司馬遼太郎著書
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          国盗り物語 3

■道三は野望という未完成の作品を信長に継がせたいと思った

<本文から>
 「帰館してすぐ手紙をかくというのも妙だが、書きたくなる気持をおさえかねた」
 とか、
「わしはすでに老いている。これ以上の望みはあっても、もはやかなえられぬ。あなたを見て、若いころのわしをおもった。さればわしが半生かかって得た体験、智恵、軍略の勘どころなどを、夜をこめてでも語りつくしたい」
 とか、
「尾張は半国以上が織田家とはいえ、その鎮定が大変であろう。兵が足りねば美濃へ申し越されよ。いつなりとも即刻、お貸し申そう。あなたに対して、わしにできるだけのことを尽したい気持でいっぱいである」
 とかいう、日ごろ沈毅な道三としては、あられもない手紙だった。
 自分の人生は暮れようとしている。青雲のころから抱いてきた野望のなかばも遂げられそうにない。それを次代にゆずりたい、というのが、この老雄の感傷といっていい。
 老工匠に似ている。この男は、半生、権謀術数にとり憑かれてきた。権力慾というよりも、芸術的な表現慾といったほうが、この男のばあい、あてはまっている。その「芸」だけが完成し作品が未完成のまま、肉体が老いてしまった。それを信長に継がせたい、とこの男は、なんと、筆さきをふるわせながら書いている。
 信長は帰城し、例の男根の浴衣をぬぎすて、湯殿に入った。
 出てきて洒をもって来させ、三杯、立ったままであおると、濃姫の部屋に入った。
 「蝮に会ってきたぞ」
 と、いった。
 「いかがでございました」
「思ったとおりのやつであった。あらためて干し豆などをかじりながら、ゆっくり話をさせてみたいやつであったわ」
 「それはよろしゅうございました」
 と、濃姫は笑った。言いかたこそ妙だが、これは信長にとって最大の讃辞なのだということが、濃姫にはわかっている。 
▲UP

■道三は平和をこのむ怠惰な老年をむかえようとしていた

<本文から>
 −義竜を廃嫡する。
 とは言明したことがない。お勝の仇討事件で日ごろの義竜への感情がなるほど募りはしたが、廃嫡、とまでは真底から考えているわけではなかった。正直なところ、廃嫡して事を荒だてるには、道三は年をとりすぎていた。
 おだやかな毎日がほしい。
 そういう慾望のほうがつよくなっている。すでに働き者の権謀家のかげがうすれ、平和をこのむ怠惰な老年をむかえようとしていた。
 −それに。
 道三にとって大事なことは義竜などは愚人でしかなかった。孫四郎以下の実子も、義竜に輪をかけたほどの不器量人である。変えたところで変えばえもしない。また義竜をその位置にすえておいたところで、あの年若い肥大漢になにほどのことができよう。
 深芳野という、義竜の出生の秘密を知っている者がいる、ということも、ついぞ道三は考えたことがなかった。深芳野という女は、かつてその体を愛し、それをさまざまに利用した。道三の美濃における慾望の構築に、ある時期はそれなりの役に立った。その効用はおわった。効用のおわった深芳野は、尼になって川手の寺で世を捨てている。それだけのことである。その深芳野が、わが子の義竜に無言の告白をし、そのために義竜の心に思わぬ火がつく、というような珍事は、道三は空想にもおもったことがない。自分以外の者は、すべて無能でお人好しで自分に利用されるがためにのみ地上に存在していると思いこむ習慣を、この老いた英雄はもちすぎていた。
 義竜が重病に陥ちた。
 と、いうことをきいたときも、である。それを意外とも奇妙とも思わなかった。
 (義竜が?‥あの化けものは巨きすぎた。巨きすぎるのは体のどこかにむりがあるということだ。そのむりが、裂け目をひらいた。死ぬかもしれぬ)
 と、おもっただけである。義竜が死ぬ、ということで、実子の孫四郎をその跡目に立てるということも道三はしなかった。衰竜には竜興という子がある。ごく当然のこととしてその竜興に継がせるつもりであった。されば道三の血統はついに美濃を継がなくなる。それでもよいわさ、というあきらめが、この男にはあった。無能の人間を跡目につければやがてはその無能のゆえにほろぶ、ということをこの老人は身をもって知りぬいてきている。
 (どっちにしろ、おれ亡きあとは尾張の婿どのが美濃を併呑してしまうにちがいない。あの若者はきっとやる。それだけの天分をもってうまれている。おれが営々ときずきあげた美濃一国は、あの者がふとってゆくこやしになるだけだろう。それはそれでよい)
 と、道三はおもっている。こういういわばおそるべき諦観と虚無のなかにいる道三が、たかが義竜ごとき者の一挙手一投足にうたがいの視線をむける努力をはらわなかったのも、当然といえるであろう。
▲UP

■道三は憐憫によって計算と奇術をあやまらせ滅んだ

<本文から>
 (あの馬鹿めを、みくびりすぎた。このおれともあろう者が。−)
空をみた。憎らしいほどに晴れ渡っている。
 (ひさしぶりで、いくさの支度をせねばならぬ)
 道三はゆるゆると馬をうたせ、森の下草を踏ませながら、思案した。わが子を相手にどのようないくさをしてよいのか、構想がうかばぬ。
 ぼう然と道三は馬をうたせてゆく。その顔はハマデリのように無表情だった。頭のなかに、いかなる電流も通じていない状態である。むりもなかった。義竜ごとき者を相手に−というばかばかしさが、考えよりもまず先立ってしまうのである。
 (おれの生涯で、こんなばかげた瞬間をもとうとは思わなかった。義竜は躍起になって兵をつのるだろう。それはたれの兵か、みなおれの兵ではないか。義竜は城にこもるだろう、その稲葉山城というのもおれが智能をしぼり財力をかたむけて築いたおれの城ではないか。しかも敵の義竜自身−もっともばかげたことに、あれはおれの子だ。胤はちがうとはいえ、おれが子として育て、おれが国主の位置をゆずってやった男だ。なにもかもおれはおれの所用物といくさをしようとしている。おれほど利口な男が、これほどばかな目にあわされることがあってよいものだろうか)
 道三は、顔をゆるめた。
 いつのまにか、顔が笑ってしまっている。笑う以外に、なにをすることがあるだろう。
(おれは若いころから綿密に計算をたて、その計算のなかで自分を動かしてきた。さればこそ一介の浮浪人の身から美濃のぬしになった。計算とは、奇術といってもいい。奇術のたねは、前守護職土岐頼芸だった。頼芸にとり入り、頼芸を利用し、頼芸の権威をたねにあらゆる奇術を演じ、ついに美濃一国をとり、頼芸を追い出した。頼芸はおれにそうされるに償いした。なぜならばとほうもないあほうだったからさ。しかしそのあほうにも生殖能力だけがあることをおれはわすれていた。深芳野と交接し、その子宮に杯一ぱいのたねをのこした。深芳野は泣く以外になんの能もない女だったが、深芳野の子宮はふてぶてしくもその胤をのみこみ、混め、月日をかけて一個のいきものに仕立てあげてこの世へ出した。それが義竜だ。おれはそれを自分の子として育てた。そうすることに政治上の価値があったからだが、国主にまでする必要はなかった。それをおれはした。おれの心に頼芸への憐憫があったからだろう。その憐憫というやつが、おれの計算と奇術をあやまらせた。
 ばかげている、と思った。人智のかぎりをつくした美濃経営という策謀の芸術が、なんの智恵も要らぬ男女の交接、受胎、出産という生物的結果のためにくずれ去ろうとは。
 (崩れるだろう)
 と、道三は自分の終末を予感した。これが、自分の生涯の幕をひかせる最後の狂言になるだろうとおもった。
 森を出た。
 街道に出るや、道三は森の中の道三とは人がかわったように活気を帯びた。鞭をあげ、馬を打った。馬は四肢に力をみなぎらせ、一散に鷺山城にむかって駈け出した。
▲UP

■桶狭間の戦い

<本文から>
 このころ信長は、山を越えきってすでに谷に入っていたが、途中この嵐に遭い、
 (天佑か。−)
 と狂喜したが、しかしいかにこの無法な男でも軍を前進せしめられるようななまやさしい風雨ではなかった。地を遭わなければ吹きとばされそうになる性どの風速で、しかも滝のように降ってくる雨のために視界はほとんどなかった。部隊は細い谷川のなかを進んでいる。忽ち水かさがふえ、足をとられる者が多い。それでも信長は進んだ。
 途中、六百メートルほどの平野を横切ったが、この部隊行動が風雨の幕のために今川方からついに見えなかった。信長はさらに山に入って南下した。山には道がない。木の枝、草の根をつかんで全軍がのぼりくだりした。が、信長は馬から降りない。子供のころから異常なほどの乗馬好きだったこの男は、蹄の置ける場所さえあれば楽々と馬を御することができた。
 善照寺を出発して以来、道もない山のなかを六キロ、二時間たらずで踏みやぶり、田楽狭間を見おろす太子ケ根についたのは午後一時すぎであったろう。風雨がさらに強くなったためにここで小歇みを待った。
 天がやや零れ、風が残った。その風とともに全軍、田楽狭間に突撃したのは、午後二時ごろであった。
 敵の警衛陣は、風雨を避けるために四散していた。雨のなかから躍りこんできた織田兵に気づいた者も、風雨のために友軍との連絡が断たれているため有機的活動ができず、ただ逃げるしか仕方がなかった。それにこの乱軍のなかで、最大の不幸がおこった。
 「裏切りぞ」
 という叫び声があがったことであった。今川軍では信長がまだ熱田か、せいぜい善照寺あたりに居るものと思っていたため、味方の反乱としか思えなかったのであろう。この混乱のなかでそういう疑惑がおこった以上、もはや味方同士を信ずることが出来なくなった。互いに互いと衝突しては打ち合い、逃げ合い、たちまち軍組織が崩壊した。
 義元は、松の根方でひとり置き去りにされた。小姓どもは周囲のどこかで戦っているのであろうが、みな義元をかまうゆとりがない。
 「駿府のお屋形っ」
 と叫んで、義元にむかい、まっすぐに槍を入れてきた者がある。織田方の服部小平太であった。
 「下郎、推参なり」
 と義元は、今川家重代の「松倉郷の太刀」二尺八寸をひきぬくや、剣をあげて小平太の青員の槍の柄を戛と切り飛ばし、跳びこんで小正丁太の左膝を斬った。
 わっ、と小平太が倒れようとすると、そのそばから飛びだしてきた朋輩の毛利新助が太刀をふるって義元の首の付け根に撃つこみ、義元がひるむすきに組みつき、さらに組み伏せ、雨中で両人狂おしくころがりまわっていたが、やがて新助は義元を刺し、首をあげた。首は首のままで歯噛みしており、そのロ中に新助の人差指が入っていた。
 戦闘が終結したのは、午後三時前である。四時に信長は兵をまとめ、戦場にとどまることなく風のように駈けて熱田に帰り、日没後、清洲城に入った。
 「お濃、勝ったぞ」
 と、この男は、潰姫にひと言いった。
▲UP

■工芸的な戦術家は甲州、信州、美濃北部といった地形の複雑な地方に多く輩出

<本文から>
 (その桶狭間でおれは勝った)
という自信が信長にある。その自信が信長をしゃにむに前進させた。
余談だが、戦術家としての信長の特色は、その驚嘆すべき速力にあった。必要な時期と場所に最大の人数を迅速に集結させ、快速をもって攻め、戦勢不利とみればあっというまにひきあげてしまう。その戦法はナポレオンに似ている。
手のこんだ、巧緻で変幻きわまりない型の戦術家ではない。その種の工芸的なまでの戦術家の型は、多くは甲州、信州、美濃北部といった地形の複雑な地方に多く輩出している。武田信玄、真田昌幸、同幸村、竹中重治といった例がそうであろう。
信長は、一望鏡のように平坦な尾張平野で成長し、その平野での戦闘経験によって自分をつくりあげている。尾張は道路網が発展しているため兵力の機動にはうってつけだが、一面、地形が単純なため、ここで育った信長は山河や地形地物を利用する小味な戦術思想に欠けている。
 美濃の地勢はその点、小味で陰性な戦術家を多くそだてている。
 陽気な尾張の平野人たちは勢いに乗って猛進した。
 ついに稲葉山城が目の前にせまっている長森まできたとき、天地が逆転したかとおもわれるほどの異変がおきた。
 まわりの森、薮、土手、部落からおびただしい数の美濃兵が湧き出てきて、信長軍の両側を突き、かつ退路を遮断し、さらにいままで退却をつづけていた美濃軍が、いっせいに旋回して織田軍の先鋒を突きくずしはじめたのである。
 美濃風の戦鼓、陣鉦、陣貝が天地に満ち、織田軍は完全に包囲された。
 (いかん)
 とおもったときは信長は馬を尾張にむけさせ、戦場からの脱出をはかったが、美濃軍のなかでも猛将で知られる日根野備中守兄弟が信長の旗本をめがけて火の出るように攻め立ててくるため動きがとれない。
 織田方の崩れを見て、稲葉山城から美濃軍の主力がどっと攻めかかり、織田軍を分断しつつ包囲敢滅にとりかかった。
 信長は身一つで血路をひらき、やっと尾張に逃げ落ちたが、対岸の美濃では羅刹に追われる地獄の亡者のように織田兵が逃げまどって惨澹たる戦況になっている。
 やがて陽が落ち、暮色が濃くなるにつれて織田兵は救われた。闇にまぎれてかれらは南へと退きはじめた。
▲UP

■明智光秀による覚慶(足利義昭)の脱出

<本文から>
 光秀は、無官の身である。
 本来ならば供待部屋で待つのがふつうだったが、とくに、
「薬箱相持」
 という名目で、常御殴にあがり、覚慶の寝所にまで入り、次室でひかえた。
 米田求政はしかるべく御脈をとり、ほどなく退出した。それが第一日である。
 翌日、翌々日、さらにその翌日、とおなじ刻刻にあらわれ、常御殿で脈をとり、投薬をし、帰ってゆく。
 五日目。
「きょうは法眼殿はおそいな」
 と、警戒の武士たちがささやくころ、光秀に松明をもたせて、米田求政はやってきた。
「罷る」
「通られよ」
 武士どもは、すっかり馴れている。
 法眼はいつものように診察と投薬をおわると、あたりに人がないのを見すまし、
「御所様、今夜こそ。−」
 と、耳うちした。
 脱出の策は、すでにきめてある。覚慶門跡自身が、触れを出し、
 −全快した。
 と称し、その本復祝いに、門わきの詰め所の警備の侍どもに酒を下賜する。
 そのとおり、事がはこばれた。酒樽が三つの門にそれぞれくばられ、
「存分におすごしなされませ。内祝いでござりまする」
と、稚児どもが肴までくばって歩いた。三好・松永の兵は、いまでこそ京をおさえているとはいえ、元来は阿波の田舎侍である。
 酒には意地がきたない。
 それぞれの屯ろ屯ろ芸みはじめ、夜半をすぎるころには宿直でさえ酔い痴れた。
(いまこそ。−)
 と、常御毀に詰めている光秀はそう判断し、足音もしめやかに次重から閏を踏みこえて覚慶門跡の病床ににじり寄り、
 「十兵衛光秀にござりまする」
 と、覚慶にはじめて言上し、「おそれながら」と、この貴人の手をとった。
「御覚悟あそばしますよう。ただいまよりこの御所の内から落しまいらせまするゆえ、すべてはこの光秀にお頼りくださりませ」
 「心得た」
 と、覚慶はうなずいたが、さすが、おそろしいのか、歯の根があわぬ様子である。光秀は覚慶の手をとった。
 掌がやわらかい。
 外は、風である。
 覚慶、求政、光秀の三人は、茶室の庭から垣根をこえ、這うようにして乾門のわきの築地塀の下まで接近し、そこであたりの人の気配をうかがった。光秀は、地に耳をつけた。
 (酔いくらって、寝ている)
 思うなり、光秀は身をおこした。身がかるい。
 ひらり、
 と、塀の上に飛びあがった。やがて手をのばして覚慶、求政という順で塀の上にひきあげ、つぎつぎと路上にとびおりた。
 月は、ない。
 夜目に馴れぬ覚慶には、半歩も足をうごかすこともできない。
「おそれながら、背負い奉る」
 かるがると背負い、足音を消して忍び走りに走りはじめた。
「光秀、苦労」
 と、のちに十五代将軍になるにいたる覚慶は、光秀の耳もとでささやいた。おそらく覚慶にすれば、このときの光秀こそ、仏天を守護する神将のように思えたであろう。
 光秀は足が早い。
(この男は、夜も目がみえるのか)
 と、覚慶があきれるほどの正確さで、光秀は闇のなかを飛ぶように走った。
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