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<本文から>
満濃池の築堤は、池を掘ることが日本国の栄えのためという大げさな名目がありこそすれ、実際にこの池でうるおうのは佐伯氏の勢力の野で、佐伯氏はこれによって律令体制という土地公有制度のもとにあっての土地私有の抜けみちのひとつである墾田をいくつかひらくことができるのである。といって空海は佐伯氏の私利のためというのが動機でこれを築いたのではないであろう空海の思想には「貧しいものには物をあたえよ、富める者には法をあたえよ」という、それまでの釈迦仏教−煩悩から解脱することだけを目的とした−にはない思想があったが、この築堤の場合のように、物質的世界のことでこまっている者にはとりあえず法よりも利をあたえるという思想上の使命もあった。それがたまたま佐伯氏とその影響下の農民であったにすぎない。しかし気持を冷たくしてこれを考えると、動機はどうであれ、空海は讃岐における佐伯氏影響下の小天地に大利をあたえて満天下の感謝するところになったのである。
空海の食えぬところは、そういうところにもあるまた他のところにもあるこの築堤に乗りだすにあたって、かれは一笠一杖で出かけることなく、中央や地方の官人を奔走させることによって勅命のかたちをとらせたことであるかつまた僧でありながら、池を掘るについて国家的資格をもつ俗世の長官(別当)として出かけてゆくところにもあったついでながら後半期の空海ほど、日本国という、大唐帝国からみればちっぽけなこの国を、長安帰りのかれはそれがいかに小さい国であるかを肉体的実感で十分認識しつつ、知った上で国家そのものを追い使った男もまれであるかもしれない。すでに普遍的世界を知ってしまった空海には、それが日本であれ唐であれ、国家というものは指の腹にのせるほどにちっぽけな存在になってしまっていた。かれにとって国家は使用すべきものであり、追い使うべきものであった。日本史の規模からみてこのような男は空海以外にいないのではないか。 |
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