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<本文から>
信玄ほどの者が、念には念を入れた「尾張の小僧」の欺しの手にみごとに乗った。
「信長とは、信実深き者よ。あれがつねづね言って寄こす巧弁な口上は、あるいはうそでないかもしれぬ。これが証拠よ」
と、左右にも、その削りあとを見せた。左右も、息を呑んで感嘆した。
信長には、魂胆がある。将来のことは別としてまずまず、武田家と姻戚関係をむすびたいということであった。
程を見はからって、それを申し入れた。
美濃、といっても木曾に近いあたりの苗木に遠山勘太郎という城主がいる。苗木は、現今、観光地の恵那峡のあたりである。遠山氏は南北朝以来の名族で、近国で知らぬ者はない。余談ながら、江戸期の名奉行で「遠山の金さん」として講釈や映画や知られている遠山左衛門尉景元という人物はその子孫である。遠山家の本家は徳川家の大名に列しており、苗木で一万二十一石を領し、維新までつづいている。
この遠山家に、死んだ道三の正室小見の方(明智氏)の妹が嫁いでいる。遠山勘太郎の妻女である。
それに雪姫という娘がある。
濃姫のいとこ、ということで、信長は美濃経略の初期に遠山氏に工作し、味方にひき入れ、その雪姫を養女として尾張にひきとっていた。
美貌である。
明智氏の血をひく者は美男美女が多いといわれているが、雪姫はその代表的な存在であった。そのうつくしさは、人口に乗って甲斐まで知られている。
「その雪姫を、なにとぞ勝頼様に」
と、信長の使者織田掃部助が、信玄にもちかけた。雪姫は織田家の実子ではない。
勝頼は武田家の世嗣である。断わられるかと思ったが信玄は存外あっさりと、
「よかろう」
といった。この点、信長の外交は、みごとに成功している。もっともこの雪姫は信勝を生んだが、この産後に死んだ。これが永禄九年の末である。
雪姫の死で縁が切れた、というので、信長はさらに別な縁談をもちこみはじめた。
もちこんだのは、この物語のほんのわずか後のはなしになる。
永禄十年の秋のことだ。こんどの縁談は、前のよりもさらに武田家にとってぶがわるかった。
信長の申し出は、
「姫御の菊姫さまを」
というのである。菊姫は信玄の娘で、まだかぞえて七つでしかない。もっとも花婿となるべき信長の長男信忠はまだ数えて十一歳である。その嫁に、というのだ。
嫁に、というのは、わるく解釈すれば人質ということでもある。下日の織田家から申し出られる縁談ではないのだ。
このときこそ断わられると覚悟したが、この一件も、
「よかろう」
と、信玄は快諾した。
このころには信玄にとって信長の利用価値は大いに出はじめている。いざ京都へ、というとき、沿道の信長を先鋒に立て、逆らう者どもを蹴散らさせようと考えはじめていた。
信長も、そこは心得ている。
「京に上られるそのみぎりは、この上総介、必死に働いてお道筋の掃除をつかまつりまする」
と何度も言い送っていた。この言葉を、信玄ほどの者が、幼児のような素直さで信じるようになっていた。
「信長は自分にとって無二の者である」
と、左右にもいった。その「無二」の関係を、信玄はさらに結婚政策によって固めようとした。その愛娘を、いわば人質になるかもしれぬ危険をおかして織田家に呉れてやる約束をしたのである。
(信玄も存外あまい)
と、信長は、虎のひげをもてあそぶような思いを感じつつそう思ったであろう。が、表むきは、大きによろこんだ。 |
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