司馬遼太郎著書
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          国盗り物語 2

■神仏でなく権謀術数の道三

<本文から>
 「人の世の面白さよ」
 庄九郎は具足をつけながら、からからと笑い、つぶやいた。
 人は、群れて暮らしている。
 群れてもなお互いに暮らしてゆけるように、道徳ができ、法律ができた。庄九郎は思うに、人間ほど可憐な生きものはない。道徳に支配され、法律に支配され、それでもなお支配され足らぬのか神仏まで作ってひれ伏しつつ暮らしている。
 (−しかしわしだけは)
 と庄九郎はおもうのだ。
 (道徳、法律、神仏などには支配されぬ。いずれはそれらを支配する者になるのだ)
 おもしろい。
 人の世は。−
 庄九郎にとってなにが面白いといっても権謀術数ほどおもしろいものはない。
 権ははかりごと、謀もはかりごと、術もはかりごと、数もはかりごと、この四つの文字ほど庄九郎の好きな文字はない。
 庄九郎はいま、稲葉山麓に城館をかまえる美濃第一の実力家長井藤左衛門を夜討にして討ちとろうとしている。
 「それが正義か」
 と、「道徳」は大喝一声、庄九郎を攻撃するであろう。これほどの不義はない。
 京から流れこんだどこの馬の骨ともしれぬ徒手空拳の庄九郎を引き立てたのは長井一族である。長井一族のうち、とくに長井利隆が推挙に推挙をかさねて庄九郎を押しあげてくれたのだが、長井藤左衛門にもまんざらの恩がないでもない。なにしろ藤左衛門は長井一族の宗家である。この宗家の藤左衛門が、
 −まずまず。
 という態度でいてくれたればこそ、さしたる邪魔だてもなく庄九郎は美濃第一の出頭人(にわか立身の者)となり、さらには、
 「長井」
 という姓さえ名乗れるようになったのである。いわば、大恩。
 さらに、「法律」は責めるであろう。なぜならば、庄九郎は形式的には、美濃の小守護である長井藤左衛門の下僚になる。上下の系列でいえば、美濃守護職土岐頼芸−美濃小守護長井藤左衛門−頼芸の執事庄九郎、というぐあいになる。その庄九郎が、上司を討つ。無法のきわみというほかない。
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■美濃衆に囲まれた苦境時に出家して乗り切る

<本文から>
 頼芸が、びっくりした。
 城内のどこでみつけたのか、庄九郎は墨染の破れ衣をまとい、縄の帯をしめ、頼芸の前に大あぐらをかいてすわっている。
 「もとこれ、洛陽の乞食法師」
 庄九郎は、悠然といった。
 「所領も城も返納つかまつります。加納城にいる深芳野をはじめ家来の者も、それぞれ身のふりかたをきめましょう。無一物になった以上、いまや失う物はありませぬ。失う物がなければ、怖るるものもない」
 「……」
 あまりのことに、頼芸は声も出ない。
「美濃を去ります」
「そ、そなたは、わしを捨ててゆくのか」
 「最後に所望がござる」
 「な、なんじゃ」
 「酒を一杯」
 頼芸はすぐ酒の用意をさせた。しかしなんとか庄九郎を思いとどまらせられぬものかとこの男なりに思案している。
 洒になった。
 庄九郎は杯をかさね、いささか酔った。
 そのうち、頼芸の側近の者から話が洩れて噂はぱっと川手城にひろまり、すぐ城外に滞陣している美濃衆の耳に入った。
「なに? あの者、城も所領も家来もすてて僧にもどると?」
「うそじゃ」
 そういう者もある。しかし信ずる者も、むろんある。
 (あるいはそういう男かもしれぬ)
みごとな庄九郎の転身ぶりが、美濃の山里あたりからきた朴訊な武士の心を打ったようでもあった。
 さて庄九郎。
 頼芸の御前にある。−
 出家は本気であった。単純な男ではないが、この男なりに、いままですべてのことを本気でやってきた。単なるまやかしだけでは、京の奈良屋(山崎屋)を京洛随一の油屋にすることはできなかったであろうし、美濃にきてからも短期間にいまの位置まで駈けあがることはできなかったであろう。
 が、単なる本気ではない。
 本気の裏っ側でいつも計数、策略が自動的に動いている男である。
 いまもそうだ。
 「酒を所望」
 といったのは、「自分が出家した」といううわさが、川手城の内外にひろがる時間をかせぐための策略であった。
 みなに周知させねばならない。理由は、かれのあとの行動の伏線になる。
 「ではそろそろ、おん前を退出しとうござりまする」
 「いや待て、新九郎」
と頼芸はその名をよんだ。
 「お屋形様、おそれながらその名は、すでにお返しっかまつっておりまする。かように頭をまるめましたる以上は、法名がござる」
 「法名とは?」
 頼芸は、きいた。
 「道三」
 と、庄九郎は答え、その文字まで説明した。菊丸に頭を剃らせているときに考えついた入道名である。
 「道三とはめずらしい法名だな」
 「道に入ること(入道、出家すること)三度でござるからな」
 「ほう、なぜだ。以前、京の妙覚寺本山にて法蓮房と称し、顕密の奥義をきわめたときいたが、こんどが二度目ではないか。それならばなぜ道二とせぬ」
 「三度目がござりまするよ」
 「それはいつだ」
 「死ぬるとき」
 平然と答えた。仏法では、死は単なる死ではない。往いて生くるという。死はすなわち道に入ることである。庄九郎は二度入道し、さらに三度日の往生まであらかじめ勘定に入れて、このさき生きようとしている。
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■道三は悪罵を気にやまない革命家

<本文から>
「前半期のわしは革命家、後半期のわしは武将として見てもらいたい」
 と庄九郎は要求するであろう。
 なるほど、革命は、美と善を目標としている。すべての陰謀も暗殺も乗っ取りも、革命という革命家自身がもつ美的世界へたどりつく手段にすぎない。
 革命家にとって、目的は手段を浄化する。
 「ならぬ」
ということでも、やる。幕末の勤王家は、同時に盗賊でもあった。殺人犯でもあった。
 しかしながら、かれらはその理想のためにその行為をみずから浄化し、その盗みを「撰夷御用」と称し、その殺人を「天誅」ととなえた。
 庄九郎も、かわらない。
 ただかれが日本の幕末や他国の革命家とちがう点は、その革命をひとりでやった点である。
 集団ならば御用盗になり天誅になるところを、一人であるがために、その言葉の裏面である悪罵のみを一身に受けることになった。
 「もっとも」
と庄九郎は、茶をのみながらいうにちがいない。
 「その悪罵は、徳川時代の道学者がいっただけで、わしは同時代の者から悪罵はうけなかったよ」
 読者は笑え。ここが、庄九郎的人間の特徴ともいうべきものである。庄九郎の同時代でも、人は「蝮」といってかげでは悪口をいったが、庄九郎の耳には入らない。人の悪ロが、耳に入らないたちの人間なのである。すくなくとも、人が悪口をいっている、などとカンぐったり気にしたり神経を病んだりしないたちの人間なのである。
 だからこそ、気にしない。
 見えざる人の悪罵をあれこれと気にやむような男なら、行動が萎える。とても庄九郎のような野ぶとい行動はできない。この男の考え方、行動が竹でいえば孟宗竹のようにいかにもふとぶとしいのは、心の耳のぐあいが鈍感になってもるからであろう。革命家という、旧株序の否定者は、大なり小なり、こういう性格の男らしい。
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■道三は織田軍に大打撃を与え海内一の勇将と評された

<本文から>
 野武士団は挟み撃ちされるのをきらい、当然ながら山上に背をむけ、麓が庄九郎隊にむかって坂をころがり落ちるようにして突撃を開始した。
 その集団が半ば麓におりたときを見はからい、庄九郎はふたたび、弓組、長柄組、騎馬隊の半弓、というぐあいに手順よく繰りかえして相手にすこしずつ打撃をあたえ、やがて、
 「われに続け」
と流星のように一括突出し、敵群のなかに突き入って得意の槍をつかいはじめた。
 そこへ白雲の隊が、どっと逆落しに敵の背後を突いたから、野武士群はささえきれずにあちらの田、こちらの竹薮、河原などへ四散しはじめた。
 崩れた、となると野武士の群れほど弱いものはない。泣きながら逃げまどっているのもあり、素早いのは河を渡って尾張領へ逃げはじめた。
 庄九郎、白雲は、それらをあちこちに追いつめ、悪鬼羅刹のように刀槍をふるった。
 陽が落ちるころ、戦いはおわった。
 庄九郎は河原で首実検をおこない、ことごとく首帳に記せしめた。
 その数、六百七十。
 それを尾張領からよく見えるように河原に具し、兵馬をまとめ、一気に駈けて加納城にもどった。
 この戦闘と勝利の評判ほど、庄九郎のその後の美濃国内での活躍に利したことはない。
 「海内一の勇将」
 という評判は、美濃一国の郷々、村々で鳴りひびいてしまった。
 おそらく、庄九郎の中年すぎまでの好敵手になった尾張の織田信秀の耳にも痛いほどに入ったであろう。
 もはや、
「油産」
 などと蔑む者はいなくなった。
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■道三は洪水対策で百姓で圧倒的人気を得た

<本文から>
 庄九郎は、京に耳次を走らせて赤兵衛に米の運送方を命ずる一方、連日、泥にまみれて自分の領地と頼芸の直轄領の村々の復旧の指揮をしてまわった。
一方、三河、尾張、駿河、伊勢あたりまで頼芸の手紙をもって救援方を乞いに歩いた。
 麦、味噌などが、どんどん美濃に入りこみ、それらは、国内の地侍の所領までうるおしはじめた。
 古来、領主というものは百姓から年貢を収奪するばかりでこういう政治をする者はまれであった。庄九郎が下層の出身であり、かつ商人の出であったればこそ、そういう感覚も能力も豊かだったのであろう。
 この結果、自領、他領をとわず、庄九郎の人気は百姓のあいだで圧倒的なものとなった。
 「美濃の救い神じゃ」
 という声が、村々にあふれた。そのころ赤兵衛の手で京から米が運ばれてきた。それをかゆにして村々で吹き出させたから、人気はいよいよあがった。
 庄九郎は、洪水を生かした。
 どころではない。この洪水を、捨てるところがないほどに利用した。
「枝広はもはや、あぶのうござる」
 と頼芸に説き、頼芸も賛成し、かれを川手城・加納城(いずれも現在岐阜市)から北へ五里も入った山地に移すことにしたのである。
 大桑城という。
 はるかに飛騨の山々につづく大桑山の山上にある古城で、庄九郎がみずから監督してみちがえるほど壮麗な姿に仕立てかえた。なるほどこの山上なら、もはや洪水からの不安はない。
 もともと洪水ぎらいの頼芸は、
「なぜ早くここに移らなんだか」
 とよろこんだ。
 追いやられた、とは頼芸は気づかなかったのであろう。
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■道三は内外に善政を敷いた

<本文から>
  ひとは、
 −美濃の蝮。
と、庄九郎のことをいう。はじめはずいぶんこの蔭ロには閉口し、
 「蝮なんぞで、あるものか」
 と、自分の家来を厚く遇し、領民に他領よりも租税をやすくし、堤防を築き、濯漑用水を掘り、病いにかかった百姓には医者をさしむけ、かつ領民のための薬草園をつくった。美濃はじまっていらいの善政家といっていい。
このため、ひとはみな庄九郎の家来になろうとし、百姓たちはかれの領民であることをよろこび、他領の百姓まで、
 −なろうことなら、小守護様(庄九郎)のお屋形の見えるまわりで田を耕したい。
 とのぞんだ。蝮は蝮でも、この男は人気のある蝮だったといっていい。
 かれはつねづね、
 「人間とはなにか」
 と考えている。なるほど、善人もいる、悪人もいる。しかしおしなべて、
−飽くことを知らぬ慾望のかたまり。
 として見ていた。かれは、自分が学んだ法華経も、人間の慾望に訴えた経典であることを知っている。法華経にいう。
「この経はいっさいの人間を救いたまうものである。生存についての苦悩を救い、さらに人問の願いを満足させたまうものだ。たとえば、渇えた者には水、寒い者には火、裸の者には衣、病める者には医、貧しい者には財宝、貿易商人には海、といったように与え、満足させ、いっさいの苦や病痛から、人間を離れしめたまうものである」と。
 庄九郎は正直なところ、法華経の功力などは信じていないが、しかしこの経典が説く、なまぐさい「人間の現実」は信じていた。人間とは慾のかたまりだ、と経典を書いた古代インド人は規定している。
 「だからこそ」
 庄九郎は善政を布く。百姓には水をあたえ、武士には禄をあたえ、能力や功績ある者には惜しみなく財物をあたえ、商人には市をたてて利を大きくしてやる。
(これでも蝮か)
 と庄九郎はおもうのだ。なんと、法華経が説く「功力」そのもののような男ではあるまいか。
 法華経は、仏を説いている。
(乱世では、ほとけもマムシの姿をしているものさ)
 とおもっている。
 が、庄九郎は、自分が蝮だといわれていることを気にする段階はすぎた、とおもっている。これからのちは、一方で善政を布きつつ、内外に対して、
 − れをみろ、蝮だ。
 がらりとひらきなおるべき時期にきた、と庄九郎は見ている。
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