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<本文から>
遊侠はその後、世がさだまった時期にすね者として存在するが、戦国からこの時代にかけては、郷村や市井で何がしかの勢力をもつ者は侠の要素をつよく持っていた。
秦の盛時、地方官庁にやとわれた地元出身の吏のなかで、一種の世間的勢力のある者は単なる事務の徒でなく、侠の要素を持ち、地元の仲間たちを保護していた。
本来、中国の農耕社会には王朝など要らないという古代的な無政府主義の気分があり、民衆社会の態様も多分にそうであった。里が、里ごとに里ぐるみ墻を築いて自衛し、父老という住民代表を立てて自治しているかぎり、王朝など不要であり、たとえ必要悪として王朝が成立しても、王朝の重圧感を個々の里村に感じさせないというのが、古代以来、理想的な政治−尭舜の世−とされてきた。しかし実際上、そういう羽毛のように軽く母親のようにやさしい王朝があったためしがなく、苛斂誅求が王朝の常態であり、その王朝自体の害というのは、王朝が「賊」としている草匪の害よりはなはだしかった。
農民たちは、王朝の善から、どのようにして身をかわし、あるいはその手傷を軽く済ませるかということで腐心してきた。その腐心の代表が「父老」であり、かれら父老たちが恃むあては、王朝から派遣されてくる「官」ではなく、地元出身の「吏」であった。吏といっても、侠心のある吏でなければならない。たとえば沛の町にいたその種の吏が、劉邦の子分である粛何であり、曹参であり、あるいは劉邦が好きでたまらない夏侯嬰、または任敖などであった。かれらは後代の吏ではなく、それぞれ私的に面倒を見ている農民団を、集落ぐるみでいくつか持っている任侠の親分という秘めた側面を持っている。
劉邦は、その頂点にいる。
本来、拠って立つべき何も持たなかった劉邦がなぜ大組織をなしたのであろう。さらには項羽軍に劣るとはいえ、それに次ぐ軍隊をころがしつつ、目下西進している秘密は何であるのか。
そのことは、じつにわかりにくい。これについては、しばしば学問的考察の対象にさえなった。 |
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