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<本文から>
−出来そこないの田舎侠客、沼沢のなかの泥ぶなのような草賊の親分。
というのが、劉邦も自認しているかれの前半生であったが、その経験で学んだことといえば子分や兄弟分に対する信しかなかった。信が、めしを食わせてくれる。なんとか人が集まり、人が協けてくれた。
挙兵のときもそうであった。人望といい、吏才といい、物事をふかく考える能力といい、蕭何のほうがはるかに上で、柿の父老たちも、
−蕭何さんを立てればどうか。
と、少年たちに説いていた。蕭何はそれを辞し、みずから劉邦を推戴して衆にもすすめ、自分はくだってその事務役にまわった。ひとびとは劉邦をいかがわしく思ったが、蕭何は動かなかった。劉邦には信がある、と蕭何は思っていたのである。
(…しかし、ここで)
周苛たちを救うべく再び紫陽へゆくということは項羽に再び敗け、こんどこそ殺されるということであった。
(虎の顎のなかにもどるということだ)
関中の成陽での劉邦は、身の処すすべもないほどに苦しかった。
この時期、惑乱したこともある。
「たれか、いないか」
おれに代わりたいという者は−と、食事の途中、箸を投げだしてわめいたのである。
本気であった。それ以上に切迫した思いで、声は半ば泣いており、表情は運命にむかって哀願しているようであった。項羽にはとても勝てない、自分は巴蜀の山の中に退いて百姓でもしたい、巴蜀は遠い、沛のほうがいい、もし出来れば沛にわずかな土地でももらって老後を送りたい、と叫んだ。
劉邦は、天下に望みを持つなどという気持は捨てていた。捨てれば、気が楽になった。
「たれかいないか」
おれはその男に代わる、と叫びつづけた。さしあたっては、?陽へゆくことがこわかった。しかしゆかねば、信をうしなう。 |
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