司馬遼太郎著書
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          おれは権現

■足軽殺しの無頼漢・福島正則は将の器

<本文から>
 秀吉はこの桶屋の子を朝廷に奏して一躍、従五位下に叙し、左右衛門尉に任官させ、ひきつづき、伊予今治をあたえて十万石の大名とした。須賀口の橋で足軽を殺してから、わずか十年あまりの変転である。
 この男、単に狂暴人か。
 怒りっぽくて、異常に名誉心が強くて、思慮にとぼしく、かっとなれば発作的に人を殺す。しかも酒乱である。平和な世なら、典型的な無頼漢でしかなかったであろう。
 が、秀吉という人間通は、この若者をそれだけの男とは見ていなかった。
 「於市には、えもいえぬ優しさがある」
 といっていた。
 この若者の侍大将に木造大勝という分別者があり、あるときにわか病いになり、ついに命も知れぬ状態になった。若者は仰天し、うろたえ、毎朝起きると井戸端へ走り、水をざあざあかぶったあと、下上をつけて天照皇大神に祈り、
 「もし大勝の命をせめて五年助けおきくださらば、福島家のつづくかぎり神楽を献じまする」
 と願をかけた。そのふるまい、狂が似ているが、狂に似るほどに人情ぶかく、それだけに士心を得ており、かれがいかに粗暴でも福島家の家士は、
 「この殿のためなら」
 とおもい、なかには狂信的な「正則信者」というべき家臣が多く、このだめ戦場ではかれの部隊がもっとも強かった。
 将の器といってもいい。
 だけでなく、組織をつくる才があった。かれの競争相手だった加藤清正は、軍人としても民政家としてもすぐれていたが、すべて自分でやらねば気のすまぬたちで、このため、大大名になってからでも、家老や奉行といった職制をおかず、独卦制であった。
 正則のばあい、これほど強烈な性格のもちぬしのくせに、いざ大名になって領土を行政する段になると、みごとな秩序をつくった。
 まず、数人の「大奉行」というものを置いてこれを長官とし、職務を分掌させつつ、合議させ、その決定事項をその下の郡奉行たちに執行させた。これらの行政組織の上に数人の家老を置き、家老には直接行政をさせない。むしろ権威ある顧問官ということにした。豊臣家の諸侯のなかで、もっとも合理的な行政組織をつくった者は、この福島正則であろう。
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■福島正則の一言で豊臣家臣が家康の味方になる

<本文から>
 「正則、言上つかまつる」
 と膝をたて、あっというまにわれ知らず家康の前に進み出てしまっていた。
 「おお、大夫殿。お手前は智勇をかねた巧かかるときにこそお言葉のほしいもの」
 と、微笑した。内心、なにを言いだすかとこの五十九歳の老人は、心が波立っていたことであろう。家康の生涯でもっとも緊張した一瞬だっただけでなく、日本史はこの一瞬で変貌しようとしていた。いや、まだ正則は打をきかぬ。ドモリのくせがある、アクアクと口をあいていた。皮肉といっていい。日本史上のもっとも重大な一瞬 が、この無頼無法の男にかかっていたとは、どういうことであろう。
 「そ、それがし」
 と、正則は叫んだ。叫ぶと、噴流のように言葉がほとばしって出た。「いまさら治部めに一味つかまつるべき筋目はござらぬ。なるほど大坂に妻子はおり申す。しかしこうとなれば男じゃ。たとえ妻子が串刺しされようとも、男の一鮮はひけぬ。三成を討つ。おのおののご所存、いかがあろうとも福島正則は、内府(家康)にお味方申し、先陣をうけたまわり、真っさきに駈ける所存でござる」
 どっと、無言の嘆声が沸き、ざわめき、諸将はあらそって正則同様の旨を申し出た。家康の運命は一変した。
 老人の頼が、つややかに輝やいた。ただ無言でいる。無言で微笑している。それだけでよかった。そのことが、(あれが、家康殿か)とおもうほど、この老人は、たったいままでのかれの重量とは一変していた。ひどく巨きく重くなっていた。
 ひとびとは拝跪した。この瞬間から、豊臣家の諸侯は、家康の家来になったといっていい。
 全員、それを感じていた。ただひとり、口火を切った正則が、自分の一言で時勢がかわった、ということを、このとき自覚していたかどうか。
 かれは、この東国に囲もとから八千の兵を連れてきていた。諸将中もっとも多い。
その日からかれは足軽には鉄砲の訓練をさせ、
「敵は奥州の上杉にあらず、大坂の石田ぞ」
と戦闘目標を徹底させ、鼓舞した。交尾期のおす馬が逸って足掻くように、かれはきたるべき戦闘にむかってはやっていた。
 諸軍は旋回して、ぞくぞくと西にむかった。
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■福島正則の一条大橋事件で幕府は有能な図書をはねた

<本文から>
 「図書めは、どうしてもきき入れませぬ」
 と、家康に泣きついた。もともと直政は長じて戦さ上手な男になったが、少年のころ家康の寵童だったことがあり、互いに遠い記憶なのだが、家康はこの男にはどこかあまい。
 「直政、それなら安藤彦四郎に相談してみるがよい。あの男なら、別な分別があろう」
 とまで教えた。もっともこの教えた事実、家康の凄味がふくまれている。安藤は、千福丸といったころからの家康の子飼いで、のち従五位下帯刀に叙任し、家康のわかい謀臣のひとりとなり、のち紀州徳川家の付け家老となり、同国田辺城主として三万八千八百石を食んでいる。
 この男は、武将としても行政官としても有能なくせに、天性情味がなく、性格が野卑で、どこからみても三河の百姓、というような男だった。
 直政が、このことを安藤に相談すると、
 「そうか、上様はそう仰せられセか」
 というなり、その足で三条大橋の伊奈図書の宿館にゆき、
 「相談すべきことがある」
 と宿館の座敷で待ち、図書が出てくるなり刀をひきよせ、
 「そちは、上様の御為を思わぬか」
 と抜きうちに首をはね、ごろりと畳の上に落ちた首をモトドリをつかんでひろいあげ、三井寺に持ってきた。
 事件はこれでやっとおさまり、当の正則は関ケ原における異常なばかりの戦功で、安芸と備後二州四十九万八千余石に封ぜられた。これは表高で、実数は七十万石はあったであろう。
 むろん、正則はそれを当然とした。かれの関ケ原における功績からみれば、むしろそれはすくなすぎたであろう。
 「徳川殿は、わしには大恩がある」
 とかれは傲然とかまえ、家康が関ケ原から三年目に江戸に幕府をひらいたにもかかわらず、大坂の秀頼のもとにもたびたび伺候し、臣下の礼をとっている。これも、新政権からみれば、横暴のひとつといっていい。
 他にも、京における幕府の銀座(造幣局)に無理難題をもちかけたりして、三条大橋事件類似の横暴があり、取りようによっては新政権への挑戦とみられなくはないが、
 「あれはああいう男だ」
 と世間でわかっているだけに、幕府も政治問題化しにくかった。もともとどの横車も性格から出たもので、いわば大それた政治的な悪意はない。というより、この時代に生きるにはこの男ほど、政治感覚に欠けた男はなかった。
 家康が、大坂の陣で秀頼を攻め殺し、豊臣家を滅亡させたときも、この男は、江戸留守居という名目で、従軍せしめられなかった。
 (内応するかもしれぬ)
 ということが怖れられたためである。もっとも正則は買いかぶられてはいた。かれは私人として秀頼への人情はあっても、豊臣家を再興するような政治的構想のもてる男でもなく、元来、そういう政治的気概をもてる男ではなかった。もとこれ、清洲城下須賀口の橋上の殺人犯である。たかだか、その程度の資質にすぎなかった。
 が、幕府は、その底意のなかでご一条大橋事件における正則を憎みつづけた。
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■大坂冬の陣・長曽我部重成の働き

<本文から>
 いわゆる大坂冬ノ陣は、城方十二、三万、東軍三十万をもって戦われ、慶長十九年十月十二日、堺における小競り合いからはじまったが、家康はカ攻めを避け、城の周辺に多くの対城を築いて、長期攻囲の態勢をとった。
 両軍対時するうち、十一月十九日早暁、域外の北東のあたりでにわかに銃声がわきおこった。
 閑斎は、頭巾をかぶり、真綿の入った紬無羽織で寒気をふせぎながら、本丸の重成の陣所にいたが、銃声をきいて重成のもとにかけつけたときは、この者はすでに馬上にあった。
 「音は、よほど遠うござるぞ。敵の野陣で同士討ちをしているのではないか」
 「いや、御老。お言葉ながらちがう。この鉄砲の音は、どうやら川の水面にひびいているように思われる。とすれば方角が北東ゆえ、天満川のむこうじや。今福・蒲生ではないか」
 結果は、閑斉のまけだった。今福・蒲生は域外ながら、青屋口ののどもとにあたるため、城方では開戦の寸前、四重の柵を急造し、矢野正倫、飯田家貞の両将に六百の兵をあたえて守備をさせていたが、この柵に、夜陰、東軍の佐竹左京大夫義宣(出羽秋田の城主)千五百の兵が忍びより、払暁と七もに火の出るような攻撃を仕かけてきたのである。銃声はそれだった。
 たちまち城方の柵はくずされ、第一柵で守将矢野正倫、第二柵で次将飯田家貞が討死し、勢いをえた佐竹勢は第三、第四の柵をうちやぶって、ついに片原町にまで乱入した。
 このとき重成は軽兵二千をひきいて青屋口の城門から突出し、片原町で佐竹勢と激闘した。重成の名が歴史の上に登場するのは、このときの合戦からである。このときの重成の下知は、ただ「掛かれ掛かれ」と絶叫するのみで、単純無類のものだったが、奇妙なことに、兵はその声をきくと憑かれた者のように突進した。このため佐竹勢はさんざんに突き白まされ、ついに片原町をすてて敗走した。重成の勝利である。
 同時に、重成の敗北がはじまっていた。かれはここで追撃をとめるべきであった。なおも猪突したため、隊形は喚野堤の上で点々と一列縦隊にのびきった。おりから、向う岸に、東軍の上杉隊の鉄砲組三百が進出していた。その銃口の前に横腹をみせて通るなどは最も拙劣な隊形だった。果然、上杉隊は乱射しはじめた。そのため木村隊の後続兵は撃ちすくめられて堤の下で動けなくなった。先頭の重成の一
団だけは孤立してしまい、そこを引きかえしてきた佐竹勢に包囲されたのである。こういう戦さは、牢人あがりの将ならしないところであろう。
 重成の戦場付近の葦の中で布陣していた東軍上杉景勝の侍大将原常陸介親憲は、重成のはたらきを遠望し、
 「木村長州といえば、一軍の采配をとる役目からみて二十万石の大名にも相当の者じゃが、あの槍働き、一節駈けの武者のごとくにぎやかであるわ」
 といったのは、驚嘆と嘲笑がまじっている。
 このときの重成を救ったのは、閑斎みずから戦場にかけつけたのではなく、青屋口の城壁の上から重成の働きを気づかわしげに遠望していたが、ついにたまらなくなり、本丸へ走った。本丸には、予備隊の総司令として後藤又兵衛基次が待機した。閑斎は牢浪時代にこの男と面識があったから、「長州が、急じゃ」とたのむと、「応」とすぐ出馬してくれた。
 又兵衛は戦場につくと、手なれた下知で佐竹勢を蹴ちらし、
 「長門どの。朝からの働きでお疲れであろう。この手はそれザしが代わり申す」
 といったが、重成はきかず、
 「貴殿は百戦の御老巧におわす。しかし、拙者はこの場が初陣でござる。初陣には少々無理戦さをしても、あとあとの戦さのため打は敵にわが名の怖るべきことを知らしめておかねばなりませぬ。いま一働きいたしまする」
 「おう、お若いながら武辺というものをようわかっておいでじゃ。さればそれがし加勢にまわりましよう」
 基次は、後方より自隊の兵をさしまねき、付近の小舟を掻きあつめて、銃隊を分乗させた。木村隊が堤上を進撃するのにつれて、船上の後藤隊は水上から援護するという、新しい戦法だった。しかし、戦闘の主舞台を同僚にゆずって、自分はその働きを寛潤にするだけの役目にまわるなどは、武将としては、異例の好意であった。重成には、老輩たちがつい手をさしのべたくなるようなふしぎな魅力があった。
 この水陸作戦は予想以上の効果をおさめ、佐竹勢で討死した者は、先頭隊長渋谷内膳政光をはじめとして二百余人におよび、ついに柵をすてて潰走した。
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