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<本文から>
ここで、日本国が空海にあたえた資格から、空海の立場を考えてやらねばならない。
かれは、最澄のような請益僧ではなかった。
請益僧で還学生でもある最澄は短期間行って還ってくる。目的は、かの地から、日本に必要な文物をもらってくるためのものであり、このため請益の還学生にはふつう身分の高い僧がえらばれる。最澄の場合、すでに内供奉十禅師という天皇の侍僧であった。最澄は渡海するについても、通訳僧を供にし、十分な経費をもたされていた。いわば、日本国代表として唐の文物なり思想なりを買いにゆく役目で、当時の日本国としては経費に糸目をつけていない。天台宗を体系ごとぜんぶを仕入れに行った最澄は、沙金もずいぶん多く持たされてゆき、国家としての借物も多く持たされていた。最澄は明州の港からすぐ天台山へ行ったとき、州の長官である陸淳はこれをあつく保護したし、それらへの贈り物も最澄は事欠かなかった。最澄は天台山にあって写経生を動員し、紙数にして八千五百三十二枚という経典や注釈書を持ちかえっているが、これらについての経費も心配はなかったに相違ない。
その点からいえば、留学生の空海は、素手で長安に入ったようなものであった。かれは二十年間かかって密教を学べばいいだけのことで、密教をシステムごと、「請益」して帰るのが義務でなく、また請益についての経費も、国家は一文もかれに持たせていない。
空海は、恵果から、一個人としてゆずりうけたのである。その経費は、二十年間の留学費をそれに充当したとはいえ、そういうものだけでまかないきれるはずがなさそうであった。ともかくも、空海は工面して、二仏事なきを得た。しかし、このぼう大なものを買うについての経済的苦しみは、かれの気分を、ときに重くしたにちがいない。要するに空海は、日本国から義務を負わせられず、経費をあたえられずして、密教を「請益」してしまったのである。
空海の帰国後の態度の痛烈さは、こういうことにも多少の理由があるであろう。かれは、その思想が宇宙と人類をのみ相手にしているというせいもあって、国家とか天皇とかという浮世の約束事のような世界を、布教のために利用するということは考えても、自分より上の存在であるとは思わず、対等、もしくはそれ以下の存在として見ていた気配があるし、また国務でもって天台宗を導入した最澄に対し、空海の天台体系への仏教論的軽視ということはあるにせよごくつまらぬ存在であるかのようにあつかったのは、このあたりに根のひとつを見出しうるかもしれない。
空海は、極端にいえば私費で、そして自力で、密一乗を導入した。
空海に自分のすべてを与えてしまった恵果は、そのあと、文字どおりぬけがらのようになって四カ月後に死ぬ。
伝法をおわったあと、恵果は、
「どうやら、地上におけるわが寿命も尽きようとしているようだ」
と、空海に語っている。空海が『御請来日録』の中に書いた恵果のことばは、
「今、此の土の縁、尽きぬ。久しく任すること能はず。わづかに汝が来れるを見て、命の足らざることを恐れたり。今、則ち授法のあるあり。経像の功、畢んぬ」
これで安心した、という、恵果のよろこびと安堵が、その溜め息とともに感じられて来るようである。そのあと恵果は、法を受けた以上はこんな長安でぼやぼやするな、早く国へ帰れ、といっている。『御請来目録』の文章では、
「早く郷国に帰りて以て国家に奉り、天下に流布し蒼生の福を増せ」
となっているが、ひょっとすると、一面、恵果は空海のふところ具合を察し、この若者にはこれ以上の滞在はむりだろうと憐れんでのことだったのかもしれない。恵果はそういう人柄の人物だったようである。 |
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