司馬遼太郎著書
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          国盗り物語 1

■道三は美女を手に入れるだけでなく天下の野望をもつ

<本文から>
庄九郎は、京にむかって歩いている。
(われながら、紳工のこまかいことよ)
 とおもうのだ。
(お万阿は手に入れることはできる)
 とまでは、自信はついた。
 しかしながら、ただ単にお万阿の女体を手に入れるだけではつまるまい。
 ほしいのは、奈良屋の財産だ。
 あの有馬の湯でお万阿のののさまを見ながら、なおお万阿を放ちやったのは、庄九郎なりの手管である。
 あのときは、お万阿は抱けた。お万阿はよろこんで庄九郎に身をまかせたであろう。
 (しかしながら)
 それだけのことだ、と庄九郎は思う。お万阿を得るだけのことである。
 お万阿をして、身も世もなく庄九郎に惚れさせねばならぬ。悩乱して、ついには命よりも大事な奈良屋の身代をなげだすまでにお万阿の心を灼きあげてゆかねばならぬ。
(そのためには)
 辛抱が肝腎。
 庄九郎は、颯颯々と歩いてゆく。一あし一あしが、地を踏みしめるような歩き方だ。
 庄九郎には、あらたな自分への自信ができた。自分への発見といっていい。
 (おれは稀有の男だ)
 という自信である。考えてもみよ、と庄九郎は北摂の天を見あげるのだ。
お万阿は、京随一の美女という。京随一の美女といえば、天下随一美女ということでもる。
 (天よ、おれを嘗めよ)
 この松波庄九郎は、その美女を裸形にし、その体を開かせ、しかも抱かなかったではないか。
 あの場にのぞんでその事に堪えうる者は、本朝唐天竺ひろしといえどもこの松波庄九郎のほかはあるまい。
 (野望があるためだ)
 と、庄九郎は思うのである。男の男たるゆえんは、野望の有無だ、と庄九郎はおもっている。庄九郎の満足は、自分の野望が女色をさえしりぞけられるほど違い、ということであった。
(いやいやこの庄九郎、いままで男であると思っていたが、これほどの男であろうとははじめて知った。一国一天下を望むも、もはや夢ではないであろう)
 鳶が、舞っている。
 庄九郎は、北摂の山峡を、黙々と京にむかって歩いてゆく。
(京での用事は)
 お万阿を抱くことだ。あの想いにじれているだろうお万阿のからだを、こんどこそは抱く。抱く。
(どう抱くべきか)
 残念なことに、学は古今に通じているはずの法蓮房松波庄九郎は、天地万物の事理のなかでたったひとつ、女を抱くすべを知らない。
(いやさ、知ってはおる。男女の合歓は自然の道だ。教えられずともわかるものであるが、ただそれではお万阿の心は蕩かせるわけにいかぬ。芸がいる。芸が。−)
 芸が。−これが、庄九郎のやり方である。歩一歩、芸でかためつつ、階段をのぼってゆく。
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■道三は気のながい「天下への計画」をもっていた

<本文から>
「この寺に、重要文化財の斎藤道三画像が保存されているが、いまひとつ、道三がつかっていたハンコも保存されている。
 斎藤山城と刻まれている。
 じつに几帳面な印形である。これをもし愛用していたとすれば、庄九郎道三という男は大それた野望をいだきながら、しかも気の遠くなるような着実な場所から、計画的に仕事を運んでゆく男なのであろう。
 ふと、エジプトの墓泥棒の話をおもいだした。
 古代エジプトの墓泥棒は、王が生前、自分の墳墓をつくりはじめると、かれら泥棒も、沙漠のはるかな人煙絶えた果てから穴を掘りはじめるという。
 むろん、五年や十年で、墳墓の底に達しない。場合によっては、父が掘ってそこで死んだ場所から子が掘りつぎ、孫の代になってやっと、墓の中の財宝を盗みだすという。
 斎藤道三庄九郎は、やはり日本人だからこれほど気のながい「計画」はできない。
 しかし北川英進氏のいわれるこの「真の英雄」は、エジプトの穴掘りどもには及ばずとも日本人としてはめずらしく、
 「計画」
があった。
 奈良屋の養子から、たくみにすりかわって、
 「山崎屋庄九郎」
になりすましてしまったことは、重大なことである。
 店もそのまま。
 商売道具もそのまま。
 手代、売り子もそのまま。
 しかし屋号だけが、奈良屋でなくなり、山崎屋になってしまった。
 「ご料人さま、これほどお家にとっておめでたいことはござりませぬ」
と、人のいい手代の杉丸などは、ぽろぽろうれし涙をこぼしながら、お万阿ご科人にいうのだ。
 「お店は、万々歳でございます」
 「…?」
 お万阿は、変な顔をしている。なるほど、いったんは神人どもに取りつぶされた営業権が、庄九郎のあざやかな才智で復活はした。しかしあっというまに奈良屋が消え、山崎屋が誕生している。
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■道三は天下の交通の要地・美濃に目をつけた


<本文から>
 ついに、
「美濃」
 ときめた。
美濃の国は、郡のかずでいえば十数。米のとれ高は六十五万石はくだらない。
その上、京に近く、かつ、街道は四通八達し、隣国の尾張に出れば東海道、関ケ原付近からは北国街道、東山道、伊勢街道が出ており、天下の交通の要地で、兵馬を用いるのにじつに都合がいい。
(美濃を制する者は、天下を制することになる)
 と庄九郎は見ぬいた。
庄九郎が、美濃をえらんだのは天才的な眼識といっていい。美濃に天下分け目の戦いがおこなわれたのは、古くは壬申ノ乱があり、のちには関ケ原の戦いがある。徳川時代には、美濃に大大名をおかず、つまりこの国を制せられることをおそれ、一国のうち十一万七千石を幕府直轄領とし、あとの六十余万石を大名、旗本八十家にこまぎれに分割してたがいに牽制させた。それほどの要国である。
 それに庄九郎は、遠く鎌倉時代から美濃に封ぜられている、土岐家が腐敗しきっていることが、なによりも気に入っていた。
 土岐家は足利幕府の諸大名のなかでもきっての名家で、往年は強盛をほこったものであった。
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■道三は襖絵の虎の目を射って主君の側室を獲る

<本文から>
まだ、構えている。
くわっ、とひらいた庄九郎の眠が、しだいに細くなってゆく。眼が細くなるにつれて顔から表情が消え、消えるにつれて、肩、両手に入っていた力が抜け、抜けた力は、構えている庄九郎の姿の下へ下へと沈み、やがて腰がすわった。
(まあ、みごと。……)
 と、舞の上手の深芳野は、庄九郎の肢態の美しさに眼をみはった。
 土岐頼芸は、杯を唇にもって行ったまま、金縛りに遭ったように身動きもせず、杯越しに庄九郎の姿をみている。
 「………」
 と、庄九郎は動いた。
 駈けた。
 するするするする、と両足が畳の上をむだなく移動してゆく。
 素早い。
 両足がしきいを越えた。
 いま一つ、しきいをひらりと越えた。
 越えると同時に、
 「うっ」
 と跳躍し、砥ぎすました槍の穂が光の尾をひいて、頼芸と深芳野の眼の前を通りすぎた。
 最後に庄九郎は、大喝した。
 体がはねあがった。
 槍の穂がほとばしるように伸び、金色に輝いている虎の眼の黒い瞳の中心でとまった。
 襖絵の猛虎は、なおも咆哮している。
 「殿、おあらためを。−」
 と庄九郎は槍を背後へころがして、平伏した。頼芸は立った。
 深芳野もおもわず立ちあがった。
 「おお」
 と頼芸は、虎に顔を近づけてうめいた。
 信ぜられぬほどのことだが、虎の瞳の中央に、ブツリと銀針で突いたほどのかすかな穴があいている。
 「勘九郎、でかした」
 と、頼芸はほめざるをえない。
 「おそれ入りまする。されば、この賭け、それがとの勝ちでごぎりまするな」
 「いかにも」
 「それがしの勝ちとあれば、お約束のものを頂戴つかまつりまする。−深芳野さま」
 と、庄九郎は深芳野の手をにぎった。
 「こちらへ参られますように」
と手をとりつつ、そろそろと畳を踏み、頼芸の座からはるかな座にさがって、膝をつき手をつき、平伏した。
深芳野も、庄九郎の横にすわりながら、血の気をうしなった頻を、頼芸のほうにむけている。
 頼芸は、いまにも泣きだしそうな顔で深芳野を見ていた。
「深芳野さま。なにをなされております」
 と、庄九郎は頼芸へも聞こえよとばかりの大声でたしなめた。
「頭をおさげあそばすように。ながいあいだの殿のお手塩かけた御養育、おん礼申しあげられますように」
 「はい。………」
 と、泣くような小声でいった。
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■道三はクーデターで一介の油商人から国主の執事になる

<本文から>
翌朝、庄九郎は軍勢のうち五百を割き、可児権蔵を大将にして鷺山城に急行させ、頼芸を迎えさせた。
頼芸は即日、美濃の府城である川手城に入り、国主の位置についた。
 庄九郎は、京都へも手をうった。朝廷も足利幕府も何の威権もないが、賞典の授与権だけはもっている。ほどなく朝廷から頼芸に美濃守任官の沙汰がくだり、幕府からは美濃守護職としての相続を公認する旨、沙汰がくだった。
 (これはこれでよし)
 庄九郎は頼芸に賀意をのべた。
 頼芸も無邪気なものだ。
 庄九郎の手をとり、
 「そちのおかげだ」
 と、眼をうるませた。庄九郎は手を頼芸にあずけながら無表情にうなずき、
 「深芳野を頂戴つかまつりましたるときの御約束を果たしたまででござりまする」
 といった。
 このいわばクーデターのおかげで、つい数年前までは一介の油商人にすぎなかった庄九郎は、国主の執事となり、権勢ならぶ者はない存在となった。
 が、その権勢も内実は不安定なものであることを、たれよりも庄九郎自身が知っている。なにしろ、頼る者といえば頼芸だけで、頼芸の権威の蔭にかくれてそれをあやつっているだけの存在なのだ。
 美濃八千騎。
 といわれる。この面積四百方里の国で、それだけの小領主がいるのである。その向背のいかんによっては庄九郎の位置もあぶないものだ。
 とにかく頼芸は、庄九郎に対する論功行賞として本巣郡文殊城(現在の岐阜市から西北五里)を与えた。
 が、庄九郎はこの城と領内の村々を一度見に行ったきりで、行こうともしない。もっともまるっきり無関心でない証拠に、領内の百姓の租税を美濃の他領よりも心持ゆるやかなものにした。
 当然、百姓の好感を得た。この時代の百姓は、徳川時代のような法制化された「階級」ではない。兵農はまだ未分離の状態にあり、大百姓はいざ軍陣のときには小領主に動員されて騎馬武者(将校)になる者もあり、その百姓屋敷に飼われている作男どもはときに卒として活躍する。かれらの世論は重要というべきであった。
 庄九郎はそういう「領民」どもをたくみに手なずけた。
 なにしろ、庄九郎は京に山崎屋というぼう大な富があり、せかせかと百姓どもを搾らねばならぬようなしみったれた小領主ではない。
 とにかく、その城には住まない。川手城内に屋敷をつくり、頼芸と肌を接するようにして土岐家の家政をみている。
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