司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          空海の風景・下

■空海は恵果から密教を受け継ぐ

<本文から>
  ここで、日本国が空海にあたえた資格から、空海の立場を考えてやらねばならない。
 かれは、最澄のような請益僧ではなかった。
 請益僧で還学生でもある最澄は短期間行って還ってくる。目的は、かの地から、日本に必要な文物をもらってくるためのものであり、このため請益の還学生にはふつう身分の高い僧がえらばれる。最澄の場合、すでに内供奉十禅師という天皇の侍僧であった。最澄は渡海するについても、通訳僧を供にし、十分な経費をもたされていた。いわば、日本国代表として唐の文物なり思想なりを買いにゆく役目で、当時の日本国としては経費に糸目をつけていない。天台宗を体系ごとぜんぶを仕入れに行った最澄は、沙金もずいぶん多く持たされてゆき、国家としての借物も多く持たされていた。最澄は明州の港からすぐ天台山へ行ったとき、州の長官である陸淳はこれをあつく保護したし、それらへの贈り物も最澄は事欠かなかった。最澄は天台山にあって写経生を動員し、紙数にして八千五百三十二枚という経典や注釈書を持ちかえっているが、これらについての経費も心配はなかったに相違ない。
 その点からいえば、留学生の空海は、素手で長安に入ったようなものであった。かれは二十年間かかって密教を学べばいいだけのことで、密教をシステムごと、「請益」して帰るのが義務でなく、また請益についての経費も、国家は一文もかれに持たせていない。
 空海は、恵果から、一個人としてゆずりうけたのである。その経費は、二十年間の留学費をそれに充当したとはいえ、そういうものだけでまかないきれるはずがなさそうであった。ともかくも、空海は工面して、二仏事なきを得た。しかし、このぼう大なものを買うについての経済的苦しみは、かれの気分を、ときに重くしたにちがいない。要するに空海は、日本国から義務を負わせられず、経費をあたえられずして、密教を「請益」してしまったのである。
 空海の帰国後の態度の痛烈さは、こういうことにも多少の理由があるであろう。かれは、その思想が宇宙と人類をのみ相手にしているというせいもあって、国家とか天皇とかという浮世の約束事のような世界を、布教のために利用するということは考えても、自分より上の存在であるとは思わず、対等、もしくはそれ以下の存在として見ていた気配があるし、また国務でもって天台宗を導入した最澄に対し、空海の天台体系への仏教論的軽視ということはあるにせよごくつまらぬ存在であるかのようにあつかったのは、このあたりに根のひとつを見出しうるかもしれない。
 空海は、極端にいえば私費で、そして自力で、密一乗を導入した。
 空海に自分のすべてを与えてしまった恵果は、そのあと、文字どおりぬけがらのようになって四カ月後に死ぬ。
 伝法をおわったあと、恵果は、
 「どうやら、地上におけるわが寿命も尽きようとしているようだ」
 と、空海に語っている。空海が『御請来日録』の中に書いた恵果のことばは、
「今、此の土の縁、尽きぬ。久しく任すること能はず。わづかに汝が来れるを見て、命の足らざることを恐れたり。今、則ち授法のあるあり。経像の功、畢んぬ」
 これで安心した、という、恵果のよろこびと安堵が、その溜め息とともに感じられて来るようである。そのあと恵果は、法を受けた以上はこんな長安でぼやぼやするな、早く国へ帰れ、といっている。『御請来目録』の文章では、
 「早く郷国に帰りて以て国家に奉り、天下に流布し蒼生の福を増せ」
 となっているが、ひょっとすると、一面、恵果は空海のふところ具合を察し、この若者にはこれ以上の滞在はむりだろうと憐れんでのことだったのかもしれない。恵果はそういう人柄の人物だったようである。 

■帰国後上京せず、一年ちかくも筑紫にいた不可解さ

<本文から>
 そういう詮索はしばらく措く。要するに、この間の空海について史実的な詮索は不可能であるといえる。
 察するに、空海は、みずからの思案とみずからの意志によってすぐには上京せず、一年ちかくも筑紫にいたのであろう。この理由についてはむしろ空海の性格からみるほうが、容易であるかもしれない。
 空海がかつて長安に入ったときのことを、われわれは連想せねばならない。密一乗を求めるために入唐した、としきりに言いながら、かれはすぐには恵果のもとにゆかなかった。しきりに他に遊び、長安の大官や僧のあいだで空海の才学について評判が高くなり、恵果の耳にも入り、恵果が焦れるころになって、ようやくかれは恵果の門をたたいた。恵果は空海を抱くようにしてよろこび、待つことが久しかった、といって、相伝の法をことごとく授けた。
 おそらく筑紫での空海は、都で評判の高くなるのを、待っていたのであろう。
 でなければ、恵果の門をたたくまでの空海もそうであったように、帰国早々のかれは無名の僧であるにすぎない。長安でのあのとき、いきなり恵果の門をたたいて用件を談じこめば、恵果は空海をあのように評価したであろうか。その事情は、帰国早々の日本においても変りがない。空海は日本においてはより一層無名であった。最澄と異り、かれは天皇の恩寵を得てもいないし、また一方寺の住持ですらなかった。空海がもし、いきなり京に乗りこめば、やがては『目録』などで評価されるにちがいないにせよ、当座は世間の目は冷たかったであろう。あるいは、最澄の一派が妨害して(最澄はそういう人柄ではなかったが、空海が都での密教事情をきいてそのように想像したとしてもやむをえない)思わぬ陥穿におち入らぬともかぎらない。
 筑紫で、いわば消息を絶っている空海については、むしろ不気味なほどにしたたかな男という印象がある。

■最澄の不覚は雑密をひろったこと

<本文から>
 この時期の空海は、香気寺のふもとなどで幾日も俺留したり、思いたてば槙尾山寺の経机にもどったりしている。このころ、空海が達したかれの密教の理論は、おそらく南部不二ということであったであろう。南部とは、精神の原理を説く金剛頂経系の密教(金剛界)と、物質の原理をとく大日経系(胎蔵界)の密教をさす。この二つは、二にして一である、と空海は、インドにおいてべつべつの発展をしてきたこの二つの密教思想を、一つの体系の中に論理化してしまうのである。これが、不空の密教でも恵果の密教でもなく、空海の密教を成立させる重大な根拠になったといっていい。
 「両部は不二である」
 と、空海は、横尾山から香気寺のあたりの山々を経めぐりつつ、何度もつぶやいたのではないか。
 仮りに原密教ということばをつかうとすれば、それはもともとインドに古くから存在した魔術にすぎなかった。
 イランから南下したアーリア族に諸種族が征服されて以来、インド的世界は征服民族と多様な被征服民族という複雑な社会階級をつくりあげるにいたった。征服民族であるアーリア人は、軍事や政治だけに長じていたわけでなく、形而上的思考をも偏好した。思索者であるいわゆる
 バラモンは、この民族のなかで最上部を占める。思索者は、インド以外の他の大ていの地域においては狂人か変り者としてあつかわれるにすぎなかったろうが、インドにおいては聖者とされ、かれらは衣食のために労働することなく、ひとびとから食物の供養をうけて思索をつづけるという乞食としての特権をもっていた。かれらは思索をしたからといって俗世の名利をうけることがなく、ただ思索をしたいがために思索をするというひとびとであり、かれらと言い、またかれらを崇拝する風習といい、こういう例は、古代世界ではインド以外にまれであったであろう。このような思索者のなかから釈迦も出た。当然なことながら、釈迦以前も、釈迦と同時代においても、それ以後も、無数の思索者が山林のなかにいた。それらの思索者の思想は多様で、そのなかから多くの奇抜な思想も出た。
 ふたつの系統の密教もまた、それら思索者によってつくりあげられた。現世を否定する釈迦の仏教に対し、現世という実在もその諸現象も宇宙の真理のあらわれである、ということを考えた密教の創造者は、宇宙の真理との交信法として魔術に関心をもった点が、釈迦といちじるしく異っている。魔術、呪文、マジナイのたぐいは、山野にいくらでもころがっていた。その多くは被征服民族の土俗のなかにまみれていたものだったが、思索者はこれらをたんねんに拾いあげてそれらの一つ一つの意味をみがきこんで精妙なものにしたように思える。
 しかしいかに精妙にしたとはいえその一つ一つが孤立していれは、それらは単なる魔術、呪文、マジナイにすぎず、それが空海の時代の密教用語でいえば雑密というものであった。たとえば−唐突な例だが−越州という田舎で順暁から密教をゆずられたとする最澄のそれは、内容からみて多分に雑密といっていい。最澄の不覚は、雑密をひろってしまったことである。

■「下僧最澄」と署名し教えを請うた最澄

<本文から>
 と、書き、「下僧最澄」と署名している。
 以後、最澄はこの年から弘仁七年に両者のあいだが断絶するまで七年間のあいだに、記録としてのこっているだけでも三十通に近い書状を空海に送るのだが、そのほとんどが密教関係の書物を借りることやその礼状、あるいは密教についての応答などにつきている。密教についての最澄の筆授的努力がいかに真剣なものであったかが知ることができるし、この往来のなかに最澄の人柄までが匂ってくるようでもある。
 さらにこの手紙 −大同四年入月二十四日付の最澄の借経の手紙について考えたい。
 最澄が借りたいという目録には、悉曇についての書物が三種類ふくまれている。そのうち『悉曇字記』と『梵字悉曇章』はサンスクリットの字母についての書物であり、また『悉曇釈』はサンスクリットの文法について書かれている。サンスクリットについては空海がはじめてこの国にもたらしたとされるのだが、すくなくとも最澄はこの素養について欠けていたようであった。
 「長安では、僧たる者が悉曇を知らぬなどは、ありえぬことだ」
  と、空海が、最澄の無教養をあてつけ、使者の経珍の前で皮肉をいったかどうか。日本の仏教は、中国語訳された経や疏を導入することによって成立したが、長安にあっては国営の翻訳場が常設されていたほどだったから、梵語、悉曇文字というインドの学問言語を学んでいる僧が多いことはたしかであった。日本では最澄でさえそれに通じていなかった。悉曇さえ知らずに、もっともあたらしいインド思想である密教を学び、学ぶだけでなくすでに最澄が朝廷から密教の大阿閣梨の位をもらっているなどはおこのかぎりだ、という気持が、空海にあったにちがいない。ついでながら、空海は密教行者の最高位である阿閣梨号を長安ではもらった。しかし日本ではこの時期それをもっておらず、最澄のほうがそれをもっていることを思えば、この感情が空海におこったとしても不自然ではない。
 しかしその反面、最澄がその署名に、
 「下僧」
としてみずからへりくだったことは、空海にとって意外であったであろう。最澄という存在は、この時期以前からこの時期にいたるまでの空海の立場からいえば誤解されても当然ともいうべきものであった。最澄は若くして天皇の恩顧をうけ、僧としての勢威は、ながく無名の存在だった空海と比すべくもない。さらに最澄が越州の田舎の密教を得て帰国後、密教の開祖として遇され、国家的事業の港頂を主宰したことなどをおもうと、空海からこれをみれば、あぶらぎった風貌の、自己を顕揚する欲望だけで世間をたぶらかしている男のように見えたとしても不自然でないが、その男が、「下僧」としてへりくだるのは、尋常なことではない。この当時、高位の者が下位の者に対し、このように書式のなかとはいえ身をかがめるということが形式として存在していなかっただけに、空海の目がそのくだりに落ちたとき、自分の最澄像を多少修正すべきかと小首をかしげたようにも思えたりする。最澄はそういう男でもあった。最澄に即してこの「下僧」をみるに、かれは自分の弟子に対しても虚勢を張るところがまったくなく、まして法のために空海の援助を乞いたい場合、心から自分を縛わせる男であり、このことは手紙の上でのことながら、以後、最澄が空海に対して送る書状には、下僧どころか、弟子最澄、と書くときもあったし、求法弟子最澄と書くこともあった。ついには「永世弟子最澄」とさえ署名するにいたった。
 むろん、この「弟子」とは書状の上でのことであるにすぎない。最澄は実際に空海に対し弟子として仕えたわけでないにせよ、これらの表現がいかにも最澄の人柄がそのまま響きこんでいるものと受けとっていい。
 さらに細っていうと、空海はのちのち、最澄のそういう態度をむしろ興醒めるおもいで見ていたかのようでもある。つまりは最澄の天台宗がすでに国家公認の法門になっており、最澄はそこで修行する僧の科目として−早まった処置ながら−遮那業(密教的な大毘慮遮那経科)を設定してしまっているのである。しかし最澄その人の密教が薄くもろい以上、空海に乞うてみずからを充実するほかなく、そういう最澄の切迫感からみれば、かれのいう「下僧最澄」式のへりくだりかたはかれの功利性の裏返しにすぎないという感情も、空海のなかにうまれたかもしれず、でなければ後年、空海が最澄の接近を酷薄軒烈な態度で遮絶してしまうという挙動が、唐突なものになる。

■東寺、高野山は密教思想の表現

<本文から>
 寺というが、寺という漢字に「役所の建物」という意味があることは、たとえば長安において外国の使節を宿泊させる建造物またはその役所を鴻腫寺といったことをみてもわかる。東寺は、元来、宗教施設としての寺ではなかったらしい。
 平安期における日本の官制では、外国の使節を接待する−長安の鴻臆寺に相当する−役所を玄蕃寮といった。一説によると平安遷都にあたり、京の東西に玄蕃寮が置かれた。その東の施設が東寺−くどいようだが東の鴻腫寺という意味である、といわれているが、証拠はないにせよ、そのとおりであろう。西寺もあった。これは十分に造営されないままにすたれたように思える。
 その東寺を、空海に対し、
 「官寺としての密教道場にしないか」
 という内々のはなしがあったのは、空海が私寺の高野山の造営に苦心している最中であった。
 空海の住寺は、依然として高雄山寺である。
 高雄山寺が官寺(定額寺)に編入されるのは天長元年(入二四)空海五十一歳のときで、この時期は依然として和気氏の私寺でありつづけている。このために空海は、その住房の高雄山寺経営からして見ねばならず、私寺であるからには建物の増設ひとつからして困難であった。ましてあらたな密教の諸仏、諸菩薩、諸天の像をつくって奉置することは財政の上から至難であった。密教は彫刻と絵画を中心として美術によってその思想をあらわさねばならないので、いかなる宗よりも経費のかかるものであった。このため、空海は高雄山寺に住みつつも、この寺を十分には密教化するにいたっておらず、このことが空海の不満とあせりであっただろう。
 ついでながら、空海はこの時期もなお奈良の東大寺別当を兼ねている。東大寺を密教化するためにかれは域内に真言院を建てたものの、なんといっても東大寺は華厳の中心機関でもあり、南都仏教の根拠地のひとつでもあるため、空海の思いのままにこれを改造できるわけではなく、むしろ空海の側からいえば、東大寺別当というのは、他宗に奉仕するためのいわば余計な仕事というべきものであった。
 空海は、その思想と使命感から、当然ながら密教の中心機関を設けたかった。このことはひそかに嵯峨あたりを説いてその内意を得ようとしていたはずであった。しかしそれがあるいは困難な事情がつづいていたこと−想像だが−もあって、高野山に私寺を造ろうとしたということでもあったであろう。とはいっても一介の僧が私寺をつくるというのは至難のことであり、さらには高雄山寺の経営も見ねばならず、この時期の空海は何やかやと大変であったにちがいない。
 そこへ東寺の話があった。
 既存の建物を利用するとはいえ、ともかくも国費で密教の中心機関をつくることができたのである。
 空海にすれば、
 (やや不満だが、しかし悪くはない)
 という気持だったかと思われる。
 やや不満というのは、空海は敷地の選択や建物の造りそのものからして密教的構想による中心機関を造営したかったろうと想像しうるからである。寺院そのものが密教構想によってつくられるということは、インドや唐においても存在しないことであった。空海が学んだ長安の青竜寺にしても、青竜寺そのものは国家がつくった一個の容器であり、たまたまその容器に恵果のような密教家が入っているからこそ密教寺院とよばれているだけのことなのである。
 空海が高野山をつくろうとしたことは、建築造形や配置からして密教思想の表現たらしめたいということであり、この意味では、かれはインドの密教からも唐の密教からも突きぬけて−というよりも純化と総合を遂げたいという−苛烈なほどの欲求があった。空海の密教思想そのものが、多分に土俗的な段階にあるインド密教やその翻訳状態にあったところの唐の密教にくらべ、より大きく体系化し、より精密に論理化したという点において区別さるべきだが、そういう思想上の作業を越えて寺院までを密教化しようとしているのは、不空でも恵果でもない別趣の密教家がそこにいるといっていい。高野山を造営したいという動機の大部分は右のような理由にもとづくものであり、同時に東寺という既存の寺しかもらえなかったことにやや天満であったろうと想像するのも、右の理由による。しかしともかくも空海は国費でもって東寺を密教化することができるのである。
 空海は東寺に講堂を建立し、そこにおさめた二十一尊の仏像(五仏、五菩薩、五大明王、六天)は、わが国最初の密教の正規の法則(儀軌)による彫像であった。仏像のまわりの装飾的な装置も、祈念するに必要な法具も正密によるすべてであり、密教の造形上の法則とシステムは、高野山に先んじて東寺において大完成した。
 さらに空海は、潅頂堂、鐘楼、経蔵をたて、大建築としては五重塔をたてた。五重塔をたてるためには、官寺ながらもある程度は勧進によらねばならぬほどに大がかりな普請になった。

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