでゆく場所はそこだ)
 と、江藤も、自分もそういう才能と方向をはっきり意識しておもうようになった。
 −薩長の無学者め。
 というあたまが、江藤を去らない。ばかりか、つねに薩長の要人に対しそういう態度で接し、ときに頭ごなしにその無智を罵倒した。長洲の井上馨についてはとくにそうだった。
 井上馨、通称は聞多である。かれが風雲をくぐりぬけてきた志士であることは、その傷だらけの顔面が証明していたし、はだかになれば無数といっていいほどの太刀傷のあとがあり、そういうすさまじい形相が、この維新政府をつくったのはたれあろう、おれたちさ、という大事実を無言のうちに非薩長人たちに示していたが、江藤はこけおどしについては平気であった。さらにこの井上は志士あがりにしてはめずらしく財政がわかり、庶務がわかった。そういう点で、当然ながら江藤と事ごとに衝突した。あるとき井上馨は、
 −経済は。
 という、つまり「会計」という意味を、そういうあたらしいことばでいった。江藤はその新語にひっかかった。
 「無学なことを申すな」
 小僧、とまでいわんばかりの語調でいうのである。江藤にいわせれば経済ということを会計や財政ということばに限定するのはあやまりであるということであった。
 「そもそも経済というのは、もとは唐の太宗が造語したことばだ。世ヲ経シ民ヲ済ウということばが出ており、銭勘定のことではない」
 といった。江藤にはそういう無用の論争癖や衒学癖があり、このため、買わでもの恨みを買うことが多かったが、この場合、井上はとりあわず、にがりきったままだまっていた。その後、井上が東京政府の大蔵大輔になり、国家経済を掌握し、しばしば江藤のいう無知の使いかたであるはずの「経済」ということばをつかっていくうちにそれが普及し、井上のいう理財ということばの意味になってしまった。

■江藤は短期間で巨館を得、官位を得、さらには妾まで得た

<本文から>
 江藤は、そのような、ごく他愛もないいきさつから、小禄を得た。
この間、江藤は多忙であった。その頭脳とその体をこれほどまでに酷使せねばならぬ男は東京中にもいなかったであろう。かれはさきに東京にもどるや、太政大臣−首相−三条実美に懇望され、
 「中弁」
 という官職についた。副首相格の岩倉具視も、「江藤が中弁になってくれなければ、政府は櫓のない船と同様になる」といった。この二人の公卿は、もはや役者をひいきするような態度でたれよりも江藤に肩入れした。新政府には政治家は多数いたが、政務の実務家は、ひょっとすると江藤のほかにはいないのではないかとおもわれるようなありさまであった。江藤はこの二人の公卿にとって盲人の杖のようなものであった。この任官にともない、江藤は従五位に叙せられた。もはや旧大名に匹敵する位階である。
 登り坂の人間というものには、魔力が働いているような時期があるのかもしれない。江藤は佐賀に帰って勢力を得、佐賀を出て大雨の東京に上陸するといきなり巨館を得、官位を得、さらには妾まで得てしまった。これらの富貴のすべてが、あっというほどの短い時間内に江藤にむかって殺到した。江藤はあやうく身も心も浮きあがりそうな実感を、一日のうちに何度も味わった。

■大久保は江藤新平が憎かった

<本文から>
 大久保はヨーロッパ文明の実体をみて日本がいかに未開であり国力がひ弱であるかをあらためて知り、さらに先進諸国の制度や施設でいそぎとり入れねばならぬことどもを旅行中に整理し、帰国すればそれを実行したいと思いつづけていたが、ところが国に帰ってみると、かつての同志であった西郷がその名声に乗じて対外戦争の気分を朝野に煽り、このできあがったばかりの国家を焦土にしようとしていり。大久保はこのあまりの乱脈−かれはそう思った−に一時はほとんど絶望した。
 が、思いなおした。かれは自分のもっている政治力のすべてをあげてこれを阻止しようと決意し、そのために病いと称し、公的なものとの接触をいっさい絶った。
 絶った理由は、ひとつにはそういう場所に出れば征韓論についての言質をとられるおそれがあるためであり、いまひとつは大久保一人の手では阻止できないからであった。かれは岩倉大使をはじめ使節団の一行が帰ってくるのをまち、それを軍勢としてこの政情のなかにたたきこみ、一挙に事態を旋回せしめようとしていた。
 むろん、その間、情報だけは間断なく得ていた。情報の提供者に事は欠かなかった。たとえば政府要人では参議大隈重信がいた。大久保はそれらの情報によって、参議連中の一人一人の肚の中を骨髄まで見通すことができた。
(西郷のいくさ好きは、これは病いだ。仕方がない)
 と、大久保は西郷を知りぬいているだけに寛大であった。また西郷とともに征要論をかつぎまれっている板垣についても大久保はゆるすことができた。板垣の人柄は単純で、思考には一定の規則があり、その規則をのみこめば板垣がいまなにを考えているかがたれにもわかることであり、しかもその政治力は小さく、土佐人に対してもさほどの統率カはない。
 大久保には、たれよりも江藤新平が憎かった。
(あの男だけはちがう。なにを考えての征韓論だか。−)
と、江藤という男が自分と酷似した体質であるために大久保はその肚のうちを腑分け図でも見るように見ることができた。じつは外征に名を野りてこの政府を崩壊させようとしているのであろうということはまぎれもないことであり、それは江藤自身のことばがかれの行動のすべてを解くかぎになっている。江藤はかつて、「薩人は愚か言りト長人は鞋である。薩人をだまして長人を討ちくずすほか、政権改造の道はない」と佐賀系の要人たちにいった。江藤はこの点、つねに軽率であった。

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