司馬遼太郎著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          胡蝶の夢 4

■鳥羽伏見の敗戦後に新撰組近藤を治療

<本文から>
  近藤は医学所の門を入った。
 良順はちょうど玄関をおりたばかりで、入ってきた黒紋付、仙台平のマチ高袴、黒柄の蝋色鞘といった人物を見て、最初はたれであるか、いぶかしんだ。
 「やあ」
 と、笑ったのは、近藤のほうである。
 良順は近づいて行ったが、笑わない。このたびの敗軍について何をいうべきか、言葉が見つからなかった。
 「御覧のとおりだ」
 なにがご覧のとおりなのか、ともかくも近藤は敗戦について言いたがらず、ちょつと怪我をした、と右肩をおさえた。
 「上へあがり給え」
 良順は奥へあがり、いそぎ座敷を清めさせ、ふとんをのぺさせた。
「ここで診よう」
 といって、近藤に衣類をぬがせ、患部をみた。
 前から撃たれたらしい。弾は右の鎖骨の上から入って、肩骨をくだいてつきぬけている。手当がよかったのか化膿はあまりしていないが、砕けた骨は除去されていない。
(よくこれで落馬しなかったものだ)
 良順は肝のなかでおもった。
 医学所から外科の助手数人をよぴ、手術の用意をした。幸い、良順はボンぺから戦場の外科をまなんでいた。あるいはこの状態の患者の手当ができるのは日本中で良順と、その長崎時代の仲間だけだったかもしれない。
 良順は傷口を洗い、たんねんに骨をのぞき、そのあと、ボンベからもらったスポイトを洗毒の器具としてつかった。
 包帯を巻き了えてから、
「毎日、傷の手当をせねばならない。しばらくここに泊まってもらえないか」
 というと、近藤は驚いた顔をした。患者が医者の家に泊まるなどきいたことがないからである。
 「西洋ではふつうにあることだ」
 と良順がいうと、西洋というのは奇妙なところだ、とつぶやいて、良順の言葉に従った。さらについでに、
 「ご存じの沖田総司がずいぷん悪い。診てやってもらえまいか」
 というと、良順はすぐよぴにゆくように、といった。

■蘭方は人間を人間としてあつかう学問として被差別者と仕事

<本文から>
 「病院の本拠を今戸に移すよ」
 良順は上下にそう説いて今戸の称福寺という寺を本拠地にしたのは、近藤勇の甲陽鎮撫隊というのが二門の大砲をひっぱって江戸を出て行ったあと、しばらくしてからであった。
 下谷和泉構の医学所は医学の研究と教育のためだけでも狭すぎるのに、野戦病院としての機能などとてもはたせない。いわば医学所分院として称福寺を借りあげたのである。
「やがて怪我人が戸板や荷車にのってもどされてくる。すべて今戸の称福寺に運べ」
 良順は、教授や助手たちに言っておいた。この間、漢方の公儀立の医学館(下谷新橋通り)からも書生たちが手伝いにきている。良順はかれらに応急外科処置法を教えた。
「これを機会に医学所の書生になってもいいでしょうか」
 と、かれらのほとんどが良順に転科を志願した。おなじ下谷にある漢方の官立医学学校(医学館)が決定的に衰弱したのはこれを契機としている。
 この時代、内科は漢方、蘭方を問わず、とても病人を救えるような能力をもっていなかった。が、外科は蘭方が卓抜していた。とくに戦争による外傷の手当にかけては漢方はまったく無力で、その一点から南方を見れば壮麗な新医学に見えたのにちがいない。
 良順は弾左衛門の手下たちにも衛生兵としての速成教育を性どこした。
「止血はこうやるのだ」
 と、たがいに患者にならせて実習させた。傷口の洗い方も教えた。
 称福寺の本堂が常時かれらの屯ろする場所になった。
 「それはこまります」
 と、役僧は顔色をかえて良順にねじこんだ。従来、被差別者についての法的制約は、道を歩くときの歩き方にまでおよんでいる。片側に寄れ、という。が、町家の軒下にまで入るな、雨天でも笠をかぶるな、ということで、座敷にあげるなどとほうもないことであった。
 「弾左衛門の手下を愚弄するならおれが相手だ」
 良順は目を血走らせていった。医者も僧も方外人にされてきた。その痛みの中からこのことを思え、ともいった。
 また漢方書生も、被差別者と仕事することをいやがった。良順は蘭方は人間を人間としてあつかう学問だ、いやならよせ、といった。ボンベの影響はこういうところにまで及びはじめた。

■良順は新選組が好きで忠誠心のつよい男

<本文から>
 近藤勇と土方歳三が医学所にきて、やがて去って行った夕刻、良順は役宅にもどつて夕食の膳部にむかったが、頭の中に米のとぎ汁でも流しこまれたように薄ぼんやりしてしまった。
 良順は、新選組が好きだった。
 生涯好きで、明治後、老残の隊士を保護したり、近藤の墓をつくるのに力を貸したり、明治九年、南多摩の日野の高幡不動に近藤・土方の碑をつくるときも尽力した。
 かれらが江戸にひきあげてから、再起のための金銭の面倒も見た。
 「新選租は、松本法眼さんが銀主だ」
 といううわさまであったほどで、それらの内容は幕府に働きかけて出してもらったり、浅草弾左衛門にたのんだものであったり、また良順自身が家から持ち出したものであったりした。
 良順は、子供のように単純な思想しかもっていなかった。
 かれは忠誠心のつよい男で、その忠誠ということも、食禄を受けたからには恩をかえすという、鎌倉の郎党がそのあるじに対してもつ倫理以外持っておらず、その後の時代や社会の変化はいっさい計算に入れなかった。
「武士は鎌倉風でいいんだ」
 と、ひとにもいった。
 勝海舟のような複雑な忠義というものは、良順にはわからず、わかる資質もなく、わかろろうともしない。

■初代の軍医頭に

<本文から>
  この間、岩佐純がきて良順に大学東校にきてくれといったが、良順はどなりつけて追いかえした。このため東校の教授団からきらわれ、明治三年十月のこの病院の開院式には、東校から伊之助ひとりがフロックコートをきてやってきただけであった。
 「伊之助だけがきたよ」
 と、良順はあとあとまでおかしがった。
 その翌四年夏、西郷隆盛が山駕籠に乗って早稲田の良順宅を訪れたという。良順に軍医制をつくってほしいとたのんだというのだが、この件は、この話をひろめた石黒忠悳の思いもがいらしい。この時期、長州出身の兵部大輔山県狂介(有朋)が再三やってきて懇望したことはたしかであった。
 結局、良順は官につかえた。初代の軍医頭(翌年、軍医総監)になり、明治二十三年退役し、同三十八年、男爵を授けられた。同四十年、七十六歳で死ぬのだが、徳富廬花の脳裏には、こういう事例があったのであろう。

■伊之助は島外へ出るぺきではなかった、とう感慨に

<本文から>
 佐渡の新町を歩きつつ、幻かもしれないが少年の伊之助を見たような気がしないでもない。
 新町は当時は富家のほかはわら屋根が多かったはずだが、いまは黒い釉薬をかけて炊き積雪の水気の滲みこみをふせぐ日本海地方の瓦ばかりであった。釉薬をかけながら光沢がないのは私の目にほ美しく感じられた。それがにび色の空と海を背景にして、古風な町ながら、パステル画のような淡い味わいを見せていた。
 佐渡は一国が天領(幕府直轄領)である。治所の相川を通じて大量の江戸文化が入りこみ、一方、南の小木漢を通じて古くから間断なく上方文化が入り、さらに言薬の調子まで上方弁の系列といってよく、対岸の越後とはちがった文化をもっていた。いまもそのことにかわりがなく、村々にのこる百姓たちの能舞台といい、家屋の美しさといい、すべて越後からかけ離れ、むしろ京都に隣しているといったほうがいいかもしれない。
 島ながら耕地面積が多く、いまも米は島内で消費したあと多くの量を島外に移出している。このよう二大文化圏が潮流のように流れこみ、さらには自給自足できるという安堵感が、対岸の越後とはちがい、島人の気風を温和にし、ときに退嬰的にした。伊之助にもそういうところがある。
 雪も、さほどには降らない。島をめぐって暖流ながれているせいで、植生なども南のほうの境地を思わせるものが多い。
 新町から幕府時代の官道をくだって南の小木をめぎたところ、小ぷりな峠にさしかかった。峠道の両側は野生のツバキの樹が野生のツバキの樹が老若とりまぜて堵列し、もし花の季節にくればどれほど美しかったかと思ったりした。
 伊之助も、この暖地性のツパキの林の中を通ったはずであったじ林の中を通りながら、伊豆大島にいるような感じがした。
 さらにゆくと、低い山ふところにソバ畑がひろがっていた。ソバの北方牲とソパキの南方性が平然と同居していて、気持のもちようによっては佐渡ほどいい土地はすくないのではないかと思った。そうおもったとき、
 (伊之助は島外へ出るぺきではなかった)
 という感慨が、涙ぐむような悲しみとともた湧いた。

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