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<本文から>
「黒豆」
というあだながあった。白豆は三条実美であった。黒豆白豆が、いわば長州系志士の野獣のようなものであり、宮廷での勢力ももっとも強かった。が、いかに気鋭の男でもそこは世間知らずの公卿であり、この脱藩浪人の江藤新平をあたかも佐賀藩の代表者であるかのようにおもい、
「佐賀藩は天下の雄強であるときく。であるのになぜ兵を発して上洛せぬ」
と、対面早々するどく攻撃してきた。江藤はおどろいた。やむなく陳弁した。
「なにぶん、長崎警備が多端にて」
と、まるで藩主鍋島閑斐が答弁しているかのような内容をしゃべった。同行した伊儀俊輔はこの点、江藤が他の脱藩者とちがっていることに気づいた。他の脱藩者なら自分一人で天下をくつがえすようないきおいで大言壮語し、自藩の靴衡鮮郎なうごきを罵倒するだけであったが、江藤は藩が派遣した正式の特使のような態度で理路整然と弁護するのである。
江藤は退出し、下宿へもどった。下宿へもどると、たったいま姉小路少将とかわした問答につき、それを忘れぬよう、詳細に記録した。この点でも他のおおかたの志士とはちがっていた。江藤はなによりも記録がすきであり、正確であることがすきであった。
江藤の京都滞在は、わずかな日数でしかなかった。ざっとひと月であったであろう。これだけの日数が、のちの参議江藤新平の生涯における唯一の志士活動であった。しかもその間、江藤は実践運動にはくわわらず、手帳を持ちあるいてはその見聞を書きとめ、それだけにとどまった。この男は志士ではなく、志士の記録者であった。七月も未になったころ、早くも、
「藩地に帰る」
と言いだして、伊藤をおどろかせた。
「いますこし、京にいたほうがいいのではないか」
と伊藤はいったが、江藤はきかなかった。この点も伊藤にはふしぎであった。藩に帰れば江藤を待っているものは死であろう。すくなくとも捕吏であり、牢であろう。
「それでも帰るのか。死を好むのか」
と、伊藤はとめた。しかし江藤の気持はひるがえせなかった。江藤はいう。
「死は好まず、生はもとより好むところである。しかし脱藩の罪は罪であり、このように目的を果した以上、藩法によって服罪するのが士たる者の道である」
(よほど勇気のある男だ) |
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