司馬遼太郎著書
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          真説宮本武蔵

■仕合の相手をえらぶときに弱いと見切ってから臨む

<本文から>
 もともと幸庵は、かねて武蔵に興味があったから、その来歴やウワサについては、ひとよりもよく知っていた。−なかにはあまり芳しくないウワサもあるのはやむをえない。
幸庵の知るかぎり、武蔵の名が諸侯のあいだで知られはじめたのはツイ最近のことである。しかしあまり有名でなかったほんの数年前、流名を弘めるために北九州のある藩の城下に立ちあらわれたことがあった。
 武蔵は弟子をつれて上士の用いるような乗物で美々しく城下に乗りこみ、懇意の藩士の屋敷に宿をとった。
 武蔵はもともと、宣伝に才があった。その配慮か、このときの風体が、なんとも異様だった。伊達な仕立てのカタビラに金箔で紋を打ったものを着、それにタスキをかけ、夜な夜な、城下近い松林にあらわれては、シキリと太刀打ちをするのだ。その撃ちかたも、林の樹々を縫いつつ、怪鳥のような跳びかたをしてみせる。無名時代の武蔵の悲しみとあせりがわかるような話である。
 自然、ウワサが城下にひろまり、藩の若侍のなかで弟子入りを申し入れる者も出て来た。武蔵だけでなく、これが当時の大方の兵法者の世稼ぎの法である。
 ところがこの藩の指南役に二階堂流の某という男がいた。えたいの知れぬ旅の牢人に藩中が関心をもつことを不快に思い、武蔵のもとに使いをやって仕合を申し入れた。
「左様か」
 と武蔵は、受けるとも受けぬとも答えず、数日、某の様子をみていたが、やがて人知れず城下を立ちのいてしまった。
 二階堂流の某はこの結果を見て大いによろこび、「武蔵は、我におそれを覚えて逃げた」と触れまわった。武蔵にどういう理由があったにせよ、兵法は、一つは宣伝とすれば、この勝負は武蔵の負けである。
 もっとも武蔵は、三十をすぎてから仕合を避けている。三十前でも、仕合の相手をえらぶときに、かならずおのれよりも弱いと見切ってからでなければ、立ち合わなかった。武蔵の才能の中で、もっとも卓越したものは、その「見切り」という計算力であった。 
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■新免武蔵居士之塔

<本文から>
弓削村のあたりの街道を歩いているとき、ふと道ばたに苔むした石碑をみつけた。近づいて碑銘をよむと、
新免武蔵居士之塔
とあった。
「武蔵は、ここにいたか」
八十二歳の幸庵は、すっかりわすれていた記憶のなかで、あの僻傲な剣客の映像が、目に痛いほどの色彩をもってうかびあがってくるのを覚えた。おりから田を打っていた百姓をよんで、訊きただすと、たしかに武蔵塚であるという。
「二天様はこの塚のなかで、よろい、かぶとに身をかため、太刀を楓き、街道にむかって伏しおがんでござらっしやるげな」
「ほう、それはなぜか」
「二天様はあのお城の殿様のご恩をお思いなされ、代々の殿様が参観交代で江戸へ参られるごとに、この街道わきで物の具を着け、大将の六具を持ち、護り申し上げると申されて、死骸に甲宵をきせよと遺言されたそうでござりまする」
(甲宵を−)
 雲雀が舞いあがった。
 幸庵はすでに歩きはじめながら、武蔵の生涯の欲念が、そこにあったことを思った。武蔵は、死骸になってからはじめて侍大将の扮装をして地下に埋まったのである。幸庵は、男の欲念のすさまじさを思って、身の内の血が、ふと逆流する思いがした。
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■吉岡憲法との試合との勝ち宣伝

<本文から>
その全身から、すさまじい殺気がながれ、憲法を圧した。憲法は、これほどすさまじい気をもつ兵法者をはじめてみた。おもわず、眼がくるめき、五体がゆるんだ。武蔵はすばやくその機を知って、だっと跳躍した。
 憲法も、地を蹴った。
 両者のあいだにしらじらと横たわっている十間の間合はこの瞬間、音を発してちぢまり、二人の兵法者がすれちがったとき、眼にもとまらぬ速さで二本の木太刀が動いた。
 伊賀守は身を乗り出した。凝視していたが、やがてはっと板敷きをたたき、
 「それまで」
といった。
 「双方、木太刀をおさめられよ」
 「あいや」
 武蔵は、伊賀守にむかった。憲法も伊賀守も、このとき、武蔵の言葉というものを、はじめてきいたのである。
 「それがしの勝ちでござるな」
 伊賀守は、答えず、憲法と武蔵をそれぞれに見くらべてから、
「あのとき、同時に、太刀がたがいの頭上でとまった。相打ちであった。不服か」
「不服でござる。それがしの勝ちという証拠に、憲法殿の鉢巻きをごろうじあれ」
 憲法の白い鉢巻きに血がにじんでいた。
「いや、相打ちであった。わしの眼にくるいはない。武蔵、そちの鉢巻きをみせてみょ」
 伊賀守がいった。
たれの眠からみても武蔵の柿邑の鉢巻きには血がにじんでいるように思えたが、巻きが同色のためにそれとはよくわからなかった。
「おことわり申す」
武蔵は、ついに鉢巻きをとらなかった。
晩年になって武蔵は、若いころの剣歴を語るごとに、かならず、
「吉岡に勝った」
といった。あるいは真剣で戦えば武蔵の勝ちだったかもしれない。
この仕合いは「稽古仕合い」だったために、たがいに木刀を相手の頭上の紙壷のところでとめている。
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■周作は自得した技術や心境を自分の言葉で語ることができた

<本文から>
 「ああ、これは佐鳥先生」
  と、応対に出てきたのは、これも顔見知りの、高崎で相撲渡世をしている吉田川という大関である。
 「関取か」
 不審におもった。
 「なぜかような所にいる」
 「おはずかしい」
 相撲をやめて、千葉の弟子になったというのである。この力士だけでなく、岩井川、不動滝という草相撲も、弟子になって、現に道具で素振りをやっている。
 「なぜ、左様な?」
 佐鳥浦八郎にはわからない。この三人の相撲は、三人とも三十前後で相撲としてもとうが立ち、渡世ができなくなっている。それほどとうの立った年ごろで、剣術を習 熟できるものなのか。
 「ご心配もっともでございますが、それがこの流儀はちがうようでございます。−つまりこう」
 と、吉田川は、うれしそうに、若い無名先生の教授ぶりを話した。俗語で、教えるという。
 剣術の技術用語や思想上の言葉は、古来、晦渋かつ意味曖昧な仏教用語が、やたらと流用されている。
  一半分は、まやかしだ。
 と、周作は、そのほとんどを廃してしまったという。
 古流の流祖たちは、その流儀開創にあたって、いろんなけれん手をつかっている。もともとかれらは無学者が多く、自分の流儀内容を宣伝するための言語は、僧侶の学殖を借りて綴らせた。その僧侶が、たまたま真言宗徒だった場合にはその流儀に密教臭がつき、禅家だったばあいには、剣禅一如といったような、禅の悟達者でも不可解
な思想内容となった。
 周作は、その持ち前の科学的資質をもってそれを見ぬいた。そのうえ、かれ自身、武士相応の学問もあり、和歌、俳譜をたしなむほどの表現力もあったから、自分が自得した技術や心境は、自分の言葉で語ることができたのである。たとえば、
 「稽古中、気は大納言のごとく、業は小者中間のごとくすべし」
 といういいかたで、門生におしえた。
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■周作は道場の経営もうまかった

<本文から>
 周作の役年は、安政二年十二月十日、齢は六十二歳である。諸国遊歴後、江戸に帰って、最初、道場を日本橋品川町にひらき、玄武館と名づけた。
 またたくまに江戸最大の道場となり、場所を神田お玉ケ池に移した。道場は一町四方あり、
 「玄武館の履物は玄関に満ち、あふれて庭にまではみ出している」といわれるほどに繁昌した。幕末の剣術隆盛期にめぐりあったせいでもあるが、剣術草創以来、おそらく一流にこれはどの人気があつまったのは、空前絶後といってよかろう。
 −他の塾で三年かかる業はこの塾では一年で功成り、五年の術は三年にして達す。
 と、当時、評判された。
 周作の技術が、よほど理にあっていたのであろう。
 道場の経営も、うまかった。周作は、東条一堂という当時江戸で評判の学者と交友し、東条にすすめて学塾を玄武館の隣りにひらかせた。自然、玄武館に学ぶ者は東条の塾に入り、東条の塾に学ぶ者は、玄武館に入塾した。
 周作は、水戸藩に召されている。
 斉昭に愛され、しきりと累進して、最後には中奥にまで進んだ。しかし、死にいたるまで道場から離れなかったらしい。吏僚になるよりも、教師のほうが好きだったのであろう。周作が、直接手をくだして教えた門弟の数は、累計、六千人はくだらなかった。嘉永年間に浅草観音堂にかかげた奉納額に名をつらねた者だけでも、三千六百
余人という数におよんだ。
「孔子の弟子は三千人ときくが、自分はそれとおなじ数の弟子をもつことができた。一代の果報である」
 と、つねづね述懐した。
 長男奇蘇太郎は、早くから父とともに水戸藩に召され、御床几廻りとなった。が、
二十一歳で天折した。
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