司馬遼太郎著書
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          尻啖え 孫市 上

■領土の野心もなく天下をねらうつもりもない孫市

<本文から>
 「いやもう、藤吉郎。こうして諸方を歩いておっても、わしが観音位を呉れるほどのおなでがすくのうて、落胆のみが多いが、きのうのおなごは観音であった。しかし藤吉郎よ」
 孫市は、精一杯の好意をこめていった。
 「おぬしのかかどのもよいの。あれは蓮臥観音の位をあたえてとらせた」
 「えっ、おぬし、お寧々とも寝たのか」
藤吉郎は、息のとまるほど驚いた。
 「いや、寝たいと思うたが、おぬしの友情にめんじて、我慢してとらせた。恩に着てもらわねばこまる」
 「恩に。……」
 藤吉郎は物哀しい貌だ。
 「恩に着はするが、孫市、お寧々だけは堪忍してくりやれ」
 「堪忍するとも、藤吉郎」
 孫市は、いかにも友情のあふれたような表情でうなずいた。
 「そのかわり藤吉郎、お寧々はせいぜい大事にせいよ。あれは、百万人にひとり天福のあるおなごじや。あの女房の相をみていると、亭主に途方もない運を開らかせるぞな」
 「そうかの」
 「もしお前が、お寧々を見限って他の女性に心を移すとあれば、わしはそのときどこにいても雑賀三千挺の鉄砲で攻め殺すぞ」
 「まるで、お前のおなごのようじゃな」
 「あれはお前と共有じゃ」
 「おい、やはりお寧々と寝る気か」
 「寝はせぬ。藤吉郎、きけ。わしは領土の野心もなく天下をねらうつもりもない。ただわしの一生は、いったん観音の尊位を与えたおなごのためにつくすだけのことじゃ。そのおなごが困っておれば雑賀三千人を率い、命も惜しまず駈けつけてやる。生涯、それだけが願望だ」
 「それだけが願望か」
 能があっても野心をもたぬ男ほどやりにくいものはない。おだてが利かぬからである。
 「しかし孫市、お前は、その才幹、その武勇その軍兵をもってすれば天下を狙うのも痴夢ではあるまいに、あたら孫市ほどの男が、惜しいことよの」
「惜しいものか。しかし構えてこういう気性の男を怒らせるなよ、織田殿にもとくと申しきかせておいてくれ。雑賀孫市を怒らせると、天下を取りぞこなうぞ」
「わかった」
 世には妙な男もいるものだ、と藤吉郎はおもったが、これが後年、大事件のたねになろうとはむろん夢にもおもわない。
 「それで、昨夜の田楽は?」
 「あれか」
 忘れていた、という顔である。
 「あれは観音にめぐり会うたがうれしさに、あと一気に駈けて織田殿の陣所へゆき、田楽を舞い狂うてやったのよ」
 「あとの九人は?」
 「あれは朝倉の課者よ」
 「えっ」
なんと事毎に人を驚かせる男だ。
 「おれが関ケ原から北国街道を一里、藤川なる村の百姓家に入りこんでいると、田楽法師の群れがやってきた。音声をきくとあきらかな越前なまりじゃ。これは朝倉の諜者に相違ないとみたゆえ、−おぬしら織田殿の御前で田楽を舞わぬかと水をむけてやると、よろこんでついて来おったわ」
 藤吉郎は、ぞっとした。
 その田楽法師のうち手練れの忍びでもおれば信長の命はあぶなかったところである。なるほど孫市とは、ゆだんならぬ。
 「とにかく孫市、この軍旅のあいだはおとなしゅうしてくれ」
 「ああ、するとも」
 どうやら藤吉郎のみるところ、孫市は藤吉郎を気に入っているらしい。 
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■一目惚れした娘を欲していた孫市を騙す信長

<本文から>
 「日ならず、北国の朝倉、近江の浅井、六角と事を構えねばなるまい」
 それがのちの姉川の決戦になる。
 「雑賀三千挺の鉄砲は必要である。いや、むずかしいのは必要であるばかりではない。その三千挺を敵方に走らせてしまえば、どうにもならなくなる」
 「もっともでございます」
 信長は、京に上って天子、将軍を擁し、日本の中央部二百四十余万石の領土をおさえたとはいえ、かえってこれがために天下の孤軍の位置におちた。
 西には、山陽道の覇王となった毛利氏がいる。その毛利は摂津石山(大阪)の本願寺と攻守同盟を結んだという。
 朝倉、浅井は単に前面の敵だが、その後方には天下の最精強といわれた越後の上杉、甲州の武田がいる。
(それら反織田同盟が、雑賀をねらっている)
 いまや、孫市は、個人としては天下でもっとも値の高い男になっている。
 (上様もなぜ娘の一人くらい呉れてやらぬ)
 と藤吉郎はうらめしく思ったが、よく考えてみると、孫市の厄介さは、「織田家の娘をくれ」というのではなく、孫市が、かつて京の清水寺で一目惚れした、という娘でなければならぬのである。その娘が、孫市は厄介にも、
 「織田家の姫」
と信じこんでいるのだ。信じこんでいるのを幸い、信長、藤吉郎は、孫市を味方につけたさのあまり、
 「その娘、織田の遠縁には相違なし。雑賀家の北ノ方にすべく努力しよう」
といってしまったのだが。
 まあ、それはよい。なんといっても孫市が清水寺で見た、という姫は、物詣で姿をして虫の垂れ衣で顔をおおっていたから、人相はわからない。だから、
 「これがそのときの姫よ」
といって、例の織田一族とは名ばかりの尾張国愛知郡物部郷(いまの名古屋市内)の貧乏神主の娘加乃を出しさえすればよい。
 その加乃という娘は、いま京都にいる。御所の医官で官位は公卿に次ぐという半井廬庵家で、「姫御料人」としての躾けをつけてもらっている。
(いずれ、会わせはする)
と、藤吉郎は、信長の宿館を辞し去りながら、気持が重かった。
(孫市をだますことになる)
 それが、こまる。藤吉郎は、権謀術数にあかるい男であったが、それより多く誠実な性格でもあった。
 良心が痛む。孫市という男をよく知らなかった岐阜のころならまだしも、あれ以来の人柄、あの男に触れすぎた。触れすぎただけでなく、あの男からあまりにも多くの恩を著すぎた。
 (こまる)
 この点、藤吉郎は卑賎の出ながら、いやそういう出であるだけに情が濃い。すくなくともうまれながらの田舎貴族である主人の信長よりは、人をだますことに多分の抵抗がある。」
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■海陸ともに最強の軍事集団の土地

<本文から>
 馬回りの連中が和した。
 「若大夫(孫市)は日本一の豪傑、国の富も日本一、鉄砲の数も日本一、われら雑賀衆も日本一」
 紀ノ川が、白雲を映してゆるやかに海へ流れこんでいる。まわりは、北は紀州山脈、南は遠く熊野連山が天にそびえているほかは、紀ノ川流域は、豊餞そのものの美田である。
 いまは和歌山県。
 かつては紀伊国といったこの地方は、古代それも遥かなる神代、出雲とともに出雲の先進民族がひらいた国で、すでに出雲人五十猛命が国王になっていたころから、鉄器文明のもっとも栄えた土地であった。
 人口は、紀伊平野の「雑賀庄」(いまの和歌山市市街地の南半分と海岸部和歌滞付近まで)にもっとも多く、戦国時代、すでに十万という、京に次ぐといっていい大集落ができあがっていた。
 社会経済的な発達は、京、堺とおなじ水準にあり、それに加えて武器は精強、兵は強い。南蛮からの旅行者ルイス・フロイスをして、海陸ともに最強の軍事集団、と嘆ぜしめた土地である。
 ただ、統一されていない。
 豪族の連盟国家で、その結束はかならずしも十分とはいえなかった。その最大のものは雑賀家で、あとは栗村、島本、宮本、松田、岡崎、土橋といった連中がいる。
▲UP

■孫市は同時代から後の世にいたるまで人気があった

<本文から>
 当然なことで、孫市の兄弟、侶叔父どもは北陸まで遠征し、越中では雑賀安芸守、加賀では雑賀日向守などが紀州雑賀の鉄砲衆を率いて大いに威をふるつたものだし、「水戸です」というのもおかしくはない。孫市の子で、雑賀孫一郎と名乗る者が水戸徳川家の初期から仕え、重臣として幕末までつづいており、家祖の孫市をしのんでこの家系の者が寛永四年に建立した孫市の墓が、水戸市湊町浄光寺にのこっている。
 孫市という人物は、その豪勇、1その性情がかれと同時代の戦国期のひとびとによほど愛されたらしく、家康が水戸徳川家を置くや、孫市の家系の者が召し出されて五百石を頂戴し、その後この雑賀家に後嗣がなくて家名が断絶しようとしたとき、
−孫市の家名が絶えるのは惜しい。
 と、水戸侯徳川頼房が、自分の五男(のちの黄門光囲の実費をもって相続させ、雑賀孫一郎垂義と名乗らせ、代々紀州徳川家の重臣の列に加えられている。
 東京の雑賀家の場合、もし江戸時代からの家系ならば幕臣の雑賀家であろう。孫市の家系から家康に仕えた者があるからだ。
 山口県にもある。
 なぜなら、孫市がこの物語の後半において毛利家と同盟するからで、その縁によって孫市の血族の者が毛利家に仕えたはずである。
 この毛利家の雑賀は、サイガと訓じ、紀州その他はサイカと訓ずるのが多い。音の清濁はその土地の方言癖によるもので、どちらでもよいことだ。古い日本語は、朝鮮語とおなじく濁音がほとんどなく、紀州方言のばあいは、比較的ものを清音で訓むことが多い。
 会津藩でも、孫市の武名によって、その血族の者を高禄で召しかかえ、代々、雑賀孫六郎、孫六と名乗らせ、幕末までつづいている。
 幕末の会津藩士雑賀孫六は、
「先祖孫市の武名にあやかって」
八烏の定紋りの陣羽織を羽織って会津戦争で活躍し、さらに奥羽同盟の戦線強化のために江戸から榎本武揚を司令官とする旧幕府艦隊を呼びよせてきたのは、この雑賀孫六である。
 会津落城後は榎本艦隊の旗艦「開陽」の乗組士官になり、函館へゆき、諸方で転戦し、とくに大鳥圭介らとともに室蘭(茂呂蘭)へ行って、ここでフランス式砲台を築造する準備をしたりした。
 この幕末会津の雑賀孫六については、榎本、大鳥らの残した記録にしきりと登場するのだが、函館陥落後はどうなったかわからない。
 また余談だが。
 孫市の本姓は、鈴木である。旧記では鈴木孫市としたのが多い。孫市は諱を重幸といったから、鈴木姓の家系のうち、代々名に「重」をつける習慣になっている家は、わりあい、孫市の子孫と称する家が多い。
 そう思ってこころみに東京、大阪の電話帳を繰ると、鈴木姓で「重」の文字を名につかっている例が非常に多いので驚いた。これらが孫市と有縁であるか無縁であるかはともかく、江戸時代の鈴木姓の武士で諱に重の一字がつけばその家は、孫市をもって発祥、というのが常識であったようである。
 無駄ばなしを書きすぎた。
 とにかく、孫市という人物が、同時代から後の世にいたるまで、いかに人気があったかということを書きたかっただけである。
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