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<本文から>
「いやもう、藤吉郎。こうして諸方を歩いておっても、わしが観音位を呉れるほどのおなでがすくのうて、落胆のみが多いが、きのうのおなごは観音であった。しかし藤吉郎よ」
孫市は、精一杯の好意をこめていった。
「おぬしのかかどのもよいの。あれは蓮臥観音の位をあたえてとらせた」
「えっ、おぬし、お寧々とも寝たのか」
藤吉郎は、息のとまるほど驚いた。
「いや、寝たいと思うたが、おぬしの友情にめんじて、我慢してとらせた。恩に着てもらわねばこまる」
「恩に。……」
藤吉郎は物哀しい貌だ。
「恩に着はするが、孫市、お寧々だけは堪忍してくりやれ」
「堪忍するとも、藤吉郎」
孫市は、いかにも友情のあふれたような表情でうなずいた。
「そのかわり藤吉郎、お寧々はせいぜい大事にせいよ。あれは、百万人にひとり天福のあるおなごじや。あの女房の相をみていると、亭主に途方もない運を開らかせるぞな」
「そうかの」
「もしお前が、お寧々を見限って他の女性に心を移すとあれば、わしはそのときどこにいても雑賀三千挺の鉄砲で攻め殺すぞ」
「まるで、お前のおなごのようじゃな」
「あれはお前と共有じゃ」
「おい、やはりお寧々と寝る気か」
「寝はせぬ。藤吉郎、きけ。わしは領土の野心もなく天下をねらうつもりもない。ただわしの一生は、いったん観音の尊位を与えたおなごのためにつくすだけのことじゃ。そのおなごが困っておれば雑賀三千人を率い、命も惜しまず駈けつけてやる。生涯、それだけが願望だ」
「それだけが願望か」
能があっても野心をもたぬ男ほどやりにくいものはない。おだてが利かぬからである。
「しかし孫市、お前は、その才幹、その武勇その軍兵をもってすれば天下を狙うのも痴夢ではあるまいに、あたら孫市ほどの男が、惜しいことよの」
「惜しいものか。しかし構えてこういう気性の男を怒らせるなよ、織田殿にもとくと申しきかせておいてくれ。雑賀孫市を怒らせると、天下を取りぞこなうぞ」
「わかった」
世には妙な男もいるものだ、と藤吉郎はおもったが、これが後年、大事件のたねになろうとはむろん夢にもおもわない。
「それで、昨夜の田楽は?」
「あれか」
忘れていた、という顔である。
「あれは観音にめぐり会うたがうれしさに、あと一気に駈けて織田殿の陣所へゆき、田楽を舞い狂うてやったのよ」
「あとの九人は?」
「あれは朝倉の課者よ」
「えっ」
なんと事毎に人を驚かせる男だ。
「おれが関ケ原から北国街道を一里、藤川なる村の百姓家に入りこんでいると、田楽法師の群れがやってきた。音声をきくとあきらかな越前なまりじゃ。これは朝倉の諜者に相違ないとみたゆえ、−おぬしら織田殿の御前で田楽を舞わぬかと水をむけてやると、よろこんでついて来おったわ」
藤吉郎は、ぞっとした。
その田楽法師のうち手練れの忍びでもおれば信長の命はあぶなかったところである。なるほど孫市とは、ゆだんならぬ。
「とにかく孫市、この軍旅のあいだはおとなしゅうしてくれ」
「ああ、するとも」
どうやら藤吉郎のみるところ、孫市は藤吉郎を気に入っているらしい。 |
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