司馬遼太郎著書
メニューへ
ここに付箋ここに付箋・・・
          国盗り物語 4

■信長の信玄への外交戦勝利

<本文から>
 信玄ほどの者が、念には念を入れた「尾張の小僧」の欺しの手にみごとに乗った。
 「信長とは、信実深き者よ。あれがつねづね言って寄こす巧弁な口上は、あるいはうそでないかもしれぬ。これが証拠よ」
 と、左右にも、その削りあとを見せた。左右も、息を呑んで感嘆した。
 信長には、魂胆がある。将来のことは別としてまずまず、武田家と姻戚関係をむすびたいということであった。
 程を見はからって、それを申し入れた。
 美濃、といっても木曾に近いあたりの苗木に遠山勘太郎という城主がいる。苗木は、現今、観光地の恵那峡のあたりである。遠山氏は南北朝以来の名族で、近国で知らぬ者はない。余談ながら、江戸期の名奉行で「遠山の金さん」として講釈や映画や知られている遠山左衛門尉景元という人物はその子孫である。遠山家の本家は徳川家の大名に列しており、苗木で一万二十一石を領し、維新までつづいている。
 この遠山家に、死んだ道三の正室小見の方(明智氏)の妹が嫁いでいる。遠山勘太郎の妻女である。
 それに雪姫という娘がある。
 濃姫のいとこ、ということで、信長は美濃経略の初期に遠山氏に工作し、味方にひき入れ、その雪姫を養女として尾張にひきとっていた。
 美貌である。
 明智氏の血をひく者は美男美女が多いといわれているが、雪姫はその代表的な存在であった。そのうつくしさは、人口に乗って甲斐まで知られている。
 「その雪姫を、なにとぞ勝頼様に」
 と、信長の使者織田掃部助が、信玄にもちかけた。雪姫は織田家の実子ではない。
勝頼は武田家の世嗣である。断わられるかと思ったが信玄は存外あっさりと、
 「よかろう」
といった。この点、信長の外交は、みごとに成功している。もっともこの雪姫は信勝を生んだが、この産後に死んだ。これが永禄九年の末である。
 雪姫の死で縁が切れた、というので、信長はさらに別な縁談をもちこみはじめた。
 もちこんだのは、この物語のほんのわずか後のはなしになる。
 永禄十年の秋のことだ。こんどの縁談は、前のよりもさらに武田家にとってぶがわるかった。
 信長の申し出は、
「姫御の菊姫さまを」
 というのである。菊姫は信玄の娘で、まだかぞえて七つでしかない。もっとも花婿となるべき信長の長男信忠はまだ数えて十一歳である。その嫁に、というのだ。
 嫁に、というのは、わるく解釈すれば人質ということでもある。下日の織田家から申し出られる縁談ではないのだ。
 このときこそ断わられると覚悟したが、この一件も、
 「よかろう」
 と、信玄は快諾した。
 このころには信玄にとって信長の利用価値は大いに出はじめている。いざ京都へ、というとき、沿道の信長を先鋒に立て、逆らう者どもを蹴散らさせようと考えはじめていた。
 信長も、そこは心得ている。
 「京に上られるそのみぎりは、この上総介、必死に働いてお道筋の掃除をつかまつりまする」
 と何度も言い送っていた。この言葉を、信玄ほどの者が、幼児のような素直さで信じるようになっていた。
 「信長は自分にとって無二の者である」
 と、左右にもいった。その「無二」の関係を、信玄はさらに結婚政策によって固めようとした。その愛娘を、いわば人質になるかもしれぬ危険をおかして織田家に呉れてやる約束をしたのである。
 (信玄も存外あまい)
 と、信長は、虎のひげをもてあそぶような思いを感じつつそう思ったであろう。が、表むきは、大きによろこんだ。
▲UP

■信長は桶狭間を誇らず必ず勝てる条件をつみかさねて戦う

<本文から>
 北近江を通過するとき、洩井長政の軍八千がこれに加わり、四万を越えた。
 この四万が琵琶湖の東岸を南下し、数日のうちに六角方の十八個の城を将棋倒しに潰滅させるというすさまじい進撃ぶりをみせ、最後に湖畔の観音寺城に対し、信長みずから陣頭で突撃して攻めつぶしてしまった。
 承禎入道は城を出て奔り、甲賀から山伝いで伊賀にのがれ、頼朝以来の名家は、ほとんど瞬時に、といっていいほどのあっけなさでつぶれた。
 (驚嘆すべきものだ)
 と、軍中にある光秀はおもった。光秀も専門家である以上、この圧倒的戦勝におどろいたのではなかった。信長という人物を再認識する気になったのである。
 (あの男は、勝てるまで準備をする)
 ということに驚いた。
 この進攻戦をはじめるまでに信長はあらゆる外交の手をつくして近隣の諸豪を静まらせておき、さらに同盟軍をふやし、ついには四万を越える大軍団を整えるまでに漕ぎつけてから、やっと足をあげている。
 足をあげるや、疾風のごとく近江を席巻し、驚異的な戦勝をとげた。味方さえ、自軍の強さにぼう然とするほどであった。
 (勝つのはあたりまえのことだ。信長は必ず勝てるというところまで条件をつみかさねて行っている。その我慢づよさ)
 おどろくほかない。これが、あの桶狭間のときに小部隊をひきい、風雨をついて今川軍を奇襲した信長とは思えない。
 (信長は自分の先例を真似ない)
 ということに光秀は感心した。常人のできることではなかった。普通なら、自分の若いころの奇功を誇り、その戦法がよいと思い、それを模倣し、百戦そのやり方でやりそうなものだが、信長というのはそうではなかった。
 −桶狭間の奇功は、窮鼠たまたま猫を噛んだにすぎない。
 と、自分でもそれをよく知っているようであった。かれは自分の桶狭間での成功を、かれ自身がもっとも過小に評価していた。その後は、骨の髄からの合理主義精神で戦争というものをやりはじめた。この上洛作戦がいい例であった。
「戦さは敵より人数の倍以上という側が勝つ」
 という、もっとも平凡な、素人が考える戦術思想のJに信長は立っていた。このことにじつは光秀はおどろいたのであるO。
 (おれの考え方とはちがう)
▲UP

■信長が京料理人・石斎を生かした理由は自分に有能だから

<本文から>
 早速、石斎は牢から出され、すずやかな装束をあたえられ、台所に立たされた。この料理をしくじれば再び牢に逆もどりするのである。自然、台所方の者まで、石斎のために緊張した。
 やがて膳出来た。
 それを係々がささげて信長のもとにもってゆく。信長は箸をとった。
 吸物をぐっと呑んで妙な顔をした。やがて焼き魚を食い、煮魚を食い、野菜を食い、ことごとく平らげた。
 そのあと菅屋が入ってきて、いかがでござりました−ときくと、信長は大喝し、
 「あんなものが食えるか。よくぞ石斎めは食わせおったものよ。料理人にて料理悪しきは世に在る理由なし、―殺せ」
  といった。
 菅屋も、仕方なくひきさがり、その旨を石斎に伝えた。
 石斎は大きな坊主頭をもった、とびきり小柄な老人である。ゆっくりとうなずき、動ずる風もない。
「どうした、石斎」
「いや、相わかりまする。しかしながらいま一度だけ、御料理をさしあげさせて頂けませんぬか。それにて御まずうござりましたならば、これは石斎の不器量、いさぎよく頭を別ねてくださりませ」
 といったから、菅屋ももっともと思い、その旨を信長に取り次いだ。
 信長も、強いてはしりぞけない。
「されば明朝の膳も作れ」
 と、わずかに折れて出た。
 明朝になり、信長は石斎の料理にむかった。吸物をひとロすすると、首をかしげた。
「これは石斎か」
「左様にござりまする」
 と、給仕の児小姓が指をついた。信長はさらに食った。もともと大食漢だけに膳の上の物はことごとく平らげ、箸を置き、
「石斎をゆるし、市原五右衛門同様賄頑として召し出してやる。滅法、旨かった」
 と、機嫌がなおった。料理のうまさもさることながら、人の有能なところを見るのが信長の最も好むところなのである。
 菅屋は、そのとおり石斎に伝えた。石斎はおどろきもせず、
 「左様でござりましたか。御沙汰ありがたき仕合せに存じ奉りまする」
 と通りいっぺんの会釈をし、退った。
 あとで台所役人たちが疑問に思った。なぜ最初の料理があれほどまずかったか、ということである。
「石斎殿にも似気のないことだ」
 と囁いたが、やがて石斎が他の者にこう語ったという噂がきこえてきた。
「最初の膳こそ、わが腕によりをかけ料理参らせた京の味よ」 
 だから薄味であった。なるべく材料そのものの味を生かし、塩、醤などの調味料で殺さない。すらりとした風味をこそ、都の貴顕紳士は好むのである。
 ところが、二度目に信長のお気に召した料理こそ、厚化粧をしたような濃味で、塩や醤や甘味料をたっぷり加え、芋なども色が変わるほどに煮しめてある。
 「田舎風に仕立てたのよ」
 と、石斎はいった。所詮は信長は尾張の土豪出身の田舎者にすぎぬということを、石斎は暗に言いたかったのである。
 この噂が、まわりまわって信長の耳にとどいた。
 意外に信長は怒らなかった。 
「あたりまえだ」
と、信長はいった。
 この男は、都の味を知らずに言ったわけではなく、将軍の義昭や公卿、医師、茶人などにつきあってかれらの馳走にもあずかり、その経験でよく知っている。知っているだけでなくそのばかばかしいほどの薄味を、信長は憎悪していた。
 だからこそ石斎の薄味を舌にのせたとき、
−(あいつもこうか)
 と腹を立て、殺せといった。理由は無能だというのである。いかに京洛随一の料理人でも、信長の役に立たねば無能でしかない。
 「おれの料理人ではないか」
  信長の舌を悦ばせ、信長の食慾をそそり、その血肉を作るに役立ってこそ信長の料理人として有能なのである。
 「翌朝、味を変えた。それでこそ石斎はおれのもとで働きうる」
 信長はいった。
▲UP

■光秀は働きに働いたあげく殺されるだろうという不安を抱えていた

<本文から>
 光秀は、ひさしぶりに戦務から離れている。なぜならば近畿平定の担当官だった光秀は、近畿が落着したため、さしあたって兵馬を動かす場所がなかった。しかし信長はその光秀に休息をあたえなかった。
 「三河殿(家康)の接待を奉行せよ」
 と命じたのである。
 東海の家康も武田氏の脅威が去り、ひさしぶりに戦争から解放されていた。信長はこの家康に駿河一国をあたえた。家康は自分で切り取った三河、遠江の両国に、いま一国が加わったのである。ながい歳月、織田家のために東方の防壁となり、武田氏の西進をささえ、幾度か滅亡の危機に見舞われつつも信長との盟約を裏切ることがなかった家康に対し、信長があたえた報礼はわずか一国であった。
 (上様の出し吝みなさることよ)
 人々は、心中おもった。信長の功業をたすけてきたふるい同盟者に対し、あまりにも謝礼が薄すぎるではないかというのだが、一面、信長にも内々理屈があるであろう家康に大きな領国をあたえると、織田家をしのぐようになるかもしれない。信長の死後、織田家の子らは家康によって亡ぼされるかもしれず、その危険をふせぐために信長は家康を東海三国の領主にとどめておこうという肚であるようだった。
 (信長公の御心情は複雑である)
 と、このころになって見ぬいたのは、中国担当官の羽柴秀吉であった。信長にすれば天下平定のために、諸将に恩賞の希望をあたえつつ働かさねばならぬ。現実、天下を平定したとき、徳川家康、柴田勝家、丹波長秀、明智光秀、羽柴秀吉、滝川一益の六人の高官には、それぞれ数カ国を連ねる大領土をあたえねばなるまい。現に信長は日本国を分けあたえるような気前のいい話を洩らすときさえある。が、それが現実化すれば、織田家の天下は成立しない。大大名が多すぎて将軍の手綱がきかなかった室町体制がいい例であった。自然、創業の功臣を罪におとし入れて、つぎつぎに殺してゆかねばならない。古代シナの漢帝国の成立のときも功臣潰しがおこなわれたし、彼の地には「狩り場の兎をとりつくしてしまうと猟犬が不必要になり、主人に食われてしまう。国の功業の臣の運命もこれとおなじだ」という意味の諺さえあり、この間の真実をついている。すでに林通勝、佐久間信盛は整理されたが、とりようによってはこの事実こそ織田帝国の樹立後の功臣たちの運命を示唆するものであろう。
 (おれも、働きに働いたあげく、ついには殺されるだろう)
という慢性的な不安を、ちかごろ光秀も感ずることが多い。羽柴秀吉などは機敏にこれを感じ上っている。このために子のないのを幸い、信長に乞うてその第四子の於次丸を養子にもらい、元服させて秀勝と名乗らせ、それを世嗣としていた。信長にすれば、秀吉にいかほどの領地をあたえても結局は織田家の子が相続する。この点、秀吉はするどく信長の心情を見ぬいそいた。
▲UP

■本能寺の変

<本文から>
 信長は、快く疲れた。やがて侍女にも手伝わさずに白綾の寝巻に着更え、寝所に入った。次室には宿直の小姓がおり、そのなかに信長の寵童森蘭丸がいる。ことし数えて十八歳で、すでに童ともいえないが、信長の命令で髪、衣服をいまなお大人にしていない。森家は美濃の名門の出で、亡父可成はかつて斎藤道三に仕え、ついで織田家に転仕し、美濃兼山の城主であったが、浅井・朝倉との戦さで討死した。信長はその可成の遺児をあわれみ、とくに蘭丸を愛し、美濃岩村五万石をあたえ、童形のままで加判奉行にも任じさせていた。
 夜明け前、にわかに人の群れのどよめきと銃声を丸いたとき、目ざとい信長は目をさました。
 「蘭丸、あれは何ぞ」
 襖ごしでいった。信長は、おそらく足軽どもの喧嘩であろうとおもった。蘭丸も同時に気づき、「されば物見に」と一声残し、廊下をかけて高瀾に足をかけた。東天に雲が多く、雲がひかりを帯び、夜がようやく明け初めようとしている。
 その暁天を背に兵気が動き、旗が群れ、その旗は、いまどき京にあらわるべくもない水色桔梗の明智光秀の旗であった。
蘭丸は高欄からとび降り、信長の寝所に駈けもどった。
 信長はすでに寝所に灯をつけていた。
「謀反でござりまする」
蘭丸は、指をついた。そばに堺の商人で信長気に入りの茶人でもある長谷川宗仁がいたが、宗仁のみるところ、信長はいささかもさわがない。両眼が、らんと光っている。
「相手は、何者ぞ」
「惟任光秀に候」
 と蘭丸がいったとき、信長はその癖でちょっと首をかしげた。が、すぐ、
「是非に及ばず」
とのみいった。信長がこの事態に対して発したただ一言のことばであった。どういうことであろう。相変らず言葉が短かすぎ、その意味はよくはわからない。反乱軍の包囲をうけた以上もはやどうにもならぬという意味なのか、それともさらに深い響きを信長は籠めたのか。人間五十年化転ノウチニクラブレバ夢マポロシノゴトクナリという小謡の一章を愛唱し、霊魂を否定し、無神論を奉じているこの虚無主義者は、まるで仕事をするためにのみうまれてきたような生涯を送り、いまその完成途上で死ぬ。是非もなし、と瞬時、すべてを能動的にあきらめ去ったのであろう。
 そのあと信長の働きはすさまじい。
 まず弓をとって高欄に出、二矢三矢とつがえては射放ったが、すぐ音を発して弦がきれた。信長は弓を捨て、機敏に槍をとり、濡れ縁をかけまわり、あちこちから高瀾へよじのぼろうとする武者をまたたくまに二、三人突き落した。
 この働きは、事態の解決にはなんの役にもたたないが、信長は弾みきったその筋肉を動かしつつ奮戦した。この全身が弾機でできているような不可思試なほどの働き者は最後まで働きつづけようとするのか、それとも自分の最後の生をもっとも勇敢なかたちで飾ろうというこの男の美意識によるものか、おそらくはそのいずれもの織りまざったものであろう。
 信長は、自分の美意識を尊重し、それを人にも押しっけ、そのために数えきれぬほどの人間を殺してきたが、かれ自身が自分を殺すこの最期にあたってもっともそれを重んじた。
▲UP

■明智光秀の最期

<本文から>
 この戦術形態こそ、光秀の心情のあらわれであろう。決戦と防衛のいずれかに主題を統一すべきであるのに、両者が模糊として混濁していた
 この、やや尻ごみして剣を抜こうとする光秀の戦術思想を、宿将の斎藤内蔵助利三が批判し、反対し、
 「味方のこの小勢では、防衛に徹底すべきでありましょう。思いきって近江坂本城にしりぞき、今後の形勢を観察なされてはいかがでありましょう」
 と内蔵助はいった。内蔵助のいうところはもっともであった。光秀はこの期にいたっても全力をこの野外に投入せず、兵力の四分の一を近江の坂本、安土、長浜、佐和山の四城に置き増えているのである。光秀にすれば野外で敗けたときに近江へ逃げるつもりであるらしい。
 「いつもの殿らしからぬ」
と斎藤内蔵助は、その不徹底ぶりをついたのである。光秀はたしかに心が萎え、はつらつとした気鋭の精神をうしなっていた。すでにみずからを敗北のかたちにもちこんでいた。貧すれば鈍す、という江戸時代の諺はこのころにはまだなかったが、あれば斎藤内蔵助はそう言って主人をののしったであろう。
  十二日、雨。
この夜、秀吉軍の接近を光秀は知り、むしろこれを進んで迎え撃とうとした。斎藤内蔵助はふたたび諌めた。
 −この小人数で、なにができる。
 とどなりたかった。ところが光秀は全体の戦術構想においては攻守いずれにも鈍感な陣形をたてているくせに、この進襲迎撃については異常なほど勇敢で頑固であった。あくまで固執し、進撃隊形をきめ、それぞれの隊長に、
 「あすの夜明け、山崎の付近に参集せよ」
 と命じた。光秀がきめた予定戦場は山崎であった。
 雨はやまず、光秀はそのやむのを待たなかった。豪雨をついて下鳥羽を出発し、桂川を捗った。この渡河のときに、明智軍が携行していた鉄砲の火薬はほとんど湿り、濡れ、物の役にたたなくなった。
 (なんということだ)
 光秀は、唇を噛み、いっそ噛みちぎりたくおもった。鉄砲の操作と用兵については若年のころから名を馳せ、織田家につかえたのもその特技があったからであり、その後も織田軍団の鉄砲時の向上に大きな功績をのこした。いまなお鉄砲陣のつかい方にかけては日本で比類がないといわれているのに、この手落ちはどういうことであろう。
(あすは、十分の一も鉄砲陣が使えぬ)
 そのあすが、釆た。
束正十年六月十三日である。戦いは午後四時すぎ、淀川畔の天地をとどろかせて開始され、明智軍は二時間余にわたって秀吉の北進軍を食いとめたが、日没前、ついにささえきれず大いに散乱潰走した。光秀は戦場を脱出した。
 いったんは、細川藤孝の旧城である勝竜寺城にのがれたが、さらに近江坂本にむかおうとし、暗夜、城を脱して間道を縫った。従う者、溝尾庄兵衛以下五、六騎である。大亀谷をへて桃山高地の東裏のが剰軒の割にさしかかった。このあたりは竹薮が多い。里はずれの薮の径を通りつつあったとき、光秀はすでに手綱を持ちきれぬまでに疲労しきっていた。
 「小野の里は、まだか」
 小声でいったとき、風が鳴り、薮の露が散りかかった。
 不意に、光秀の最期がきた。左腹部に激痛を覚え、たてがみをつかんだ。が、すぐ意識が遠くなった。
 「殿っ」
 と溝尾庄兵衛がわめきつつ駈けよってきたとき、光秀の体は鞍をはなれ、地にころげ落ちた。槍がその腹をつらぬいていた。薮のなかにひそんでいたこのあたりの土民の仕業であった。
▲UP

メニューへ


トップページへ