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<本文から>
かれ以前、地上に君臨する者として、国々に王というものがいた。貴族もいた。ところが、かれはそれらの王制や貴族制を一挙に廃してしまった。以前は、人民はうまれながらに人民であり、さらには、うまれながらの王や貴族を氏神に似たものとして尊敬し、その天賦の地位を人民は窺おうとはしなかった。それでもって、なんとか大地は治まっていた。ただ大飢饉があると人民どもは群れをなし、食をもとめて流浪し、王や貴族をかえりみなかった。それだけのことであった。
始皇帝は、なんとなく統治し統治されているという過去のあいまいな制度のすべてを一掃した。それにか灯るに、中央集権というふしぎな機構をもちこみ、大網のように大陸に広げ、精密な官僚組織の網の目でもってすべての人民をつつみこもうとした。包みこみの原理は、法であった。法をもって刑罰や徴収、労役などすべてが運営され、強制されるなどは、いままでこの大陸の人間たちが経験しなかったものだった。もっとも、かつて辺境にあったかれの秦王国の人民だけはそれを経験してきた。要するに征服国である秦のやり方が、この大陸のすみずみに及ぼされた。
「王たちの時代はおわり、すべてが秦になった」
ということの煩項さは、未経験の中原の人民どもには耐えがたい。法のうるささだけでなく、官僚的権力者をどう尊敬していいのか、過去に伝統がないだけにみなとまどった。
皇帝だけが、この地上におけるただ一人の権力者だということだけはひとびとに理解できた。皇帝一人が官僚組織をにぎり、それを手足のようにつかい、すべてを皇帝自身が裁決しているということである。権力を世襲するのも皇帝家だけしか認められない。貴族というあいまいな中間階級が消滅した以上、皇帝一人が、じかに人民という海のようなものに対しているに似ていた。言いかえれば、一本の釘に皇帝がぶらさがっているだけで、あとはすべて人民のみという風景になってしまっている。
(つまりは、皇帝を倒せば、倒した者が皇帝になれるということではないか)
という奇抜な、しかしあたりまえの、ともかくも前時代にはなかったふしぎな政治認識を多くの人民に植えつけてしまったことは、当のこの制度の創始者自身は気づかなかったにちがいない。 |
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