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<本文から> 庄九郎は、京にむかって歩いている。
(われながら、紳工のこまかいことよ)
とおもうのだ。
(お万阿は手に入れることはできる)
とまでは、自信はついた。
しかしながら、ただ単にお万阿の女体を手に入れるだけではつまるまい。
ほしいのは、奈良屋の財産だ。
あの有馬の湯でお万阿のののさまを見ながら、なおお万阿を放ちやったのは、庄九郎なりの手管である。
あのときは、お万阿は抱けた。お万阿はよろこんで庄九郎に身をまかせたであろう。
(しかしながら)
それだけのことだ、と庄九郎は思う。お万阿を得るだけのことである。
お万阿をして、身も世もなく庄九郎に惚れさせねばならぬ。悩乱して、ついには命よりも大事な奈良屋の身代をなげだすまでにお万阿の心を灼きあげてゆかねばならぬ。
(そのためには)
辛抱が肝腎。
庄九郎は、颯颯々と歩いてゆく。一あし一あしが、地を踏みしめるような歩き方だ。
庄九郎には、あらたな自分への自信ができた。自分への発見といっていい。
(おれは稀有の男だ)
という自信である。考えてもみよ、と庄九郎は北摂の天を見あげるのだ。
お万阿は、京随一の美女という。京随一の美女といえば、天下随一美女ということでもる。
(天よ、おれを嘗めよ)
この松波庄九郎は、その美女を裸形にし、その体を開かせ、しかも抱かなかったではないか。
あの場にのぞんでその事に堪えうる者は、本朝唐天竺ひろしといえどもこの松波庄九郎のほかはあるまい。
(野望があるためだ)
と、庄九郎は思うのである。男の男たるゆえんは、野望の有無だ、と庄九郎はおもっている。庄九郎の満足は、自分の野望が女色をさえしりぞけられるほど違い、ということであった。
(いやいやこの庄九郎、いままで男であると思っていたが、これほどの男であろうとははじめて知った。一国一天下を望むも、もはや夢ではないであろう)
鳶が、舞っている。
庄九郎は、北摂の山峡を、黙々と京にむかって歩いてゆく。
(京での用事は)
お万阿を抱くことだ。あの想いにじれているだろうお万阿のからだを、こんどこそは抱く。抱く。
(どう抱くべきか)
残念なことに、学は古今に通じているはずの法蓮房松波庄九郎は、天地万物の事理のなかでたったひとつ、女を抱くすべを知らない。
(いやさ、知ってはおる。男女の合歓は自然の道だ。教えられずともわかるものであるが、ただそれではお万阿の心は蕩かせるわけにいかぬ。芸がいる。芸が。−)
芸が。−これが、庄九郎のやり方である。歩一歩、芸でかためつつ、階段をのぼってゆく。 |
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