司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          空海の風景・下

■讃岐の築堤でのしたたかさ

<本文から>
  満濃池の築堤は、池を掘ることが日本国の栄えのためという大げさな名目がありこそすれ、実際にこの池でうるおうのは佐伯氏の勢力の野で、佐伯氏はこれによって律令体制という土地公有制度のもとにあっての土地私有の抜けみちのひとつである墾田をいくつかひらくことができるのである。といって空海は佐伯氏の私利のためというのが動機でこれを築いたのではないであろう空海の思想には「貧しいものには物をあたえよ、富める者には法をあたえよ」という、それまでの釈迦仏教−煩悩から解脱することだけを目的とした−にはない思想があったが、この築堤の場合のように、物質的世界のことでこまっている者にはとりあえず法よりも利をあたえるという思想上の使命もあった。それがたまたま佐伯氏とその影響下の農民であったにすぎない。しかし気持を冷たくしてこれを考えると、動機はどうであれ、空海は讃岐における佐伯氏影響下の小天地に大利をあたえて満天下の感謝するところになったのである。
 空海の食えぬところは、そういうところにもあるまた他のところにもあるこの築堤に乗りだすにあたって、かれは一笠一杖で出かけることなく、中央や地方の官人を奔走させることによって勅命のかたちをとらせたことであるかつまた僧でありながら、池を掘るについて国家的資格をもつ俗世の長官(別当)として出かけてゆくところにもあったついでながら後半期の空海ほど、日本国という、大唐帝国からみればちっぽけなこの国を、長安帰りのかれはそれがいかに小さい国であるかを肉体的実感で十分認識しつつ、知った上で国家そのものを追い使った男もまれであるかもしれない。すでに普遍的世界を知ってしまった空海には、それが日本であれ唐であれ、国家というものは指の腹にのせるほどにちっぽけな存在になってしまっていた。かれにとって国家は使用すべきものであり、追い使うべきものであった。日本史の規模からみてこのような男は空海以外にいないのではないか。 

■密教こそ仏教の完成したかたちとする

<本文から>
 仏教が日本に入って二百年になる。
 最初のころこそ、壮麗な伽藍と芸術的な礼拝様式、そして金色のかがやきをもつ異国の神々に対して日本人たちは効能主義であったが、しかしやがて冷静になった正統の仏教が組織に入ってくるに従って仏教が即効的な利益をもたらすものでなく、そのぼう大な言語量の思想体系に身を浸すこと以外に解脱の道はないということを知るようになった。日本人の知性が、知識層においてわずかに成熟した。仏教における六つの思想部門が、奈良に設けられた華厳、法相、三論、倶舎、成実、律である。しかしながらそれらは多分にインド的思考法を身につけるための学問であり、「だからどうなのか」という、即答を期待する問いにはすこしもこたえられない。
 そういう日本的環境のなかで、空海は雑密というものをはじめて知る。
 雑密は純密のかけらでしかないにせよ、南都の六宗などとはちがい、効能という点ではおどろくべき即効性をもっていた論理家である空海が、それとは一見矛盾する体質−強烈な呪術者的体質−をもっていたことが、この即効性をはげしく好んだことでもわかるであろう。
 「密は仏教なのだろうか」
 という疑問が、インドから遠く離れた島嘆にうまれた空海にあったかどうか。しかし密教は視覚的にもいわゆる仏教とくらべて異様なものであることは十九歳の空海にもわかっていたであろうふつうの仏教における仏像は苦行僧のように簡素な衣装しか身につけていないが、密教仏はインドにおけるもっとも裕福な階級の服装を写し、目もまばゆいほどに華麗な俗装をしている宝冠、首飾り、腕輪、足輪で身をかざっているだけでなく、形像の多くは肉色である。空海が最初に知った密教仏が虚空蔵菩薩であったとすれば、比較的装飾性のうすいこの菩薩でさえその形像はかならず自肉色でなければならないとされ、頭に宝冠をいただき、世俗的福徳を表敬するために右手に宝珠をそっと持っていたであろう。人間の幸福は欲望からの解脱にあるとした釈迦の仏教に対し、見様によっては痛烈に対立する世界であろう。密教はその密教仏においてみるかぎり、人間の富貴への願望を丸呑みにするようにして大昔定するところに立っているしかも、虚空蔵菩薩における「求聞持法」のようにこの菩薩に接近しうる方法さえ行ずればこの菩薩のもつ一効能である現世の福徳も享受することができるのである。この宗教思想は、インドの先住民である被征服階級から興り、主として商人たちに支持され、やがて仏教にも影響をあたえるにいたった。ただし、インドの現地においてさえまだ密教は空海の時代にはわかわかしい教義であった。そのことはたとえば七世紀において長安からインドヘ経典収集の大雄行をした玄英三蔵が、さほど密教的現象を目撃していなかったようにみえることも証拠のひとつである。
 密教が勃興してまだ歴史があたらしいということは、日本から遠景としてそれをみれば、それ以前の仏教よりもさらに発展した形態であるという印象になるであろう。のちに空海の競争者の立場におかれる最澄ですら、自分が持ちかえった天台宗の体系に自信をもちつつも、しかしその体系に密教が入っていないことを悩み、一方空海のほうは、
 「密教こそ仏教の完成したかたちである」
 として最澄の体系に対抗し、しかもその自信は終生ゆるがなかった。

■洞窟と明星

<本文から>
 かれが雨露をしのぐべく入りこんでいたと思われる洞窟は、いまも存在しているそのなかに入って洞ロをみると、あたかも窓のようであり、窓いっぱいにうつっている外景といえば水平線に劃された天と水しかない。宇宙はこの、潮が岩をうがってつくった窓によってすべての爽雑するものをすて、ただ空と海とだけの単一な構造になってしまっている。洞窟の奥にひそみ、この単純な外景の構造を日夜凝視すれば精神がどのようになってゆくか、それについてのへんペんとした心理学的想像はここでは触れずにおく。
 ただ空海をその後の空海たらしめるために重大であるのは、明星であった。天にあって明星がたしかに動いた。みるみる洞窟に近づき、洞内にとびこみ、やがてすさまじい衝撃とともに空海のロ中に入ってしまった。この一大衝撃とともに空海の儒教的事実主義はこなごなにくだかれ、その肉体を地上に残したまま、その精神は抽象的世界に棲むようになるのである。
 「兜率天から自分に対して勅命がくだった」
 と、戯曲の中で、空海がモデルである仮名乞児が、亀毛先生や虚亡隠士に対し、胸をそらしてそのように言う情景も、鮮血があふれ出たようになまなましいこの衝撃が、かれを昂然とさせていたのであろう。

■性欲を思想化した

<本文から>
 ところが空海にとって幸福なことに、この船団は難破ノ津から出航して六日目に暴風に遭い、船が多少破損した。わずかな破損ではあったが、幸先が悪くもあり、一行はいったん京へひきかえしてしまった。これが、延暦二十二年の夏の盛りのころであった。
 「ひっかえしたか」
 と、空海は、寄寓している奈良のどこかの官寺で、汗をかきつつうわさをきいたであろうこのあたりからの空海のうごきは後世のわれわれにとってときに可視的であり、その気持もわずかながら想像できる。空海は、機敏であったかれはこのときからこの船に上るべく運動を開始したのである。船団の出発が翌年まで延期されるといううわさもあわせてきいていたその期限に間にあわすべく運動はいそがねばならない
 このあたりの消息からみても、空海はあるいは妙な男であったかもしれない酷な想像をすれば、その前年までかれは僧になるかどうかさえ、心に決していなかったのではないかと思える。
 かれの若いころの年譜に空白の長い歳月があるということは、しばしばふれた。二十代のはじめから七カ年、数えようによっては九カ年というこの空白のあいだ、かれがなにをしていたかということも、すでにさまざまに想像した奈良の諸大寺の経蔵にこもったり、あるいは四国や近畿の山林を抜渉しつつも、一面、肉欲についてはおびただしく難渋したに相違ない。かれが常人よりもさらに巨大な肉欲のもちぬしとして生れついているらしいということは、偉大な思想家にしばしばそれが見られる上いうことで、かすかに想像できる。大きな欲望を持ちあわせてしまっている場合、これをみずから禁じ、抑圧するために巨大なカを必要とする。その偏執的な禁欲のあぶら汗のなかから、物事の本質以外には見る目をもたぬという内面ができあがることが多いが、禁欲は山林の修行着であるかれ自身も大いに志したであろう。同時にそれが徒労であることも知ったであろう。かれはついには性欲を逆に絶対肯定し、それを変質昇華させる方法としての大日経の世界というものをも、からだ中の粘膜が戦慄するような実感とともに感知したにちがいない。かれがみずから感得した密教世界というのは、光線の当てられぐあいによってはそのまま性欲を思想化した世界でもあった。さらにいえば性欲がなおも思想化されきらずに粘液をなまなましく分泌させている世界であり、そういう思想化されきらぬ分泌腺をも宇宙の真の実存として肯定しようとする世界でもあった。空海という思想的存在に、千数百年の後世からふりかえってもなおそのにおいにおいてなまなましさを感じることができるのは、おそらくそのせいであるにちがいない。
 こういう若者が唯々として禁欲の僧房に正規の籍をおくはずがなかった。かれはこの七年、ないし九年、いっそ僧にならずに在家の祈頑者としてすごそうかと何度か思ったにちがいない。『理趣経』にいう妙適を、かれは異性とのあいだに何度か持ったにちがいない。

■中国で膨大な費用を自弁した

<本文から>
 空海は、あわただしく乗船した
 かれは留学の選に入るについて遅く運動を開始したため、遅く勅許がおりたこのため遣唐便船が解潰するというせとぎわになって難波ノ津にかけつけねばならなかった空海はおびただしい荷物をもっていた。十人ばかりの人夫がそれをかついで船にのぼり、船底にはこびこんだ。唐土につけば、むこうでまた人夫をやとわねばならない荷物のなかに、官給のものがある。
 空海の身分は、留学生である。むこうに二十年留まるその二十年間の生活費が官給されてもいいのだが、それほどの給与はなかった。官できめられている支給晶は、留学生一人につき施が四十疋、綿が一百屯(屯は束とほぼ同義)、布入十端というもので、これら繊維品を金銀に代えても大した額にはならず、結局はむこうで世話になる官庁や寺に対し、みやげや心付けとして使える程度にすぎない。金銀はほとんど支給されなかった。
 正使や副使に対しては、手厚い正使には沙金二古両、副使には沙金一首五十両というのが普通であり、他の者は、入用の金銀を自分で調達せねばならなかった。
 最澄の立場はちがっている。
 かれは天皇や皇太子、それに時の権勢家の庇護をうけていたために、皇太子(平城天皇)から贈られた金銀だけでも数百両という多額なものであった。かれは短期の還学生であった。還学生とは完成度の高い僧がそれを命ぜられ、権威は後世の国立大学の教授よりもさらに大きい国家が最澄に命じ「かの地の天台の体系を移入せよ」として渡唐させる以上、移入のための入費は公私それぞれから潤沢に出ていた。
 空海は、自前で調達せねばならなかった。
 かれもまた真言密教の体系を移入するという目的をもっているのだが、この目的は最澄の場合のように多分に公的なものでなく、まだ私的な段階であり、空海が勝手にそれを思い、それをめざしているだけで、国家や宮廷がその壮挙を応援しているわけではなかった。
 最澄の仕合せのよさを、空海は知っていたであろう。
 (天子や権門勢家に取り入るなど、立ちまわりの上手な男だ)
 と、空海は、まだ見ぬうちから、最澄をそうきめつけて憎んでいたにちがいない後年の、
 空海の最澄に対する底意地のわるさからみても、最澄に対する無用の軽侮や、度を越した悪感情というものはすでにこの時期から、空海の腸を黒く燻していたに相違なかった空海は淡泊な男ではなかった。というより並はずれて執念ぶかい性格をもっていたそういう性格でなければ、神道的平明さを思想的風土とする倭の土地から、悪魔的なほどに複雑な論理を構築する男として歴史に登場することはできなかったであろう
 最澄は、天子に取り入ったわけではない。
 むしろ天子のほうから最澄に関心をもった宮廷に多くの庇護者をつくったのは最澄の誠実な人柄が好まれたためで、最澄の政治力ではなかった最澄はむしろ政治力がなさすぎたかもしれない。
 が、この時期の空海からみれば、最澄は要のたなびくほどの高所にいた空海は野に居つづけ、野の感覚で最澄を想像した。低所にいる空海から仰げば、最澄の存在はいたずらなばかりに幸運であり、きらびやかであった政治的に立ちまわってのことだろうと空海が思ったにしても、むりのないことかもしれない。ともあれ、入唐求法についての経費は、空海が自分で調達した。
 その金品は、よほど大きなものであったにちがいない
 空海は不思議を演ずる僧として後世に印象づけられているが、たしかにこのあたりの摩珂不思議さは、いかがわしいばかりである。一介の野の僧が、にわかに入唐を決意し、短期に、それもぼう大な金品をかきあつめた。どういう方法でそれをやったのであろう。
 空海がいかに多額な財宝を用意していたかについては、入唐後のその行動をみても察しがつく。
たとえばのちに、かれは長安を去るにあたって、世話になった青竜寺、大興善寺などの僧五百人を招待し、盛大な宴会をひらいているのである。よほどの経費に相違ない。そういう経費よりもさらに大きいのは、長安で密具をつくらせたことであろう。密教は宇宙の内奥と交信する世界であるがために、多種類の法器が必要であった。それらをことごとく長安でつくらせたことは、なまやさしい入費ではなかった。各種の蔓陀羅の絵を描かせることも容易な経費ではなく、しかも空海はそれらを並な画工に描かせず、李真などといったような長安第一等の絵師に描かせているのである。ぼう大な経巻や書物を買い入れる経費も、大変であった。おそらくこれがもっとも大きな入費になったであろう。
 それらは、すべて空海の自弁であった。

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