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<本文から> 秀吉はこの桶屋の子を朝廷に奏して一躍、従五位下に叙し、左右衛門尉に任官させ、ひきつづき、伊予今治をあたえて十万石の大名とした。須賀口の橋で足軽を殺してから、わずか十年あまりの変転である。
この男、単に狂暴人か。
怒りっぽくて、異常に名誉心が強くて、思慮にとぼしく、かっとなれば発作的に人を殺す。しかも酒乱である。平和な世なら、典型的な無頼漢でしかなかったであろう。
が、秀吉という人間通は、この若者をそれだけの男とは見ていなかった。
「於市には、えもいえぬ優しさがある」
といっていた。
この若者の侍大将に木造大勝という分別者があり、あるときにわか病いになり、ついに命も知れぬ状態になった。若者は仰天し、うろたえ、毎朝起きると井戸端へ走り、水をざあざあかぶったあと、下上をつけて天照皇大神に祈り、
「もし大勝の命をせめて五年助けおきくださらば、福島家のつづくかぎり神楽を献じまする」
と願をかけた。そのふるまい、狂が似ているが、狂に似るほどに人情ぶかく、それだけに士心を得ており、かれがいかに粗暴でも福島家の家士は、
「この殿のためなら」
とおもい、なかには狂信的な「正則信者」というべき家臣が多く、このだめ戦場ではかれの部隊がもっとも強かった。
将の器といってもいい。
だけでなく、組織をつくる才があった。かれの競争相手だった加藤清正は、軍人としても民政家としてもすぐれていたが、すべて自分でやらねば気のすまぬたちで、このため、大大名になってからでも、家老や奉行といった職制をおかず、独卦制であった。
正則のばあい、これほど強烈な性格のもちぬしのくせに、いざ大名になって領土を行政する段になると、みごとな秩序をつくった。
まず、数人の「大奉行」というものを置いてこれを長官とし、職務を分掌させつつ、合議させ、その決定事項をその下の郡奉行たちに執行させた。これらの行政組織の上に数人の家老を置き、家老には直接行政をさせない。むしろ権威ある顧問官ということにした。豊臣家の諸侯のなかで、もっとも合理的な行政組織をつくった者は、この福島正則であろう。 |
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