司馬遼太郎著書
メニューへ
ここに付箋ここに付箋・・・
          項羽と劉邦・下

■信のある劉邦だが途中で箸を投げだすことも

<本文から>
 −出来そこないの田舎侠客、沼沢のなかの泥ぶなのような草賊の親分。
 というのが、劉邦も自認しているかれの前半生であったが、その経験で学んだことといえば子分や兄弟分に対する信しかなかった。信が、めしを食わせてくれる。なんとか人が集まり、人が協けてくれた。
 挙兵のときもそうであった。人望といい、吏才といい、物事をふかく考える能力といい、蕭何のほうがはるかに上で、柿の父老たちも、
 −蕭何さんを立てればどうか。
 と、少年たちに説いていた。蕭何はそれを辞し、みずから劉邦を推戴して衆にもすすめ、自分はくだってその事務役にまわった。ひとびとは劉邦をいかがわしく思ったが、蕭何は動かなかった。劉邦には信がある、と蕭何は思っていたのである。
 (…しかし、ここで)
 周苛たちを救うべく再び紫陽へゆくということは項羽に再び敗け、こんどこそ殺されるということであった。
 (虎の顎のなかにもどるということだ)
 関中の成陽での劉邦は、身の処すすべもないほどに苦しかった。
 この時期、惑乱したこともある。
 「たれか、いないか」
 おれに代わりたいという者は−と、食事の途中、箸を投げだしてわめいたのである。
 本気であった。それ以上に切迫した思いで、声は半ば泣いており、表情は運命にむかって哀願しているようであった。項羽にはとても勝てない、自分は巴蜀の山の中に退いて百姓でもしたい、巴蜀は遠い、沛のほうがいい、もし出来れば沛にわずかな土地でももらって老後を送りたい、と叫んだ。
 劉邦は、天下に望みを持つなどという気持は捨てていた。捨てれば、気が楽になった。
 「たれかいないか」
 おれはその男に代わる、と叫びつづけた。さしあたっては、?陽へゆくことがこわかった。しかしゆかねば、信をうしなう。
▲UP

■劉邦の韓信軍を強奪したあざやかな芸

<本文から>
  韓信はなにか、呑まれてしまっていたのであろうか。というよりも、こういうとっさの場合、よほど憎んでいる相手でないかぎり非常の行動などはとれるものではなかった。韓信はつねづね劉邦をばかにしている。しかし憎んだことなど一度もなかった。
 むろん、憎まずとも人は殺せる。欲望もまた人を非常の行動へ突きとばすことがあるが、韓信には元来そういうものが稀薄すぎた。
 夜が明けると、諸将があつまってきた。たれもが目の前に劉邦がいることに驚き、口々に言いさざめいたが、劉邦の一喝で静かになった。
「今日よりわしがお前たちの上将軍を兼ねる。韓信もまた上将軍のままである。ただし韓信は今日より斉への征途にのぼる」
一同、ロをあけた。事態が理解できず、従って劉邦がいまいったことが、容易に頭のなかに入らなかった。
 劉邦は、そういう心理ばかりはよく心得ている。かれはだまった。人々が疲れてしまうほどながく沈黙した。
 やがて言葉の意味が一同に浸透したころを見はからってから、
「曹参」
 と、叫んだ。沛以来の手下である。
 「韓信とともに斉へゆけ。軍令はすべて韓信に従え」
曹参が沛のころ、県の役人であったことはすでにふれた。牢屋をつかさどる事務官で、蕭何がつねにその上司だった。この両人は仲もよく、たがいに文吏としての能力を認めあっていたが、挙兵後、蕭何が後方の関中にあって、その行政と漢軍の補給に任じ、いわば文官であることをつづけているのに対し、曹参は行政面ばかりではなかった。むろん左丞相、右丞柏に任命されたりはしたが、しばしば将軍としても働き、この時期、韓信軍に属していたのである。
(曹参ならば、かどをたてずに韓信を掣肘するだろう)
 同時に韓信の軍略の邪魔をすることもない、と劉邦はおもった。ほかに灌嬰をえらんだ。灌嬰はかつて衆陽の甬道防禦戦で地味な働きをしつづけた男で、人柄も戦さぶりそのままであった。
 右の韓信軍を強奪した一事は劉邦一代での唯一といっていいあざやかな芸で、劉邦の人間について考えるとき、ふしぎな印象がある。
 劉邦は、かれ自身も自認しているところだが、元来、自分で何をするということもできない男であった。若いころから人々を連れて歩き、そういう連中がすべて事を運んできた。ただ人々の上に載ってきただけという面もあり、載り方がうまかったということもある。
 かといって、劉邦のふしぎさは、いつの場合でも敵の顔の見える前線に身を曝し、人々の背後に隠れるということはなかったことである。
 項羽に対してもそうであった。項羽という猛獣に対し、自分自身の肉を餌に相手の眼前にぶらさげ、それを攻もうとする項羽を奔命に疲れさせてきた。豪胆というよりも、平気でそれができるところに配下の者たちが劉邦についてきた魅力というものがあるのかもしれない。この場合、餌自身がむき身で韓信の前にあらわれ、むき身のまま唱えた。劉邦がそういう絶望的な段階まで追いつめられたといえばそれまでだが、しかし韓信とその諸将がむき身のままの劉邦に気を呑まれてしまったというのは、劉邦が持っている何事かと無縁でなかったかもしれない。
▲UP

■項羽の幕僚には畏伏するのみで、さからわなくなっていた

<本文から>
 少年の目は奇妙なほどに怒りを宿さず、むしろその表情に項翌のあこがれがあった。
 「であるのに、このようにコウされるという。あまりにも外黄のひとびとが可哀そうでございます。慕って殺されるというなら、人々はもはや大王を慕わなくなりましょう。・・・梁には」
 少年は、泣きだしてしまった。
 「梁には、外黄だけがあるわけではありません。あの十幾つの城のひとびとも、このような目に遭うなら、死をおそれて懸命に戦うことになりましょう」
 項羽は最初、眉をしかめていたが、やがてこどものような顔になり、唇をあけて聴き、聴きおわるとすばらしい道理だとおもった。
 「小僧」
 と、項羽の本質の一面をそのように見て、しばしばかげでののしっていたのは死んだ范増であったが、項羽にはたしかにその面があった。もっともただの小僧ではなく、天才という雷電のような働きを内蔵した小僧ではあったが。
 「解いてやれ」
 と、兵に命じ、すべての市民を自由にした。少年の足の縄も解きすてられた。項羽は馬を往かせながらふりかえって少年を怯めた。ひるがえっていえば、項羽の幕僚にはこの少年程度の者もいなくなっていたのである。項羽は武においてたれよりもすぐれていたことと、性格や価値判断において黒自が鮮明すぎるために、ひとびとは項羽に畏伏するのみで、その言葉にさからわなくなっていた。楚軍のみどとな統制の一面−病的な欠陥があらわれはじめていた。
▲UP

■戦えばかならず負ける劉邦軍、楚軍は項羽を崇め勝利を疑わない

<本文から>
  「劉邦は飯櫃をかかえて山上に居すわっている」
 項羽は相手の怯儒をわらったが、しかしかれの楚城のほうはかすかながら餓えの色が出はじめており、この現状を打破するには干支を執っての決戦しかなかった。
 が、劉邦は乗らなかった。
 「劉邦の臆病者」
 という罵讐雑言を、項羽は断崖に掛けた楚の胸壁から漢城にむかって浴びせかけていたが、しかし劉邦は挑発に乗って来ず、もはや臆病であることが劉邦の大戦略かとおもわれるほどの段階になっていた。
 項羽の不利は、斉(山東省)の地で急成長して「斉王」を称した韓信の勢力が、楚軍のやわらかいわき腹に鉾を突きつけたかたちになっていることであった。
 いっそ漢にそむき、楚に味方せよ。
 と、弁士武渉を派遣したが、説得に失敗した。
 以上のように列挙すると、項羽をめぐる戦略的情勢はかんばしくないかに見える。
 が、戦術的には圧倒的に優位を示していた。項羽という、勇猛さと戦い上手にかけては古代以来この地上にあらわれたことのない男にひきいられた楚軍は、兵は強く、馬は騰り、士卒のはしばしにいたるまで項羽を神のように崇め、その勝利をうたがいもしなかった。
 これにひきかえ、漢軍の士卒には勝利への確信などなかった。
 −戦えばかならず負ける。
 という劉邦にひきいられ、つねに項羽におびえ、敵の陣頭に項羽があらわれたときくとなだれを打って逃げるのが漢軍の習性のようになっていた。
(漢兵は、その日ぐらしだ)
 と、弁士侯公などはおもっている。漢軍に身を寄せて一日一日の糧が得られればよく、このはてにたとえ漢が負けようともそれはどうでもよかった。
(楚軍は、旗のいきおいからしてちがう)
 侯公は、潤むこうの楚城をみて、毎朝おもうのである。風のなかで小気味よくなびき、楚兵の動作も機敏で、その英雄的な主将のつよい磁気をどの兵もうけており、どの兵も堂々としていて、かれら一人で漢兵の十人でもとりひしぎそうであった。
 その上、楚軍の有利な点は、劉邦の実父の太公と妻の呂氏をいけどりにしていて、その生殺与奪の自在をにぎっていることであった。
▲UP

■項羽の最期

<本文から>
 項羽とその従騎が漢の騎兵部隊に追われつつこの水辺まできたとき、かれの最期がちかくなった。
 以下のことは、よく知られている。
 烏江の亭長が、項羽のゆく手に立った。この老人はいうまでもなく楚人であった。楚人として項羽を敬愛してもいた。さらには項羽の思わぬ末路にはげしい同情をもっている。
 「大王よ、早くこの舟にお乗りくだされ」
 と、亭長はいった。さらには、このあたりに舟といえばこれ一艘しかありませぬ、漢軍はこの岸でとどまらざるをえませぬ、早くお乗り下され、といった。
 項羽は、動かなかった。亭長のすすめとは逆に、このほとりで死のうときめた。かれは、亭長に自分に対する愛があることを知った。こういう男をさがすためにここまで南下してきたともいえる。
 (この男ならば、自分のやったことと、やろうとした志をながく世間に伝えてくれるだろう)
 と、おもったのである。
 かれは亭長の好意を謝し、例によってこの惨状は自分の武勇によるものではなく天が自分をほろぼそうとしているのだ、と言った。さらにかつて挙兵のあと、江東(ひろくいえば江南)の健児八千をひきいてこの江を渡り、西へむかったころのことについて語った。
 「老人よ、考えてもみよ。かつて叔父の項梁とわしを信じ、この烏江をわたって西にむかった八千の子弟はすべて死に、ひとりとして遣る者はいない。かれらを送り出した江南の父兄がわしをあわれみ、ふたたび子弟を撃てわしを王にしてくれたところで、わしにはかれらに見える面目はない」
 言いおわると、かれは、亭長に錐をあたえた。
 あとは徒立になった。ゆっくりと鉾をもちなおし、漢騎が殺到してくる方向へむかった。従う者もみな馬をすて、項羽のまわりを固めつつ進んだ。
 はどなく、漢の精兵団と激突した。項羽は鉾をまわして敵を無意味なほどに殺傷した。敵を殺傷することによって自分は漢に敗けたのではなく天によってほろぼされるのだということをあくまでも実証しておきたかったからであった。むろん後世にむかってであり、そのことは亭長が語ってくれるであろう。
▲UP

メニューへ


トップページへ