司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          功名が辻・4

■伊右衛門は自然に若僧大名にもへりくだれる

<本文から>
  「いたって壮健でござる」
 と、忠氏はまだ少年のにおいの残った頬を微笑させていった。
 「むかしは」
 伊右衛門はいった。
 「お父御とこうして馬をならべながら物語などしたものでござる」
 「父もよく左様な昔ばなしなど致しまする。太閤様の中国攻めのころ、羽黒の陣でご表でありましたとか」
 「一トリデを守っておりましてな、思えばなつかしいことでござるわ」
 と、伊右衛門はゆるゆると馬をうたせる。
「今に変わらず、むかしからそれがしは愚鈍でありましてな、敵状の判断などでわが頭ではわからぬことがあるとお父御のご判断をききに行ったものでありました」
 「これはご謙遜」
 と、若い忠氏は馬上で頭をさげる。
「いや、謙遜ではござらん。それがしは戦場でこそ人におくれをとったことはござりませぬが、どうも諸事わからぬことが出る。そのつど朋輩にきいたり、部下にきいたり、それはそれは忙しいことじゃ。武運よく城一つをもち、六万石を知行する分際にまでなりましたが、これもみなひとのおかげでござる」
「よいお気象でありますな・対馬守殿のご人徳でありましょう。ご人徳がなければ、なかなか人
というものは智恵を貸すものでござりませぬ」
「いやいや、智恵でも貸してやらねば伊右衛門は自立できまいということで、みなみな、寄ってたかってたすけてくれるのでありましょう」
「それこそえがたいご人徳でござる。やはりひとのまねのできぬことだ。されば対馬守はお一人のお智恵でなく何人もの智怠を常にあつめ、それを取捨して行動されるのでありまするな」
「根が愚鈍でありますゆえ」
 と、伊右衛門は、この男ほどの古参大名でありながら若僧の信濃守に気味がわるいほどへりくだる。それがごく自然にうけとれるのは、やはり伊右衛門がもっているとくべつな人徳というものかもしれない。

■伊右衛門は城、知行を家康に差し出す最大の功名をたてる

<本文から>
 「家康は目のさめる顔をした。古来、自分の城を他家にあずけて出陣するなどということは、あったためしがない。
 「対馬守どの、もう一度おきかせくだされ」
「掛川の城、知行地いっさいをおあずけ申すということでござる。城は多年たくわえました兵糧もとぼしくはござりませぬ。これも存分におつかいくださりますように。−さらには」
 と、伊右衛門は言いかさねた。
「城の内外に住んでおります家来どもの妻子のことでござる。これは三河青田の池田輝政どのがご大身でありまするゆえ、その城下へ仮住いさせとうござる」
 これには家康もおどろいた。城だけでなく侍屋敷から足軽の長屋にいたるまでことごとく空家にするというのである。要するに掛川城と六万石の領地を自分にくれるということであった。
 家康は諸将の空気に不安を感じていた。福島正則の発言にひきずられて、みな「徳川般のお味方につく」とはいったが、おそらく、多くはこの場だけのことで本心はどうかわからない。
 ところがこの男は、味方につく以上徹頭徽尾味方につく、城、知行まですててはだかになる、というのである。万一味方が敗北すれば伊右衛門は城も領地もなくなる。もとの素浪人にもどるのである。賭けでいえば、もちがねのすべてを張ったわけであった。
 当然、家康は利害をこえて感動した。
 この伊右衛門の発言の効果はすぐあらわれ、東海道すじに城をもつ諸大名は、われもわれもと城あけ渡しを申し出、伊右衛門のひとことの発言で、家康は百万石ちかい領地と五つの城を一瞬のまにおさめることができた.
 あとで家康は本多正信とふたりきりになったとき、
「合戦は勝ったも同然じゃな」
 といった。
 正信はさほどに伊右衛門の一言の効果を重く評価しなかったが、家康はあの一言で歴史はかわった、という意味のことを言い、
「おそらく古来、これほどの功名はないだろう」
 といった。
 当の伊右衛門は馬上、小山の廃城をあとにしながら、ひどく気落ちしたような顛でゆられていた。
 「どうなされました」
 と野野村太郎右衛門九郎がきくと、伊右衛門はくびをふって、合戦を二度ばかりやったように疲れたわ、といった。

■小早川の裏切りで関ヶ原を勝利

<本文から>
 伊右衛門はほっとする思いだったが、その先頭部隊へすかさず石田三成の銃隊が一斉射撃を加え、さらに騎馬隊の突撃をかけたために、たちまち混乱状態におち入り、しばらく揉みあっていたが、やがて、
 (あっ)
 と伊右衛門がうめいたのは、徳川兵団が崩れはじめたのである。崩れはじめると早い。後方で、
 −ひくなっ、ひくなっ。
 と侍どもがさけんで自軍の崩壊を必死にくいとめているようだが、先頭の崩れが波及してきて馬を立てることもできない様子だった.
 (こ、これは負けるかもしれぬ)
 と、伊右衛門は全身の毛穴が一時に縮むような悪感をおぼえた。
 徳川軍は、距離にして、三、四丁は潰走したが、やがて中軍で食いとめた。
 その間、十五、六分ほどの出来ごとである。
 やがて正午前になった。
 そのとき、突然、天地の色が変ずるほどの驚きを、伊右衛門はおぼえた。
 異変がおこった。
 その奇現象は、前方ななめ左にそびえている松尾山でおこった。山頂から山腹にかけて林立していた西軍小早川秀秋一万五千余の人数が、にわかに北西に動きはじめたのである.
 (あっ、裏切りか)
 と伊右衛門が見る間に、小早川隊はいっせいに山を駈けくだり、銃砲を隣接する自軍の大谷吉継の陣地にむかって射ちだした。
「さてこそ、金吾(秀秋)は裏切ったぞ」
 と伊右衛門は馬のそばに駈け寄り、ひらりと乗った.
「この機をはずすな、押せや」
 と、ムチをあげ、大谷吉継の陣をさし示した。
 後ろせ見ると、いったん敗走した徳川軍にもこの内応がわかったらしく、陣をたてなおし、すさまじい勢いで進撃しはじめた。
 戦勢は逆転した。
一瞬の間だった。
(歴史はいま一変しようとしている)
 と、伊右衛門は馬上で指揮しながら、感慨をもった。なんと皮肉なことであろう、ともおもった。小早川秀秋というのは秀吉の縁者で養子になっていた若者である。資性劣弱で、もともと人の笑い者になっていた男だが、歴史のもっとも重要なかぎが、人もあろうにこういう男の手ににぎられていたとは。
 伊右衛門は、おもった。
「この勢いに乗れっ」
 とはげしく下知しながらも、心中、爽快さはない.裏切り者への人としての憎しみがある。
 (何事ぞ)
 とおもった。
 戦場の様相は一変している。西軍は各陣地において動揺し、崩れはじめた。
 さらに裏切り者が続出した。小早川陣地の下で布陣していた西軍の朽木元綱、赤座直保、小川祐忠、脇坂安治ら小大名が、ホコをさかさまにして味方の大谷陣地へなだれこんだのである。
 (ばかな)
 と、伊右衛門は、敵のことながらも義憤を感じた。感じながらも、
 (これで、救われた)
 という、わが身の安堵感はおさえきれない。
 そのあとが、伊右衛門にとってこの大戦でのはじめての戦闘だったといっていい。
 敵はすでに崩れ立っている。
 なお戦闘は一時間ほどつづいたが、西軍大谷吉継隊はほとんど全域し、石田三成隊も攻撃に攻撃をかさねてよく戦ったが東軍主力の大半を一手にうけてついに潰滅し、つづいて字喜多秀家、小西行長隊がくずれ、島津隊も敗走し、午後一時すぎには戦場を駈けているのはおもに東軍の将士ばかりとなった。
 午後二時すぎ、戦いはまったくおわった。家康は関ケ原の西端天満山のそばの藤川の台地まで床几をすすめ、ここで首級を検した。

■可もなく不可もない伊右衛門は織田、豊臣、徳川の三代を生きのび得た

<本文から>
 「話がかわるが、このたびのことだけでなくそれにしても織田、豊臣、徳川と三代にわたってよくぞ無事に生きつづけてこられたものだとふしぎに思う」
 「ご運でございます」
 「いや、女運ということがある。連れそう女房の持ってうまれた運の光で男の一生は左右されるのだという。そういえば、おれのような者は当代まれな運をもっている」
 実に、伊右衛門は奇蹟の男といってよかった。関ケ原に出陣した東軍諸将のなかで、織田、豊臣、徳川の三代を生きのび得た者は、家康その人のほかに、伊右衛門しかいない。福島正則らは秀吉からこちらの男だし、黒田長政や紳川忠興は第二世でそのおやじ殿はべつとしてかれら自身繊田家につかえたことはない。
 (おれに子があれば、おそらくその子が関ケ原に出陣して荒仕事をしたろう。他家とはちがい、子がないためにおれ自身が出ている)
 すでに老境に入った肉体を駆っての戦場しごとは、ずいぶんとつらかった。家康が、関ケ原での主力決戦に福島、黒田、細川といった若手の大名のみつかい、伊右衛門をつかわなかったのは、年齢を顧慮し、伊右衛門では血気の突撃をすまい、と見たからであろう。
 「とにかく、おれが齢がしらだった」
 「そういえばそうでございますね」
 と、千代は感慨ぶかげにいった。さまで武辺者でもないこの犬が、三代にわたる重要な戦場にはことごとく出陣し、めだつほどの武功もないかわりにたいしたしくじりもなく場数のみをかさねてきた。豪傑、軍略家といわれた連中は、ほとんどが早死するか、さもなければ自分の器量才能を誇り、増上慢を生じ、人と衝突して世間の表から消えた。
 (この亭主殿だけが、はればれしくも生きのこっている)
 それが千代にはおかしかった。可もなく不可もない人間で律義一方の男だけが人の世の勝利者になるものなのだろうか。
 (とにかくこの人は、わたくしがつくりあげたものだ)
 というひそかな思いが千代にはある。千代の素材となるには、伊右衛門ほど従順で癖のない、好都合な男はいなかった。
 (若いころには多少のもの足りなさがあったけれど、結局はこの亭主殿が、わたくしのような女にいちばん適っていたのかもしれない)

■伊右衛門は関ヶ原の功名大として土佐を与えられる

<本文から>
 家康は九月二十七日、大坂城西ノ丸に入って、戦後の姶末にとりかかった。
 この日すぐ着手したのは、論功行賞の実務である。譜代の井伊直政、本多忠勝、本多正信、大久保忠隣、榊原康政それに外様関係の事情通として徳永寿昌らの六人をえらび、調査と草案の作成者とした。
 「譜代は翌年になってもよし、客将からはじめよ」
 と、家康は方針を明示した。なにしろ家康の側にくわわった豊臣家の大名は五十人いる。その功をいちいちしらべるだけでもこれは大変な作業だった.
 むろん賞罰には家康自身の意向がある。それはあらかじめ六人の者に言いふくめた。
 「山内対馬守一豊のことだが」
 と、家康は六人衆にいった。
 「かれはいま掛川六万石を食んでいる。これに土佐二国二十余万石を与えるように」
 といったから六人は驚き、なかでも本多正信は進み出、
 「おそれながら不審でござりまする。山内対馬守にそれほどの戦功がござりましたかな」
 といった。なるほど、関ケ原での主力戦で血みどろの合戦をした福島正則、池田輝政、黒田長政などからみれば、伊右衛門はただ戦場付近をうろうろしていたにすぎない。
 「ないな」
 家康はわらった。
 「しかしそちらは、武功と申せば槍先の功名のみと思っているのであろう。槍働きなどやろうと思えばたれにでも出来る」
 「は−」
「対馬守は、小山での前夜、その書からとどいた書状を開封せずにわしにさしだし、当時動揺しつづけていた客将の心をわがほう加担にふみきらせ、かつ小山の軍議では、わしに城を進呈することを申し入れ、そのため東海道に居城をもつ諸将はあらそって城を空にしてわがほうにつき、この一事で諸将の気持がかたまった。あの瞬間でもはや勝敗は決したといっていい。その功、抜群というか、とにかく関ケ原を勝利にみちびき、わが家を興すいしずえをきずいてくれた。土佐一国はむしろ安い」
 家康は、区々たる軍事功名よりも政治的働きのほうが効果影響が大きいとみているから、この処置をとった。
 「賞はできるだけ早いほうがよく、またきまった分からつぎつぎに言いわたしてゆくほうが人心に無用の疑念がおこらずにすむ」
 伊右衛門にこの旨が達せられだのは、十月に入ってからである。井伊直政によばれてこの事を伝えられるや、
 「国持?」
 と、伊右衛門は信じられない、といった顔をした。あの程度の戦功からみて、せいぜい六万石から十万石程度になるかと思っていたのである。
 それが国主にさせるというのだ。
 「おそれながら兵部少輔(直政)どの」
 と、伊右衛門はこの徳川家の官僚にいった。
 「おまちがいではありますまいか」
 「相変らず、ご正直でござるな」
 直政も笑いだしてしまった。
 「対州どの、うち割ったところを申しますると、われわれもこの法外な御加増は不審でござった。ところが上様におかれましては、御じきじきの言葉にて、かくせよ、とおおせあった対州どのの功は諸将のうちの随一であると」
 「おそれ入りまする」
 と伊右衛門は墨付を貰ったがまだ信じられなかった。
 帰館してから千代にかくかくであった、と鼻付を見せると、千代は大声でわらい、
 「頂くときにはあっさり頂くものです。御律義も時によってよしあし、うじうじと御遠慮なさるとお人が小さく見えます」
 といった。

■家康は伊右衛門に土佐の草高を高めにとぼけるて喜ばす

<本文から>
「千代、うれしいことがあった」
 と、伊右衛門は、きょう、殿中で家康と対面したときのはなしをした。
「内府は、土佐の草高を、五十万石はくだらぬ、と思われていたらしい」
 「左様でございましたか」
 千代は、うれしそうな顔をした。のは、うわべだけのことであった。
 (そのようなことってあるかしら)
 とおもったのである。家康ほどの人物が、つまり天下を心掛けてきたほどの男が、国々の草高の概略を知らぬはずはない。知らなくてもその幕僚が知っているであろう。伊右衛門に土佐を与えるとき、
 −土佐は何石だ。
 と、左右にきくはずだからである。
(しかし、ひょっとすると家康殿は、存外抜けたところがおありなのかもしれない)
 ともおもったりした。家康にかぎって信ぜられないことではあるが。
 もともと、家康の若いころは、土地の物成りを量るのに石高だけではなく貫高や舶郎をもってしたり、ところによってまちまちだったが、秀吉によってそれが石高に統一された。
 だから若い大名や武士は、何石といわれればほぼ見当がつくのだが、家康などのばあい、貫高のほうが理解しやすく、そのため諸国の石高の記憶が十分でなかったのかもしれない。
 さらに家康は、東国の人である。東海道から関東にかけての経済地理にはあかるいであろうが、四国や九州はまったく縁がなかった。
 「土佐」
 といわれたところで、ああ、讃岐のみなみか、という程度の地理感覚であろう.知らないのもむりはない。
 とはいえ、論功行賞は天下をさだめる基盤である。むかし鎌倉の北条執権政府は、元超ノ役での論功行賞ができなかったために諸国の人気をうしなって崩壊し、建武の中興による公家政治も功ある武士に薄く、公卿、僧侶に厚かったためにくずれ、逆に足利幕府は、功臣に気前よく領国をやりすぎたために大諸侯が出現して幕府の勢威がおちた。
 家康はそんなことはよく知っている。むしろ知りすぎているほどの男である。
 (土佐の草高をご存じないはずがない)
 と千代はおもい、むしろそれをとぼけたということに、家康という男の智忠のふちをのぞきこんだような思いがした。「五十万石ではなかったか」ととばけることで、ひとりの無邪気な大名を歓喜させてしまっているのである。あの老人にとっては、片言隻句が、徳川家永遠の基盤をつくる土台石の打ちこみになっているのであろう。
 「おれは感激した」
 と、律義な伊右衛門はいった。
 「わが山内家のつづくかぎり、徳川家には弓はひくまいぞとおもった」
 「ほんと」
 千代はにこにこしていった。
 「そのとおりだとおもいますわ」
 「おれを、五十万石の男だと内府は見てくだされたのだ。これは子々孫々につたえねばならぬ」
 (たいした力量でもないくせに)
 と、千代は内心おもっておかしかった。
 家康は、永遠につづく政権を考えている。それには、加藤清正、福島正則といった力量のあふれた御しがたい駿馬よりも、駄馬ながらも従順で律義な伊右衛門のような男に、大きく期待しているのであろう。武勇よりも、そのくそまじめさにである。世は治世におもむこうとしている。外様ながらも徳川大事と思ってくれるような男を、家康は優遇したい、千代が家康でも、伊右衛門型の男を愛するだろう。

■土佐での城造りにみる鈍感さ

<本文から>
 石垣もそうである。土佐の城はほとんど土をかきあげて土居をつくった程度のもので、このため石垣を組む職人がいなかった。伊右衛門は石垣きずきだけのために近江の穴生の者を多数よんで土地の者を指導指揮させた。
 そういう総指揮をしている伊右衛門のすがたをみて、千代は、
(ほんとうにえらいひとというのは、こういうひとのことをいうのではないかしら)
 とあらためて亭主を見なおす思いがした。
 ある夜、
「感心しました」
 と、正直にいうと、何がだ、と伊右衛門は不審そうな顔をした。このところ毎日工事場に出ているために、土工のように日焼けしている。
「一豊様がおえらいということに」
「ふん」
 伊右衛門はわざと鼻でわらった。
「いまごろ気づいたか」
「ええ」
 千代も笑っている。
「どういうところがえらいと思った」
 「そうですね」
 千代は言葉をさがした。
 「鈍感なところ。−」
 「なに−鈍感な?」
 と伊右衛門は妙な顔をしたが、千代にすればそうとしか言いようがない。利口者なら地相をみただけで、ちゃんと目スジが通ってこれはだめだという。ところが伊右衛門はそういうことがわからないから、ひとに「なんとかならないか」とききまわって案を一つずつ実現してゆくのである。大げさにいえば馬鹿の一待というものであろう。

■千代を騙して行われた種崎の虐殺

<本文から>
 「鉄砲猟をしておるのでございましょう」
 と返事をした。
 が、猟にすれば鉄砲の数が多すぎた。ついに侍女を現場に走らせた。侍女が走りついたとき、首のない死体が散乱していて、なにもかも事がおわったあとだった。
 侍女が、千代に報告した。
 千代は、気をうしなった。
 千代の意識は容易に回復しなかった。奥は大さわぎになった。医者がよばれた。
 手当のすえ千代は意識をとり戻したが、口をきかなかった。
 −狂われた。
 といううわさが立ったほどであった。たれがどう申しあげようとも、御台所様はじっと臥床したまま、返事をしないのである。
 (これが、すごろくでいえばアガリだったのか)と千代は、胸中、くりかえしくりかえしそのことをおもった。
 結婚以来、いわば千代は人生を一場のゲームのように思い、夫を立身させることを楽しんだ。夫の立身そのものが楽しかちたのではなく、犬を立身させるその工夫や張りを楽しみとしてきた。
 それは十分におもしろかったし、しかも成功した。
(が、その成功とはこれであったか)
 とおもうのである。
 伊右衛門は、千代の作品といっていい。千代以外の女性を妻にすれば伊右衛門は一国のあるじどころか、小城のぬしにもならなかったであろう。
 伊右衛門は千代に作られたおかげで、その素質、力量以上の地位を得た。その地位を得たとたんに、千代は単に御台所様となった。
 山内家は、ぼう大な組織になりすぎ、千代と伊右衛門がきりまわしていたむかしのようにはいかなくなった。
 家老だけでも七人もいる。それらが議決執行機関になり、山内家は組織で動きはじめた。
 国政家政は、「表」と称するそういう組織の手で処理され、千代は「奥」と称する国主の家庭の主宰者だけの存在になった。山内家は千代がつくったものだが、もはや千代の手から離れて動き出し、千代は無用の存在になっている。
 種崎事件について千代が、なんの相談もうけなかったのはなによりの証拠であった.山内家に関するこれほどの大事件で、千代があずかり知らなかったことがかつてあったであろうか。なかった。こんどがはじめてである。事件が勃発し、銃声がきこえ、その音に千代はおどろき、侍女を家老のもとに走らせ、
「あれは何事ですか」
とききにやらせたときも、家老は「猟でござりまする」とうそを教えた。山内家をつくりあげた千代に対し、なんということであろう。
 「女は政治にかまうな」
 と、家老ごときがいったのと同然である。その山内家を二十四万石に仕立てあげたのはたれであるか、と千代は叫びたかった。
 が、それはよい。
 千代は山内家がこうも巨大になった以上、出しゃばりたくなかった。
 問題はこんどの事件である。そういう天道にもないことが国主山内一豊の名によっておこなわれた。
 家老どもはそれが政治だと心得ている。そういう卑劣で残忍でしかも人間の歴史のつづくかぎりわすれられることのない手段をつかってまで二十四万石の安全を保障せねばならぬものであろうか。
 政治とは多岐なものだ、と千代は知っている。さまざまな手段がある。土佐の不服土民を鎮撫するのにもっと方法があろう。それを信じられぬほどのわるい手段でかれらはおこなおうとした。
 無能なのである.
 伊右衛門もその家老たちも。
 だから千代はおもった。なんのために自分は営々としてこの「作品」をつくりあげてきたのかと。
 高知城の築城現場からかえる途中、伊右衛門は、
「御台所さまがご気鬱のご様子でござりまする」という報告をうけた。
 なにぶん夫婦のあいだのことだから、
「理由はなんだ」
 とはまさか家来に問うこともならず、千代の気鬱の理由を馬上であれこれと考えていた。
(種崎の一件を、千代は知ったな)
 どうやらそう思わざるをえない。そうであるとすれば−と伊右衛門はわきの下に冷汗の出る思いがした。
 種崎の虐殺を恥じたわけではない。あれはあれで仕方がなかったと思っている。最良の方法ではなかったにしろ、しかし土佐のような他国人に不寛容な国人を統治するばあい、あの程度の弾圧は避くべからざる政治手段であろうと思っていた。
(千代にはわからぬことだ)
 それはそれでよい。
 問題は、千代をあぎむいたことだった。
 かつて伊右衛門と千代の歴史になかったことである。若いころから大小となく千代に相談し、とくに関ケ原前夜の山内家の舵は千代によって決定されてきた。
 ところがいまは、千代はまったく除外されているといっていい。千代に相談せぬばかりか、こんどの事件などは千代の手前をつくろい、千代をだまして決行した。

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