司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          功名が辻・2

■山崎合戦の手柄なしを悔しがり戦況を聞く千代

<本文から>
 千代ははがゆかった。
 「合戦は、お味方の押し、押し、押し、でな、お味方の人数の中でもまれているだけで檜働きもできず、よき敵にもめぐりあえなかったわ」
 (千載一遇のときに)
 千代は口惜しがった。男として山崎合戦ほどの天下分け目の舞台に勝利軍の側で登場するなど、ありうべからざる好機といっていいほどなのに、伊右衛門はただ体を動かしていたにすぎなかった。
 (もしわたくしが男ならば。−)
 千代は、くやしい。千代がもし伊右衛門のそばについておれば、もっと頭のつかい方があったであろう。
 千代は、戦況と地形を逐一きいた。
 「まあ、惜しい」
 とにこにこした。
 なぜいちはやく淀川の葦の間を縫って敵が薄手の左翼を衝かなかった。
 光秀軍の崩れはもっと早かったであろう。伊右衝門の名は天下にとどろいたであろう。
 「いや、千代、左様なことをそなたはいうが、わしは淀川べりにもっとも遠い天王山の山麓にいた。山麓から横なぐりに敵へ突いて出る隊の中にいたのだ」
 自分の創意を加える余地のない場所に自分はいた、と伊右衛門は弁解した。
 「それはやむをえませぬな」
 千代は、さからわない。
 「しかし、乱軍のなかでも御坊塚の光秀殿の馬印はみえたでございましょう」
 「みえたとも。それを目あてにわれわれは全軍押して行ったのだ」
 (馬鹿なこと)
 千代はまったく、なぜ自分が男にうまれなかったのか、と口惜しいほどである。みな阿呆のように光秀の本陣をめがけて押して行ったとは、なんとばかであろう。 

■山内一豊はさしたる武辺者ではないが実直であった

<本文から>
 そのころ兵糧の輸送が一時とだえていて、将士は飢えになやんだ。
 さいわい、大根がある。
 五藤吉兵衛は陣中で大焚火をし、大根をほうりこんで焼き大根をつくり、その一本を伊右衛門にさしだした。
「食べぬ」
 と、伊右衛門はいう。
 なにしろ、戦国武士にはめずらしく行儀のいい男で、めしを食うときも著さきをわずかに濡らす程度で食う主人だから、吉兵衛は、
「殿は大根は下物と思いなされて、食されざるや。戦陣にあっては、時にねずみ、いたちの類まで食い申すぞ」
 と、声をあらげていった。
 「そうではない」
 伊右衛門は口をつぼめていった。
「大根を食うと、口臭がにおう。筑前様(秀吉)のお前に出てもし匂うようなことがあっては申しわけない」
 こういう武士も、この時代めずらしかった。
 退屈な包囲戦だから陣中はうわさに飢えている。このうわさが諸陣にひろがり、ついに秀吉の耳に入った。
 (可愛い男よ)
 と秀吉が思ったのもむりはない。さしたる武辺者ではないが、伊右衛門のとりえはそういうところだ、と秀吉はみていた。
 それを、山崎合戦後の論功行賞の時に秀吉は思い出し、
「伊右衛門は槍さきの働きこそなかったが、天王山から秀光の先鋒へ打ちかけた鉄砲は、伊右衛門の足軽の弾がもっとも当りが多かったように思われる」
 というあいまいな理由でその働きをほめ、石高は三千石、わずかに加増した。
 そのかわり、その居住地である長浜の地をあたえた。
 もはや、伊右衛門と千代は長浜に屋敷をもつというだけではない。
 領主である。
 しかも、長浜にはかつて秀吉が信長の大名に取りたてられた当初に築いた城がある。
 その城に入れてもらった。
 もっとも、城主ではない。
 城番である。
 とはいえ、石垣の上から、琵琶湖と近江平野を見おろす城住いの身分となった。
「千代、とうとう一城のぬしになったぞ」
 伊右衛門は無邪気によろこんだ。
 が、三千石、城番。要するに秀吉の役人にすぎない。
 最初の夢の一国一城ではないのである。
 (この人は、まだまだ作りあげてさしあげねば、そこまではゆけぬ)
 山内一豊が、多少とも英雄の名に値いするとすれば、すべて千代の作品であった。その千代は、山崎合戦での秀吉の言動、諸将の動きで多くを学んだ。これが後年、関ケ原前夜に生かされるとは、千代自身も予言者でないため、夢にも思わなかった。

■秀吉のほめ上手は間をおかぬこと

<本文から>
 「こ、この通り申し伝えよ」
 「どのとおりでございます」
 このあたり、秀吉の言葉を古い記録の表現法で伝えると、
 「やよ、よいか。筑州(秀吉)大よろこび、踊りあがり踊りあがり踊りあがり、とうとう尻餅をつき候ぞ」
 これが秀吉のうまさだ。かれの場合、手紙にしろ、会話にしろ、表現が形式ばらず、よろこびを伝えようとするときは、自分の心の躍動をナマに眼にみえるように無邪気に語りきる。
 こんな表現でほめられれば、伊右衛門ならずとも、秀吉のためには命も要らぬという気持になるであろう。
 それに、秀吉のほめ上手は、間をおかぬことだ。即座にほめる。
 そこに妙機が生じ、ほめられた者はいよいよ調子づいて次の合戦にはいっそうに働いてしまう。
 使番尾藤勘右衛門が伊右衛門の隊のなかに駈け入り、大声をもって秀吉のナマの言葉をつたえた。
 この尾藤は、大昔勘右衛門といわれたほどの大きな声の男だ。
 まわりの諸陣までリンリンと鳴りひびくほどの大声でいった。
 伊右衛門、血槍をかかえたまま馬上であいさつし、他の吉兵衛、新右衛門らは、槍をあげ、鉄砲をあげ、おどりあがってよろこんだ。
 「殿、殿、あの君(秀吉)ならば死に甲斐がござりまするぞ」
 と、吉兵衛は、しまいには泣きだした。

■凡庸な夫を一国一城のあるじにしたいとの夢を追う千代

<本文から>
 「わたくしがわるかった、と思ったのでございます。少女のころ、もし嫁げば夫を一国一城のあるじにしてみたい、とそれのみが夢でございました」
 「少年もそう思う」
 「でも、そのような子供の夢を、おとなになってまで持ちつづけるのは、こっけいなことでございますし、不幸な暮らしかとも思います。いいえ、こっけいとか不幸とかというよりも、いちばんへたな生きかたではないか、といまさら思うようになりました」
 「それで悔恨して泣いたのか」
 「いいえ、泣いたのは別でございます。わたくしの他愛ない夢が、それほど一豊様をくるしめていたかと、いまはじめて気づいて、それが、切なくて。・・・悪うございました」
 「千代、そなたがわしに強いていたわけではない。わしにも、少年のころの夢が、消えずにありすぎた。われわれはふたりとも、こどもであったな」
 「うん」
 といったふうにうなずき、千代は泣き笑いをした。
 なるほどそう思えば、どちらも、子供のころの夢のどれいになりはてていた。そのばかな夢に、うかうかと生涯を支配されてしまうところだった。
 「もう泣くな」
 伊右衛門は、千代の眼をぬぐつてやった。
 「わしは、酒がのめればどんなによいかと思うほどに、苦しかった。しかし千代のおかげで気持が晴れた」
 「もともと、わたくしが結婚後ずっとお気持を重くしていたのでございますもの」
 「いや、ちがうと申すのに。わしがもともと子供すぎた、とこれほど申しているのにわからぬか」
 伊右衛門はあかるく笑った。かつてこの男になかったほどの澄んだ笑顔である。
 「うれしそう」
 と、千代は手を唇のそばまであげ、伊右衛門の顔を指さした。
 半面、情けなく思う気持もなくはない。
 (やはり、この人は、凡庸だったのだ)
 心の片すみでは、そう思った。男子志をたてれば将軍にでもなれるという世の中なのに、伊右衛門はそういう野望から解放されたとたん、はればれしてしまっている。

■千代は所詮は戦国の官僚にすぎぬ夫を教育していく

<本文から>
 秀吉は、称有な政治感覚をもっている。
 それを見ぬいたればこそ、家康に機嫌をとってとって、とりつくしたのだ。
 ところがいまや北条はない。
 九州、四国も安定している。もはや機嫌をとる必要もなく、にわかに鬼面と化して家康を討滅してしまえばよいのだが、しかし秀吉は天性のお人よしなところがある。
 家康を滅ぼさなかった。
 千代の秀吉・家康観はつづく。
「そなたは、よく見ている」
 伊右衛門は、あきれた。
「女ですもの。殿方の動きほどおもしろいものはございませぬ」
 と千代は笑いでごまかした。実のところ、これは重要な伊右衛門教育であった。
 山内対馬一豊という名の武将は、武将とはいえ、所詮は戦国の官僚にすぎぬ。家を保ち、身分を保ってゆくには、支配者のすべてを知っておく必要がある。
「関白殿下は、その開けっぴろげで、お人の好さそうなところが魅力でございましょう?人を二分どおり縛って八分は信用してゆく、というやりかたでとうとう天下の英雄豪傑をお手なずけになりました」
「なるほど、手なずけたわけか」
「征伐をなさらずに、ね」
「ふむ」
 伊右衛門は、生徒のようにうなずいた。
「徳川様に対してさえ、そうでございましたが、後日、これは大事に至りましょう」
「大事というのは?」
「関白殿下の亡きあと、徳川稼が天下の座におすわりなされるのは、火をみるよりもあきらかでございます」
「容易ならぬことをいう」
 と、伊右衛門は唐紙のあたりに眼を走らせた。たれか聞いてはおらなんだか、と思ったのである。
「一豊さまはこのたび、徳川様監視の城の一つである掛川城主におなりあそばします」
「そのとおりだ」
 とうなずいてから、千代のいう意味がやっとわかった。
 一家康の機嫌も損じるな。
 ということであろう。
 「ありていにいえば」
 と千代はいった。
「家康様は、関八州という華麗な座敷牢に入れられておしまいになりました」
 「なるほど」
 そうであろう。
「一豊様や、堀尾吉晴様、中村一氏様、田中吉政様、池田輝政様などは、その座敷牢の牢番でございます」
 「あっははは、そのとおりだ」
 と、伊右衛門は千代の譬えばなしのうまさに感心した。
 千代も口に手をあて、
 「ホホホ……」
 と明るく笑った。
 「でも、むずかしうございますよ、そのお牢番のお役目は」
 「そうだな」
 「関白殿下から信頼されてお鍵をあずかっておいでになります。殿下に対しても大任」
 「そう、大任だな」
 「しかし牢内のお人は、次の天下をお取りなされるお方でございます。ゆめゆめ意地の悪い牢番であってはなりませぬ」
 「そのとおりだ」
 伊右衛門は、うなずくほかない。
 「なるほど、千代、わしはわかった。掛川六万右の城主は、天下の大名のなかでもっともむずかしい役だな」
 伊者衛門は腕を組んだ。
「もうわすれること。牢番様におなりあそばしたお祝いを、二人だけでいたしましょう」
千代は酒肴の用意をするために立ちあがった。

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