司馬遼太郎著書
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          項羽と劉邦・上

■皇帝を倒した者が皇帝になれることに創始者自身は気づかなかった

<本文から>
 かれ以前、地上に君臨する者として、国々に王というものがいた。貴族もいた。ところが、かれはそれらの王制や貴族制を一挙に廃してしまった。以前は、人民はうまれながらに人民であり、さらには、うまれながらの王や貴族を氏神に似たものとして尊敬し、その天賦の地位を人民は窺おうとはしなかった。それでもって、なんとか大地は治まっていた。ただ大飢饉があると人民どもは群れをなし、食をもとめて流浪し、王や貴族をかえりみなかった。それだけのことであった。
 始皇帝は、なんとなく統治し統治されているという過去のあいまいな制度のすべてを一掃した。それにか灯るに、中央集権というふしぎな機構をもちこみ、大網のように大陸に広げ、精密な官僚組織の網の目でもってすべての人民をつつみこもうとした。包みこみの原理は、法であった。法をもって刑罰や徴収、労役などすべてが運営され、強制されるなどは、いままでこの大陸の人間たちが経験しなかったものだった。もっとも、かつて辺境にあったかれの秦王国の人民だけはそれを経験してきた。要するに征服国である秦のやり方が、この大陸のすみずみに及ぼされた。
「王たちの時代はおわり、すべてが秦になった」
 ということの煩項さは、未経験の中原の人民どもには耐えがたい。法のうるささだけでなく、官僚的権力者をどう尊敬していいのか、過去に伝統がないだけにみなとまどった。
 皇帝だけが、この地上におけるただ一人の権力者だということだけはひとびとに理解できた。皇帝一人が官僚組織をにぎり、それを手足のようにつかい、すべてを皇帝自身が裁決しているということである。権力を世襲するのも皇帝家だけしか認められない。貴族というあいまいな中間階級が消滅した以上、皇帝一人が、じかに人民という海のようなものに対しているに似ていた。言いかえれば、一本の釘に皇帝がぶらさがっているだけで、あとはすべて人民のみという風景になってしまっている。
 (つまりは、皇帝を倒せば、倒した者が皇帝になれるということではないか)
 という奇抜な、しかしあたりまえの、ともかくも前時代にはなかったふしぎな政治認識を多くの人民に植えつけてしまったことは、当のこの制度の創始者自身は気づかなかったにちがいない。 
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■劉邦は莚の上にすわっているだけで人が集まっていた

<本文から>
 劉邦は、賭博だけでなく、遠くへ駈けて盗賊も働いたが、沛の町に帰ってくると、得たものはみな散じた。しかし大方は、生業を持たないために無一文でいることが多く、それでも酒を飲みたがった。
 「こどもは乳をのむ。おとなは酒をのむ。どちらも人間を大きくするためのものだ」
 と、いった。この時代の酒は乳色を帯びていて、酒精分もすくなく、馬が水を飲むほどに飲まねば酔わなかった。
 沛の町の飲屋では、王媼さんの店と武塩さんの店がひいきであった。たいていは嚢中一銭もなしにぬっと入り、したたかに酔い、支払う意思もなかった。この時代、旗亭はたいてい年末払いだったが、劉邦はロだけでも払うとは言わなかった。
 − いやな奴が来やがった。
と、最初は王媼も武媼も思ったが、やがては妙に採算が合うことを知った。劉邦が店に来ると、町中の劉邦好きの男や与太者たちにつたわり、かれらが互いに仲間を誘いながらやってくるため、たちまち店は客で満ちた。劉邦が呼ぶわけではなく、かれらが劉邦を慕い、劉邦の下座にいて飲むことをよろこぶためであった。
 劉邦は、文盲ではなかったが、それに近い。
 無学なために、何か教えを垂れるなどということはしない。とくに諸方の地理人情に明るいわけでなく、またとくに商売のたねになるような商品市況の情報を教えるわけでなく、さらには、座談がうまいわけではない。
 ただ劉邦は莚の上にすわっているだけである。大きな椀に米の磨ぎ汁のような色をした醸造酒を満たし、ときどきそれを両手でかかえては、飲む。
 ひとびとはそういう劉邦のそばに居るだけでいいらしい。みな一杯ずつ酒を酪っては座にもどり、互いに好きなことを話し、酒が尽きると、また酪う。劉邦はただそれらを眺めている。彼等にすれば、劉邦に見られているというだけで楽しく、酒の座が充実し、くだらない話にも熱中でき、なにかの用があって劉邦がどこかへ行ってしまつたりすると急に店が冷え、ひとびとも面白くなくなり、散ってしまう。
 劉邦がもどってくると、ひとびとは、
「よう」
 と、歓声をあげながらかれを擁してもとの上座につかせ、一同は退ってまた飲んだ。
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■劉邦はやがて天下を得ると憎んでいた雍歯をゆるし賞を授けた

<本文から>
 雍歯のことである。以下は余談ながら、のちに劉邦はこれほどの雍歯をもゆるしている。だけでなく、これに兵を与え、ふたたび部将として各地に転戦させ、使えるだけ使ったのだが、このことは雍歯がいかにいくさ上手だったかがわかるし、一面、劉邦という男がもつ特有の−奇怪なほどの−寛大さがどういうものであったかについてもよくわかる。劉邦はやがて天下を得る。その直後、諸将の功罪をしらべて賞罰すると触れたために諸将は動揺し、たれもが自分のすねの傷を思った。それをあばかれて罰せられるくらいならいっそ謀叛をおこすといきまいた者もいたりしたが、劉邦はこれを鎮めるため、側近の言葉を容れ、まずかれがもっとも憎んでいてしかもその憎悪をひとびとも知っているはずの雍歯に目をつけ、これをぬきんでて侯にし、最初に発表した。一同は、雍歯でさえゆるされて賞をうけるのかと思い、一時にしずまった、といわれている。
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■劉邦の周りが補助しなければどうにもならないと思うようになっていた

<本文から>
 劉邦という男は、こういう場合、自分の判断を口走らずにひたすらに子供のような表情でふしぎがるところがあった。そういう劉邦のいわば平凡すぎるところが、かえってかれのまわりに、項羽の陣営にはない一種はずみのある雰囲気をつくりだしていたといえる。幕僚や部将たちは、劉邦の無邪気すぎる性どの平凡さを見て、自分たちが労を惜しむことなく、かつは智恵をふりしぼってでもこの頭目を補助しなければどうにもならないと思うようになっていたし、事実、劉邦陣営はそういう気勢いこみが充
満していた。
 といって、劉邦という男は、いわゆるあほうというにあたらない。どういう頭の仕組みになっているのか、つねに本質的なことが理解できた。
 むしろ本質的なこと以外はわからないとさえいえた。
 このたびの項梁の敗死についても、斎何その他から説明をきき、
 「ああ、そうだったのか」
 と、心から彼らの説明に感心した。
 劉邦が理解した問額の本質とは、要するに何でもない。秦がつよいということである。正確にいえばなお強大であるというだけのことであった。
 次いでいえることは、秦の一大野戦軍を指揮している章耶という男が途方もない名将だということである。
 章耶は、限りある野戦軍を必ず分散させることなく、必要なとき忙は大いに結集させ、全力をあげて敵を破る。このため、戦場に疎密ができた。黄河流域の町々については章耶はそれを疎にして楚軍の揉濁するにまかせ、項梁がいい気になって秦軍の濃密な地域に入り、深入りしたところを、章耶は大鉄槌をふりあげ、小石を砕くようにこれをくだいたのである。
 「なるほど、おれは黄河の流れに沿って西をめざしてきたが、勝ちすすんでいると思いこんできた。これは章耶が勝たせてくれたのか」
 と、劉邦はまずそれに感心し、次いで項梁が章耶の壮大なわなにかかったという解説によって感心してしまう。この感心の仕方に一種の愛嬬があり、愛橋がそのままひとびとに徳を感じさせる風を帯びていたために、劉邦が進むところ、智者や賢者があらそってかれの幕下に投じてくるという傾向があった。
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■劉邦軍の弱さが項羽とその軍をひきたてた

<本文から>
(無能の相棒というものほど大事なものはない)
 という、道理の微妙さを項羽が感じたかどうか。爾来、友軍である劉邦軍の弱さのおかげで項羽軍の士卒たちはこれを嗤い、みずからを精強の軍とおもい、ときに崩れそうになっても、一蹶して敵を破った。さらには、劉邦という、田舎の駐在所の巡査あがりの弱い大将が同僚にいればこそ項羽の武勇がきわだって人々に印象された。劉邦とその軍は、項羽とその軍をひきたて、励まし、強者にするために存在しているようなものであった。
 退却のときも、そうであった。
 弱い劉邦軍がまず東へ去り、項羽とその軍は困難な殿軍を買って出た。項羽は劉邦を安全な後方に逃がしたあと、敵と戦いつつ徐々にひきさがった。
 このおかげで、項羽は退却戦にもつよいという評判が立った。
 かれらは、再起の根拠地としての彰城(いまの徐州)をめざした。彰城は、春秋戦国のころから栄えた地方都市で、劉邦の故郷とほぼ同一地帯にあり、おなじく洒水郡に属し、洒水の低湿な農業地帯のなかにあって、水陸の交通の要衝をなしている。
 ついでながらこの町(徐州)にともなうのちの歴史にふれると、後日、項羽が自立したときにここに都を置くことになる。項羽はこの町から四方に対し、「西楚の覇王」と称するにいたるのである。くだって唐代にいたり、はじめて徐州と改称される。のちしばしば名称がかわった。さらにはたびたびこの町をめぐって大戦があったのは、ふしぎなほどであった。そのわけは、四方に道路が出ているために大軍の集散が容易で、会戦という現象が成立しやすく、兵法でいう衝地をなしていたからであろう。日
中戦争のときにも日中両軍の大会戦(一九三入年)がおこなわれ、その後、一九四八十一月、人民解放軍が、国府軍とここで会戦し、十四個師団を全滅させて、内戦の勝利を確立した。
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■項羽による二十余万人の大虐殺

<本文から>
次いで、一時に喚声をあげ、包囲をちぢめた。この深夜の掛卦で、二十余万の秦兵たちがパニックにおち入った。かれらは一方にむかって駈け出し、たがいに踏み重なりつつ逃げ、やがて闇の中の断崖のむこうの空を踏み、そこからは人雪崩をつくって谷の底に流れ落ちた。最初に底へ落ちた者は骨を砕かれて即死したが、つぎの段階はすでに落ちた者の上に落ち、つづいて落下してくる人間によって体をくだかれた。ついには無数の人体によってまず窒息し、その密度が高くなるにつれて人の体が押しつぶされて板のようになった。たちまち二十余万人という人間が、地上から消えた。
 大虐殺は、世界史にいくつか例がある。
 一つの人種が、他の人種もしくは民族に対して抹殺的な計画的集団虐殺をやることだが、同人種内部で、それも二十余万人という規模でおこなわれたのは、世界史的にも類がなさそうである。
 さらには、項羽がやったような右の技術も例がない。ふつう大虐殺は兵器を用いるが、殺教側にとってはとほうもない労働になってしまう。項羽がやったように、被殺者側に恐慌をおこさせ、かれら自身の意志と足で走らせて死者を製造するという狂滑な方法は、世界史上、この事件以外に例がない。
 翌朝、項羽軍は総力をあげて土工になった。すきやくわを持って断崖のふちに立ち、数日かかって二十余万の秦兵の死骸に土をかぶせ、史上最大のコウを完成した。
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