司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          功名が辻・3

■秀吉は底ぬけな陽気さで人気者に

<本文から>
  瓜売りの秀吉は腹が立ってきたらしく、
 「これは商いにならぬわい」
 と瓜を置きすてて路上にうかれ出し、浮かれ歩くうち、例の茶店にさしかかると、お
かみに扮した常夏が、
 「これは瓜売りどの。お茶を召せ。蒸したてのまんじゅうもございます」
 「おやおや、これはありがたい」
 手をとられながら茶店に入って、茶一ぷくとまんじゅうを食べ、その店を出ると、こんどはむかいの旅籠から、おかみの藤壷が走ってきて手をとらえた。
「ご飯を参られ候え。あま酒もできております。切り麦もできております」
 どんどん秀吉をひっぱる。秀吉は美人のひっぱりだこになりながら、身も世もなく相好をくずし、されるがままになっている。
 この情景、「太閤記」の筆者の小瀬甫庵はこう語っている。
 「ことのほかのご機嫌にて、布袋の笑めるように目もロもなきばかりに見えさせた」
 遊びずきの秀吉は、遊びはじめると人もわれもなく溶けこんで楽しんでしまう。
 人々はそういう秀吉を好んだ。かれはこの時代の絶対的な支配者でしかも大名以下庶民に至るまで迷惑しごくな外征をおこすような男であるのに、同時に当代きっての人気者だったのは、この底ぬけな陽気さからきている。

■秀吉にはある構想力が伊右衛門にはない

<本文から>
 秀吉は古今類のない園遊会好きなだけに、その構造の禁さ、巧みさも比類がない。
 遊びにも、
 「企画力」
 があるのだ。千代はこの醍醐の花見をみて、つくづく、
(この人が天下を取ったはずだ)
 とおもった。たとえば家康の構想力など、秀吉が月だとすればすっぽんどころか、泥がめでしかないであろう。
 天下取りも構想力なのである。夢と現実をとりまぜた構想をえがき、あちらを押えこちらを持ちあげ、右はつぶして左は育て、といったぐあいに、一歩々々実現してゆき、時至れば一気に仕上げてしまう、その基礎となるべきものは、構想力である。
 夫の伊右衛門には、構想力はない。律義いっぽうで売った官僚でしかないのである。伊右衝門だけではない。豊臣家の諸大名はいずれも戦場生き残りの荒大名であり、軍を指揮させてはどの時代の武将よりもすぐれているが、かといって、加藤渚正、福島正則、藤堂高虎、池田輝政、浅野長政、黒田長政などに天下を料理できるほどの構想力はあるか。
 ない。−所詮は、大名にしかなれぬ、それがせいいっぱいの男どもであった。
 家康はどうか。
 信長の死後、秀吉と敵対していたころ、しきりと東海、信州、甲州方面を切りとって自家の勢力をのばしていたようだが、性、慎重に過ぎ、足もとを見すぎ、ばくちをするにしても自分の持ち金のせいぜい一割ぐらいしか張らないという現実密着の性格をもちすぎている。
 飛躍がない。
 ない、というのは、創造力にとぼしいということである。しょせんは、家康は既成の天下を継承はできても独力で天下を創作することはむりな器であった。
 かといって、豊臣家のならび大名どもからみれば、家康は群をぬいている。秀吉にはるかに及ばぬにしても。
 (やはり、次代は家康殿なのだ)
 と、千代はおもう。

■家康は北政所に機嫌をとり続ける

<本文から>
 「千代どの、世間が日ごとにさわがしくなって参りましたね」
 と、従一位高台院はさびしそうにいわれた。つづいて、「こういう晩年を送ろうとは、夢にも思っておりませんでした」といった。
 万感をこめた言葉であった。
 官位こそ日本の女性のなかで最も高く、しかも故太閤の正妻だったはずなのに、本丸にはいまは秀頼、淀殿母子がおり、自分は西ノ丸住いであった。その上、城内の家来は秀頼中心で、自然、秀頼の実母である淀殿が、事実上の大坂城主のようなふんいきのなかにいる。
 「ご機嫌を」
 と、横あいから老女の孝蔵主がいった。
 「お伺いしに来る諸侯も、すくなくなりました。ご時勢でございましょうか」
 ところが、家康だけは、しばしば使いを寄越してご機嫌を伺ったり、季節々々の進物などを怠らず、かわらぬ心でいるらしい。家康には高台院の潜在政治力を利用しょうという下心があってのことだろうが、寡婦になった北政所には下心が何であるにせよ、うれしいことであった。
 「千代どの、も、太閤様なきあとは徳川穀をお立てなさるように」
 と、高台院ははっきりといった。
 しかも、あとで知ったことだが、家康が大坂に来るとなると、高台院はさっさと西ノ丸を明け、京都の三本木に移ってしまったのである。家康の活動の便宜を高台院はできるだけはかっている様子だった。

■千代からの手紙、本丸を明け渡すように

<本文から>
 「大したことにはなりますまい。たかが会津首余万石の一大名が乱をおこすと申しても、天下の兵をもって討ちとるのでございますから」
 「彦作どの、ちがいます。これが口火になって天下の乱がおこりましょう」
 ほどなく掛川の伊右衛門から書状がとどいて、
 「当方は出陣の準備を怠りなくしている。なかんずく、兵糧は三年の籠城に堪えうるほどに運び入れてある」
 という旨が書かれていた。
 伊右衛門らしい、と思った。城の米蔵にある兵糧はせいぜい二年分ぐらいの貯蔵がふつうで、三年分という用心ぶかさはどうであろう。それに遠州の地が戦場になるわけではないから、籠城というのもおかしかった。
 末尾に、
 「そこもとの意見があれば、聞かせてほしい」
 とあったから、千代はその夜、こまごまと手紙をしたためた。
 「内府どのがひきいる諸将の軍がことごとく東海道掛川を通過します。三年分の兵糧は、その接待用としてぜんぶお出しなさればよいでありましょう。諸将の宿舎も、村々に手配りしてととのえておくべきです。また城は当然、内府の御宿館にあてられましょうから、本丸を一切明け渡し、内府だけでなく徳川家のお旗本もそれに収容できるようにとりはかちわれるがよいと存じます」
 と書いた。
 本丸を明け渡すというのは、武将の常識にない思いきったことだが、
「徳川殿にお味方するときめた以上、徹頭徹尾なさるがよく」
 というのが、千代の趣旨であった。味方するときめた以上は中途半端なことはせず、城を家康にくれてしまうほどの覚悟でかかるのが大事である、と千代はおもっていた。
「この戦乱がどのように成りゆくかは別として、天下分け目の性質を帯びていることは、まぎれもないことでございます」
 と、千代は書いた。乱世にあっては、一歩さき時勢がどう動くかという予想をたててかからねば、家はほろんでしまう。
「この合戦に、山内家の浮沈がかかっています」
 と千代は書く。
「家康どのに賭けた以上、もはやなりふりかまわずに賭けた例のために働くのが肝心かと思います」
 家康の側につく、と態度をはっきりきめているのは、秀吉恩顧の武断派といわれる諸大名であったが、東海道に城をもつ山内家をふくめた諸大名は、やや中立をたもっている観があった。その中立的態度をいまこそかなぐりすてよう、と千代はいうのである。
 みずから捨てなくても、もはや、天下に中立的存在というものはゆるされなくなるでぁろう。

■千代は石田方からの封書を封をして家康に送る

<本文から>
 「なんと書いてありますか」
 千代は、小首をかしげた。
 「はっ、ではそれがしが」
 と、服部書左衛門が書状のほうににじりよっておそるおそる取りあげた。服部にすればむりもなかった。千代が、公文書などを読むのがいやで、自分にかわって音読せよ、と言ったように受けとったのであろう。
 「さればそれがし読ませていただきまする」
 「喜左衛門は、文字に明るいのですか」
 と、千代がくすくす笑った。この時代の武士で、文字をすらすら読める者は三人に一人ぐらいのわりあいだった。
「はっ、それが。・・・仮名は自在でござりまするが、真名(漢字)はにが手でごぎりまする。ははあ、御台所さまは、お意地わるであられまするな」
 「どうしてですか」
「それがしが困惑するのを見物なさろうというおつむりで」
「いいえ。わたくしは、読めと申したので舶ありませぬ・その封書のあらましはお使者がロ上で申したでありましょう。されば読む必要はありませぬ」
 「は?」
「封書は封をしたまま、関東の殿様にお送りします」
 と千代はいった。この一言がのちに伊右衛門をして大封を得せしめた、と後世ではいう。
 千代にすればどうせ家康に付く、と方針がきまった以上、中途半端はいけない、徹底して味方すべきだとおもっていた。それには、石田方からきた公文書も見ない。
「見ないようにします。関東表へ送りは致しますが、殿様にも読んでいただかぬようにします。封のまま、家康殿に差しだしてしまう、というのがお味方として当然でありましょう。中身を見てからどうこうというのは、不純にとられます」
「なるほど、芸がこまこうございますな」
「いいえ、これが天芸というものです。いずれそなたたちにもわかると思います」

■千代の手紙、家康勝利に大きな政治的意味をもった

<本文から>
 方丈で、伊右衛門は、千代からの書状を披見するため、まず文箱を手にとった。
 「あ、いや」
 と、次の間にひかえている孫作はあわてて手を振った。
 「と、殿、それはなりませぬ」
 「なぜだ」
「その文箱はあとまわしでございます。見ていただくのに順序がございます。その編み
笠」
 と、孫作は殿様である伊右衛門のそば近くまで進めてあるきたならしい編み笠を指し、
 「まずその編み笠から」
 「ほう、この編み笠から」
 それを手にとり、孫作が教えるとおりにひもを解くと、なるほど手紙がないまぜてあった。
 (ほう、千代の芸のこまかさよ)
 と思いつつ、ひろげた。まぎれもなく千代の筆蹟であった。石田三成の挙兵とそれにともなう大坂の情勢が簡潔にのべられている。
 (これは。−風説どおり、三成は挙兵したか)
 一瞬、伊右衛門の表情が固くなった。三成挙兵についての報は風説としては諸大名の陣屋にも聞こえてはいたが、このように諸侯夫人という然るべき地位のある者からしかも書状でとどいたのは、最初であった。
 (千代め、やったわ)
 と思いつつ読むと、「かなわぬときには自害して人手にかからぬ覚悟でございますから、大坂の留守居についてはゆめゆめ御懸念あそばしませぬように」とある。
 伊右衛門が読みおわるのを待ち、孫作が、
 「申しあげまする」
 と声をかけた。
 「申せ」
 うなずきながら伊右衛門は次なる文箱をとりあげようとしていた。
 「奥方様からのお言いつけでござりまする。その文箱はおあけになりませぬように」
 「わからぬことをいう。千代はそう申したのか」
 「これだけは口上にて申しあげよと何度も申されました。おあけなされまするな。その文箱にはいまお読みなされたお手紙と同文のものが一通入っております」
 「はて、同文のものが!」
 「はい。そのほかに、城中の奉行衆から大坂のお屋敷に参った回状が一通」
 「回状とは?」
 「いまも申しあげましたごとく奉行衆からのものでござりまする。大坂にお味方申しあげよ、という意味のことが書かれております。殿にはすでに徳川殿にお味方申しあげるお覚悟でありますゆえ、ご覧あそばさずともよい、というのが奥方様のおおせでございました」
 「それで?」
 「そのまま、文箱を封のまま家康殿にさし出すように、とのことでごぎりまする」
 「ああ」
 千代の「芸」がわかった。
 人の心を知りぬいた憎いばかりの芸であった。これを文箱の封印つきのまま家康にさし出す。すると家康は伊右衛門の律義さ、誠実さ、そして自分に対するそこまでの肩入れに感激するであろう。もし奉行衆の回状を見てからその読み穀を家康にさし出すとすれば、やはり回文に摸していろいろと思案した、ということをうたがわれても仕方がないのである。
 どうせ家康に味方するなら、文箱を封印ごと差し出しておしまいなさい、というのが千代の心得た作戦であった。
 しかも千代は自分の心境をのべた私信を文箱に入れ、それと同文のものを編み笠にないまぜている。
 千代にすれば、(律義者の伊右衛門殿は、どうせこういうことしか手柄のたてようのないひとだから)となにもかも見越した上なのであろう。
 「よし」
 伊右衛門はうなずき、家康の陣にゆくべく馬の支度をさせた。

 古河の宿陣にいる家康は、その夜よほど疲れていたのか、早やばやと夕飯をしたため、寝についた。
 伊右衛門が千代が送ってきた文箱をもち、その陣中にあらわれたときは、すでに家康が寝所に入ったあとで、だいぶ時が経っている。
 「押して拝謁しとうござる」
 と、伊右衛門はいつもに似ず、強引に言い張ってきかない。
 「さてさてお聞きわけのない。上様はわれらとはちがい、御老体でござりまする。いま
お起こし申しあげれば、朝までおやすみにならぬかもしれませぬ」
 と、家康付の諸将がいった。そうまでいわれると伊右衛門は気が弱くなり、
 「それはこまりましたな」
 途方に暮れ、やや、ぼう然とした顔をした。諸将も伊右衛門があきらめたか、と安堵し、
 「されば対馬守どの、御用の筋はわれわれがうけたまわり、あすお目ざめを待って申しあげておきましょう」
(中略)
 そのいわば旗職不鮮明派のなかで山内対馬守一皇が、
 −文箱の封は家康殿が切られよ。
とさし出すことによって、まっさきに味方につくことを宣誓したようなものであった。
(これは政治上、重大なことだ)
 家康は緊張し、感激したのである。
「対州殿のご好意、たしかに受けました」
 と家康はかるく一礼し、
「いつにかわらずお律義なことでござる。ご好意は十分にわかりましたゆえ、その文箱ほお手前があけ、声を出して読んでくだされ」
と、家康は、この伊右衝門の文箱の一件を政治に利用しようとした。
伊右衛門は音読した。
その文中、
「右のような奉行衆の反逆をお聞きなされても、一豊さまのお心はつね日ごろからお決よりなされていることでございますゆえ、わたくしから何を申すこともありませぬ。徳川殿への御忠節、よくよくおつくしあそばしまするように」
というくだりまできたとき、一座に声なきどよめきがあがった。
 伊右衛門が退出しようとするとき、家康はさらに手をあげてひきとめ、
「対馬守どの。そこもとのお心くばり、徳川家あるかぎり子々孫々にまで忘れませぬぞ」
 と声をひそめていった。
 伊右衛門は、千代がやったこの一事が、そこまで大きな政治的意味をもつものだとはおもいもよらなかった。
 伊右衝門が退出したあと、家康の謀臣本多佐渡守正信は、家康の許可をうけて使番たちを集め、
「対馬守のもとに使者が入った以上、諸陣にいる諸侯のもとにもそれぞれ大坂から急使が入って動揺がおこっているにちがいない」
 といった。
 当然なことであった。みな大坂表に妻子を置いていて、その安危が気にかかり、
 −このまま徳川殿に付き従っていては妻が殺され、一家は絶滅するかもしれないできれば陣を払って大坂に帰りたいものだ。
 とうろたえているであろう。そういう連中をかかえて乾坤一撫の大合戦をしようなどはできぬ相談である。
このさい、人の心に覚悟をあたえることが必要だった。

メニューへ


トップページへ