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<本文から>
上段の間にすわっている本願寺門主顕如上人は、このとき二十八歳。
眠が、おどろくほどすずやかで、その眼が 縋るように孫市を見つめている。
(ほう)
と、孫市は、坊主ぎらいの不貞くされた感情が、その眼で消えてしまった。
顕如というひとは、歴代美男が多いといわれた本願寺家の顔の原形といわれるひとである。顕如が宮中にゆくと、女官たちがさわいだという。
知的で、内省的な眼をもっている。貴族の血がわるく凝れば手におえぬ悪魔を出すものだが、顕如のばあいは、そのいい面のみが結晶したという感じであった。
(こんな眼を、見たことがない)
と、孫市のような田舎侍が感に打たれてしまったのはむりはない。
「あなたが」
と顕如がいった。
「雑賀孫市殿でありますか」
顕如の眼には、畿内第一の戦さの名人といわれた雑賀孫市への少年のような尊敬がこもっている。
孫市は、どぎまぎしてしまった。
さらにおどろいたことは、顛如が座をおりて孫市のそばに寄り、片ひざを立ててその手をとったことである。
「本願寺は、右大臣(信長)と戦おうとしています。何分、戦さに手馴れません。ひとえにそなたを頼み参らせます」
といった。
芝居っ気でそうしているわけではない証拠に、孫市の手をとって頭をさげている肩が、未通女のようにはかなげである。
「お上人様。それがしは御門徒ではござりませぬ」
「存じております」
だからこそ、座をおりてわざわざ頼んだわけであろう。門跡といえば、皇族、五摂家と肩をならべる貴人であり、本願寺門主といえば、その動員能力百万石以上といわれる宗門将軍でもある。それが、紀州雑賀七万石の孫市に膝を折って頼むのだ。
これには孫市も閉口した。
この謁見のあと、別室で休息している孫市のもとに法専坊信照がやってきた。
「孫市殿、いや、貰い泣きをした。御門主は、父のごとくお手前を慕うてござったことよ」
「父とはひどかろう。わしは御門主より二つか三つ、年下ではあるまいか」
そのあと、孫市は城内に拝領した宏壮な屋敷にひきとった。
西丸館とよばれるもので、本願寺城内で一城をなしており、西窓の下は切り立った石垣が層々と積まれ、そのすそは内堀のなかに沈んでいる。
(いや、孫市もとんだ運命になったものよ)
と、城の西、海に落ちてゆく夕陽をみながら、この男はわが身の滑稽さをおもった。信心ももたぬのに本願寺をまもる大将にさせられてしまっている。
軍事的才能を持ちすぎている、というのもときには妙な運命におち込むものらしい) |
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