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<本文から>
もともと幸庵は、かねて武蔵に興味があったから、その来歴やウワサについては、ひとよりもよく知っていた。−なかにはあまり芳しくないウワサもあるのはやむをえない。
幸庵の知るかぎり、武蔵の名が諸侯のあいだで知られはじめたのはツイ最近のことである。しかしあまり有名でなかったほんの数年前、流名を弘めるために北九州のある藩の城下に立ちあらわれたことがあった。
武蔵は弟子をつれて上士の用いるような乗物で美々しく城下に乗りこみ、懇意の藩士の屋敷に宿をとった。
武蔵はもともと、宣伝に才があった。その配慮か、このときの風体が、なんとも異様だった。伊達な仕立てのカタビラに金箔で紋を打ったものを着、それにタスキをかけ、夜な夜な、城下近い松林にあらわれては、シキリと太刀打ちをするのだ。その撃ちかたも、林の樹々を縫いつつ、怪鳥のような跳びかたをしてみせる。無名時代の武蔵の悲しみとあせりがわかるような話である。
自然、ウワサが城下にひろまり、藩の若侍のなかで弟子入りを申し入れる者も出て来た。武蔵だけでなく、これが当時の大方の兵法者の世稼ぎの法である。
ところがこの藩の指南役に二階堂流の某という男がいた。えたいの知れぬ旅の牢人に藩中が関心をもつことを不快に思い、武蔵のもとに使いをやって仕合を申し入れた。
「左様か」
と武蔵は、受けるとも受けぬとも答えず、数日、某の様子をみていたが、やがて人知れず城下を立ちのいてしまった。
二階堂流の某はこの結果を見て大いによろこび、「武蔵は、我におそれを覚えて逃げた」と触れまわった。武蔵にどういう理由があったにせよ、兵法は、一つは宣伝とすれば、この勝負は武蔵の負けである。
もっとも武蔵は、三十をすぎてから仕合を避けている。三十前でも、仕合の相手をえらぶときに、かならずおのれよりも弱いと見切ってからでなければ、立ち合わなかった。武蔵の才能の中で、もっとも卓越したものは、その「見切り」という計算力であった。 |
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