司馬遼太郎著書
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          尻啖え 孫市 下

■本願寺門主顕如上人へ感に打たれた孫市

<本文から>
 上段の間にすわっている本願寺門主顕如上人は、このとき二十八歳。
 眠が、おどろくほどすずやかで、その眼が 縋るように孫市を見つめている。
 (ほう)
 と、孫市は、坊主ぎらいの不貞くされた感情が、その眼で消えてしまった。
 顕如というひとは、歴代美男が多いといわれた本願寺家の顔の原形といわれるひとである。顕如が宮中にゆくと、女官たちがさわいだという。
 知的で、内省的な眼をもっている。貴族の血がわるく凝れば手におえぬ悪魔を出すものだが、顕如のばあいは、そのいい面のみが結晶したという感じであった。
 (こんな眼を、見たことがない)
 と、孫市のような田舎侍が感に打たれてしまったのはむりはない。
 「あなたが」
 と顕如がいった。
 「雑賀孫市殿でありますか」
 顕如の眼には、畿内第一の戦さの名人といわれた雑賀孫市への少年のような尊敬がこもっている。
 孫市は、どぎまぎしてしまった。
 さらにおどろいたことは、顛如が座をおりて孫市のそばに寄り、片ひざを立ててその手をとったことである。
 「本願寺は、右大臣(信長)と戦おうとしています。何分、戦さに手馴れません。ひとえにそなたを頼み参らせます」
 といった。
 芝居っ気でそうしているわけではない証拠に、孫市の手をとって頭をさげている肩が、未通女のようにはかなげである。
 「お上人様。それがしは御門徒ではござりませぬ」
 「存じております」
 だからこそ、座をおりてわざわざ頼んだわけであろう。門跡といえば、皇族、五摂家と肩をならべる貴人であり、本願寺門主といえば、その動員能力百万石以上といわれる宗門将軍でもある。それが、紀州雑賀七万石の孫市に膝を折って頼むのだ。
 これには孫市も閉口した。
 この謁見のあと、別室で休息している孫市のもとに法専坊信照がやってきた。
「孫市殿、いや、貰い泣きをした。御門主は、父のごとくお手前を慕うてござったことよ」
「父とはひどかろう。わしは御門主より二つか三つ、年下ではあるまいか」
 そのあと、孫市は城内に拝領した宏壮な屋敷にひきとった。
 西丸館とよばれるもので、本願寺城内で一城をなしており、西窓の下は切り立った石垣が層々と積まれ、そのすそは内堀のなかに沈んでいる。
 (いや、孫市もとんだ運命になったものよ)
と、城の西、海に落ちてゆく夕陽をみながら、この男はわが身の滑稽さをおもった。信心ももたぬのに本願寺をまもる大将にさせられてしまっている。
 軍事的才能を持ちすぎている、というのもときには妙な運命におち込むものらしい) 
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■馬上射撃の名手

<本文から>
 この合戦は、日本戦史上(あるいは世界戦史の上からみても)鉄砲出現後、最初で最大の射撃戦であった。織田方三千挺、本願寺方三千挺、その射撃戦のすさまじさを「信長公記」の表現でいうと「御敵方(本願寺)の鉄砲、まことに日夜天地もとどろくばかりに候」ということになる。
 これが鉄砲渡来後わずか二十数年のことである。この国に住む民族の文明への貪婪なまでの慾望と摂取が、この一戦によってあきらかであろう。
 いや、孫市。
 馬上、信長を追っかけた。孫市の前後左右を「南無阿弥陀仏」の旗指物、袖印、などをつけた猛彪のような雑賀騎馬隊、鉄砲隊が真黒に取りまいて駈けてゆく。
 信長との距離が四十間にせまったとき、孫市は腰で鞍壷をシッカとかため、手綱をはなし、名銃「愛山護法」をとりあげ、火縄の煙を立ちのぼらせつつ、台尻を肩にあてた。
 馬上射撃いうのはむずかしいものだ。
江戸時代では不可能とされた。まず馬術に巧みでなければならない。馬を両股でしっかりはさみこむはどの脚の力がなければならず手綱なしで誘導できる妙技がなければならない。
 さらに後世の鉄砲とはちがい、この時代の鉄砲は装薬装弾の操作が複雑なのだ。それをらくらくとやってのける手練が必要で、この手練だけでも剣客の剣の修業ほどの苦心が要るものだ。
 もう一つは、照準である。目標の動くのはとらえることができても、こちらが動いている場合はひどくむずかしい。そのむずかしさは、たとえば、一人操縦の戦闘機に乗って操縦梓を手でなく足で操作しながら、飛ぶ鳥を感光度のにぶいフィルムで撮るようなものだ。
 孫市は、天下第一の馬上射撃の名手とされていた。
 構えるなり、射った。
が、信長の親衛隊士がかばったため、その親衛隊士が落馬しただけであった。
 「鉄砲を貸せ」
 と、孫市は馬まわりの連中に命じた。馬まわりは装薬、装弾、装火した鉄砲を空中高くほうりあげ、孫市も同時に射撃のおわった空鉄砲を空中高くほうりあげた。
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■芸術的な孫市の采配

<本文から>
 孫市は、退却する織田軍を追った。
 織田軍は何度か鉄砲隊に踏みとどまらせては雑賀軍の鉄砲隊と銃戦をまじえた。
 野は、硝煙でおおわれ、人馬の動きも見うしなうほどであった。
 おそらく、鉄砲渡来以来、これほどの火戦はなかったであろう。両軍のあいだに無数の火光が噴きあがり、真黒な弾が飛びちがえ、そのつど、おびただしい人数が野に斃れた。
 孫市の軍が、圧倒的に優勢だったのは、その鉄砲隊の進退の指揮のうまさと、射撃のうまさによるものであったろう。
 (孫市め)
 と、退却軍の指揮官の一人である近江長浜の城主羽柴筑前守秀吉はだんだん腹が立ってきた。
 秀吉は、すでに野にはおらず、山にまでひきあげている。小山に馬をとめていた。頭上の紀伊山脈の峠道を越えればむこうは泉州である。
(しっこいのう)
 秀吉はあきれた。眼下に、戦場がみえる。堀久太郎の殿軍が、雑賀軍に食いつかれてさんたんたる苦戦をしているのが、ひと目でみえた。
 孫市の姿も、みえる。
 馬上で釆をふりながら、硝煙のなかを駈けまわり駈けまわりして鉄砲隊を進ませ、かつ氾かせ、山上からみるとその進退はほとんど芸術的といっていい。
 戦さ上手というようなものではない。それ以上に、戦さを無邪気に楽しんでいるような様子である。
(信長様も、とんでもない男を敵にまわされた)
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■孫市の最期

<本文から>
 秀吉は家康と講和してからわずか四カ月日の天正十三年三月、総力をあげて紀州を征伐寸べき旨を内外に表示した。
 同月二十二日、六万の大軍が、泉州へ乱入した。
 そのころ孫市は、泉州積善寺砦にいた。
 この砦をかこんだ総大将は、秀吉の弟でのちの大和大納言秀長だったが、秀長は孫市が自分の兄と懇意なことをよく知っている。
 誓紙まで書き送り、丁重な態度で開城をすすめると、孫市はその態度をよろこんだのか、あっけなく受諾した。
 使者にきた藤堂高虎に、
「藤吉郎は達者か」
と笑い、めんくらわせた。
「達者ならいちど紀州へあそびに来い、とつたえよ。なんの、やってきてももはや鉄砲の馳走などはせぬ。和歌滞の魚貝など、わしの包丁で馳走してやると申しておけ」
 高虎はかしこまって自陣に帰り、翌日ふたたびやってきて、
 「内府様(秀吉)に伝えましたところ、紀州粉河寺でお待ちあれ、ふたりきりで旧交をあたためたい、とのことでござった」
 といった。
秀吉は、大坂にいる。高虎はうそをいったわけである。
 「ほう、藤吉郎がそう甲したか」
と孫市は大よろこびで支度をし、小みちや城兵はひとあしさきに雑賀にかえし、自分は単騎、風吹峠を越えて粉河寺に入った。
 ここで孫市は死んだ。
 毒殺されたのか、刀槍で殺されたのか、それとも単に病死であったのか、よくわからない。
 このあと、秀吉軍は紀州に乱入し、雑賀城をもかこんだ。小孫市は遺命によって戦闘せずすぐ開城しているところをみれば、大孫市の死は非業なものではなく、病死だったのであろう。でなければ死力をふるつて戦ったにちがいない。
 孫市、四十。
 辞世もなければ遺言もなく、まるで尻をからげて駈けるようにこの世を去ってしまったあたり、いかにもこの男らしい。
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