司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          功名が辻・1

■自惚れという肥料だけが才器ある男をのばす道

<本文から>
 「武士とうまれた以上は、碧武者にはなりたくはない。一国一城の丑ビ仰がれる身分になってみたいものだ」
 「一豊様は、なれます」
  と、千代は巫女のように断定した。
 (えっ)
 「なれるかね、私が」
 おどろいたのは、自分でそんな大それたことを思ったこともない若者だったからである。
 「お顔を見、お心をみて、きっと一国一城のあるじにおなり遊ばすお方だと思いました」
 「千代が?」
 つい数日前まで娘っ子だったくせに何をいう、と伊右衛門にはそんな肚がある。
 「千代だけではございませぬ。伯父の不破市之丞もそう申しておりましたし、母の法秀尼もそのようなことを申してわたくしに聞かせました」
 と、千代はうまい。要するに、伊右衛門に自信をもたせることである。自惚れという肥料だけが、才器ある男をのばす道だ。それが武将であれ、禅僧であれ、絵師であれ。
 かしこい千代は、その機微を知っている。
 「私がなれるかね」
 「なれますとも。およばずながら、山内伊右衛門一豊様が、一国一城のあるじになられますまで、千代が懸命にお助けいたします。その誓いを、この夜、たてたかったのでございます」
 月の光が、枕頭にさしこんできた。
 伊右衛門は千代のあごに指をあて、そっと面をあげさせてみた。可愛い唇である。
 この唇が、たったいまほどの大事をぬけぬけといったとは、到底おもわれない。 

■おなじ叱言でも陽気な心でいえば夫の心がかえって鼓舞されるもの

<本文から>
 「手柄とは、武運が必要だ」
 「一豊様は、うまれつき、ご武運にめぐまれていらっしゃいます。千代はそう信仰しております」
 「ほう、そう信じているのか」
 「いますとも」
 伊右衛門は、千代とこういう会話をかわしていると、その場だけでも楽天家になってしまう。
「なるほど、おれは武運があるかなあ」
 「ございますとも」
 千代は断定した。
「それならありがたい。ところが千代、いかに次の合戦で働こうと、今日あすの米がなければ彼らは養えないよ」
 これは現実の問題である。
「一豊様、わたくしどもが、粗服を着、雑穀をたべ、それでも足りなければ、わたくしの小袖を売ります」
「のんきだなあ。そんなことでいつまでやってゆけると思うのか」
 伊右衛門は、良家に育った千代をよほどのんき者だと思っているようだった。
 千代は、決してのんきなたちではない。彼女ののんきさは、母の法秀尼から教えられた演技である。
「妻が陽気でなければ、夫は十分な働きはできませぬ。夫に叱言をいうときでも、陰気なロからいえば、夫はもう心が萎え、男としての気おいこみをうしないます。おなじ叱言でも陽気な心でいえば、夫の心がかえって鼓舞されるものです。陽気になる秘訣は、あすはきっと良くなる、と思いこんで暮らすことです」

■戦国時代は主人も有能の士を選ぶが士たる者も主人を選ぶ

<本文から>
 選ぶ自由をもっている。
「織田様にお仕えあそばしたこと、まことに御遠がよろしうございました」
 「人間、身を寄せる大将によって生涯の運不運がきまるものだ。ありがたい」
 まったくそうである。
 戦国期といっても、諸方の新興国家は、関東の北条氏にしろ、中国の毛利氏にしろ、すでに領土拡張の限界に達し、ひたすら守勢にまわっている。
 越後の上杉、甲斐の武田も、武強日本双璧といっても、かれらは互いに牽制しあってはかばかしい領土拡張をしていない。
 伸びつつある新勢力としては土佐の長曾我都氏が四国全土を併呑する勢いを示しており、薩摩の島津氏も、あわよくば九州全円に威を張ろうとしている様子だが、しかしなにぶんにも中央から遠すぎる。
 近畿を制する者が、天下を制するのだ。尾張にうまれた信長は、そういう地理的好条件にめぐまれていた。
 しかも、この異常なほどの膨脹速度はどうしたことであろう。
 領土は、月々ふえている。
 だからこそ伊右衛門のような者でも、とんとん拍子に禄高がふえてゆくのだ。
「よい士たることの第一は、まず主家をえらぶことでござるよ」
 と吉兵衛はいった。
 この時代はそうだ。
 その前時代の室町時代やさらにそれ以前の鎌倉時代、またこの時代よりあとの徳川期、といった社会の固定した時代では、人間はうまれた環境条件から容易にぬけだせない。
 しかし戦国時代はちがう。
 主人も有能の士をよりすぐって召しかかえるかわり、士たる者も、主人を選ぶ。
 選ぶ自由をもっている。
 主人が無能で主家が振るわぬとあれば、さっさと退散するのが、この時代である。
 主従たがいが、たがいの才能を通じて結びあっている。それ以前やそれ以後のように、忠義、情義でのみ結びあった関係ではない。
なにしろ、
「七たび牢人せねば一人前の武士ではない」
 といわれたほどの時代である。
「よい主家をもった」
 という伊右衛門の述懐には、右のような背景があるのだ。
そのかわり、功なき者は捨てられ、才なき者は捨てられる。
「大将とあおぐ木下殿もいい。この人はひょっとすると織田家第一の大将になるのではないか」
 もっとも、これは千代の観測の受け売りであった。
 伊右衛門の胸は希望にみちている。

■織田家では働きの次第では大名になれるかもしれぬという夢が勇気づけている

<本文から>
 天守閣。
 というあたらしい言葉も、この巨楼の出現によって普及した。
 城下に布教施設をもつ南蛮人でさえ、この天守閣には舌を巻いた。
 織田家の領域はまだ五百万石を越えないが、すでに、京、大坂をおさえ、天下に号令しようという勢いを見せている。その勢いを象徴したものが、この巨城であった。
 (よき家に仕えたものよ)
 と、伊右衛門は自分の運のよさに、胸のおどるような気持がするのである。この気持は伊右衛門だけではなく、織田家の侍のすべてに共通するものであった。
 (働きの次第では、のちに大名になれるかもしれぬ)
 というのも、もはや夢ではない。なぜならば、いまだ征服されざる地が、奥州、関東、北越、中国、四国、九州というぐあいに、ひろびろとひろがっているのである。
 信長は、つぎつぎと征服してゆく。そのつど、繊田家の武士団のなかから大小の大名が出来てゆくというわけである。
 織田家では、足軽小者まで、大名の夢をもっている。その希望を勇気づけているのが、この七層七丈の巨楼であった。

■千代は非凡という「うわさ」を黄金十枚で買った

<本文から>
 伊右衛門が黄金十枚で馬を買ったといううわさは、長浜城下だけでなく、安土城下にもひろまった。
 「ほほう、山内伊右衝門とはそれほどの男なのか」
 伊右衛門を知る者も知らぬ者も眼をみはった。もともと平凡な男、という印象しか家中の者はもっていない。このうわさで、人々の心のなかにある伊右衛門像が一ペんに修正されてしまった。
 人が、他人を見ている眼は、するどい一面もあるが、他愛もないうわさなどで映像をつくってしまうようである。千代は、そういうことを見ぬいていたようであった。
 言っておくが。
 人々は、奥州産の駿馬を手に入れた、というそのことに驚いたのではない。
 「黄金十枚」
 に衝撃をうけたのである。
 この時代のひとは、黄金という稀少金属に対して夢のようなあこがれを抱いていた。
 桃太郎が、鬼ケ島からもってきた宝物は、金、銀、珊瑚、綾錦である。室町時代から戦国初頭にかけて世にひろまったこのおとぎばなしは、当時の人のこの四種類の宝物へのあこがれをあらわしている。
 貨幣としての黄金を武士が蔑視するようになったのは江戸時代になってからで、戦国時代にはそういう精神習慣はなかった。むしろ無邪気なあこがれだけがあった。黄金十枚、といううわさをきいたとき、それだけで織田家の家中の者は伊右衛門が英雄にみえたであろう。
 ああ、もう一ついっておかねばならない。
 黄金を天下流通の貨幣にしたのは、秀吉である。秀吉の天正大判がそうである。家康がそれをまねて、慶長大判、慶長小判をつくった。
 したがって、千代がその鏡の箱にしまっていた黄金は、そういう正式通貨ではない。ただ金塊を槌で打ち平めたもので、天正大判のように規則ただしい槌目もなければ、何両とかいた墨字もなく、極印もない。しかし量目は、のちの天正大判とおなじように、一枚四十匁ぐらいだったらしい。千代の当時、四十匁で、黄金一枚、と俗称していたようである。
 とにかく、たいしたものである。
「伊右衛門は、二千石の身上で三千石の身代相応の兵を養い、なおかつそれほどの財貨をもっていたのか」
 非凡、という印象をあたえた。
 それがやがて、
 −内儀がもっていたらしい。といいつたわったとき、うわさは一そうに感動的なものになった。
 「伊右衛門殿は、よい妻女をもたれている」
そういううわさほど、山内家というものの奥行きの深さを印象させるものはない。
 織田家の戦闘員は、五万である。三人ずつの家族をもっているとして、十五万人が伊右衛門のうわさをした。
 娯楽のすくないころだから、他人のうわさが、劇、小説などの役目をはたしている。山内一豊夫妻のはなしというのが、当時はおろか、こんにちまで人に知られ、戦前は小学校の国定教科書にまで載った、というこの挿話の根づよき生命は、右の理由によるものだ。
 千代は、馬などよりも、その「うわさ」を黄金十枚で買ったといっていい。馬は死ぬ。
うわさは死なないのである。
 伊右衛門は、家中で名士になった。

メニューへ


トップページへ